拒絶8
数十分後
不機嫌なまま自宅に帰って来た清菜は「ただいま」も言わずに乱暴に靴を脱ぎ散らかし、リビングで父の邦之がテーブルに広げて読んでいる新聞紙の上にカレー粉を投げつけた。
「うわっ!」
いきなり新聞にカレー粉が乗っかってきて心底 驚いた邦之は顔をしかめて振り返り、冷蔵庫を開けている清菜の背中に声をかける。
「コラ! 物を投げるんじゃない! 当たったら危ないだろう!」
「当てる程コントロール悪くないから」
無愛想に言い切ると、清菜は何食わぬ顔でロールケーキとコーラを取り出し、父と同じテーブルに着いて黙々と食べ始める。
相変わらず気難しい娘から さりげなく目を逸らす邦之。
相手は実の娘で自分は父親だというのに、何故こんなにも遠慮しなくてはならないのか。何故こんな腫れ物に触るように接しなくてはならないのか。
今は亡き長男の言っていた言葉が邦之の脳裏で再生される。
“俺達は清菜を甘やかしすぎた。蝶よ花よと溺愛して、あんなワガママで人の気持ちを考えない子になってしまった。
でも その原因は俺達だ。清菜の性格が悪くなったのは俺達のせいだ。だから、俺達は例え清菜に嫌われても あの子の間違いを正さなくちゃダメだ。
あのまま清菜が大人になったら……誰にも好かれず、友達も恋人も出来ず、社会にも馴染めず、永遠に1人ぼっちになってしまう”
(……あの時は龍馬の言ってることは大袈裟だと俺も知代も笑いながら聴いていたが…………今なら分かる……アイツの考えが……)
今の清菜自身を否定する訳ではないが、常に不機嫌かつ自己中心的のままで良い筈が無い。
少しでも思いやりと気遣い、そして明るさを身につけるだけで良いのだ。
もともと清菜は無邪気で純粋な子なのだから。
(知代だって心を鬼にしてるんだ。父親である俺もバシンと言ってやらないと!)
グッと拳を握りしめ、まずは会話をする為に簡単な話題を切り出した。
「なあ清菜。学校は どうだ、楽しいか?」
「…………全然。むしろ通うのが面倒くさい」
ロールケーキを頬張ったまま答える清菜。
そんな彼女の眉間には、先程よりも さらに深いシワが刻まれている。
「内河さん家の松美ちゃん以外に友達は?」
「居ない…………何で今日に限って そんなこと訊くの?」
「いや、だって娘が楽しく学校生活を送れてるか気にするのは父親として当然じゃないか」
苦笑いをしながら言う邦之だが、学校生活のことは訊かれたくなかったのか清菜は鋭い目付きで父を睨みつけた。
見た目に似合わぬ刺々しい雰囲気に邦之は怯みそうになるも、拳を強く握って己を奮い立たせる。
「なあ清菜。学校が つまらないのなら友達を作ったらどうだ? 仲が良い友達が1人居るだけで、とても楽しくなると思うぞ!」
「そりゃあ私だって友達欲しいけど、もう無理だよ。クラスでは もう仲良しグループが出来てて、誰も話しかけてくれる人なんか居ないんだもん」
「……あのな清菜……待ってるだけじゃ友達は出来ないぞ? お前は特別な存在ではないんだからさ、皆が話しかけてくれる訳が無い。
だから自分から話しかけていけばいいんだ。そうすれば他の子達も清菜は明るくて楽しい子だなあって思って、仲良くしてくれるかもしれない。
お父さんも子供の頃、自分から話しかけて友達を沢山 作ったんだぞ? だから清菜にも出来る筈だ!」
得意気な顔で話す父を見て、苛立ちのあまり殴りたい衝動に駆られるも、さすがに父親に手を出す訳にはいかないと自分に言い聞かせる。
しかし、腸が煮えきるような怒りの感情は消えない。
(お父さんは元が明るい性格だから、それで友達が出来たんでしょ? でも私は お父さんと違う……お父さんが出来たからって私にも出来るとは限らないでしょ? 勝手に決めつけんなよ……。
大体、仲良しの友達同士で楽しく会話してる所に赤の他人が割り込んできて、快く受け入れてくれる訳ないじゃん! 何だコイツって思われるのがオチよ!)
