嘘11
翌日の朝
「…………ふう」
洋介の自宅の前で、スケッチブックを片手に抱えながら吐息を漏らす玲二。
緊張を解すように深呼吸を繰り返す彼の傍らには黒斗が佇んでおり、何も言わず無表情のまま玲二の様子を見守っている。
「……じゃあ兄貴……行ってくるね」
「ああ」
黒斗に声を かけると玲二はキリッとした表情で玄関に向かい、ドアの隣についているインターホンのボタンを押す。
すると直ぐ様ピンポーンと軽快な音が鳴り響き、数秒の間を置いてドアの向こうから しゃがれた女の声が聞こえてきた。
『はい、どちらさま?』
「おはようございます、おばさん……佐々木です」
『あら、レイくんなのね! 待ってて、今 開けるわ……』
ガチャガチャとチェーンを外す音が した後に扉が ゆっくりと開き、そこから洋介の母親が現れた。
黒髪に紛れて白髪が ちらほらと見られるものの肌はツヤツヤで、年齢よりも若く見える彼女は手を口に当てて上品に微笑みかける。
「おはようレイくん。今日は どうしたのかしら?」
「はい……洋介に ちょっと用事があって……」
「まあ、そうなの。ささ、上がって上がって!」
曇りの無い笑顔から察するに、彼女は洋介と玲二がケンカしていることを知らないようだ。
まあ事情が事情だけに、洋介も母には話しにくいのだろう。
とはいえ、玲二に とっては すんなりと家に入れてもらえる為、都合の良い展開である。
洋介の母に促されて家に入り、軽く会釈をすると玲二は洋介の部屋がある二階へと向かった。
洋介の部屋の前へ辿り着いた玲二。
だが、彼は難しい顔をしてドアを睨みつけてばかりで、なかなかノックを することが出来ないでいた。
(……うう……決意したとはいえ、やっぱり怖い気持ちは無くならないなあ)
極度の緊張から、胃がギリギリと締めつけられているように痛みだし、腹部を押さえる。
痛みと同時に、今すぐ この場から逃げ出したいという弱い自分が心の中で顔を覗かせるが、下唇を噛んで気持ちを奮い立たせる。
(……兄貴も、こんな気持ちだったんだろうな……オレも、頑張らなくちゃ!)
気合いを入れるように頬を叩くと、玲二はドアを力強くノックした。
『……誰? 母さん?』
暗く沈んだ洋介の声に胸がチクリと痛むも、震える唇で言葉を紡ぐ。
「……洋介…………玲二、だけど……」
『………………』
「……入るね」
返事が無かった為、断りを入れてから玲二はドアを開けて中に入った。
「……おはよう、洋介」
ベッドに腰かけて窓の外を見つめる洋介に挨拶をするが、彼は返事どころか部屋に入ってきた玲二も見ようとしない。
予想通りとはいえ、露骨な嫌いように玲二は思わず悲しげに苦笑を漏らす。
「……どのツラ下げて来た訳? 嘘つきの覗き魔さん」
「う、うん…………その……話が……したくて」
「僕には君と話すことなんかない」
ぴしゃりと言い切る洋介。
だが玲二は怯むことなく、スケッチブックを持つ手に力を込めて口を開く。
「……洋介には無くてもオレには ある! ちゃんと君に謝りたいんだ!」
淀みなく述べられた玲二の言葉に洋介の身体がピクリと動き、彼は ゆっくりと玲二に振り向いた。
眉間に深いシワを寄せた洋介の険しい表情が露となるも、玲二は彼から目を逸らさずに凛々しい眼差しで真っ直ぐに見つめる。
「あの、よう」
「言っておくけど、いくら君が謝ったって僕は許すつもりなんかないからね? 言い訳や嘘で練り固められた君の言葉なんかじゃ、僕の心は揺るがない」
玲二の言葉を遮り、淡々とした口調で そう述べる洋介。
冷たい言葉に玲二は息を呑むも、すぐに気を取り直して彼に話しかける。
