序章 星を繋ぐ白い糸
以前投稿した短編の加筆修正版です。
七月も下旬に差し掛かる頃、まとわりつくような蒸し暑さを布団の中で感じ、深夜二時を過ぎても寝付けずにいた。草木も眠る丑三つ時、とはよく言ったもので、外はしん、と静まり返っていた。
何も無い田舎町だからそれも当然なのかも知れない。
寝付けずにいた私は窓を開け、星空を見上げた。満天の星空を観れる度に私はここに赴任して来て良かったと思う。
「綺麗な星空だ」
私はこの田舎町で唯一の小学校にて教鞭を取っている。明日は終業式の段取りがあるため、普段より早く出勤しなければならない。だが、クーラーの冷気も感じられぬほどの『蒸される暑さ』に私の安眠は妨げられている。早く寝なければ、そう思い瞼を閉じるのだが、一向に睡魔は私に襲い掛かっては来ない。寝苦しい暑さのせいも過分にあるのだろうが、睡魔の代わりに襲い来るのは、昨日教え子から聞いたある話だった。
「ねえねえ、せんせ知ってる? 『白い糸』の話」
クラスでも目立つ存在であり、何故か私によく懐いてくる女子児童、緑川さよりが話し掛けてくる。噂話の好きな年頃なのだろう。私はその話は知っていたのだが、知らない体で彼女の話に耳を傾ける。
「ん? 白い糸ってなんだい?」
「あのね、大人の女の人って耳にピアスをするでしょ? そのピアスを外した時の穴から白い糸が出てくるんだって! 怖いでしょ?」
その話は本当はその後が怖いのだが、まぁ、そこは敢えて言うまい。
「それは怖いねぇ。しかし、その白い糸って何なんだろうね?」
白々しい私の態度をよそに、さよりはその小さな顎に指を当て考える。
「うーん……分かんない。でもでも、もしもその糸を引っ張っちゃったらどうなるんだろ?」
自らの耳たぶから糸を引っ張るようなジェスチャーをしながら、くりっとした大きな目を見開く。
悪戯心が芽を出してしまった私は、少し大袈裟に
物語の核心を伝える。
「もしかしたら……目が見えなくなっちゃったりして!」
「えー? それはヤバいよー! てゆーか、そんなの有り得ないよー!」
さよりはかぶりを降って私の言葉を否定する。少女の純心を弄ぶ事も無いと思い、それ以上の事は何も言わなかった。
「はは、そうだね。おっと、もう下校時間だぞ、気をつけて帰りなさい。ついこの間も通り魔事件があったばかりだからな」
「知ってるよー。新聞に載ってたじゃん! せんせ、お手柄だよね!」
偶然にも私は、帰り道で通り魔に襲われていた女性を助けた事があった。とは言え、犯人を捕まえたわけではなく、その女性も怪我を負ってしまったのだからお手柄でも何でもないのが実情だ。
「先生をからかうなって」
「あはは、じゃーねーせんせ、また明日」
とりとめもないやりとりだったが、その中でも強烈に脳裏に焼き付いた言葉。言霊……というわけではないだろうが、さよりから聞いた『白い糸』の話が私の頭の中をぐるぐると回り続けているのだ。ピアス穴から伸びたその糸は視神経であり、その糸を引っ張りだした瞬間、目が見えなくなる……いつの頃からかまことしやかに語り継がれる『都市伝説』だ。
もちろん私はそんな話が実話だとは信じていない。ただ、怪談や萬話としてはよく出来た話だと思う。
白い糸……
咄嗟に私は自分の耳に触れてみる。
いや、私はピアスなど生まれてこの方一度もした事が無い。
安堵の息を漏らしたのも束の間だった。
私の腕から延びる一本の細く長い白い糸。いや、私の腕から『生えている』のか?
この糸は一体何処に繋がっているのか? そもそも何故私の腕から? 体毛? いや、よく見るとこの糸は片腕だけではなく両腕から生え延びている。両腕だけでは無い。両脚、両肩、果ては頭頂部からも生え延びている。
「な、何なんだコレは?」
気味が悪くなった私は、その糸を引きちぎろうと右腕を動かし左腕の糸を掴む。しかしその瞬間、さよりが語ったあの話が脳裏を過ぎる。
「その糸を引っ張っちゃったらどうなるんだろ?」
どうなる……? いや、あんなものはただの都市伝説。ただの作り話だ。どうなるわけでもない。
では、この糸は何なのだ。私の四肢から延びる白い糸……この糸は……何なのだ?
ピアス穴から延びた白い糸は視神経だった。では、この私の四肢から延びた白い糸は……私の四肢の自由を奪う神経糸、だろうか?
いや、馬鹿馬鹿しい。そんな神経糸などあるはずも無い。そう、これは夢だ。夢なのだ。それも、とてつもない悪夢……寝苦しい蒸し暑さが見せた悪夢……そこに昨日聞いた都市伝説……うなされない訳が無い。
私は腕の白い糸を引っ張った。
夢だと分かった以上、好奇心に勝てる筈が無い。最初に見つけた左腕の糸を引っ張ると、ピンッと何か固いものを捉えたかのような重い感触を得た。釣り糸が魚を捕らえずに、海底に引っかかった感触に似ていたかも知れない。ならばと思い、今度は逆に糸を延ばしてみる。すると驚いた事に糸はスルスルと延びていくではないか。
私の腕から白い糸が延びていく――
私の腕から……私の両腕から……両脚から……両肩から……頭頂部から……その白い糸はスルスルスルスルと延びていく。やがて私の意識はずぶずぶと遠のいていった。
「せんせー、おはよーございますっ!」
緑川さよりが元気に挨拶をしてきた。いつもと変わらぬ朝の光景だ。どこか大人びた容姿をしているが、やはりまだ子供。無邪気なものだ。
「はい、おはよう」
「せんせ、ちょっと……」
「うん? どうした緑川?」
さよりが手招きするので、私はその場にしゃがみ込み彼女の口元へ耳を傾ける。
「ダメじゃないですか……操り人形が自我を持っちゃ。平川せんせは……さよりのお人形さんなんですからね?」
「……っ!」
私は……
彼女の……
視界がぼやける。
焦点が定まらなくなってきた……
彼女の顔を見ると……
くすくすと笑うさよりは大きな目を見開いたまま、そのか細い指に絡み付いた白い糸を見せつけてきた。