挫折3
「まさか、玲二の言ってた先輩が月影くんだったとはね……」
テーブルに熱々のオムレツを置きながら、溜め息まじりに佐々木が呟いた。
「……こっちも、佐々木の母親がアンタだとは夢にも思わなかったよ」
「先生に向かって“アンタ”とは何ですか!」
無礼な物言いに佐々木が文句を言うが、黒斗は臆することなくオムレツを口に運ぶ。
現在、3人はダイニングで夕食をとっていた。
佐々木を見た黒斗はさっさと帰ろうとしたが、玲二が引き止め、なし崩しに夕食を共にすることになったのだ。
ちなみに玲二の父親は、単身赴任で家を留守にしている。
「まったく! 玲二が“カッコよくて良い人”って言ってたから期待してたら……よりによって貴方とは!」
「キーキーうるさい。そんな大声を出さなくても聞こえてる」
「このガキャー!!」
教師と生徒の会話とは思えない殺伐としたやり取りを、玲二は笑いながら見つめる。
その時、玲二のスマホから着信音が鳴り響き、玲二は画面を見た。
「っ!」
画面を見た玲二が固まる。
「あら、どうしたの?」
「ううん、ただの迷惑メールだよ」
笑いながらスマホをテーブルに置く玲二。
佐々木は気づいていないようだったが、黒斗は玲二がスマホを見た時、一瞬だけ恐れるような表情をしていたのを見逃していなかった。
「ごちそうさま」
食事を終え、鞄を手に席を立つ黒斗。
「兄貴、もう帰るの?」
「ああ、日が暮れないうちに帰る。邪魔したな」
時刻は午後18時前で、夕日も半ば沈んでいた。
「分かったよ。兄貴、また明日ね!」
ブンブンと両手を振る玲二に、片手を振り返し、玄関に向かう。
「ちょっと待って」
靴を履き、ドアノブに手をかけようとした瞬間、後ろに立っていた佐々木が声をかけてきた。
「何だ?」
「玲二のことで話があるの」
佐々木の表情から、真剣な話であると察した黒斗は黙って言葉を待つことにする。
「……玲二はね、学校でも親しい友達が居なかったの。だから、貴方が玲二の友達になってくれて安心したし、嬉しいわ。ありがとう」
「……ああ」
「あの子、悩んでることがあっても心配かけたくなくて、親に黙ってるタイプなのよね……聞き出そうとしても、のらりくらりと はぐらかされちゃう。……だから……」
そこまで言うと、佐々木は深々と頭を下げた。
「玲二の母親としてお願いするわ。どうか、あの子の力になってほしいの」
佐々木の言葉を聞いて、黒斗は先ほど聞いた玲二の過去を思い出す。
強くなってトラウマを乗り越えたいと、真剣な眼差しで言っていた玲二。
その時の彼の表情を思い出し、黒斗の口許が僅かに緩んだ。
「頼まれるまでもない、アイツは俺の舎弟だからな。最後まで面倒を見てやるさ」
「……ありがとうね、月影くん」
未だに頭を下げたままの佐々木に背を向け、黒斗はその場を後にした。
******
23時04分 玲二の部屋――
(……そろそろ約束の時間だ)
布団に潜っていた玲二はスマホで時刻を確認し、パジャマから外着に着替える。
着替え終えた玲二は、音を立てないよう忍び足で玄関に向かうと、そのまま静かに家を出て行った。
******
玲二が向かった場所は、幼い頃に通っていた絵画教室の建物。
玲二が刺されて以降、事件を恐れた保護者達が次々と生徒を辞めさせ、最終的には廃校になってしまった。
薄暗い教室の中に入り、玲二はキョロキョロと落ち着きなく辺りを見渡す。
「や、約束の時間に来たよ! 何処にいるの!?」
「ノロマにしちゃ、ちゃんと時間がピッタリだな。感心、感心」
窓際から声が聞こえ、そちらに視線を向ける。
そこには、月明かりに照らされている有理が立っていた。
「有理……」
ゴクリと唾を飲んで、彼に近づきスマホの画面を見せる。
「このメール、何なの?」
スマホの画面には有理が玲二に送ったメールが表示されていた。
メールの内容は『話がある。今夜23時30分頃、絵画教室に来い』というものだった。
それを見た有理は満足したように何度も頷き、口角を吊り上げる。
「なあ玲二。あの事件の時にした約束、覚えてるよな?」
「……忘れる訳ないじゃないか。破るつもりだったら今頃、君は留置所の中だよ」
眉を潜めつつ、玲二は俯く。
「ハハハ!! さっすが親友! そうだよな、お前が俺に逆らえる訳ないもんなあ!!」
腹を抱えて笑いだす有理を殴りたい衝動に駆られるが、必死に唇を噛んで耐える。
玲二の脳裏に6年前、有理と“約束”を交わした時の出来事がよぎった。
******
6年前、絵画教室にて――
「ハァ……ゲ、ゲホッ」
背後から刺され、床に倒れている玲二。
激痛に耐えながら、側に立っている犯人の姿を見上げると、信じられない人物が立っていた。
「ッ……!! ど、して……? ゆうり……」