「……分かってるよ。許してもらおうだなんて思ってない。オレは ただ、君に謝罪を したいだけなんだから」
「何だよソレ……一方的な謝罪なんて、そんなの ただの自己満足じゃん」
「君の言う通り、確かに自己満足かもしれない。
でもオレは どうせ許してもらえないからって、それを言い訳にして何もしないまま お別れだなんて嫌だから。
謝りもせず、自分の弱さからも目を逸らして、君と向き合わずに逃げ出してしまうのは嫌だから。だから……例え君の心に届かなくても、オレは謝るよ。まだ ちゃんと君に謝れてないから」
そう言うと、玲二は その場に膝をついて座り込み、床に頭がつきそうな勢いで土下座をした。
「洋介……ずっと嘘を吐いて、ゴメンなさい。オレの浅はかな嘘のせいで、君を余計に傷つけてしまって……ゴメンなさい」
「………………」
土下座を続ける玲二を黙ったまま見つめる洋介。
そんな彼の顔からは先程の険しさが消えており、代わりに驚きの表情が張り付けられている。
(……何も言い訳しないんだ…………また綺麗事とか言うと思ってたのに)
“嘘を吐いたのは君を傷つけない為”
“君を騙そうとしていた訳じゃないんだ”
そういった言葉を予想していた洋介としてはシンプルな玲二の謝罪に拍子抜けを してしまう。
だが それと同時に玲二が発した短い言葉の中からは、彼が心から謝罪をしているのだと感じられ、洋介の胸が痛みだす。
胸を押さえたいところだが、洋介には腕が無い為 息を荒げることしか出来ない。
(……何を動揺なんか してるんだ。こんな嘘つき、絶対に許さないと決めたじゃないか)
ぶんぶんと首を振る洋介。
しかし痛みは消えるどころか、更に増してくる。
(でも……玲二は悪意が あって こんな嘘を吐く奴じゃない……僕が傷つかないように、わざと事実を隠してたんじゃないのか……)
怒りに追いやられ、心の奥に潜んでいた良心が顔を出す。
(……怒りを ぶつけたい有理が もう居ないから……僕は玲二に八つ当たり してるだけ……最低なのは僕じゃないのか……?)
冷静さが戻ると同時に胸中を支配していた憎悪が僅かに薄まるが、それでも消えた訳ではない。
(……玲二は、大切な友達……仲直りしたい……だけど……簡単に許せない……)
玲二が許せないという残酷な自分と、友として玲二と和解したいという良心が洋介の中で対立し、相反する気持ちに苦しむ洋介。
すると不意に玲二が土下座を やめて立ち上がり、ベッドに座る洋介の元へ歩み寄ってきた。
「……もう1つ……謝罪じゃなくて、もう1つ洋介に言いたいことが あるんだ」
「えっ」
突然 声をかけられたことに驚きつつ、洋介が玲二に視線を移すと彼は持っていたスケッチブックを開き、洋介に見せた。
「あっ……」
呆けたような声を出し、目を丸くする洋介。
そこに描かれていたのは、幼い頃の玲二・洋介・有理が1つの大きなキャンバスに3人で虹を描いている絵だった。
はちきれんばかりの笑顔を浮かべ、笑い声が聞こえてきそうな程いきいきとしている3人。
キャンバスに描かれた、思わず感嘆の溜め息を漏らしてしまいそうなカラフルで美しい虹。
鮮やかで明るい色だけで描かれた、暖かみのある絵。
特徴的なタッチから、洋介は これは玲二が描いたものであると すぐに分かった。
「玲二……君、絵が描けるように……!?」
声を震わせながら訊ねてきた洋介に玲二は頷き、ベッドの上にスケッチブックを置いた。
「……今しか言えないと思うから言うね……。洋介、オレなんかと友達になってくれて ありがとう。
本当はさ……6年前、コンクール用の絵を描き終わったら、この絵と一緒に洋介と有理に改めて お礼を言うつもりだったんだ。
だけど……あの事件があって、絵も描けなくなって……お礼も言いそびれちゃった。