無意識のうちに左手の親指を口に加え、前歯でガリガリと噛む清菜。
心の中で父に悪態をつくものの、彼女の心情など知る由も無い邦之はニコニコと笑っているままで、その笑顔が清菜をさらに苛つかせる。
「…………自分から話しかけるとか私には無理。話も合わないし、そういうガラじゃないし。いきなり話に割り込んだら逆に嫌われるよ」
「でもな清菜……あれも無理、これも無理なんて社会には通用しないぞ? 大人になると頭が固くなって、今以上に人の意見を受け入れられなくなる。だから若い今のうちから変わらないと」
邦之の発した“変わらないと”という言葉を聴いた刹那、清菜の顔から表情が消え去った。
まるで能面のような顔となった清菜はロールケーキが刺さっているフォークを ゆっくりと皿に置き、思いきり振りかぶった両手を勢いよくテーブルに叩きつけた。
「うわっ!!」
邦之の短い悲鳴と鈍い衝撃音が同時に響いた後、テーブルが揺れたことによってコーラの缶が倒れ、中に残っていた炭酸飲料が爽やかな音と共に溢れ出す。
驚きのあまり、仰け反ったポーズのまま固まる邦之だが清菜は気にも止めずに ゆっくりと立ち上がり、倒れているコーラと食べかけのロールケーキをそのままに自室へ向かう。
「…………ハッ!」
突然の出来事に固まっていた邦之だったが我に返ったのか首をプルプル振り、座っていたソファーから立ち上がって部屋に入ろうとしている清菜の肩を鷲掴みにする。
「こ、こら! 何を急に怒ってるんだ!?」
「別に怒ってないよ」
怒ってないと言うものの、その口調は苛立ちを含んだものであり、目付きも悪い。
そんな娘の態度に気が長い邦之も怒りを覚え、清菜の肩を掴む手に思わず力が入る。
「痛いってば!」
清菜が文句を言うも、邦之は力を緩めず娘を睨む。
「なあ清菜、お前どうしたいんだ? 友達が欲しいとか言いながら話が合わないからとか何とか言い訳して……そんなんで友達が出来る訳ないだろう!
大体、お前は いつも怒ってるような顔をしてるから誰も寄り付かないんだよ! お父さんが話しかけても面倒くさそうに返事して……どれだけ お父さんと知代が気遣ってると思ってる!
いつもいつもブスッとしてて、お前が家の空気を悪くしているのが分からないのか!?」
怒りのせいで口調が荒ぶってしまう邦之。
滅多に怒らない父が本気で怒っていることに清菜は少なからず驚くも、驚きよりも苛立ちや憎悪が勝り、肩を掴む父の手を強く つねる。
「あいた!?」
痛みのあまり、清菜の肩から手を離してしまう邦之。
すると清菜はチャンスとばかりに素早く自室に逃げ込み、扉に鍵を かけた。
「清菜!!」
扉を乱暴に叩くも、中から返事も無ければ鍵が外される気配も無い。
「もういい……勝手にしなさい!」
最後に扉を蹴りつけて、邦之はソファーに どっかりと腰を下ろした。
「ムカつく! ムカつく!! ムカつくっ!!」
そう叫んで狂ったように何度も枕を踏みつける清菜。
踏みつけられたことにより羽毛の枕はヘコみ、歪な形となるが それでも清菜は枕を踏みつけることをやめない。
「家の空気が悪いのは知代が私にケンカを売るからなのに、私だけが いっつも悪者扱い!! もうウンザリ!!」
デコボコの枕を今度は両手で持ち上げると、扉に向かって投げつけた。
軽い音と共に枕はホコリを立てながら扉の下へ落ち、それを見届けた清菜は さすがに疲れたのか力尽きたようにガックリと座り込む。
「……何で私ばかり悪いの……そりゃあ私も悪い所は あるだろうけど……私1人が悪者なのは おかしいじゃない……」
絆創膏が巻かれている左手の親指を噛むも、苛立ちは消えない。
それどころか痛みに呼応して怒りが増していく一方である。
(……私、いつも ひとりぼっち……味方だと思ってた松美ちゃんも、本当は私のこと……偏屈みたいに思ってたなんて…………もう、私には誰も味方が…………)
そこまで考えた所で、清菜は ある言葉を思い出した。
“僕だけは君の味方だから! そのことだけは忘れないで! 辛いことが あったら、いつでも相談して!”
