エンカウント
こんな事なら手袋でも着けてくるべきだったかな、なんて考えながら錆び付いたペダルを踏み込む。
凛と張り詰めた空気と、白い吐息と……。
両方が混ざり合った冬の空には、重い雲が垂れ籠めていた。
きっと今夜にでも降るな……。
もちろん雨ではない。
温暖化の影響か、例年よりも暖かだった昨今の晴れ模様もどこへやら、午後になった途端に隠れてしまったやる気のないお天道様。
そうなればもう温暖化云々も関係ないわけで……。
こうして寒空の下、必死に自転車を漕いでいるしがないアルバイターである俺は、誰に文句を言うわけでもなくただ自らの準備の悪さにふぅと溜め息をつくのであった。
次は必ず手袋を用意しようと固く心の中で決意して、俺は本日の最終目的地へと十字路を右に曲がった。
幸いにも今日の配達件数は昨日の半分程度、つまりは平均値だったので時間通りに終われそうだ。
なんせ昨日の大記録には先輩も驚いていたからなぁ。
一瞬、昨日の惨状を思い出し……すぐに止めた。
「アレはきっと末代まで語り継がれるな、うん」
なんて一人ごちて、目的地が近い事に気づいた。
気づく……というよりはむしろ『嫌でも目に付く』って感じ?
とにかく立派なその屋敷は場違いなんじゃないかと思うくらい異質で、この片田舎の町ではちょっとした噂になっている。
一説によれば、留守中にもかかわらず人影が見えるとか、夜遅くに通りかかると女の叫び声が聞こえるなどの、いわゆる心霊的な怪談であったり、バツイチの奥さんが莫大な慰謝料を使って建てたなどの、質の悪い冗談であったり。
とにかく多種多様かつパワフルに味付けされていたものだから、誰一人としてその実体を知る者はなく、噂は噂として一人歩きするレベルに留まっていた。 もっとも最近は『近所付き合い』なんてモノも失われつつあるし、誰も本当の事を知りたがらなかったというのが最たる理由ではあるのだが……。
「って、また居るよ……」
目的地……例のお屋敷の門の前、郵便受けのすぐ傍に立っている長い髪の少女。
俺がこのバイトを始めてかれこれ二週間……。
このお屋敷の前を通る度に見かける謎の人物である彼女は、目下のところお化けの噂なんかよりも恐ろしい。
なんせこの寒空の下、顔色一つ変えずに立っているのだ。とても普通の人とは思えない。
もしかしたら彼女が幽霊なのでは? なんて思ったりもするが確かめられる筈もなく、横目でちらちらやりながら郵便受けに封筒を入れる。
すると、先程まで直立不動であった少女がパタパタと駆け寄ってきた。
これも二週間前からずっと同じ。
俺は彼女が封筒を取り出すところを見届けず、少し重たいペダルを踏んだ。
「お疲れでーす」
そろそろ時計も夕方を告げる頃、局へと帰ってきた俺は、もはや癖になった
挨拶をしつつ帰り支度を始める。
「おっ疲れさーん! 今日はどだったの?」
奥の方からひょっこり顔を出してきた先輩が、なにやら楽しそうに聞いてきた。
元々噂話しが好きな先輩に『例の少女』の話しをしたのは四日前。
それからというもの、俺が配達を終える度に少女の話しをせがむのだ。
「いやぁ……さっぱりですよ」
思ったところを口にする。
「そうかい……お屋敷の人間なんだろ? その娘」
聞いていてスカっとするような、切れの良い口調で先輩が言った。
と同時に時計のチャイムが鳴り響く。
「たぶんそうだと思いますけど……すいません、時間なんで先に上がらせてもらいます」
「あ、ちょっ……」
帰宅の旨を告げて席を立つ。
余分に働いた分の給与はカットになるという話しを先輩に聞いてからは、残業をしない事を心に決めたのだ。
まぁ最低限度の義務を果たせばオッケーって事で、特別忙しい時以外は即帰宅の姿勢を崩さないようにしている。
そんな訳で足早に局を出る。
