挫折4
ブヅッ
咄嗟に目を閉じた玲二の耳に、肉が切れるような音が届く。
それから数秒の間を置いて、玲二の顔に生温い液体が勢いよく落ちてきた。
「うえっ……ゲェ……ゲホッ……」
鼻の穴に液体が入り込み、むせる玲二。口内には鉄の味が広がっていく。
「……?」
咳が治まり そっと瞼を開くと、目の前に赤い液体が溢れ出ている物体があった。
「え…………」
よく目を凝らすと、それは物体ではなく有理の右手首だった。
手首から先にある筈の掌は無くなっており、代わりに見えるのは赤黒い肉の側面と、その間に挟まっている白い骨だ。
「…………」
蛇口のように血が溢れている手首を、有理は無言のまま見つめる。
「あああああああああああああッ!?」
錯乱したように有理は突然叫びだし、左手で切断面を押さえながら後ずさった。
「なんだよっ!! お、れの……手、どこだ!?」
全身を血で汚しながら後ろに下がっていく有理。
すると何かを踏んづけてバランスを崩し、そのまま倒れてしまう。
「がっ!」
強かに頭を打ち付け、一瞬意識が遠くなるが何とか堪える。
痛みに耐えて閉じていた瞼を開き、顔の近くに転がっている何かを見やる。
そこにあるのは、ナイフを握ったままの有理の掌だった。
「ひあああ゛あ゛ぁ゛っ!!」
悲鳴をあげながら、左手で転がっている掌を押して遠ざける。
上半身を起こして、その様子を見ていた玲二は吐き気を催した。
「テメエ玲二っ!! なにをしやがったあぁ!?」
鬼のような形相で玲二を睨みつける有理だったが、やがて恐ろしいものでも見てしまったかのように瞳孔を開き、固まった。
「はっ……!?」
背後から気配を感じて玲二が振り向くと、そこには黒いフードと髑髏の仮面を身に付けた人物が立っていた。
(だ、だれ!?)
痛む腹を抑えながら、よろよろと謎の人物から距離をとった玲二は、その人物が鎌を持っていることに気づく。
「まさか……死神さん……?」
「…………」
死神――黒斗は玲二を一瞥した後、床に転がったままの有理の掌に歩み寄る。
「ま、まてっ! 俺の手に何する気だ!!」
「お前には もう必要ないモノだろう」
そう言うと黒斗は、切断された有理の掌に鎌を降り下ろした。
肉が裂ける音と共に、掌から血しぶきが散る。
やがて鎌が刺された掌は、一瞬でナイフごとガラスのように砕け散った。
「あ……あ…ぁ……」
信じられない光景を目の当たりにした有理の身体が震え、股間から漏れた液体が血だまりに混じる。
「何度目だ?」
カツ、カツ、と足音を響かせながら黒斗が有理に歩み寄る。
だが有理は恐怖のあまり、何も答えられない。
「人を殺そうとしたのは何度目だ?」
「…………」
有理はガタガタと震える左手を挙げて、指を2本たてる。
それを確認した黒斗は、呆れたような溜め息を吐き、有理の左腕の付け根に鎌を降り下ろした。
「ぎぃあああああ゛あ゛っ!!」
気が遠くなるような激痛が有理を襲う。
悲鳴をあげている最中も、鎌は肉に食い込んでいく。
「は、う……あっ…」
鎌が食い込む度に、傷口から血が零れて腕を伝っていく。
「あ、ああ…………」
死神の正体が黒斗だと気づいていない玲二は猟奇的な光景から目を背けて、耳を塞いでいる。
「お前が友を殺そうとしたのは3度目だ。1度目は佐々木 玲二を刺した時、2度目は 三成 洋介を突き飛ばした時、3度目は今回のこと……」
ブヂッという嫌な音と同時に、有理の左腕が擦れ動く。
「お前はやりすぎた。犯した罪に対する罰を受けてもらう」
冷酷な言葉と共に、左腕が付け根から引きちぎられた。
「う゛あああああ゛あ゛あ゛ぁっ!!」
耳を塞いでも突き抜ける有理の悲痛な叫びに、玲二は涙を流して怯える。
「ぎ、ひぃ、……ッが……」
有理の傷口から どす黒い血が零れ落ち、床の血だまりが広がっていく。
「う、で……が」
左腕の切断面からは、いくつもの赤黒い血痕が気色悪い音を響かせながら零れ落ち、細胞なのか筋なのか分からない細い線が、ブラブラと だらしなく ぶら下がっている。
あまりの激痛に朦朧とする有理。
