拒絶16
「……ふう~……コレでやっと この街から おさらば出来るわ」
徳井が死んだのを確認した清菜は、肩の荷が下りたように清々しい表情で呟いた。
ちなみに洗面所の側には徳井の溶け落ちて蝋のような塊となった肉が残ったままであり、その塊に埋もれている白骨が僅かに顔を覗かせている。
「さて、と……」
一息吐いて制服の内ポケットから折り畳み式の携帯を取り出す清菜。
その携帯は、松美が愛用していた物と同じだった。
(松美ちゃんから取り上げた携帯、どうしようかしらね……まあ形見として一応 持っていこうか。かつては友達だった証として、ね)
サファイアブルーカラーの携帯を指先で撫で、醜い笑みを浮かべる。
その時――
「まつみいいぃぃぃぃぃ!!」
奇声と共に玄関の扉が開け放たれ、大量の冷や汗を流し、青ざめた顔をした内河が部屋に入り込んできた。
「まつ、ゲホッ……まづみ!! 松美どこだ!? お兄ちゃんが助けに来たぞっ!?」
血走った目で内河が辺りを忙しなく見渡す内河。
すると玄関から向かって左斜め前にある洗面台の近くで立っている清菜の姿を見かけ、彼は突進でもしそうな勢いで彼女の元へ駆け寄った。
「清菜さんっ、松美、松美は……!」
凄まじい勢いで清菜に近づく内河だったが、その途中 彼女の傍らにあるピンク色の塊と、その塊から飛び出している白骨に気づき、足を止める。
「…………なん、だ、その骨……ま、ま、まさ、か……まつみ……」
「松美ちゃんじゃありませんよ。コレは徳井先生の骨です。ていうか、貴方 松美ちゃんと会ったんでしょ? だから この場所が分かったんじゃないんですか?」
怪訝な顔をしながら訊ねる清菜だが、内河はガタガタと震えて「まつみ……」とうわ言のように妹の名を繰り返すばかりで返事を返さない。
そんな彼の様子から ただならぬ雰囲気を察した彼女はニヤリと笑い、わざとらしく松美の携帯を宙に放り投げて片手でキャッチをする。
その動きに反応した内河は そちらに目を向け、清菜が放り投げて遊んでいるサファイアブルーの携帯に気づき、血相を変えた。
「そ、それは松美の携帯じゃないかっ!! 何でアンタが松美の携帯を持っているんだ!! やっぱり松美は ここに居るのか!? 松美、松美を出せえ!!」
「松美を出せって……既に死んでいるであろう人間を出せる訳がないでしょう。貴方 何を言ってるんですか?」
「し、し、死んでなんかない! 松美が、あんな見るも無惨な姿で死ぬ訳がないっ! アレは松美のニセモノ、ニセモノなんだっ!」
虚ろな瞳と痛みを堪えるような悲痛な表情で叫ぶ内河の言葉を聴き、清菜は彼を嘲るように鼻で笑いながら松美の携帯を床に落とし、それを勢いよく踏みつける。
メキッという鈍い音が耳に届き、内河は咄嗟に踏みつけられてヒビが入っている携帯に視線を落とした。
「あ、ああっ、松美の携帯に何をするんだっ!!」
激昂する内河だが、清菜は足を退けるどころか さらに片足に体重を乗せ、携帯をグリグリと踏み続ける。
「何か様子が変だと思ったら、妹が死んだショックのあまり頭がイカれちゃった訳ね。現実逃避なんかしちゃってさあ……せっかくだから目を覚まさせてあげる……私みたいに、嫌な現実と向き合わせてやるわ!」
そう言って清菜は笑うと、松美が このアパートに来た時のことを内河に話し始めた。
******
今から約40分程前――
「ハァハァ……やっと着いたであります……」
全速力で走ってきた松美は、3階建ての古臭く、ところどころが錆び付いてるうえメッキが剥がれているボロアパートの前に辿り着くと膝を曲げて呼吸を整え始めた。
「フウ…………ったく、あの徳井とかいう教師……副担任の身でありながら一方的に生徒を疑うなんて、最低であります!」
数分前に遭遇した徳井の言っていた言葉を思いだし、不満を口に出す松美。