最後に先輩が、じゃあねと手を振ってくれた。
◇ ◇ ◇
帰り道。歩いて五分ばかりの距離でありながら、その時間は俺の密かな楽しみの一つ。
吹きつける風は冷たいけど、夕暮れ時の焼けた空を見上げながら歩く道のりは普段とは違った趣を見せてくれる。
もっとも今日は雲が厚くて茜空とはいかなかったが……それでも澄んだ空気を一杯に吸い込むと、いつだって晴れ晴れとした気分になれた。
そんな道中も、いつものT字路を曲がれば終わりを迎える。
少し名残惜しいけど、ずっと外にいたら凍えてしまう。こういうのは程々が良いのだ。
慣れるという事は感動しなくなる事。だから美しいもの、綺麗なものは少しで丁度いいんだな、なんてガラにもなく難しい事を考えている間に、我が家へと到着していた。
「ただいま」
玄関を開けて中に入る。
とたん溢れる生活の音。トントンと小気味良く響く母さんの包丁も、台所を満たす熱々の湯気も……。
決して珍しくもない風景だったけれど、どこか落ち着く、慣れ親しんだ我が家の日常であった。
翌日。特に予定もなくダラダラとした午前中に嫌気がさし、思い切って外に出てみるとその有様に息を飲んだ。
「……雪」
一面の銀世界。
そういえば昨日の時点で振りそうな空模様だったっけ?
いやいや、そんな事より雪だよ、雪。
この辺りではちょくちょく振るのだけれど、それでも妙に嬉しくなってしまう。どことなく、昨日とは違う特別な日になりそうな予感がして。
今日はバイトも休みなので、久しぶりにぶらぶらと散歩でもしようかな……。うん、たまには良いかも。
俺は思いつくまま白いアスファルトを歩く事にした。
飾り気のない運動靴が滑りそうになるたび嫌な汗をかくけど、それもどこか楽しくて。
気がついたら鼻歌なんかを歌っていた。
名前は忘れたけれど、今の気分にぴったりの軽やかな曲。弾むように歩いていると、いつしか俺は例のお屋敷の近くまでやってきていた。
特に意識したわけでもないのにこんな所に来てしまうなんて……。我ながらバイトのやりすぎかな? などと的外れなことを考えながら門の前を通り過ぎようとし……俺はとんでもないものを発見した。
郵便受けの傍に、長い髪をなびかせて立っている例の女の子。
う〜ん、やっぱりいつも居るんだな……って、ちょっと待て。アイツいったい何時間あそこに居る気だ?
今日は……小川だったかな? 俺の代わりのバイトがここにやってくるまでに、少なくとも二時間はかかる。そんな長時間、アイツは待ち続けているのか? 直立不動で?
いったい何を……って、そりゃ封筒……だよなぁ。
よほど重要な内容なのだろうか?
毎日何時間もポストの前で待っているほど重要な内容の……封筒。
一刻を争うような急ぎの? いや、それならわざわざ封筒などにする必要はないはず……。
うーん、気になるな。
自分の想像をああでもないこうでもないと膨らませていると、ふいに少女と目が合った。
「あっ……」
一瞬止まる思考。
逸らされる視線。
その表情は変化こそしないが、早く何処かに行けという空気をまざまざと放っていた。
確かにこれじゃあ変な人だ。ぼーっと立ち止まってちらちら見られていたら、俺だって気味が悪い。
これ以上留まっていても意味はないので、俺は足早に立ち去った。
◇ ◇ ◇
「……」
く、何故だ。
何故なんだ、俺。
草木も眠る丑三つ時とはよく言ったもので、辺りがすっかりと静かになった深夜三時。
良い子は無論の事、悪い子もまぁ大半は眠りに落ちている筈の真夜中、なぜか俺は寝付くことが出来ず、ただ悶々とベッドの上で昼間の出来事を思い出していた。
いや、正確にはあの子の事、である。
凛とした姿、美しい黒髪……そして何よりもあの瞳。
深く、物の根底までをも見透すかのようなあの瞳に、俺は……。
俺は……何だっていうんだ?