その言葉は、今日 学校で話しかけてきた上級生――小笠原 正義の発したものだった。
(…………味方…………)
胸ポケットに突っ込んでいた しわくちゃに丸められた紙を手に取り、広げる。
すると そこには小笠原の言った通り、ラインの番号が書き記されていた。
(…………先輩……本当に……私の味方になってくれるの……?)
彼は清菜のことを よく知っているようだったが、清菜は彼のことを知らない。
今日いきなり声をかけてきた臭くて変な先輩――それが小笠原に対する認識である。
果たして彼の言っていたことは本気なのか善意なのか。
それとも口から出任せなのか、裏があるのか。
だけど、今は そんなこと どうでもいい。
この傷ついた心を慰めてくれるのなら、味方になってくれるのなら。
小笠原が どんな人間でも――
清菜はスマホを鞄から取り出してラインを開くと、ワラをも掴む思いで小笠原の番号を入力して検索した。
すると画面上に『絶対正義』という名前が表示され、清菜は迷わずソレをタッチし、メッセージを打ち込む。
『篠塚です。小笠原先輩でしょうか?』
念の為に確認のメッセージを送ると、清菜は溜め息を吐いて強張っていた肩から力を抜く。
とりあえずベッドに腰かけようと立ち上がると、手にしているスマホがラインの通知音を奏で、その場に立ったまま画面に視線を落とし、『絶対正義』から届いたメッセージを確認する。
『小笠原です。まさか本当に連絡してくれるなんて……ありがとう(^.^)』
打ち込んだ番号が間違っていないことに安堵しつつ、清菜はベッドへ移動して ゆっくりと腰かける。
すると小笠原からメッセージが届いた。
『それで清菜さん。何かあったのかな? 違ってたらごめんね(>_<)』
(……先輩……私のこと、本当に心配してくれてる?)
好意を寄せる清菜から本当にラインが来て浮かれているだろうに余計なことは何も言わず、冷静に自分の悩みを訊ねてくる小笠原。
外見と匂いは気持ち悪いが、そんなに悪い人間ではないのかもしれない。
抱いていた警戒心は消え失せ、清菜は小笠原に全てを打ち明けた。
普段から妹や死んだ兄に「変われ」と しつこく言われ、そのうえ酷い言葉ばかり かけられていること。
そして ついさっき、父とケンカしたこと。
長文多数のメッセージを打ち込んでいる間、今まで言われてきた酷い言葉が脳内で繰り返され、無意識のうちに涙が零れるも、
吹き出しの隣に『既読』の文字が表示され、時おり小笠原が『うん』と相槌を打っているので、ちゃんとメッセージを読んでくれていることが分かり清菜は泣きながら微笑を浮かべる。
『……と、いうことなんです』
事情を説明し終えた清菜は一息つき、最後に もう1つメッセージを付け足した。
『悪いのは私なんでしょうか? もうわかりません、先輩、正直に答えてほしいです。間違っているのは私ですか? それとも父や妹ですか???』
送信して、ゴクリと唾を飲む清菜。
そんな彼女に返ってきた答えは――
『清菜さんは全然悪くないよ。悪いのは清菜さんの気持ちを理解しない妹さんとお父さんだよ(#`皿´)』
「せ、先輩……」
味方をしてくれたことに驚くと同時に喜びを覚える清菜。
先程まで滲んでいた涙は止まり、顔には満面の笑みが宿った。
『お父さん、清菜さんに自分から話しかけて友達を作れと言ったんだろ? その時点でダメだね┐(´д`)┌ 父親のクセに清菜さんのこと分かってない』
『清菜さんは内気で人見知りな性格。そんな人が簡単に自分から他人に話しかけられる訳ないじゃないか』
