破章 アリデッドは妖しく嗤う
夏休みも始まり、子供達にとっては夢のような日々が続くのだろう。しかし、私はそんなものとは無縁である。教師には夏休みなど存在しない。
総人口が一万人程の片田舎にある唯一の小学校……私がここに赴任してはや二年が過ぎようとしている。
この二年の間、私は逃れる事の出来ない呪縛に捕らわれた。
そう……あの恐るべき少女『緑川さより』と出会った事がすべての始まりだった。
私は一介の教員に過ぎなかった。この何も無い田舎町にて教鞭を振るう一教師に過ぎなかった。
なのに……
今でも私の四肢から白い糸が延びている錯覚に襲われる。
いや……錯覚などではない。確かに私は……緑川さよりに操られているのだ。
「せーんせ♪ どうしたんですかぁ?」
屈託のない笑みを浮かべながら私に話し掛ける少女。十二歳とは思えぬ程に妖艶な雰囲気、しかし年相応の少女のあどけなさを残すその容姿に私は恐怖すら覚える。私は他の児童に悟られないように彼女の頭に手を置きながら努めて普段通りに話しかけた。
「あぁ……緑川か。何でもないよ。さ、今日はせっかくの夜間学級だ。みんなと一緒に楽しもう」
夜間学級……この学校では四年生以上を対象に毎年行われる夏休みの恒例行事であり、希望する児童は一日だけ夜の学校を体験する事が出来る。校庭で花火大会をしたり、全員で夕飯を作って食べたりと言ったレクリエーションを行うのだ。今年は対象の児童二百七十名の内、ほぼ半数の百三十名が参加した。
娯楽も少ないこの町――いや、村と言った方が良いか――では、子供達に退屈な思いをさせたくないという大人達の提案で、夏休みの間は小学校を開放させ、娯楽施設として活用させている。
必然的に毎日常駐している私達教師が子供達を見ている事になるのだが、それも致し方ない。
「せんせも一緒にご飯作ってくれるんですかぁ?」
「あぁ、もちろんだよ。こう見えて先生はカレーライスを作るのは得意だからね」
「ほんとー? じゃあ、さよりも手伝うね♪」
私は料理はおろか包丁すら握った事もない。ましてやカレーライスなど以ての外だ。
……『言わされた』のか。
この少女、緑川さよりに……
さして広くもない校庭だが、それでも全員が集まるには十分過ぎる広さであり、満天の星空の下で食べるカレーライスは格別なものだった。
校庭の真ん中辺りにちょっとしたキャンプファイヤーのやぐらを作り、児童達はやぐらを囲んでキャンプ気分を楽しんでいた。
数人の教師はその輪の中に溶け込んでいたが、奇妙な疲労感に襲われていた私は、少し離れた職員用の玄関に腰を下ろしていた。
「平川先生、お疲れ様です」
そんな中、私に話しかけてくる女性――六年二組の担任である杉田さとみ先生だ――が、私に労いの言葉を掛ける。私より一つ年下だが、しっかりとした教育理念を持ち、私が尊敬している教師の一人だ。
「杉田先生……先生もお疲れ様です」
「今日は晴れて良かったですね」
そう言って彼女は私の隣に腰を下ろす。私の心拍数が僅かに早まった気がした。
「綺麗な星空ですね……」
艶のある黒髪をかきあげ、眼鏡越しに夜空を見上げるその横顔を見て、私の心拍数は更に加速度を増す。普段のスーツ姿ではなく、動きやすいジャージ姿でも、彼女の美しさは変わらなかった。この時私は、恥ずかしながら初めて彼女への思慕の念を抱いている事に気が付いた。
彼女の横顔に見惚れていた私は、その想いをかき消すように空を見上げた。見上げた先に私は、十字に並び、一際明るく輝く五つの星を見つけた。
「あ、杉田先生! あそこに白鳥座が見えますよ!」
私が指差した先を彼女が「どれどれ?」とこちらに顔を寄せ見上げるその仕草に、私は先程かき消した想いを蘇らせてしまったが、努めて気取られない様に星空へと意識を集中させる。
「えっと……あそこに大きく輝く星がありますよね? そこから下がって一つ、その星から左右と下に一つずつ……」
「あ、あれって『天の川』ですよね! 綺麗……」
あなたの方が綺麗ですよ。
つい、そんな言葉を言ってしまいそうな自分を戒める。
「その天の川に沿って南へ向かうと明るい星が二つ見えませんか? 天の川を挟んで見えるわし座のアルタイルと、こと座のベガ……彦星と織り姫星です。さっきの白鳥座の明るい星、デネブとを結んで出来るのが『夏の大三角』です」
天体観測を趣味とする私は、揚揚と語りだしてしまう。悪い癖だ。しかし、そんな私のレクチャーを彼女は優しい笑顔を湛えたまま素直に聞いてくれていた。
「平川先生、星座にお詳しいんですね」
「いえ……ただ、好きなんですよ」
私はどうする事も出来ず、星空へと吸い込まれてしまおうと頭上を見上げた。ただ、この時間がいつまでも続けばいいと思った。
「平川先生は、ここに赴任される前はどちらにいらっしゃったんですか?」
肩が触れるくらいに近付いてきた彼女に対し、私は少し身構えてしまったが、願ってもない事だったのでそのまま微動だにしなかった。
お互いの身の上話をしながら星座の説明などをしていると、いつの間にか私の手を彼女が握っている事に気付く。
「平川先生が彦星なら、私は織り姫星……なんちゃって、私ったら何を言ってるのかしら」
照れ笑う彼女の仕草に、私は一瞬で心を奪われてしまった。普段はそんな事を言うイメージが無い杉田先生が言うと、新たな魅力を発見したようで嬉しくなってしまう。
私はそっと彼女の手を握り返す。
その時だった……
「センセ……ワスレナイデネ……センセハ……ワタシノ……」
背筋に冷たい何かを感じて周りを見渡すが、私達の他には誰もいない。しかし、その声が幻聴などではない事は分かっていた。確かにあの声は……緑川さよりの声だった。不意に視線を感じ、キャンプファイヤーのやぐらがある方を見ると……
「せんせは私の物」
さよりの口元は確かにそう言っていた。
次の瞬間――
「平川先生……私……イキマスネ」
イキマスネ? 何処へ?
