救章 アルビレオは儚く消える
八月に入ると暑さは更に猛威を振るい、扇風機は最早その役目を果たす事が困難になっていた。
さとみの死から十日余り過ぎたが、私の心の中には拭いきれぬ後悔の念が渦巻いていた。
エアコンの冷気もさして効き目もない職員室の中では業務がはかどる事など無く、子供達がはしゃいでいるであろうプールへと足を向ける。少しでも冷気を感じようと思ったからだ。
「あ、平川先生だー」
「先生も一緒に泳ごーぜー」
無邪気に遊ぶ子供達を見ていれば、私の荒みきった心も少しは穏やかになるかと思えたが、やはりそう簡単に渇きを潤す事は無かった。
あの事件の日以来、緑川さよりは姿を見せていない。それは、安堵するよりも寧ろ不気味な事に思えてならない。いつまた私はさよりに操られるのか気が気ではなく、常に体から白い糸が延びる不安に怯えなくてはならないのだ。
姿を現せ、緑川さより。
早く決着をつけなければ、さとみが浮かばれないではないか。さとみの為にも私は……
「せんせ、どうしたの?」
聞き覚えのある背後からの声に、私の全神経が高ぶる。
「緑川……さより……」
そう小さく呟いた私はゆっくり、ゆっくりと振り向く。
「平川先生?」
そこには車椅子に乗った杉田ひとみの姿があり、その後ろではロングヘアーの少女が微笑んでいた。
「杉田さん……と、緑川……」
「昨日、稽古場にひょっこり顔を出してくれたんです。これで今夜の夏祭りの公演はなんとかなりそうです。それで……もし良かったら、平川先生も観に来て頂けたら嬉しいんですけれど……」
「もちろん観に来てくれるよね、せんせ?」
この屈託のない笑顔が恐ろしくもあり憎くもある。しかし、私にはどうする事も出来ない。全ては私の責任なのだから。
――そう思い込まなければ、私の中に生まれてはならない『殺意』が芽生えてしまいそうになる。
「あ、ええ……喜んで観に行きますよ。頑張れよ、緑川」
そう言ってさよりの頭に手を置くと、彼女は満面の笑みを私に見せてくれた。私がよく知る『緑川さより』の顔だ。
「ありがと、せんせ。えへへ……せんせが観に来るなら、さよりも張り切っちゃうよ!」
「さよりちゃんは平川先生が大好きなんだよねー?」
「うん! あ、でもひとみせんせの事も好きだよ?」
おかしい……確かに今、目の前にいる緑川さよりは私がよく知る緑川さよりに相違無い。だが、あの緑川さよりとは明らかに違う。
いや、違わなくは無い。この『緑川さより』が私の知る『緑川さより』なのだ。では、あの時の『緑川さより』は一体……
「では、また後ほど」
「せんせ、またねー」
二人を見送る私は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
――が。
私には見えてしまった。
緑川さよりの頭頂部から延びる一本の『白い糸』が……
小さな町を挙げての夏祭りには老若男女問わず参加し、それぞれ思い思いの時間を過ごしていた。この夏祭りをきっかけに恋人同士になる事も少なくないそうだが、さとみを喪った私には縁の無い事だ。
喪って初めて気付く事もあるのだという言葉も、今の私には痛い程理解出来る。
この場で新たに生まれたベガとアルタイルには私のような思いをして欲しくない――そう思いながら私は星空を見上げ、先程の人形劇を思い出していた。