徳井は彼女に対して、「清菜のようなクズに これ以上 関わるな」「小笠原を殺したのは清菜だ」などと言っていたが、松美は そんな彼の言葉など聞き流し、逃げるようにして ここまで やって来たのだ。
「清菜さん……今 行くであります」
乱れていた呼吸を整え、彼女は勇ましい足取りでアパートの中に入っていった。
「えと……清菜さんから貰った写メの風景から察するに……清菜さんは3階に居ると私は予想します」
心の声を呟きつつ、松美は階段を上がって3階に辿り着き、手始めに階段の すぐ側にある部屋のドアを控えめにノックした。
「……松美であります……いらっしゃいますか?」
あえて清菜の名を呼ばず、自分の名前だけを言ってノックを続ける松美。
すると松美の携帯に清菜からの着信が入り、バイブレータ機能によって小刻みに振動を始めた。
「……ここ、でありますか」
この着信が彼女からの返事だと理解し、松美は音を立てないようにドアノブを ゆっくりと回して扉を開き、中へ入る。
部屋の中は明かりがついていない為 薄暗く、松美は携帯の画面の点灯をライト代わりにして、家具が殆ど置かれていないアパートの一室を進んでいく。
やがて小型の冷蔵庫とテーブルだけが置かれているリビングらしき部屋に辿り着き、一旦 立ち止まって周囲を見渡す。
すると――
「松美ちゃんっ!」
「キャア!?」
不意に背後から抱きつかれ、驚きの声をあげながら松美が振り向くと、清菜の姿が視界に入った。
「せ、清菜さん! ご無事でしょうか!?」
清菜を引き剥がしつつ、振り返って彼女の全身に目をはしらせる。
見た所 ケガをしている訳でもなく、体調が優れないという訳でもなさそうなので、ひとまず松美は安堵の息を漏らした。
「良かったであります、ケガとかなくて……」
気が抜けたせいか どっと身体に疲れが押し寄せてくるも、笑顔を見せる松美。
「ありがとう松美ちゃん、本当に来てくれるだなんて……」
心底 嬉しそうに笑う清菜に松美は「友達なんだから当たり前であります」と言葉を返し、ニッコリと微笑んだ後 真剣な表情を浮かべた。
「清菜さん、事情は大体分かっています。とにかく、清菜さんが無実だというならば私は その言葉を信じ、無実を証明できるよう努力する所存であります」
ビシッ、と敬礼をしながら言う松美だが、清菜は気まずそうに視線を泳がせる。
「あー、それなんだけどね……別に無理して無実を証明しなくてもいいかなーって……時間の無駄だし」
「…………は?」
予想だにしていなかった清菜の反応に面食らう松美。
呆けたように口を半開きにしたまま固まる彼女を尻目に、清菜は狭いリビングの中を落ち着きなく歩き始めた。
「松美ちゃんに来てもらったのは松美ちゃんに無実を証明してもらう為じゃないの。松美ちゃんと一緒に、“あそこ”へ行く為なの」
「……あそこって……どこでありますか」
「アナスタシオス教団の本部よ」
さも同然のように言い切る清菜だが、松美には彼女の言う『アナスタシオス教団』が何なのか分からず、首を傾げるしかない。
教団と名がつくからには何かの宗教団体に間違いはないが、そんな宗教は聞いたこともないし、第一 清菜が宗教に入っているだなんて初耳である。
「……何なんでありますか、そのアナスタシオス教団とやらは。清菜さん、いつの間にそのような妙な宗教を信仰するようになったのでありますか」
「妙な宗教なんかじゃないわ……だって彼らは神様……本物の“死神”なんですもの」
うっとりとした様子で呟く清菜を見て、松美の背中を冷たい汗が伝う。
「……あの人達……いいえ、あの死神様達は この腐りきった世界を壊して、新たな理想の世界を創るべく動き回っているの。
こんな理不尽で日々 争いが絶えず、クソみたいな人間が蔓延る世界を、選ばれし人間だけが住まう“楽園”へと創りかえる……素晴らしいと思わない?」
「…………意味が分からないであります。世界を壊して創りかえるって……そんなの無茶苦茶ばかりやるテロリストと同じではありませんか!