『アドバイスするんだったら、ちゃんと清菜さんの性格を考えたものじゃないと無意味です。自分が出来たから娘にも出来ると思うなんてナンセンス(  ̄▽ ̄)』
「……プッ。先輩って私と考え方が似てるんだ」
父親と会話中に自分が思っていたことと小笠原のメッセージが ほぼ同じで つい噴き出す清菜。
さっきまであんなにも苛立っていたのに、今では すっかり機嫌が良くなっている。
全ての事情を暴露してスッキリしたのもあるが、小笠原が本当に味方になってくれたことが心底 嬉しかったのだろう。
(言葉を濁してばっかりの松美ちゃんとは大違い)
家族から酷いことを言われている悩みを松美に相談したことは何度か ある。
だが彼女は ただ相槌を打ったり、「ご家族にも事情があるのでしょう」と それらしいことばかり言うだけで小笠原のように明確に味方をしてくれたことは無かった。
松美とは違い、言ってほしいことを言ってくれる小笠原に清菜は強い信頼を寄せる。
『小笠原先輩って優しい人ですね(ノ´∀`*) ありがとうございます、だいぶ気が楽になりました』
『それは良かった(^^) 妹さんとお父さんは、自分の理想を清菜さんに押しつけてるだけだから、言うことをきいちゃダメだよ!(`へ´*)ノ』
『はい』
『また何かあったらラインして、僕で良ければ いつでも相談にのるから』
『ありがとうございます! それではまた(⌒0⌒)/~~』
ラインを終え、清菜はスマホを握りしめたままベッドに横たわった。
(うう……何て良い人なんだろう……見た目で判断しちゃって本当に ごめんなさい)
心の中で小笠原に謝る清菜。
そして、こんな良い人に好意を寄せられるなんて自分も まだまだ捨てたものではないと自信を抱き、見た目は好みでなくとも彼と付き合ってみるのもアリかと考える。
清菜は人見知りこそ激しいものの、1度 心を開いた相手には割りとフレンドリーかつ積極的に接する性格だ。
そんな清菜が心を許した小笠原は松美以来の快挙を成し遂げたこととなる。
(松美ちゃんなんか もうどうでもいいや。れっきとした味方の小笠原先輩が居るんだから!)
上機嫌となった清菜は明日 提出するように言われたプリントを放置して、スマホでゲームを始めるのだった。
******
その日の夜
橘家 ダイニング
母の珠美と向かい合って晩御飯を食べている鈴だが、頭の中はフラッシュバックの少年のことで一杯で あまり食べ物に箸をつけていない。
いつもなら もう少し元気で よく食べる鈴が暗い顔を しながら溜め息ばかり吐いているのを妙に思った珠美は娘に声をかける。
「鈴、アンタどないしたんや。アンタの大好きな肉じゃが作ったったのに全然 食うとらんやんけ」
「…………うん…………ゴメン おかん……今日は何か食欲ないねん……」
そう呟くと鈴は箸を茶碗に置き、またしても悩ましげな溜め息を吐いた。
すると珠美は何を思ったのか、鈴の顔を一瞥するとニヤリと笑い、納得したように何度も首を縦に振った。
「……溜め息ばかりで飯も喉を通らへん……コレはアレやな。 誰か気になる男の子でも おるんやろ!? お母さんにコッソリ教えてえな」
どうも珠美は鈴が恋患いをしていると思ったようで、のほほんとした口調で言葉を紡いだ。
しかし鈴は そんな能天気な母とは対照的に難しい顔をしたまま俯いており、その様子から珠美は娘が恋愛で悩んでいる訳ではないと悟り、思いきり予想が外れた彼女はバツが悪そうに視線を逸らした。
気まずい沈黙が2人の間に流れるも、その沈黙は鈴によって すぐに破られた。
「あんな おかん……訊きたいこと あんねん……」
「訊きたいこと? 何やの?」