でも、やっと言えた……やっと この絵を描いて君に渡せた…………。
……洋介が有理を憎むのは分かる。オレだって、今でも有理が許せない。だけど……憎いのと同時に感謝もしてるんだ……。
だって、有理が声をかけてくれたからオレは洋介と出会えて……2人と友達になれた。楽しい思い出が出来た。
洋介と有理……2人と出会えて、一緒に過ごした時間が あるからこそ、今のオレがある。
だから……有理への感謝も込めて、その絵に彼を加えたんだ……でも、迷惑だったら それ……捨てても構わないから……」
目に涙がジワリと滲み、それに伴って玲二の声が震えていく。
そんな彼の言葉を聞きながら、洋介はボンヤリと絵を見つめた。
(……玲二は変わった……だけど……変わってない)
のんびり屋で泣き虫で、同じ年だというのに頼りなさから玲二を弟のように思っていた洋介。
だが彼は――玲二は変わった。
自分の意思を しっかりと持ち、苦難から逃げ出さずに向き合う勇気を持つようになった。
トラウマを乗り越える強さを持つようになった。
だけど、元来の優しさは全く変わっていない。
(君は いつの間に僕より大人になっちゃったんだろう……)
自分の後ろを歩いていた弟に先を越されたような寂しさを覚えると共に、自分が情けなく感じた。
意固地になり、八つ当たりばかり繰り返す自分が――
「じゃあ、オレ学校が あるから行くね。……バイバイ」
涙を拭いながら微笑むと、玲二は そのまま振り向くことなく部屋から そそくさと出ていき、一人 残された洋介は瞬きも せずに美しい絵を見つめ続けた。
******
洋介の家から出てきた玲二は、電柱に背を預けてボンヤリと宙を見上げる黒斗へと近づいた。
「……戻ったか」
玲二の存在に気づいた黒斗は そう呟くと、電柱から離れて彼と向き合った。
「…………どうだった?」
「言いたいことは全部 言ったよ。それが洋介に どう届いたのかは分からないけど……でも、どんな結果になっても後悔は しないと思う」
清々しい表情で言い切った玲二に黒斗は「そうか」と返し、彼の頭を優しく撫でた。
「……頑張ったな」
微笑を浮かべながら呟かれた黒斗の言葉。
頭を撫でられる心地よさと、黒斗にしては素直な誉め言葉に、玲二は幼子のような無邪気な照れ笑いを浮かべた。
「へへへ……ありがと兄貴! じゃあ、学校に行こう!」
「ああ。俺は鞄と制服を取りに帰るから、先に行っててくれ」
「ラジャー! じゃあ、また お昼休みにね!」
「……一緒に弁当を食うのは決まってるのか」
いつものように軽いノリで会話を交わし、2人は楽しそうに笑いあいながら歩き出すのであった。
******
同日 昼過ぎ
赤羽病院 入院病棟三階 廊下では、静かな病院に相応しくない騒々しい足音が響いていた。
「こら、病院で走ってはいけません!」
「す、すいません!」
足音の正体である鈴に睨みをきかせて叱りつける通りすがりの看護婦。
しかし鈴は一言 謝るだけで走ることをやめず、そのまま看護婦の前を駆け抜けていった。
(……オカン……オカンに沢山 聞きたいことが あるんや……!)
血相を変え、脇目も振らずに鈴が走り続ける理由――それは、今朝ようやく意識が戻った母の珠美である。
意識が無事に戻ったことは喜ばしいことだ。
それに まだ目覚めたばかりなのだから、身体に負担をかけないように話をしない方が良いのかもしれない。
だが、兄である大神のことが気がかりで仕方ないのだ。
その為 鈴は、自分勝手だと思いながらも母に大神に関する情報を聞き出すべく、昼食を終えて早々に母の病室へ向かっていた。
(橘 珠美……橘 珠美…………あった!)