何が神様、死神様でありますか! 清菜さんは教祖に騙されているであります!」
「騙されてなんかないし、あの方達は本物の死神よ。これが動かぬ証拠」
そう言うと清菜は懐から どす黒い液体の入った小瓶を取り出し、松美に突きつけた。
「な、何でありますか……この気色悪い水は……まるで血のようではありませんか……」
泥々としていそうな不気味な液体に生理的嫌悪を感じて思わず後ずさる松美だが、清菜はニコニコと笑ったまま小瓶を掲げる。
「これは『試練の水』。資格のある者が飲み干せば、教団の一員として迎え入れられるけど、資格が無い者は一口でも飲むと変死する……私の兄さんのように、ね」
「…………っ!! ま、まさか……最近 多発している変死事件は……アナスタシオスとかいう教団の……その水のせいだったということでありますか!?」
明らかになった真実に驚愕する松美。
それと同時に大切な友達が このような危険思考の教団に身を置いていることにショックを受け、全身から血の気が一斉に引いていった。
「清菜、さん……貴方の お兄さんが死んだのは、清菜さんが関係して……」
震える唇で必死に言葉を紡ぐと、清菜はクスリと笑って頷いた。
「兄さんはね、うるさすぎたのよ。いつだって私のやること言うことを否定して、決して私を認めようとしなかった。だから この水を飲ませてやった。
仮に資格のある人間でも、過剰接種をすれば肉体に異変が生じ、変死してしまうからね……フフフ……」
今まで見たことのない醜悪な清菜の微笑みと、彼女の犯した罪に言葉を失う松美。
大切な友達が人を殺しただなんて信じたくなかった。
だけど目の前で明かされているのは紛れもない真実であり現実だ。
いくら松美が耳を塞いでも、目を背けても、彼女が罪を犯した事実は永遠に消えない。
ならば どうする。
“殺人”という決して許されない罪を犯した彼女に、自分は友達として何をしてあげられるのか、何をするべきなのか。
松美は混乱する頭で必死に思案する。
「……ねえ松美ちゃん、兄さんのことなんか どうでもいいじゃない。それよりも私と一緒にアナスタシオス教団の同志として、楽園を創りましょうよ」
「なっ……何を言ってるのでありますか!!」
清菜の おねだりをするような甘ったるい口調に思考を中断させられた松美は、眉間にシワを寄せて怒鳴るが、清菜の顔には笑顔が張り付けられたままである。
「……清菜さん、よく考えるであります……! アナスタシオス教団のことは それほど詳しい訳ではありませんが、これだけは言えます!
