壱
僕の知らない顔をした教頭先生は、細く鋭い月明かりを瞳に射し入れ時政さんを見ると、おもむろに口を開いた。
「──どちらさまかな」
柔らかな声だ。彼が持つ、人に安心感を与える声だ。きっとこの声に緊張をほぐされてきた生徒は多いし、それは率直に彼の教師としての信頼にも繋がっていた。
けれども、どれほど声帯そのものが穏やかであっても悪意をもって発すれば如実に表れるのだと、この時、僕は知った。
「建前としては初めまして。土御門時政といいます。とある筋からの依頼により、此度の御校の生徒失踪事件について関連を調べておりました。ああ、自己紹介も名刺交換も結構。時間が惜しいので互いに諸々の挨拶はここまでとしましょう。──貴方こそ何故こんな所に、こんな時間に?」
時政さんが家庭科室へと入室した。丁度、出入口を塞ぐような形で立つ。単純だが、教頭先生の逃走経路を阻む為だろう。そして同時に、扉の外にいる僕を隠す位置でもある。──もしかして、守るってこういうこと?
「──初めまして、土御門さん。なにやら誤解があるようですが、私は夜間の見回りをしていたに過ぎませんよ。最近は物騒ですから」
「佐竹君がいなくなったりね」
「……そのようなこともありまして。まったく、気遣わしいものです。親御さんも心配しておられますし、はい、少しでも力になれればと老体に鞭を打った次第でして」
「そうでしょうねえ、こうも連続で同校の生徒がいなくなったとあれば心労も重なるというもの。ところで私はどうにも不思議に思っていることがあるのですが──どうして佐竹君を探すのに、学校を?」
「…………」
「佐竹君は学校で行方不明になったのですか? だとすれば──ハハッ、まるで神隠しだ」
時政さんが敵意も露に鼻で嗤う。──そうだ。佐竹の失踪は事実だとしても、だから学校に佐竹が隠れているとは限らない。例えば彼の下駄箱に未だ上靴がない事だとか、それが証拠だというのならあんまりにも貧相なこじつけだ。
僕達は例のビデオを観たことで、この場所で佐竹の身に何かが起きたことを確信したが、何も知らない第三者が学校に定めて人捜しをするというのは──不自然だ。
「君は──どうやら島先生と何か関係がお有りのようだ」
「ええ、その通りです。私が島さんに頼んで貴方をここに呼び出しました」
えっ。──と、新事実に時政さんの背を見上げる。ジャージの所為で間抜けっぽい背中は、その実、凛と姿勢良く佇んでいた。
いつの間にそんなことに。と、いうか、いつの間に島先生と接点を持ったんだ、この人。
「私を疑っておいでなのかな、土御門さんは」
「はい。それはもうはっきりと。──アンタ、映ってたんだよ。佐竹が撮ってた動画に」
「っ!」
ハッとした。時政さんが教えてくれた二つの証拠──その内の一つが、これなのか。
「なんのことだか」
「近場の職員室に待機しておいて、佐竹の声とライトを頼りに佐竹が階段下まで来たところを捕まえようとしたんだろ? その足が、映ってたぜ。センセイ」
「とんと身に覚えがありません。大体、彼のビデオは──」
「────ビデオ」
ふと、時政さんの声が教頭先生の言葉を切った。僕には時政さんの表情はわからない。背しか見えていないから。けれども、わかってしまった。────時政さんは今、最高に意地悪な顔をしている。
「私、いつ、ビデオなんて言いました?」
「────っ」
ぎゅうっと、教頭先生の眉間と鼻筋にシワが寄った。年齢によるものではない。──怒りジワだ。
全校集会でお説教する時だって──反抗期真っ只中の不良連中を相手にしていたって、彼のあんな形相は見たことがない。
「──っ撮ると言われれば、普通ビデオを連想するものでしょう!?」
「おや、そうでしょうか。私なら──まずはカメラか携帯電話だと考えますが。ビデオよりもずっと身近なものでしょう? なあ、倉橋クン?」
「は、はい。ビデオという先入観がなければ、たぶん──携帯電話のことだと、僕なら、思います……」
時政さんの背に隠れつつおそるおそると肯定する。決して時政さんのイエスマンをしようと思ったわけではない。それこそ僕の中の〝普通〟が、時政さんの言葉の通りだと同意しただけのこと。
「それとも、これも島先生から聞いたと? 島さんはどうやらビデオについては知らなかった様子ですけどねぇ」
ああ、ああ、意地悪だ。時政さんの声がとても意地悪だ。絶対に不審で最悪な態度を取ってるんだ、この人。それなのに────どうしてこんなにもドキドキとワクワクが止まらないんだ。
「でも、待ってください、時政さん。やっぱり僕には教頭先生が犯人というのは納得できないです。教頭先生はあくまでも不法侵入常習犯の生徒を捕まえ注意しようとしていただけで、直接、行方不明の件に関わってるとは──」
「最初は、そうだったんだろうな」
──最初は?