「えと……ウチ、幼稚園児くらいの頃に男の子の友達おらへんかった?」
急な質問に、珠美は目を丸くした後 訝しげな顔をして鈴を見つめた。
「友達なんか居る訳ないやろ。アンタは小さい頃は ずっと家の中に おったやないか。友達なんて1人も おらへんかった。何だって急に そないなこと訊くん?」
「………………今日な……何かフラッシュバックが起きてん……それで、知らない幼い男の子が その映像に出てきたんや」
「フラッシュバック…………やて?」
鈴の言葉を聴いた珠美の顔から血の気が失せ、少々ふくよかな身体が小刻みに揺れ始める。
その様子は明らかに動揺しているものだったが、未だに俯いたままの鈴は母の感情の変化に気づいていない。
「…………鈴…………その男の子って……どないな感じの子やったん……?」
震えて裏返っている珠美の声を聴いた鈴は、目を閉じて少年の姿を鮮明に思い浮かべる。
前髪が長めの茶色い髪。
黒斗と同じ、血のように赤い瞳。
切れ長の目、大人びた雰囲気。
そこまで姿を思い浮かべた所で、鈴の脳裏に少年ではない誰かの影が過った。
(……何か…………この男の子と似てる人……ウチ知っとるような……)
少年にソックリな人物――だがハッキリと顔や姿を思い出せず、歯噛みをする鈴。
喉まで出かかっているというのに出てこないというのは、何とも もどかしいものである。
だが、一向に少年に似ている人物が思い出せそうにないので鈴は諦めて、少年の特徴を母に伝えた。
「うーんとな……髪の色は茶色で……前髪が目に かかるくらい長くて……目の色は真っ赤やったで!」
「っ!!」
声なき悲鳴と共に、額から冷や汗を流しガタガタと震える珠美。
すると彼女が持っていた箸は指を すり抜け、カシャンと音を立てながら床に散らばった。
だが珠美は落下していった箸に一瞬たりとも目をくれず、青ざめた表情のまま虚空を見つめる。
「……何でや……何で今になって……そんな……ありえへん……」
「…………おかん?」
虚ろな目をしながら意味不明なことをブツブツと呟く尋常ではない母の様子に薄ら寒いものを感じ、戸惑ったように名前を呼ぶも、母の焦点は定まらないままだ。
「……おかん、ウチの見た男の子を知っとるんか? 知っとるんなら教えてや……この子は誰で、ウチと どないな関係なん」
「アンタが知る必要は あらへん!!」
鼓膜がビリビリと震えるほどの怒声によって、鈴の言葉尻は掻き消され、驚きのあまり鈴の肩が跳ね上がった。
「鈴……その男の子のことは忘れるんや! 綺麗さっぱり忘れるんや! エエか!?」
「はあ!?」
あまりにも唐突かつ理不尽な母の指示に違和感を覚えた鈴は すぐに食いかかる。
「意味分からへん! 急に忘れろとか何なん!? おかん、この男の子のこと知っとるんか? 知っとるなら教えてや! ウチ……ずっと気になって仕方ないんや!」
頭から離れない知らない少年の姿と言葉。
フラッシュバックとして映ったということは、鈴は彼に会ったことが ある筈なのだ。
なのに自分の中には彼に関する記憶は あの映像以外に一切無く、今日まで全く存在を知らなかった――否、忘れていた。
だけど、彼のことを思い出さなければならない――そんな使命感のような漠然とした思いが鈴の胸中を ずっと支配している。
「……ずっと気になって しゃあないんや……頼むわ おかん……知っとるなら教えてや……」
母の目を真っ直ぐに見つめ、手を組んで言い切る鈴。
それでも母は首を縦には振らず、痛みに耐えるような表情を浮かべながら鈴に視線を向けた。
「……世の中には知らへん方が幸せなことが ぎょうさん あるんや……せやから、アンタが聴きたがっていることは必ずしもアンタの為に なるとは限らん。