教団の考えは危険であり、間違っていると! そして その教団に賛同している清菜さんも また間違っていると!」
「…………」
松美の言葉に清菜は何も答えず、無表情のまま彼女の顔を見つめている。
「この世界を……沢山の人が生きている この世界を破壊する権利など教団には ありませんし、人を変死させるような水を配っているだなんて……ただの犯罪者集団であります」
そう言い切ると、松美はボンヤリと立ち尽くす清菜の目の前に立ち、懇願の眼差しで彼女を見つめながら肩に両手を置いた。
「清菜さん……私は清菜さんに正しき道を歩んでほしいのであります。ですから お願いです。教団を抜け、お兄さんを殺したことを自首して下さい」
かつてないほど真剣な様子で松美が説得すると、ずっと黙っていた清菜が顔を俯かせてポツリと呟いた。
「……私達、友達なんでしょ? なのに何で……私と一緒に来てくれないの? 何で私に自首しろとか言うの? 友達なのに何で助けてくれないの、味方をしてくれないの」
俯いているせいで清菜の表情は見えなかったが、震えて裏返っている声から察するに、涙が流れないよう必死に堪えているのだろう。
だが ここで彼女に同情し、今までのように何でも言うことをきいてしまっては何も意味が無いと、彼女の為にも自分の為にもならないと松美は己に言い聞かせる。
「……友達が間違っていることをしてるのに無条件に味方をしたり、一緒に悪いことをするのは本当の友達ではないであります……友達なら、勇気を出して間違いを正すべきだと私は思います」
迷いなき目で清菜を見つめる松美。
彼女に罪を償わせ、人として正しい道に導くこと。
それが自分が友達として清菜に出来る唯一のことだと、松美は考えたのだ。
「清菜さん、お願いです…………私は、これ以上 清菜さんに罪を犯してほしくないであります」
俯いたまま こちらを見ようともしない清菜の顔を覗きこむ松美。
その時――
「………………貴女なら私を分かってくれると信じてたのに…………悲しいわ」
「え?」
不意に言葉を発した清菜に驚き、一瞬 動きを止める松美。
すると その隙をついて清菜は松美の首を勢いよく両手で掴み、その勢いのまま彼女を床に押し倒した。
「せい、なさん……なにをっ……!」
馬乗りになっている清菜に首を掴まれた状態で、松美は苦しげに顔を歪ませながら清菜に声をかける。
だが次の瞬間、その開かれた口に清菜が持っていた小瓶を乱暴に突っ込まれてしまった。
「……っ、! ん、んんんんんんんんんんんんっ!!!!」
小瓶の中に入っていた液体が口内へ、そして口内から喉へと流れ落ちていき、松美の体内へと入り込んでいく。
血と吐瀉物と動物の糞などを混ぜ合わせたような悪臭と味に涙を流し、必死に清菜の小瓶を持つ手を引き剥がそうとするが、強い力で踏ん張っている彼女の手は無情にも離れない。
「私の味方をしてくれない奴なんか友達じゃない……アンタは……アンタだけは信じてたのに! アンタだけは楽園へ一緒に連れていってやろうと思ったのに……!」
「んぐ、ぐんんんぐん」
口が塞がれている為、何も言葉を紡げない松美。
その間にも液体は どんどん流し込まれていき、それに呼応するように額がズキリと鈍く痛んだ。
「……松美ちゃんのこと、嫌いじゃなかったよ。でもね、私……私……もう分からなくなった……皆が皆 私を責めて、私を悪者扱いしてきて、変われ変われと言われてばっかりで……!
私……今の自分を、存在を否定されてるようで……悲しくて、どうすれば良いのか分かんなくて……周りが皆 敵に見えて……!