話しをした事も、いや声を聞いた事すらない赤の他人である女の子。
そんな彼女にいったいどんな感情を抱くというのか?
そうだ、これは一時の気の迷い。
単なる勘違いというか、そもそも何も感じちゃいないんだ、うん。
「よし、早く寝よう」
……。
結局、日が昇るまで寝つくことは出来なかった。
◇ ◇ ◇
「どうした少年、元気がないぞ?」
例によって奥の方から現れた先輩が、例によって元気に言った。
そりゃもう俺の背中をバシバシと叩きそうな勢いな……というか、既に手形が付きそうなくらいに叩かれているのだが……先輩とは対照的に、寝不足気味の俺はというと、先の問いかけに大きなあくびで答えていた。
「なんだ、寝不足か……良いか少年、いくら若いからといって程々にしないと……って、聞いてるのか、オイ」
白昼堂々と怪しげな話を展開する先輩。はっきり言って巻き込まれたくはないので逃げの口実と本日の準備を始めることにする。
今日は手袋もあるので防寒もバッチリだ。
程なくして俺は配達用の自転車を置いてある駐輪場に向かおうとし……先輩に殴られた。
「痛ぁ、なにすんですか?」
「なにすんですか? じゃない! 散々人の話しを無視しておいて……。罰として、今日は例の女の子に話しかけてくること!」
「え……っ」
それって……。
「ん、私なんかマズイこと言った?」
はて? と目を白黒させる暴力の申し子。
「いや、特に大した事は……」
言ってない、筈なのに。
なんだろう、この気持ち。
寝不足だった頭もすっかりと目を覚まし、いや、それどころか今はいつも以上に軽い。
思考どころか体も軽くなったみたいで、気が付くと俺は先輩を置いて走り出していた。
局の裏庭、駐輪場へ。
そして俺はペダルを踏み込む。
張り詰めた空気が後方に流れていく心地よさに、冬の寒さも昨夜のもやもやも……すべてがサーっと遠のいて。
今日の仕事が始まった。
見慣れた小道。氷の張った水溜り。
走り辛いデコボコ道に山の傾斜。
巷で噂のお屋敷までの二時間。
はやる気持ちを抑え続けた二時間は、今まで感じた事もないくらいに長く、永かった。
果てしなく永い時も、しかし終わりを告げたようで。
ぶら提げた鞄の中に残る郵便物はただ一つ。
目指す彼の地は山の向こう。
俺は小さく気合を入れて、山道を登りだした。
「はぁ……はぁ……」
息が上がる。
冷たい世界を走り抜ける俺の体は、まるでエンジンのように熱い。
テンポ良く踏み込むペダル。
流れ去る景色はいつもと同じなのに……。
不思議と、美しく思えた。
なんだろう……この気持ち。
変わらない、変わり得ない日常が。
ゆっくりと、確実に過ぎ去っていく時が。
平凡だと思ってた、そんな自分の毎日が……。
変わる、変わってゆく……そんな予感。
不確かな筈のソレを、俺は信じる、信じられる。
だって、どんな明日になろうとも、それはかけがえのない一日で。
普通の毎日は、特別な時間で溢れているから……。
だから俺は信じられる。
たとえ今日という日が、この時のこの気持ちが……。
続いていく日常の中に埋没して、色を失ったとしても。
俺は決して忘れない。
モノクロになったって構わない、ただこの瞬間が愛しい。
こんな気持ち、生まれて初めてだったのだから。
気付くと俺はそこにいた。
文字通りのお屋敷と――――――
――――――直立不動の彼女の前に。
迷ったのは一瞬。
すぐに俺は決意を固めて、最後の封筒を取り出した。
一歩一歩、俺は彼女に歩み寄る。
長かった二時間の終わり。
いつもの日常の、平凡だけど輝いていたその日。
確かに俺は、最初の一歩を踏み出した。
「あの……っ」