ショック死してもおかしくないだろうに、不思議と意識は遠ざかりはしない。
それ故に、有理は嫌でも痛みに耐えるしかなかった。
まさに生き地獄である。
「なんで……おれがこんな目に……」
うわごとのように呟く有理。
「おれは、てんさい、だったのに。ようすけ と、れいじがいなければ……こんなに、じんせいが くるうこともなかった」
虚ろな瞳で玲二を見つめる。
「しょせん世の中は才能が全てなんだ。生まれた時から勝負は決まってる。勝ち組と負け組に別れてる」
虚ろだった有理の瞳に、憎悪の炎が宿った。
「玲二っ!!」
「ヒッ!」
大きな怒鳴り声に、玲二がビクつく。
「お前らは良いよなあ! 最初から才能があって勝ち組で、生まれつきの天才でっ!!」
左腕と右手から血を流しながら激昂する有理が、今の玲二には化け物のように見えた。
「……お前は、生まれ持った才能で全てが決まると本気で信じているのか?」
今まで黙っていた黒斗が、不意に口を開いた。
「そうだ! だから、俺以上に才能がある2人を潰さなければ、俺が1番になれないんだ!!」
血走った目をした有理が叫ぶ。
「……三成と佐々木だって、最初から天才だった訳じゃない。努力を重ねたからこそ、天才と呼ばれるに相応しくなっただけだ」
チラリと、横目で玲二を見やる。
「三成も両腕を失い、1度は挫折した。だが、そこで諦めずに夢を目指して努力をした。お前はどうだ? 自分以上の天才の出現に挫折して、そいつらを越えようと努力はしたか?」
「…………」
───努力などしてない。
───だって、努力したって何も変わらないから。
───最初から才能がある奴には、どうやっても敵わない。
───だから、潰すしかなかった。
押し黙ったままの有理に、黒斗が続ける。
「“天才とは1%の才能と99%の努力で成り立っている”……偉大なる科学者の言葉だ。1度の挫折で歩みを止め、努力をせずに喚いているだけのお前は……駄々をこねるガキと同じだ」
鎌に刺さっていた左腕が砕け散る。
黒斗が踵を返して、数歩進むと空間に穴が開いた。
「“画家になる夢を失う”……。それがお前が受ける罰だ」
振り向かずに言い放つと、黒斗は穴を潜って姿を消した。
「……ハッ……ハハハ……」
乾いた笑いをこぼす有理の傷口が塞がり、あとには不自然な血糊が残った。
「……死神さんは……有理に罰を与える為に来たのかな……?」
遠くから近づいてくる警察と救急車のサイレンを聞きながら、玲二はポツリと呟いた。
******
翌日の朝――
ガチャン ガシャン ドンガラガッシャン
それほど日は経ってない筈なのに、随分と懐かしく感じる騒音で黒斗は目を覚まし、いつものように制服に着替えてダイニングに向かう。
「……橘」
ダイニングに居るのは、可愛らしいピンクのフリル付きエプロンを身に付けた鈴だった。
「クロちゃん、おはようさん! 朝ごはん出来とるで!」
そう言って、鈴は手に持っている黄身がグチャグチャに潰れている目玉焼きが乗った皿をテーブルに置いた。
「……もういいのか?」
椅子に腰かけながら黒斗が言った言葉に、鈴は頷く。
「……ウチが泣いてばかりじゃ、リンも安心出来へんし……それに、ぎょうさん泣いたらスッキリしたわ」
ニッコリと微笑む鈴。
目元は赤く腫れているが、その顔に曇りは一切 無かった。
「それにクロちゃん、ウチが朝ごはん作ってやらな、何も食べへんで学校に行ってまうからな! やっぱりウチがおらんとアカンわ!」
「だから、お前は俺の奥さんかっての」
呆れたように黒斗が呟くが、鈴は気にせずテーブルに着き、目玉焼きを頬張りはじめる。
普段の調子を取り戻した彼女を見て、黒斗も頬が緩むのを感じた。
うるさい奴とは思っているが、やはり居なくなったら なったで寂しい――というより、変な気分である。
いつの間にか鈴が朝 起こしてくれることに慣れていたようだ。
「……橘、今日の放課後、ヒマか?」
「へっ? いや、まあヒマやけど……何でや?」
「ああ、ちょっと会わせたい奴がいてな」
「会わせたい奴? どんな人やの?」