『織り姫星と彦星の物語』という、七夕伝説をモチーフにした内容だった。先月の事とは言えど、やはり夏の星座を代表する物語なのだから、季節としてはぴったりだ。
夜空で一際強い輝きを放つアリデッド、ベガ、アルタイルを見つけた私はそれらを線で繋いでみた。 同じような明るさに見えるが、実際にはアリデッドはベガとアルタイルよりも遥か彼方に離れており、ベガとアルタイルが16光年や25光年の距離にあるのに対し、アリデッドは実に1411光年の彼方で輝いている。その光は太陽よりも強く、まるで全てを支配するかのように存在感を示している。
私をアルタイル、さとみをベガ、そして緑川さよりは自らをアリデッドと呼んだ。アルタイルを自分の物にするためにはベガの存在が邪魔だった為、アリデッドはベガを殺した……
それならば、昼間見たさよりの体から延びたあの「白い糸」は何だったのだろう。
さよりがアリデッドならば操る側であり、操られる側ではないはずだ。指でなぞり繋いだ三角形をぼんやりと眺めながら考えていると、ふとある事を思い出した。白鳥座にはアリデッドの他にもう一つ、有名な恒星があるのだ。
「アルビレオ……」
思わず口にしてしまったその星は、白鳥の口の部分に当たる、美しい二重星の事だ。二重星とはその名が示す通り、二つの星が並んでいる一対の星であり、アルビレオは『双子星』とも呼ばれている。
「双子……」
何かが繋がりかけていた。私の考えが正しければ、『アリデッド』はさよりではなく他の『誰か』であり、さよりは『アルビレオ』なのではないか。そしてもう一人の『アルビレオ』は……ちよりだ。
では誰が『アリデッド』なのか……該当する人物は一人しかいない。
「杉田……ひとみ……」
その考えに至った時だった。背後に気配を感じ振り向こうとしたのだが、既に私の体は自由を奪われていた。
「ウフフ……ダメですよ……人形が勝手に動いては」
「やはり……あなたがアリデッドだったんですね」
ひんやりとした青白い手が私の頬を撫であげる。その手に絡みつく白い糸……
「歩けなかったのでは無かったのですか……?」
「今は歩けますよ……あなたを想えば……歩けるんです」
「何故……さとみを……殺したんですか……?」
「名前で呼ぶんですね……死んだ人間の事を」
「それが……彼女への餞ですから」
「……さない……」
「……っ!? あ……ぐ……あ……」
絡み付いた糸が私の首を締め付ける。必死に解こうとするが、体の自由を奪われた状態では抗う事も出来ない。
「渡さない……誰にも……私が……一番あなたを愛しているの……なのに何であの子なの……」
「か……はっ……」
「どうしてっ!? どうしてあなたは私の思い通りになってくれないの?」
低く、くぐもったその声は狂気を孕んでいる。このままでは……いや、このままで良いのかも知れない。さとみを喪った私には何も喪う物は無い。ましてや今の私には、さとみの姿を重ねてしまうひとみの想いを受け容れるだけの器量も無い。
四肢の力も満足に入らず、私は覚悟を決め目を閉じた。
「……モウヤメテ……」
聞き覚えのある声だった。
「ヒラカワ……センセイ……」
「……さ……さと……み……?」
さとみの声が聞こえる……いや、彼女は死んだ。死者の声が聞こえるという事は、私は死んだのだろうか。
「邪魔をしないでっ! さとみっ!」
ひとみの声も聞こえる……?
「ひとみ先生っ!」
「せんせっ!」
緑川……さよりとちより……?