だから……ホンマに頼むわ。男の子のことは、これ以上 知ろうとせえへんでや」
沈痛な面持ちで鈴を諭そうとする珠美。
目に涙を滲ませながら懇願する その姿を見た鈴は何となく罪悪感を覚え、仕方なく母の言葉に頷く。
「……そや。それでエエ……アンタは何も知らへんでエエ……」
ホッと胸を撫で下ろしながら安堵の息を吐く珠美。
だが、鈴の心には少年のことが しこりのように固く大きく残ったままだ。
(……おかんがアカンなら……自力で思い出すしかないなあ……)
あんなに必死で自分を止めた母に悪いとは思いつつも、己の気持ちにウソは つけない。
(……あの男の子は怒ってても寂しそうに しとった……何でかは知らへんけど、あの子の あないな顔を見とると……心が掻きむしられるんや…………絶対に、思い出さへんと……!)
少年の言葉の意味。
自分との関係。
そして母が あれほど必死になって思い出させまいとする理由。
それらの謎を解明すべく、鈴は少年について探ることを密かに決意するのだった。
******
「…………まだ思い出せないのか。ああ可哀想」
橘家の向かいにある一軒屋の屋根の上で立っている漆黒のコートを纏った大神がボソリと呟いた。
(……まあ、時期も時期だし……思い出すのも時間の問題かな……血だって あんなに浴びせたんだから)
2ヶ月前――鈴の目の前で黒斗にデスサイズを突き刺し、彼女に黒斗の血を浴びせた場面を思い返し、ほくそ笑む大神。
すると背後から死神の気配を感じ、大神の顔から笑みが消えた。
「……久し振り、だな」
真後ろから聴こえてきた黒斗の声を鼻で笑いつつ、大神は おもむろに振り返る。
「いつも気配を感じたと思えば すぐに消えるのに、今日は随分と ゆっくりしているんだな」
無表情のまま言葉を発する黒斗。
そんな彼を大神は興味が無さそうに見つめている。
「致命傷を与えた筈なのに まだ生きてたのかい。ゴキブリ並みの生命力の持ち主だねえ」
「……褒め言葉と受け取っておこう。お前はお前で屋根の上から人の家を覗き見するなんて、素晴らしい趣味を お持ちのようだな」
軽口を言い合う黒斗と大神。
だが、互いを見つめる その瞳には憎悪と殺意が渦巻いており、2人が和解することは決して無いと物語っていた。
「……何故 橘を見張っている。今日のアイツは何か様子が おかしかったが……まさか お前が関与しているのか?」
問いかけるが、返ってくるのは言葉ではなく嘲笑だけだ。
思わずデスサイズを取り出して大神に突きつけたくなるも、こんな住宅街で彼を刺激し、争いになっては周囲を巻き込んでしまうだろう。
そうならない為にも黒斗は自重し、己と同じ赤い瞳を真っ直ぐに見つめ、彼の言葉を待つ。
「……そんなに橘が心配? 感情を持つ失敗作の君が心配した所で、何も役には立たないだろう」
やれやれと肩を竦める大神だが、黒斗は眉一つ動かずに彼を見つめているだけだ。
「何とでも言え。もう決めたんだ……自分の感情を押し隠したりしないと。感情を持つ死神として、生きていくことを」
以前の黒斗は感情が あることを指摘される度に内心 動揺していたものの、あの不思議な空間で母と対話したことで迷いが消えたようである。
「ふうん……葛藤の1つは消えたようだね。でも、まだまだ君には揺さぶり所がある……」
そう言って大神は不敵に笑うと、鈴の家に視線を移した。
醜悪に微笑む その横顔からは邪な考えが ありありと見てとれ、黒斗は いつでも動き出せるように身構える。