病室のドアの隣にあるネームプレートに母の名前が書かれていることを確認し、鈴は控えめにノックをした。
「……オカン、入るで」
一言 声をかけて、鈴はドアをスライドさせて病室に踏み込む。
するとベッドに横たわり、驚いたように目を丸くしている珠美の姿が すぐさま視界に入った。
「なんや鈴やないか。入院しとるって聞いたけど、元気そうやな」
「入院っちゅうても検査入院やからな。オカンも ずっと眠ってたわりに元気そうで良かったわ」
想像以上に顔色が良い母に安堵の笑みを こぼし、鈴はベッドの側に置かれているパイプ椅子に腰かけた。
「……なあ鈴……あの後、どないなったんや? ウチ、アイツに頭を踏まれている最中に気を失ってもうて……どうやって助かったんか知らんのや」
先程までの きょとんとした顔から一変し、険しい表情を浮かべる珠美。
気を失う直前のことはハッキリと覚えているようであり、あの絶望的な状況で自分も娘も無事でいられた訳が気になって仕方ないようである。
「何や、オカン気絶しとったんか。んとな、あの後は たまたま通りかかったクロちゃんが、物音を聞きつけて中に入ってきてくれたんや。そしたら大神くん、さっさと逃げてったで」
「そうなんか……月影くんが来てくれへんかったら、今頃どうなってたことやら……」
目を伏せて己の肩を抱く珠美。
そんな母に、今度は鈴が疑問をぶつける。
「……なあオカン……オカンは、大神くんのことを昔から知っとるんか?」
「は、はあ? ウチは あんな子 知らんで! 初対面やで!」
わざとらしく手を ぶんぶんと振り、しらばっくれる珠美。
普段は嘘を吐くのが得意で口も堅い彼女だが、大神に襲われた動揺が残っているのか、いつもよりも感情が面に出ていて言葉も棒読みとなっている。
(……こりゃ、今なら はぐらかされんこに大神くんのことを聞き出せるかもしれへんな……)
またとない機会に鈴は内心ほくそ笑み、チャンスを棒に振らないよう慎重に言葉を選んで母と会話をする。
「……オカンは知らない言うとるけど、大神くんはオカンの ことを よく知ってるみたいやったで?」
「……アッチがウチのことを知ってても、ウチは知らんのや。死神に知り合いなんか おらんわ」
「でもオカン、頭を踏まれてる時に大神くんの名前……それも下の名前を呼んでたで? 『義之』ってハッキリと」
「そ、それはな……昔の知り合いに そっくりやったから無意識に そう呼んだだけや! まさか あの子の名前も義之だったとはなあ~」
あまりにも お粗末かつ無理のありすぎる言い訳。
それに加えて視線も落ち着きなく あちこちに向いて泳いでおり、彼女が嘘を吐いていることは火を見るより明らかだ。
下手をすれば幼稚園児にも見破られるのではないだろうか。
さすがに これ以上 母に苦し紛れの言い訳を聞くのは心苦しいので、鈴は さっさと この茶番を終わらせることにする。
「……もう嘘を吐かんでエエで。こないだな、オカンの出産に立ち会った看護婦さんと会って聞いたんよ……大神くんが、ウチの双子のお兄ちゃんやって」
「っ!!」
溜め息まじりに紡がれた鈴の言葉に絶句する珠美。
言葉は無くとも、大きく開かれた瞳孔と顔にジワリと滲み出る脂汗が、大神が鈴の兄であることを肯定していた。
「……なあオカン……どうしてウチに お兄ちゃんが居ることを ずっと黙ってたんや? それに……どうしてウチ、お兄ちゃんのことを覚えてなかったんや?