「さよりちゃん、ちよりちゃん、どうか邪魔をしないで」
「ひとみ先生、ダメ! 平川先生を連れて行かないで!」
ちよりの言葉の意味が分からなかった。
「さより! 平川先生の糸を切って!」
「ちよりはどうするの?」
「ひとみ先生を助けてあげたいの。ごめんなさい、平川先生、もっと早く気づければ良かったんだけど……」
さよりが糸を切ってくれたお陰だろうか、体の自由を取り戻した私は二人に感謝の言葉を述べ、何が起こっているのかを問い質す。
「先生は杉田ひとみという悪霊に取り憑かれていたのよ。先生にはひとみ先生が見えているんですよね? ……ひとみ先生は、通り魔事件の時に殺されているんです」
「そんな馬鹿な! あの時私は確かに彼女を助けた筈だ!」
さとみの葬儀の際に私は車椅子に乗ったひとみと会話している。ちよりもその場にいた筈だ。ちよりもひとみと会話していた。それに、今日の昼もさよりがひとみの車椅子を押していた。
「平川先生……確かに私はあの時、ひとみ先生の存在を確認していました。でも、私は平川先生としか会話していません。ひとみ先生……先生の気持ちは分かりますけど、平川先生を連れて行かないで下さい。お願いします!」
「うるさいっ! 私は……私は……ワタシハ!」
「ごめんね、せんせ。私の力が弱かったからひとみせんせに操られてしまったみたいなの。ホントはね、死者は生者に関わっちゃダメなんだけど……このままじゃせんせまで死んじゃうから」
私まで? いや、そんな事より教師が教え子を守らなくてどうするというのだ。私はさよりとちよりの前に立ち、ひとみと対峙した。
「ダメッ! 先生!」
「何がダメなものか! 私は教師だ。教師が教え子を守るのは当然だろう! 早く逃げろ!」
私はもうどうなっても構わない。しかし、将来のあるこの二人だけは私の身に代えても守りたい。両親がつけてくれた私の名前、『まもる』という名に恥じないように。それに、さとみが生きているならば、彼女もきっと私とおなじことをしただろう。
「ヒラカワ……センセイ……ダイジョウブ……デスヨ」
「……さとみ!?」
私の前に現れた一人の女性……の姿を模した光。間違いない、杉田さとみだ。
「さとみっ!」
「名前で呼んでくれて嬉しい……平川先生、ううん、まもるさん……」
私に微笑みかけてくれたその顔は、忘れもしない、私が愛したさとみの顔だった。
「さとみ……」
その肌に触れようと手を伸ばすが、空しく虚空を掴むだけだった。
「ごめんなさい、まもるさん……まもるさんは生きて。姉さん、ごめんね。姉さんと同じ位……ううん、それ以上に私はまもるさんを愛してるの。だから姉さんには……まもるさんは渡せない!」
「さとみぃぃぃ! そこを……どいてぇぇぇぇえあぁぁあアアァァァァァ!?」
悪鬼の如き表情で迫り来るひとみの腕に絡み付き上空へと延びている白い糸、その先には……さよりとちよりがいた。
「平川せんせ……ひとみせんせを許してあげてね」
「私達はあの星へ還りますけど……先生はちゃんと生きて下さい」
「君達は一体……?」
宙に浮かぶ二人は糸をたぐり寄せ、ひとみを星空へと引き寄せて行く。そして、さとみも……
「待ってくれ! どこへ行くんだ? 私も……」
「せんせは来ちゃダメ!」
「緑川……」
「ここから先は死者の世界。生者である平川先生は来てはいけません」
「では君達は……」
私に生きろと言う『死者達』は私を地球に留まらせ、恒星へと還っていく。
「ヤメロォォォォォ! ワタシハ……ヒラ……カ……アァァァァァァ!」
ひとみさん……私は……
「センセ……バイバイ……」
「センセイ……アリガトウ……」
「マモルサン……アリガ……トウ……ソラデ……マッテル……カラ……」
四つの淡い光達はゆっくりと夜空へ舞い上がって行った。一瞬、ベガとアリデッドとアルビレオが大きく光った気がした。
さより、ちより……ひとみさん、そして……さとみ……
もう少しだけ生きて、そして……
私もそこへ行こう……
この話を思い付いたきっかけは、帰宅した時に見上げた夜空でした。澄み渡る夜空に見つけたわし座と琴座と白鳥座。(星座が好きな人なら見つけられるよね?)
ベガとアルタイルとアリデッド……夏の大三角形……あれ? これって三角関係ってヤツじゃね? とか思ってしまったのが運のつき(笑)
そして、ホラー小説に出来ないかなぁと思い立ったからには更にタチが悪い。
書き終えて思った事は「これ、ホラーか?」でした。
ホラーっぽくないですよね、コレ(笑)
敢えて名付けるなら『セツナ系ホラー』でしょうか。誰も言わないので自分で言います。
各話のタイトルにある『序』『破』っていう例の三弾オチのヤツですが、最後だけちょっと遊んでみて平川先生に求めてもらって、平川先生を救ってみました。
そんな訳でセツナ系ホラー小説『妖星の鎮魂歌~requiem~』を最後までお読みくださいましてありがとうございました。