キョトンとする鈴に、黒斗は「後の楽しみだ」とだけ呟いて、目玉焼きを口に運ぶのだった。
******
放課後 赤羽病院内 廊下――
学校が終わるなり、黒斗は鈴を連れてやって来た。
「……ここか」
2人は看護婦に教えてもらった病室に辿り着くと、扉の横にあるプレートに書かれた名前を確認し、扉を開けて中に入る。
「よう、佐々木」
「あーっ、兄貴!! 来てくれたんだ!」
ベッドで横になっていた玲二は黒斗の姿を確認した途端、パアッと明るい笑顔を浮かべた。
「あれっ? 後ろにいる女の子……誰?」
黒斗と一緒に病室に入ってきた鈴を見た玲二が、首を傾げる。
「ああ、コイツはクラスメートの……」
「分かった! 兄貴の恋人さんだねっ!」
鈴の紹介をしようとした黒斗の言葉を遮って、玲二が自信たっぷりに言い放った。
「……こんな煩いのが彼女とか冗談じゃな…」
バシッ
黒斗が言い終える前に鈴が彼の頭をはたき、小気味良い音が響いた。
「はじめまして玲二くん! ウチ、クロちゃんの同級生の橘 鈴っちゅうんや! よろしゅうな!」
「あ、はい。こちらこそ!」
事前に黒斗から玲二の話を聞かされていた鈴は、スムーズに自己紹介を済ませ、握手をした。
「クロちゃんの舎弟やってね。クロちゃん、ひねくれとるけどエエ人やから、仲良うしたってなレイちゃん」
「レイちゃん!? 何か可愛い……」
可愛い女の子に可愛い呼び名をつけられて、玲二はほのかに赤くなった頬に両手を当てて照れた。
男がやっても違和感バリバリの乙女仕草だが、恐ろしいことに玲二には妙に似合っている。
「……で、昨日 誰に襲われたのかは分からないのか?」
和やかな空気を壊すように、黒斗の抑揚のない言葉が病室に響いた。
「う、うん。俺を刺した人は直ぐに逃げちゃったから顔も分かんない」
昨日の夜、黒斗が有理に罰を与えて立ち去った後、誰かからの通報を受けたらしい警察と救急車が現場に駆けつけ、玲二と有理は病院に運ばれ、そのまま入院となった。
警察から聴取を受けた玲二は、友人である有理と会っていたら何者かに襲われたと嘘の証言をした。
別に有理を庇いたかった訳ではない。
真実が明らかになれば、いずれ洋介の耳にも有理が親友に殺意を抱いていたことが入ってしまう。
信じていた友人が自分を殺そうとしていたと知れば、洋介は深い心の傷を負ってしまう――最悪、人間不信になってしまうかもしれない。
そう危惧した玲二は、真実を隠すことにしたのだ。
玲二の作戦は上手くいき、玲二は通り魔による犯行、有理は死神による犯行として警察は捜査を進めている。
「……そうか」
黒斗は玲二が嘘をついてると分かっているが、追求することなく話題を終えた。
「じゃあ、そろそろ帰るぞ。邪魔をした」
「早よう元気になってな、レイちゃん!」
「うん! バイバーイ!」
手を振る玲二に別れを告げ、黒斗と鈴は病室を後にした。
******
「レイちゃん、可愛くてエエ子やったな……クロちゃんの舎弟とは思えへんわ」
「余計なお世話だ」
他愛ない話をしながら廊下を歩く2人。
「……そういえばケイちゃん、どうしとるかな?」
死神に襲われ、右足を失った友人――竹長 恵太郎のことを心配する鈴。
「……しばらく会いたくないと言ってたんだ。あっちから連絡が来るまで、そっとしておけ」
「せやな……」
気にかけながらも頷く鈴。
すると、黒斗が突然立ち止まった。
「クロちゃん? どないしたん?」
「……いや、用事を思い出したんだ。橘、先に帰っててくれ」
「分かったわ。ほななクロちゃん! また明日な!」
笑顔で手を振り立ち去った鈴を見送ると黒斗は踵を返し、早足で歩き出した。
******
一方その頃――
赤羽病院の屋上で1人、空を仰ぎ見る有理の姿があった。
左腕は付け根から無くなっており、右手首の先端には包帯が巻かれている。
「…………」
掌が無い右手首を見ながら、有理は数分前の出来事を回想する。
******
「有理、洋介くんがお見舞いに来てるわよ……?」
「…………」
病室の入り口から、遠慮がちに有理の母親が声をかけるがベッドの上で横たわる息子はそっぽを向いたままだ。