一緒に暮らしていた家族のことを綺麗さっぱり忘れるなんて まともやあらへん……それに、どうしてお兄ちゃんは あないな……死神の力を持っとるんや?」
「…………」
「黙ってたら分からんやろ! ウチは真実を知りたいだけや……頼むから、正直に話してや!」
何を答えずに俯く珠美に苛立ち、椅子から立ち上がり、息を荒くして詰め寄る鈴。
すると、不意に珠美が顔をバッと上げ、真剣な眼差しで鈴を見つめた。
「…………アンタの疑問に全部 答えることはウチには出来へん。何故ならウチにも分からへんことばかりやからや……せやから、答えられるんはウチが知っとることだけや。それでもエエか?」
「……う、うん」
「……そうか……。まあ、アンタももう大人やし、自分のことやからな……知る権利は あるわな」
そう前置きをして深呼吸をすると、珠美は重たい口を開いて大神のことに ついて語り始めた。
「……アンタが聞いた通り……あの子は……義之はウチの息子で、アンタのお兄ちゃんや。あの子は生まれつき人間離れした力を持っとったけど……でも、それ以外は何処にでもおるような普通の男の子やった。
妹のアンタのことも よう面倒みとったし、可愛がっとった。……あないな喧嘩が起きるまでは」
穏やかならぬ単語に鈴の肩が自ずと強張り、脳裏に あのフラッシュバックの映像が過る。
鈴に偽善者と怒鳴りつけてきた幼い大神――この映像が母の言う“喧嘩”の原因、もしくは内容なのかもしれない。
もし そうだとすれば、話を聞いているうちに昔のことを何か思い出せるかもしれないと、鈴は神経を集中させる。
「さっきも言うた通り、アンタと義之は仲がエエ兄妹やった。義之も体調の関係で外に出れへんかったアンタと よう遊んでた。せやけど、ある出来事が きっかけで兄妹の仲は険悪なものになってもうたんや」
一旦 言葉を区切って口内の唾を飲み干し、珠美は続けた。
「……ある日……義之がな、ウチとお父さんに幼稚園のお遊戯会に来てほしい言うたんよ。今 思えば、あれが義之の初めてのワガママだったなあ……」
「……初めてのワガママ? 大神く……お兄ちゃんは、聞き分けのエエ子やったんか?」
「まあな……ウチも お父さんも、アンタの体調ばかり気にかけてたせいで義之を なおざりにしとったんよ。でも、それでも あの子は親に文句も言わず、妹を怨んだりもせんかった」
「そうなんか……」
絵に描いたような良い子だったという幼い頃の大神。
そんな彼が、一体 何をどう間違って あんな恐ろしい男になってしまったのか――鈴には見当もつかない。
「……それで、どないなったんや? お兄ちゃんの お遊戯会……ちゃんと行ったんか?」
恐る恐る訊ねると、珠美は ふるふると首を振った。
「何でや!? お兄ちゃんの初めてのワガママくらい、何で きいてあげへんのや!!」
思わず声を荒げてしまう鈴。
それに対して珠美は興奮することもなく、ガックリと肩を落として彼女に説明をする。
「……仕方なかったんや。アンタの体調が いつ悪化するのか分からへんから、1人にすることなんか出来へんかった。
義之にも そう説明して、ちゃんと理解してもらった…………でも……義之のお遊戯会の日の朝……鈴……アンタは家出を してもうたんや」
「えっ……」
思わぬ事実に言葉を失う鈴。
「幸いにも、そないに遠くへ行ってへんから すぐに見つかったけど……あん時はウチも お父さんも、心臓が止まるかと思う程ビビったで」
遠い目を しながら過去を懐かしむように呟く珠美。