だから……こんな誰も私を受け入れてくれない、理解してくれない世界なんか いらなくて……だから、教団に入るしかなかったのよ!」
(……清菜さん……)
頭が割れるのではないかと思うほどの痛みを感じながらも清菜を真っ直ぐに見つめ、彼女が吐露している苦しみに胸を痛める松美。
確かに彼女は お世辞にも性格が良いとは言えなかった。
そのワガママで自己中心的な性格は、少しでも直すべきだと思ってはいた。
だけど――
だからと言って、頭ごなしに人格を否定するのは正しい方法だったのだろうか。
他に方法は無かったのだろうか。
清菜に非が無いという訳ではない。
しかし、彼女の家族もまた“間違い”をおかしていたのではないだろうか。
「……こんなもので良いわよね」
松美が痛みに堪えて思考を巡らせている間に小瓶の中身は半分まで減り、それを確認した清菜は松美の口から小瓶を引き抜きフタをする。
「う゛ぉお゛ぇええっ!! ゲ、ゲヘッ、ゲッ」
清菜が身体から離れると同時に咳き込み、唾や口内に残った赤い液体を吐き出す松美。
咳きこむ度に額の痛みは増していき、目眩までしてきた。
「……これで本当にお別れよ」
そう呟きながら清菜は松美の着ているズボンのポケットから彼女の携帯を取り出すと、彼女の右腕を鷲掴みにしてズルズルと玄関へと引き摺っていく。
「さよなら。携帯は警察とかに連絡されると困るから、没収ね」
玄関に辿り着いた清菜はドアを おもむろに開くと、痛みに呻いている松美を乱暴に外へと放り出し、素早い動きで扉を閉めて鍵をかけた。
「………………せいなさん…………たすけ、なくては……」
激痛を訴える額を押さえつつ、立ち上がってアパートの出入り口を目指して歩く松美。
目眩のせいで視界は大きく揺れ動き、気が遠くなりそうなほどの激痛が彼女の歩く速度を遅めるが、それでも松美は歯を喰い縛って歩き続ける。
“友達”を助ける為に。
「……せいな、さん、ホントは……さみしいだけだった……つらくて、教団に逃げただけ……だか、ら……過ちを正して……正しき、道に……」
フラフラと歩みを進める松美の脳裏に浮かぶ兄の姿。
「……にいさまなら、きっと……せいなさんを……正しき道に……導ける……」
己の意志を継ぎ、清菜を説得できるのは大好きな兄しか居ない。
そう考えた松美は兄が待つ自宅へと向かっていった。
──私……死んでしまうのでしょうか
──いや、死にたくなんかない
──お兄様へのプレゼントだって、ちゃんと手渡しをしたかったであります……
******
「……と、まあ こんな感じね。松美ちゃんは私に自首をしろとか言って、味方をしてくれなかった。だから殺したのよ」
どこか自慢げに松美に試練の水を飲ませた時のことを、事細かく語る清菜。
一方 内河は血走った目を大きく見開き、放心したように その場でボーッと立ち尽くしている。
「どうしたんですか? あまりにもショックが大きすぎて言葉も出ませんか?」
歪に吊り上がる清菜の口角。
爆笑を堪えるかのように歪んだ唇を押さえる その仕草からは、内河の反応を面白がっていることが ありありと見てとれた。
「正直 言って私、貴方のこと嫌いだったんですよね……いつもいつもバカみたいにうるさくて。だから貴方が悲しんでいるのを見て、今すっごく快感ですよ」
ざまあみろ、とばかりにクックッと笑う清菜。
「……ウソ、だ」
不意に口を開き、首を横に振り始める内河。
「お前の言ってることなんか全部ウソだ!! 俺を騙そうったって そうはいかないぞ! 松美は……何処かで生きてて助けを待っている! 松美が死んだなんて……俺は信じない、信じないぞっ!!」
「信じないのは貴方の勝手ですけど、松美ちゃんが死んだ事実は変わりませんよ」
「うるさい、うるさい!! 何がアナスタシオス教団だ! ……ハッ、分かったぞ……松美は この教団の本部に閉じ込められてるんだな!」
頑なに松美の死という現実を受け入れようとしない内河の往生際の悪さに、清菜は呆れを通り越して感心する。
「たかが妹が1人死んだくらいで大騒ぎですねえ。鏡で自分の顔を見てみたらいかがです?