「君は、かけがえのない友人となった橘や佐々木くんを守りたいと……そう思っているようだけど、正直 君には誰も守ることが出来ないと僕は思ってるよ」
「……何?」
挑発だとは分かっていても、その言葉に反応してしまう黒斗。
動揺こそはしていないものの、馬鹿にされているように感じて僅かに苛立ちを覚える。
「ハッキリ言うけどさ、今まで君が誰かを守れたことなんかあった?」
「…………」
何も答えない黒斗に顔を向け、大神はニタニタと笑いながら彼に歩み寄っていく。
「君の母親は、守るどころか逆に君を守ろうとして死んだ。橘が僕に誘拐された時だって佐々木くんの助力が あってこそ救えただけで、君1人だったら橘は勿論 君も恵太郎に殺されていた。そして…………」
1度言葉を切って一息ついた後、大神は言葉を続ける。
「目の前で死にゆく佐々木先生も守れなかった……助けられなかった」
「……っ」
黒斗の脳裏に佐々木が死んだ時の場面が甦る。
死神である自分を守る為に危険を冒して戻ってきて、殺された佐々木。
彼女がシローに石で殴られている間、自分は何も出来なかった。
相手は たかが人間だったというのに、己の力不足で助けられなかった。
あまりにも無力で弱い自分を怨んだ。
佐々木が死んだ原因である弱い自分を憎んだ。
母を亡くした玲二達 遺族を思い、罪悪感に襲われた。
佐々木を目の前で亡くしたことは、今でも深い傷として黒斗の心に残っている。
「……何も言い返せないようだねえ。まあ本当のことだしね……所詮 君には誰も救うことなんか出来ない……母親や先生のように」
「………………黙れ」
「佐々木先生、とても悲しかったろうね。大好きな息子と夫を置いて死んでしまうなんて……胸が張り裂けるような思いだっただろう…………彼女も可哀想だが、遺された遺族は もっと可哀想だ」
「…………黙れ……黙れ……!」
歯ぎしりをしながら拳を握りしめる黒斗。
だが大神の言葉は止まらない。
「先生は息子が大人になっていくのを見届けたかっただろうな。愛する夫と、もっと一緒に居たかっただろうな。
佐々木くんも まだ母親に甘えたい年頃なのにさ。いきなり お母さんが居なくなって、オマケにいじめられて自殺にまで追い込まれて……気の毒に。
先生の夫も妻を亡くして さぞ悲しかっただろう。もっと思い出を作りたかっただろう。
そして先生も、佐々木くんも、夫も……家族3人で……もっと……ずっと一緒に居たかっただろうね」
「……黙れと言っているっ!!」
「だけど、先生は理不尽に命を奪われた。君のせいで死んだ。君のせいで一家が悲しみに包まれた。君のせいで幸せを失った。君のせいで……」
「黙れえええええぇぇぇっ!!」
黒斗が叫ぶと同時に彼の瞳が赤く輝き、身体が黒いオーラに包まれる。
彼が纏う黒く巨大なオーラは まるで生き物のように不気味に蠢き、異様で邪悪な雰囲気を醸し出す。
「……へえ……コレがアイツの言ってた感情の暴走か……でも、完全に暴走した訳ではないようだな。自我が僅かに残っている」
禍々しい姿となっている黒斗を目の当たりにしながらも、冷静に彼の状態を観察する大神。
そんな彼を、黒斗は真っ赤に光る瞳で睨みつける。
「…………お前に、何が分かる……人を惑わし、無意味な死に導く お前が……知ったような口を きくな!!」
怒鳴る黒斗だが、大神は涼しい顔のままだ。
「…………また、橘や佐々木に……手を出したら……その時は……刺し違えてでも……必ず、殺す……!」
言葉を発する度にオーラが動くも、大神は そんな黒斗を鼻で笑いとばし、デスサイズを召喚した。
身の丈ほどあるデスサイズを左手だけで軽々と振り回し、切っ先を黒斗に向ける。