そんな彼女とは対照的に、鈴は幼い頃の自分が起こした とんでもない行動の意味が分からず、心臓が激しく鼓動する。
「……な、何で……何でウチ、そないなこと したんや……?」
「ウチは あまり詳しい話は知らんけど……アンタを家に連れ帰った時、何かウチが居なくなればママもパパも お兄ちゃんのお遊戯会に行けれるからとか何とか…………」
「……お遊戯会………………っ!」
母の言葉を聞いた鈴の頭に鈍い痛みが はしり、激しい目眩と耳鳴りに襲われた。
「いっ……! う、ぐぅ……!!」
反射的に頭を両手で抱え込むも、それが痛みを和らげてくれる訳もなく、それどころか頭痛は増すばかり。
まるで高速のメリーゴーランドに乗っているように視界は大きく揺れ、上下左右の区別もつかず空中に投げ出されたような浮遊感が気持ち悪い。
「鈴……だ…………か?」
遠くから母が呼びかけてくる声が聞こえるが、キーンという耳鳴りによって遮られて何を言っているか分からない。
やがて 視界も黒いモヤのようなものに覆われて狭くなり、そのまま目の前が真っ暗になった。
『おにいちゃん、おにいちゃん!』
何も見えない暗闇の中、突然 舌足らずな幼い女の子の声がハッキリと聞こえてきて、それと同時に不快な耳鳴りが治まる。
『ねー、ねー、おにいちゃん。ママから きいたんやけど、ようちえんの はっぴょーかい で モモタローやるってホンマ?』
『うん! みんながね、ぼくが主役でも良いって言ってくれたんだ!』
『わあ~! おにいちゃんスッゴいなあ! みんなも、おにいちゃんの良さを しっかり わかっとる~』
『ハハハ、ありがとう』
視界が真っ暗の為、会話をしている幼い少女と少年の姿は見えない。
だが、母から聞いた話と2人の会話内容から この兄妹は幼い頃の自分と兄だということは推測できる。
恐らく、これもフラッシュバックの一種なのだろう。
(……ウチと お兄ちゃん……ホンマに仲良かったんや……)
楽しそうな兄妹の会話に、自然と頬が緩むのを感じる。
『ママとパパも おにいちゃんのモモタロー、たのしみに してるやろなー! ウチも みたいなあ!』
『…………ママも、パパも、来ないよ……』
先程までの明るい声とは うって変わり、暗く沈んだ声を発する大神。
顔は見えなくとも悲しげに目を伏せ、肩を落としているのだろうと容易に想像できた。
『ママもパパもね、鈴が しんぱいだから側から はなれるわけには いかないって』
『…………そう、なんか……………………ウチのせいで、ごめん』
『いいんだよ。鈴なんか、毎日 家の中ばかりで外に出たことないじゃないか。ぼくより、鈴の方が よっぽど可哀想だよ』
苛立った様子もなく、優しい口調で妹を気遣う大神。
その言葉を最後に しばらく沈黙が続いたが、不意に脳裏に直接 声が響いてきた。
『おにいちゃん、いつもウチのせいでママにもパパにも かまってもらえへんで かわいそう……せめて……はっぴょーかいだけでも、みてもらえへんかな……』
(…………あっ)
脳裏に響く声を聞き、鈴の心臓がドクンと跳ねる。
(……そうや……ウチは、あの時……お兄ちゃんの為にって……そう、考えて……)
記憶の一部が甦り、無意識のうちに額へ片手を当てる。
『……ママとパパはウチが おるから、おにいちゃんの はっぴょーかいに いけへん……。
それなら、はっぴょーかいの日にウチが おらんくなれば、ママとパパは おにいちゃんのモモタローを みられる!