青ざめた顔から脂汗がダラダラ流れて、涙と鼻水でグチャグチャに汚れて……みすぼらしいったら ありゃしない」
「俺の顔なんか どうだっていいんだっ!! それより松美、松美の居場所を言えええぇぇ!!」
アメジスト色の瞳に狂気の光を宿し、清菜の肩を掴んで揺さぶりだす内河。
壊れた人形のように何度も松美の名を呼び続ける内河の姿は、今の清菜には滑稽に見えた。
(ああ うっとうしい……簡単に引き下がってくれそうにないし、やっちゃうか)
右手に持っている小瓶に視線を落とし、ほくそ笑む清菜。
松美と徳井に使った分 減ってしまっているが、人間1人分の致死量は残っている。
飲ませるのではなく、直接 彼の頭にかければ簡単に殺せるだろう。
(フフッ、松美ちゃん……貴方の大好きなお兄さんが居れば、あの世でも寂しくないでしょ?)
フタを開け、小瓶を持つ手を ゆっくりと上げていく。
内河は興奮のあまり周りが見えておらず、清菜が何をしようとしているのかにも気づいていない。
(死ね)
内河の頭より高い位置に上げた右手を傾け、小瓶の中身を彼にかけようとする清菜。
だが小瓶の中身が零れる寸前――背後から何者かに右手首を掴まれ、動きを止められた。
「誰っ!?」
驚きのあまり声を上げて振り向く清菜。
しかし彼女が何者かの姿を見るよりも先に、掴まれていた右手首を捻られてしまう。
「きゃああ゛あ゛ぁああっ!!」
骨が折れる鈍い音と共に腕の構造を無視して右手を捻られ、曲げられて激痛に清菜は悲鳴をあげる。
「な、何だっ!?」
さすがの内河も清菜の尋常ならざる叫び声に驚き、咄嗟に彼女の肩から手を離して後ろに下がる。
すると そのタイミングを見計らったかのように、清菜の捻られている右手から小瓶が落ち、そのまま床に叩きつけられて粉砕した。
「う、ぐぎぃぃっ!」
小瓶が割れると同時に掴まれていた右手首が離され、自由の身になった清菜は左手で右肩を押さえて踞る。
「な、何だっていうのよっ!!」
曲がってはならない方向に曲げられてしまった右腕を一瞥した後 勢いよく振り返ると、黒いコートとドクロの仮面をつけた人物の姿が視界に映り、清菜の全身から血の気が引いていった。
「ア、アンタが……教祖様の言ってた……死神……!?」
アナスタシオス教団の教祖から聴かされていた“人を殺してまわっている死神”の話を思い出し、気が強い清菜も恐怖感を露に震えだす。
血の気が失せた青白い顔をしながら こちらを真っ直ぐに見つめてくる清菜を見下ろしつつ、死神――黒斗は彼女の元へ一歩 歩み寄る。
「何度目だ?」
「…………」
黒斗の問いに答えず、焦点の合わない虚ろな瞳で彼を見る清菜。
そんな彼女の心には、“死”に対する恐怖と“生”に対する執着だけが渦巻いていた。
──死にたくない、死にたくない、死にたくないっ!
──やっと この世界から解放されて、楽園で幸せに生きていけると思っていたのに……
──こんな所で死神なんかに殺されてたまるものですか!!