杉田先生はスッと立ち上がると、一目散にキャンプファイヤーのやぐらへと駆け出していく。
「杉田先生っ!」
私の声など聞こえないのか、杉田さとみは恐ろしい程の脚力で燃え盛る炎の中へと飛び込んでいく。その背中から延びる一本の白い糸……
まさか――
「あはははははははははははははははははははは」
狂気を孕んだ奇声を上げる彼女は、本当にあの杉田さとみなのか……
辺りからは怒号とも悲鳴とも取れぬ声が鳴り響き、児童達は泣き叫びながら逃げ惑う。
「消火器、消火器を早くっ!」
「杉田先生っ!」
「早く消せっ! 早くっ!」
「何をやってんだ!?」
大人達の怒声が飛び交う中、杉田さとみの突然の奇行により催事は一瞬にして惨事と化した。
私はその場に崩れ落ち、ただ呆然と燃え盛る炎を見つめていた。
何故……?
私が彼女に思慕の念を抱いたから……?
炎の勢いを強めるやぐらからは、悲鳴とも叫び声とも取れぬ笑い声が聞こえている。
「あぁぁぁあははあはあはは……ヒラ……カワ……あぁあはははは……ああああぁぁぁああぁあ……」
咄嗟に耳を塞ぐ。やめろ……やめてくれ……
どんなに耳を塞いでも、どんなに強く目を閉じても、彼女の……杉田さとみの優しい声と笑顔が離れない。それ以上に脳裏に焼き付き、へばりついて離れない奇声……そして、それを上書きするかのような声……
「せんせが殺したんだよ?」
私が? 誰を?
ハッと顔を上げると、いつの間にか隣には……緑川さよりが座り込んでいた。
「緑川……さより……」
「邪魔だから」
「邪魔……?」
「せんせ……あの女の事、好きだったんでしょ?」
彼女が何を言っているのか、今の私には理解出来なかった。今の私には、轟音と共に崩れ落ちていくやぐらを呆然と見つめる事しか出来なかった。
「あの女、前から気に入らなかったのよ……ずっと、せんせに色目使ってたし」
それはつまり、私に好意を持っていた、と言う事だろうか。だとしたら、何故もっと早く気付いてあげられなかったのか。
「お前が……彼女を殺したのか……?」
「せんせが勝手な事を喋るからですよ? せんせは私の物。これからもずーっと……クスクス」
「何故……彼女を殺した……?」
タンパク質が焼け焦げる嫌な臭いが鼻をつく。杉田さとみだった頃の匂いなどもうそこには無い。
途端に呼吸が荒くなる。まるで心臓を鷲掴みにされたかのように胸が苦しくなる。
「私が……彼女を殺した……と言ったな……殺したのは……お前だ。何故、私を殺さない? 何故、私ではなく彼女を殺したっ!?」
じわじわと遠のく意識を何とか保つが、私の声が掠れているところを見ると、やはりさよりの手には白い糸が巻き付いていた。そして、その糸は私の首へと続いている。
「心配しないで? せんせは殺してあげないから」
不気味に嗤うその顔には、少女の姿どころか人としての感情を見る事は出来ない。
さよりは徐ろに空を指さす。
「光は三つも要らないの。だから安心してね、せんせ。せんせはちゃあんと私が輝かせてあげる……」
僅かに首の白い糸の締め付けが強くなる。この子は私の自由を奪うつもりなのだ。そして、その気になればいつでも私を殺せるのだ。
どうやら私は悪魔に魅入られてしまったようだ。
燃え盛るやぐらから一本の火柱が立ち上り、星空へと吸い込まれていく。
杉田先生……さとみ……私は……私があなたに恋愛感情さえ持たなければ、あなたが死ぬ事は無かった。
杉田さとみの魂は火柱と共に織り姫星へと還っていった。
「センセ……ニガサナイカラ」