「初めはその問題生徒を懲らしめるつもりなだけだった。お前が信じる、教師らしいセンセイの感情でな。けれど、問題の生徒は中々捕まらない。実のところ、捕まるわけがない。上手くいかない現実に苛々していた貴方は、夜に酒を引っ掻けるのが癖になっていた。──不眠症対策でもあったか?」
一歩、時政さんの足が進む。一歩、教頭先生の足が下がる。
「初めの事件のその日、やっと侵入犯を捕まえ顔を見てみると、なんといつかで自分を馬鹿にしてきた不良生徒達じゃないか! さて、アンタがその夜どれだけ飲んでいたかは推測に過ぎないが──少なくとも貴方を狂暴にさせるには十分だった。ストレスと瞬間着火した恨みで理性がトんでしまった貴方は、思い余って殴るか何らかで相手を気絶させてしまう。ハッと我に返る頃にはもう手遅れ。生徒達はしっかりと自分の顔を見てしまっているだろう。明日にはどこかしらの機関に通報される。そうなれば自分はクビ、最悪お縄だ」
また一歩、時政さんが歩んで、今度は二歩、教頭先生が下がった。優しい造りの顔から血の気はとっくに失せていた。
時政さんがたたみ掛ける。犯人を追い詰める。
「ならば、どこかへ隠してしまえ。そう、例えば────取り壊し予定のグラウンド倉庫とか」
「──ッ!!」
とうとう、教頭先生のシワの乗った瞼が限界まで開かれた。彼の剣呑な眼光は敵意に悪意に満ちていた。
もう足は下がらない。ただただその人は時政さんを窓辺から今にも襲い掛からんばかりに睨み上げていた。
「せん、せい」
「大体、おかしいとは思わないか? 不審者が出る時点で、警察まではなくとも保護者に連絡と注意喚起の案内を回すぐらいはするものだろう。それなのに噂で放置。挙げ句、実害が出たってのに様子見? あり得ねぇよ。──本人が犯人なら別だけどな」
教頭先生は沈黙した。観念するみたいに項垂れて、数秒、僕達は互いに膠着状態を取った。どちらから動き出すのか──僕は固唾を飲んで両者を見守るしかなかった。
「──はっ、はは」
────教頭先生だ。教頭先生が、笑った。
「ああ、そうだ。何が悪い? あのガキ共、いつもいつも俺を嘗めやがって……。俺はただ世間の厳しさを教えてやっただけだよ。いつまでも意気がってらんねぇんだってなァ!」
「ひッ──」
聞いたことのない声。怒鳴り声。こんな先生は知らない。この人はもう僕の知る優しい教頭先生ではない。では、この人は────だれだ。
「落ち着け」
ふと、時政さんが手の平を僕の頭に置いた。くしゃっと軽く撫ぜて、体温は呆気なく離れていく。ただそれだけなのに──呼吸を思い出した。
「世間の厳しさ?」
「ああ、そうだとも。これは教育だよ。先生が優しく教えてやってんだ」
「……監禁し暴行する事がか」
「ッ!?」
「アイツらはバカだからなァ。そこまでしてやんねぇとわかんないのよ」
クツクツと笑う男に背筋が凍る。──暴行。もしや、監禁後にも憂さ晴らしの暴行を生徒等に加えていたというのか。ならば、佐竹は────!
「……このクズが」
「で、でも、それじゃあなんで先生はこんな所にいるの? 生徒はもう捕まえたんだから、」
「佐竹だよ」
「……え?」
くるりと目線を上げた先、時政さんの半分しか見えない表情はゾッとするほど冷たかった。たった半分でもわかる。時政さんは怒っている。
「佐竹が見付からないから、慌てて捜しに来たんだろ」
「捜しに来た──て……だって、佐竹は……」
「先に言っておく。佐竹の失踪に〝こいつら〟は関与していない」
「っ!?」
「──驚いた。そこまでわかってるのか。……アンタ、本当に何者だ?」
「テメェみたいなクズに名乗る義理はねぇよ──と、本音は言いたいところだが、それはフェアじゃねぇからな。──ただのしがない探偵ですよ」
大人達が嫌悪も露に睨み合う。こわい。けれど、怯えて泣いて逃げてもいられない。ここで逃げ出したところで、後にはもっと怖いことしか待っていないのだから。
考えろ。せめて。今この場でそれだけが僕にできることだ。
犯人が直接手を下していないのならば、佐竹は今、どこに──?