死にたくないという確固たる思いを胸に、清菜は震える己の足を叱咤して立ち上がり、黒斗を鋭い眼光で睨みつけた。
「わた、し! アンタなんかに、殺されたりしないっ! 絶対に、逃げ切ってやる!」
そう叫ぶと清菜は踵を返し、足を もつれさせながら玄関へと走り、素早い動きで扉を開いて外へと飛び出していった。
「……最後まで見苦しい奴だ……逃げられる訳が無いというのに……」
扉が開け放たれたままの玄関から聞こえてくる、鉄製の階段を駆け下りていく騒々しい音に溜め息をつきながら呟く黒斗。
気だるそうに首を回した後、彼女の後を追うべく玄関に向かおうと一歩 足を踏み出した刹那、内河が仁王立ちで彼の前に立ちはだかった。
「……何の真似だ」
感情がこもっていない冷たい声で問いかけるも、内河は何も答えず、彼の前から退こうともしない。
内河が何を思って こんなことをするのか分からず、黒斗は首を傾げて彼の様子を窺う。
「……お前、清菜さんを殺すつもり、なんだろ?」
不意に呟かれた言葉に、黒斗の眉がピクリと動く。
「……あの女が死のうが生きようが お前には関係ないだろう……まさか、庇うつもりか?」
「何が悲しくて、あんな女を俺が庇うんだよ? 俺はアイツから松美の居場所を聞き出したいだけだ、ソレが済んだら好きに殺せばいい」
荒い息づかいをしながら こう述べる内河の目は完全に据わっており、正気の沙汰ではないことを物語っていた。
そんな彼と対峙している黒斗は一瞬 言葉に詰まるものの、すぐに気を取り直して口を開く。
「……お前の妹は死んだんだ。もう何処にも居ない……いくら探しまわっても、永遠に見つかることはない」
「……っ」
黒斗の言葉に息を呑み、視線を泳がせる内河。
目の前で無惨に死んだのが松美だと、彼も心の何処かでは分かっているのだろう。
だけど その残酷な事実を簡単に受け入れることが出来るほど、内河は強くないのだ。
「死んでない、松美は死んでない、生きてる、生きてるんだ……俺には……俺には分かるんだ!!」
狂ったように頭をガリガリと掻きむしり、己に言い聞かせるように叫ぶ内河。
(自分の心を守る為に現実から目を背ける者……弱いことが悪い訳ではないが……こんなにも みっともなく見えるのか……コイツも……俺も……)
内河と自分の姿を重ねつつ、黒斗は この間 大神と出会った際に脳裏を過った あの忌々しい映像を思い返す。
(…………俺もコイツと同じで、現実から目を背けている……)
残虐行為を嬉々として行っていた、あの記憶。
身に覚えは無かったが、自分が こんなことをしている理由に黒斗は心当たりがあった。
それは――
(……冥界を脱出した あの日 ウンデカとタナトスは、俺が感情の暴走を起こして死神達を殺戮したと言っていた……おそらく、あの映像は その暴走している間の記憶だろう……)
自分が あんなにも恐ろしいことをしていた事実から、あれは自分の記憶ではないと言い聞かせて逃避していた黒斗。
だが自分と同じ状態の内河の姿を客観的に見たことにより、彼は いかに自分が みっともなかったか、弱かったか、そして己の愚かさを知った。
(…………生きている限り、現実からは逃げることは出来ない……どんなに拒絶しようとも、事実は……現実は変わらず そこに あり続ける……)
グッと拳を握りしめ、黒斗は顔を上げて内河の目を真っ直ぐに見つめた。
その真剣な表情は仮面に隠されて見えなかったが、彼が纏う雰囲気に内河は圧され、思わず身じろぎをする。
「……このまま妹が生きていると思いこみ、永遠に偽りの現実で生きるか、それとも現実を受け入れて、妹の死を悲しみ、悼んでやるか……よく考えることだな」
「……………………」
黒斗の言葉を聴いて目を伏せる内河。
その沈痛な面持ちからは、松美の死を認めるか否か葛藤している様子が窺える。
「……まだ受け入れるのが辛いならば、もう少しだけ逃げていてもいい。自分の気持ちを整理して向き合って、心が現実に耐えられるようになった時に受け入れればいい……まあ、どちらの選択肢を選ぶかは……お前の自由だがな」
そう呟くと、黒斗は内河を押し退けてアパートから出ていった。
「………………まつ、み…………お兄ちゃん……こんな、弱い お兄ちゃんで、ごめん、な……」
1人残された内河は、力尽きたように その場で膝をつき、消え入りそうなほど か細く弱々しい声で呟きながら涙を流した。
その言葉は何処かで生きている妹に向けたものなのか、それとも目の前で死んだ妹に向けられたものなのか――真意は内河にしか分からない。