これはエエかんがえや! それに……ウチも おそとにでられるしな!』
遊戯会の間、面倒を見なくてはならない自分が居なくなれば両親は兄の芝居を観に行くことが出来るうえ、自分も初めて外に出られる。
良いことずくめのナイスアイデア。
そう信じて疑わなかった、幼い頃の自分。
浅はかで、愚かな自分。
今 思えば、兄の為というのは建前で、本当は ただ自分が外に出たかっただけなのかもしれない。
兄を思う気持ちは確かにあったが、それ以上に己のの為に行動を起こした。
こんな狡猾で醜い自分など、兄から“偽善者”と呼ばれて当然だろう。
(……ああ、そっか……思い出した……お兄ちゃんがウチに偽善者って怒鳴りつけたんは、この出来事のせいやったな)
“家出”に関する記憶を完全に思いだし、鈴の胸がズキリと痛みだした。
家へ連れ戻された時、当然 両親は何故こんなことをしたのかと鈴に詰め寄った。
そして鈴は幼い故、正直に全てを話してしまった。
『おにいちゃんのために、いえで した』と――
両親が この言葉を どう受け取ったのかは分からない。だが、両親は兄が家に帰って来た時に彼を酷く怒鳴りつけていた。
『妹に愚痴なんか言って恥ずかしくないのか』
『お兄さんなんだから しっかりしなさい』
そういった、鈴が家出をしたのは お前のせいだと言わんばかりの辛辣な言葉を、両親は大神に ぶつけた。
その光景を見ていた幼い鈴は両親の言葉の意味が理解できなかったが、兄が涙を堪えていることだけは分かった。
そして兄は、可愛がっていた妹に暴言を ぶつけた。
『偽善者』と、『お前さえ居なければ愛してもらえたのに』と――
今まで我慢していたものが、両親に酷く叱られたことが きっかけで爆発してしまったのだろう。
そして この喧嘩を期に、兄は変わってしまった。
妹に冷たくなった、話さなくなった、目すら合わせようとしなくなった。
だが、幼かった頃の鈴には優しかった兄が急変してしまった原因が自分であることに気づかなかった。
(ウチのせいで……お兄ちゃんが……傷ついてしもうた……)
幼く、純粋だった故の過ち。
その過ちが、兄を変えてしまった。
自分のせいで。
愚かな、自分のせいで。
(…………最低、すぎやわ……ウチ……)
あまりのショックに吐き気が して、咄嗟に口を両手で覆い、俯く。
すると誰かが背中を さすってきて、鈴が俯かせていた顔をバッと上げると、目の前には暗闇ではなく母の病室が広がっていた。
「……鈴、大丈夫か?」
右側から声が聞こえて そちらを向くと心配そうに顔を覗きこむ珠美と目が合い、鈴は コクンと頷いた。
「……オカン、ウチ……お兄ちゃんとの喧嘩に関すること……全部 思い出したで」
「……そうか」
ポツリと呟くと珠美は鈴の背中を さする手を止め、唇を噛み締めながら目を伏せる。
「……思い出したんなら、後は言うまでもないな。この家出事件からアンタと義之は ろくに話も せんくなって……そして……数ヵ月後……お父さんが亡くなる前日に、義之は行方不明になった」
珠美は溜め息まじりに そう言うと、屈めていた身体を戻し、ゆっくりとベッドに腰かけた。
一方 鈴は母に視線を移そうともせず、沈痛な表情を浮かべて俯いたままであり、膝の上に乗せられている手には力が こもり、白い入院着の布を握りしめてシワを作っている。
「……ウチが言えるんは こんくらいや。後のことは分からへん……義之が何で あんな不思議な力を持っているのか、何で居なくなったのか、何でアンタが昔のことを忘れているのか…………ウチには分からへん」
疲れたような深い溜め息を吐くと、珠美は話は終わりだとばかりにベッドの上に横たわり、布団を己の身体にかけて目を閉じた。
「喋りすぎて疲れたわ……ウチは一眠りする。アンタも顔色 悪いし、部屋に戻って寝えや」
「……待ってや……最後に……聞きたいことが あるんや」
「何やねん」
目を開け、顔を鈴に向ける珠美。
無愛想な口調ではあったが、鈴は そんなことなど気にせずに疑問をぶつけた。
「……何でオカンは、ウチに ずっと お兄ちゃんのことを隠しとったんや? 隠す必要なんか、あったんか?」