「アンタは罪を犯しすぎた」
「ハッ──流石、探偵ともなれば話を無駄に大きくするのがお上手だ。たかがガキを数人殴ったくらいで、」
「それだけじゃねぇだろ」
──ゾッとした。時政さんの声色がさらに冷気を帯びていくのがわかった。ただ隣で聴いているだけの僕でも震え上がりそうなのに、それを向けられる本人は堪ったものじゃないだろう。
時政さんは静かにいかって続ける。僕の知らない──誰も知らなかった筈の、男の罪を暴く。
「数か月前、ある川で少女が溺死した。その川には申し訳程度の柵があったが、一部が錆びていた為に壊れやすくなっており、少女は不運な事にそこから落ちてしまった。──誰かに押されてな」
「ッ!!」
ま、さ、か、
「押したの、アンタだよな」
張り詰める。空気が。神経が。憮然と男を見つめる。男は──微笑む。
「いくらなんでも、それはこじつけですよ。探偵さん。証拠があるとでも?」
「ああ、あるさ。現場を目撃した人物がいる。──────佐竹が」
「────」
息を、呑んだ。──そんなことは知らない。佐竹が、水難事故に関わりのある人間だったなんて。こんなところで──佐竹と犯人の男が繋がるだなんて。
どうして────僕は、結局、佐竹についてなにも知らなかったのか。
「──ッあ、の、ガキ──やっぱり見ていやがったか──! もっと早くに口封じ──」
「…………てのは嘘で」
「「っ!?」」
「今アンタが口を滑らした────それが証拠だ」
うわぁ、と、思わず間抜けな声が漏れていた。してやったり顔で笑う時政さんは、間違いなく不審なのにゾクゾクするほど格好良かった。
「今みたいに、佐竹に見られた事を危惧したあんたは口封じの為にもなんとか佐竹を問い質そうとした。ま、残念ながら実際のところは、佐竹は被害者を助けようとするのに必死でアンタの事なんか一ミリも見ちゃいなかった訳だが。──当然、アンタはその日から生きた心地がしなかっただろう。佐竹が入学した日なんてもう気絶する思いだったんじゃないか? まさかあの日の目撃者が生徒として自分の生活圏内に侵入してくるだなんて──てな。そのストレスは……ま、想像を絶するものがあっただろうさ。そりゃあ、酒にも頼りたくなるし、不眠症にもなる。──ああ、この単純なお子様は毎朝校門前に立つアンタを見て熱心だなんだと心底感心していたようだが、内情はさらに単純なものだ。────眠れなかったんだろ、アンタ。毎朝、佐竹が誰にもその日の事を話していないと確認しないと、とてもじゃないが一日を過ごせなかった。そんな生活を数ヵ月も続けてりゃあ、身体も中身も壊れるってもんだ」
「…………」
調査時点から判っていたことだが、時政さんの語りは殆どが断定されたものだ。それは、押し付けではなくただただ『事実』だから。
これが──探偵か。
「さて、ある時こんな話が飛び込んできた。〝佐竹が夜の学校に忍び込むらしい〟──これはまたとないチャンスだ。浮かれたアンタは早速、口封じを実行しようとした。大方、先日に捕まえた不良共と同じように気絶させて、目が覚めたところを脅す気だったんだろう。が、計画は大失敗。何故かって? ──佐竹が消えちまったからだよ。自分が手を下す前にな」
探偵から告げられる温度のない言葉に頭がクラクラする。熱っぽいのに、冷たい。時政さんがどこまでも冷静だからだ。彼のおかげで、ショートしそうな僕の脳みそはどうにか形を保てているらしかった。僕の脳みそをショート寸前まで追いやっているのもその人だけど。
「なんでこいつが佐竹が忍び込む事を知ったか、わかるか?」
「えっ? ええと、誰かから聞いたから……?」
混乱しているところに急に声を掛けられて、思わず肩が跳ね上がった。時政さんは満足に解答できた生徒を褒める教師のような仕草で鷹揚に頷いた。
「その通り。では、誰から聞いたのか。──正真正銘、これが最後のヒントだ。その溺れ死んだ少女の名は」
「「島命」」