「ねえ、有理……」
「うっせえな、帰らせろよ!! 今は誰とも話したくない!!」
「わ、分かったわ」
怒鳴りつけてきた有理に驚きつつ、母親は病室を出て、外で待っている洋介に話をしに行った。
(……俺の腕…………俺の夢……俺の、才能……)
左腕と右手と共に画家になる夢を失った有理は、ボンヤリと窓の外を見つめた。
死んだ魚のような目には外の風景など写っておらず、焦点も定まらない。
「有理」
扉を開けて、母親が戻ってきた。
「洋介くん、明日も来るって。あと……“腕が無くても諦めるな。僕だって乗り越えられたんだから、君にも出来る”……って、伝えてって」
無責任な洋介の励ましに、有理は腸が煮え切る感覚がした。
「ねえ有理。そんなに落ち込まないで……どうしても画家になりたいなら、洋介くんみたいに足を使うとか……」
「黙れよクソババアッ!!」
勢いをつけて上半身を起こし、怒りを露に母親を睨みつける。
「俺とアイツは違うんだ!! アイツは才能に恵まれた天才だから、足なんかでも描けるんだ!! 所詮、才能で劣る俺には無理なんだよっ!!」
言いたいことを言い切った有理の息があがり、暴言を吐かれた母親は震えて涙を流す。
「……ごめんママ。ムシャクシャして……外の空気が吸いたいから、屋上まで連れてってよ」
突然しおらしくなった息子に、母親は「いいのよ」とだけ呟いて、共に屋上に向かった。
******
そして現在――
「1人になりたい」と言って母親を屋上から追い出し、有理は空を見上げていた。
「……俺って……何だったんだろう」
幼い頃から“天才”と呼ばれ、挫折を知らずに育った有理。
プライドが高く、精神的に脆い一面があった彼はライバルの出現に挫折し、狂ってしまった。
“天才”
そう呼ばれることが自分の全てだったのに、今では、もう絵を描くことが出来ない。
ライバルを潰して、自分が1番になることも出来ない。
───こんなんで、生きている意味なんてあるのか?
「無いんじゃないか」
心の声を見透かされたように聞こえた声に、有理が振り向く。
そこにいたのは、血のように赤い瞳をした茶髪の青年だった。
「天才じゃない君に生きている価値なんてない」
悪魔のように口角を吊り上げながら、青年が にじりよる。
「夢を失った君に生きている価値なんてない」
青年の言葉を聞く度に、有理の心が冷え込んでいく。
いつの間にか有理の目の前にいた青年が、ニッコリと笑った。
「僕が手伝ってあげるよ」
******
大勢の人間が行き交う赤羽病院の出入口。
騒ぎが起きてる訳でもなく、平穏で静かな時が流れていた。
だが――
グジャアッ
重たい物が地面に叩きつけられて、潰れたような鈍い音が響き、その場にいた全員が音が響いた方向を見やる。
そこにあったのは、見るも無惨な肉体。
衝撃に耐えきれなかった眼球が飛び出し、潰れて割れた頭部からは脳の破片と透明な汁が零れ落ち、股間から漏れた汚物が血溜まりに混じり、周囲に悪臭を醸し出す肉体。
ソレに人の――“黛 有理”の面影は無かった。
「キャアアアアアアアアアアァァァッ!!」
誰かがあげた悲鳴を仕切りに、他の者も悲鳴をあげ、その場が阿鼻叫喚の地獄絵図と変わった。
「……っ」
有理の魂が朽ちた気配を悟り、黒斗は屋上に向かう足を止めた。
「……先を越されたか……」
諦めたように呟き、上っていた階段を下り始める。
確かに感じた“死神”の気配も消えた。
死を司る神である、死神達には人の生死をコントロールする能力が備わっている。
先程感じた死神の力は、人間に自殺を唆すものだった。
自分が言えた義理ではないが、死神が必要以上に人間の生死に影響を与えるべきではないと考えている黒斗は、死神を止めようとしたのだが、間に合わなかった。
もともと有理は不安定な状態であり、いつ自ら命を絶ってもおかしくはないと思っていたが、死神が関与しているなら話は別だ。
(……誰かは知らないが、いつか必ず落とし前をつけてもらう)
今は気配を感じなくなった死神へ、黒斗は心の中で呟いた。