「……ウチの意思やない。お父さんが、鈴が記憶喪失になったら義之のことは思い出させるなって言うたからや」
「オトンが!? どういうことや!」
聞き捨てならない言葉に鈴は顔を上げ、ガタンと音を させながら席を立ち、ベッドに横たわる母へ詰め寄る。
しかし母は眉を潜め、ふてくされたように ぷいっと そっぽを向いた。
「そんなの知らへんわ。とにかくウチは疲れた……寝かせてや」
「…………分かったわ」
素っ気ない母の態度から、もう これ以上 情報を聞き出すことは出来ないと悟り、鈴は踵を返して病室の出口へと向かう。
「……色々 聞かせてくれて おおきにな」
振り向かずに小声で そう言うと、鈴は扉を開けて病室から廊下へ出ていった。
(…………お兄ちゃんが変になったのは……ウチの、せい……)
扉を閉めると同時に背中を預け、僅かに痛む頭を片手で押さえながら思い出したばかりの記憶を回想する。
優しくて妹思いだった兄。
だが、兄は妹の浅はかな行動が原因で変貌してしまった。
大神が心に傷を負った出来事は、端から見れば『そのくらいのことか』と感じるのかもしれない。
だが幼い頃に負った心の傷とは根深いものであり、それが原因で歪んでしまう者も少なからず存在するのだ。
(…………ウチのせいや……お兄ちゃんが あないになったのは……ウチの……偽善の、せいや……)
自分のせいで優しかった兄が狂った。
その結果、黒斗達 大切な友人が彼に傷つけられ、恵太郎に至っては人生を台無しにさせられた。
全ての元凶は、醜く狡猾な自分ではないか――
そんな自責の念に囚われた鈴は、重い足取りで己の病室へ向かうのであった。
******
一方その頃 三成家
昼食を食べ終えて自室へ戻ってきた洋介はベッドに寝転がり、ボンヤリと天井を見つめた。
(…………有理のことは憎い……だけど彼は もう居ない。有理に対する怒りや苛立ちを玲二に ぶつけるなんて、お門違いだよ)
吸い込んだ空気を ゆっくりと吐き出し、洋介は上半身を起こして窓の外に視線を移す。
(玲二だって変わったんだ。僕も いい加減に前を向かなくちゃ)
決意したようにコクリと頷く洋介。
その時、頭に誰かが手を乗せてきた。
「うわわっ」
いきなり手を乗せられたことに心底 驚き、間の抜けた声を発してしまう。
「誰だよ、ビックリしたじゃないか!」
母か お手伝いさんだろうかと考えながら振り向くが、視界に入ったのは その2人ではなく、黒いコートを纏ったドクロの仮面の人物であった。
「わああああああああ!!」
ドクロを目にした瞬間 洋介の全身から血の気が引いていき、腰を抜かした彼は悲鳴を あげながら その場に尻餅をついてしまった。
強かに打ちつけてしまった臀部に鈍痛が はしるも、驚きと得体の知れない者に対する恐怖のあまり、そんなことに構ってる余裕などなく、身を縮めることしか出来ない。
そんな洋介の様子を見ていたドクロは満足そうに鼻で笑うと、おもむろに仮面を外して素顔をさらす。
すると洋介に とって見覚えのある人物――ウンデカの顔が露となった。
「……あ、アンタは この間の変な宗教の……! 何で ここに!? というか、いつの間にっ!?」
声を震わせながら矢継ぎ早に問いただす洋介だが、ウンデカは彼の質問には答えずに彼へと近づいていき、赤い瞳で蔑むように見下ろした。
「……私は言った筈だ。お前が決断した その時に、また来ると」
「あっ…………」
彼が去り際に言っていたことを思い出し 目を見開く洋介だが、ウンデカが 突然 頭を鷲掴みにしてきて、顔に苦痛の色が浮かんだ。
「ぐ、ぎぃ……!」
強い力で握られ、そのまま持ち上げられる洋介。
頭蓋骨がミシミシと軋む。
ウンデカの指が食い込んだ箇所に血が滲み、僅かに流れ出てくる。
尋常ならざる握力に、このまま頭が握り潰されてしまうのではないか――そんな考えが浮かぶ。
それと同時に、自分の頭がグシャリと潰れるイメージが脳裏に映し出され、洋介は吐き気と悪寒に襲われた。
「あわよくば信者に出来ればと思っていたが……どうも無理な話のようだ。仕方ない、お前はエサとして有効活用することにしよう」
ウンデカは淡々と そう呟いてゲートを開くと、洋介を持ち上げたまま その中へと入り、彼と共に姿を消した――