「失敗作のクセに僕を殺すなんて笑わせてくれる。そこまで言うなら見せてみなよ……君の本気を、さ!」
そう言い終えると同時に大神はデスサイズを振りかぶり、黒斗の頭部を目掛けて素早く振り下ろした。
しかし、そのデスサイズの刃が黒斗に突き刺さる直前 オーラによって弾かれてしまい、大神は体制を崩してしまう。
するとオーラは鋭い刃のような形に変化し、無防備な大神の腹部を貫こうと襲いかかる。
「くっ!」
咄嗟にデスサイズを腹の前に構え、防御を試みる大神。
何とか防御が間に合い、オーラの刃はデスサイズの柄に突き刺さり、そのまま虚空へと消え入った。
「……何だ、もう終わりかい?」
余裕の笑みを浮かべながら顔を上げる大神。
だが彼が顔を上げた その瞬間、右肩から鮮血が噴き出した。
「……何……?」
激痛を感じながらも表情に出さず、落ち着いて血が噴き出る箇所を見やる大神。
すると、右肩から先にある腕が無くなっていること――そして、無くなった右腕が血だまりの上で転がっていることが分かり、さすがの大神も驚き 目を丸くする。
(……攻撃が……見えなかった……いつの間に切断された……?)
動揺しながら黒斗に顔を向けると、彼は黒いオーラに包まれた状態のまま、血が付着しているデスサイズを構えていた。
「……なるほど、ね。確かに普段の君より遥かにパワーアップしているようだ」
デスサイズを消し去り、左手で右肩の切断面を押さえる大神。
いくら回復出来るとはいえ、負傷してしまったことが悔しいのか、彼は忌々(いまいま)しそうに未だにデスサイズを構える黒斗を一瞥する。
「……まあ、今日は このくらいにしておいてあげるよ」
ポツリと呟くと、大神の背後にゲートが出現した。
「……誰にでも忘れたい記憶は ある……中には、自分の心を守る為に記憶の一部を封印してしまう者もいる。橘や、君のようにね」
「…………どういう、意味だ…………」
「僕が橘を見張っていた理由のヒントだよ。後は自分で考えな」
意味深な言葉を言い捨てると大神はゲートに入って姿を消し、あとにはオーラを纏ったままの黒斗が1人残された。
「…………忘れたい記憶……心を守る為に封印する記憶…………」
デスサイズを消しつつ、ボンヤリと大神の言葉を復唱する黒斗。
その時、頭部に鈍い痛みが はしった。
「うっ…ぐぅ………」
反射的に頭を両手で抱え、その場に踞る黒斗。
苦痛に呻く彼の瞳からは赤い光が、身体からは黒いオーラが消え失せた。
「ぐ、あぁ…………」
激しい痛みと共に脳裏に映像が映し出される。
それは、真っ赤な世界の映像。
血に染まった自分の身体と、真っ赤なブヨブヨとした柔らかい物体の塊と、人の形をした肉が散らばる世界。
そこで自分は――
人の形をした肉の頭をデスサイズで かち割り、笑っている。
倒れている肉の口を両手で掴んで無理やり広げ、顔を裂いて楽しんでいる。
だけど――
こんなことをした覚えは、記憶は、無い。
──知らない、知らない
──俺はこんな記憶、知らない
身に覚えが無い映像が次々と映し出される。
そしてそれを見ていると、自分が自分で無くなっていくような感覚がする。
その感覚が、黒斗は恐ろしくて恐ろしくて堪らない。
だから彼は頑なに目を瞑り、耳を塞ぎ、それを拒む。
これは自分の記憶ではないと言い聞かせる。
それが己を守る唯一の手段。
「……ハッ、ハァハァ……」
しばらくして頭痛が止まると、映像も消え去った。
(…………あんなの……幻、だ。そう、ただの幻覚……)
そう自分に言い聞かせてフラフラと立ち上がると、黒斗はゲートを開いて自宅へと戻るのだった。