ショックを受ける玲二を、有理は蔑むように見下ろす。
手袋を嵌めた手には血濡れた出刃包丁が握られている。
「…………」
有理は無言で出刃包丁を投げ捨て、現場を早々に立ち去っていった。
(……有理が……オレを……)
その様子を見ていた玲二の意識はそこで途絶える。
その後、玲二は一命をとりとめ意識も回復するが、自分を刺した犯人の顔をショックのあまり忘れてしまっていた。
玲二が病院に入院してから数日後、ある人物が見舞いに訪れる。
「オーッス玲二! 元気かあ?」
いつものように軽い口調で入ってきた有理を目にした瞬間、玲二にフラッシュバックが起き、自分を刺したのは有理であることを思い出した。
「ゆ、ゆう、り……」
自分を殺そうとした親友が現れ、恐怖のあまり叫ぶことも出来ない玲二。
そのことを分かっているのか、有理は底意地の悪い笑みを浮かべながらゆっくりと歩み寄ってくる。
「生きてて良かったな玲二。でも、俺が犯人だってことは絶対、誰にもバラすなよ。誰にもバラさなければ、もうお前を刺したりしないからさ。……な、約束?」
「……ッ!」
怯えきっている玲二は、涙を流しながら頷くことしか出来ない。
「もし約束を破ったら……次はぶっ殺すから」
耳元で囁かれた言葉は、いつまでも玲二の頭の中でこだましていた。
幼い頃に感じた恐怖やトラウマとは根強いものであり、6年経った今でも玲二は有理の支配から脱せずにいたのだ。
******
「……用事はそれだけなの? ちゃんとオレは約束を守ってるよ」
震える足を叱咤しながら、自分より身長の高い有理を上目遣いで見つめる。
「いや、それはただの確認だよ。用事は別にある。お前に頼みがあるんだ」
有理はそう言うと、玲二の耳元に顔を近付けた。
「実は……洋介を殺してほしいんだ」
「は?」
───言われた言葉の意味が分からない。
───ワカラナイ。
「……冗談……だよね?」
軽い口調で言おうとしたが、震える唇から絞り出されたのは弱々しく頼りない声。
「冗談なんかじゃない。本気で洋介を殺せと言ってる」
氷のように冷たい有理の眼を見た玲二の全身から、血の気がサーッと引いていった。
「何で、何でだよ!? 洋介は親友だろ!? 何で殺さなくちゃいけないんだよ!!」
驚きのあまり声を荒げる玲二だが、有理は無表情のままだ。
「あのさ……お前は俺に刺された理由を分かってんの?」
「そんなの分かる訳ないだろ! ただ……オレのことが嫌いになったのかな、とか……怒らせるようなことしたかな、とか思ってたけど……」
「相変わらず頭が足りない奴だな! そんなことで、いちいち刺し殺そうとするかよ!」
玲二の言葉を有理は鼻で笑い飛ばす。
「じゃあ……何でオレを……」
有理が何を考えてるか分からず、混乱している玲二の眼から涙が一筋流れ落ちる。
そんな玲二の胸ぐらを有理は乱暴に掴み、怒鳴りつけた。
「分かんねえなら教えてやるよ! 玲二、お前が俺よりも上に行ったからだ!!」
「う、上……?」
「お前ら2人は俺の引き立て役だった! それなのに、お前らの方が俺よりも絵が上手くて、皆に注目されている! それが許せなかったんだっ!!」
有理は幼い頃から絵が上手だった。
とても幼児が描いたとは思えない程、綺麗で丁寧な絵を描いていた。
そんな有理を見た、両親をはじめとする大人達は口々に「天才」「才能がある」と褒め称えた。
だから有理自身も、自分は絵の天才だと信じて疑わなかった。
洋介と玲二に出会うまでは。
最初は本当に仲が良い友達だった。
互いに競い、認めあえる良きライバルだった。
だが時が流れるにつれ、有理と洋介・玲二には大きな差が開いてきたのだ。
有理には確かに才能があったが、洋介と玲二には、有理以上に才能があった。
絵画教室に通うまでは絶賛されていた有理の絵は、いつも2人の絵と比較されて下に見られることが多くなり、この頃から有理は親友2人に強い憎悪と嫉妬を抱きはじめる。
そんな彼に、更なる追いうちがかかる。
玲二が絵画教室の講師から、コンクールに参加することを薦められたのだ。
───どうして俺よりも、お前らが評価されるんだ。
───俺は天才なんだ、お前らよりも上にいるべきなんだ。
天才である自分ではなく、玲二が推薦されたことで有理の中の何かがはじけた。
───玲二と洋介は邪魔だ。
───コイツらが消えれば、また俺は天才として注目される。
芽生えた殺意を抑えることは出来ず、有理は玲二の殺害に及んだ。
運良く玲二が生き残ったことは計算外だったが、気弱な彼の心につけいり、脅しをかけて従わせたのだ。
「そんな……そんな理由でオレを……?」
「“そんな理由”だと……? 俺にとっては、これが全てだったんだよ!」
有理は乱暴に玲二を突き飛ばし、受け身を取れなかった玲二が倒れる。
「あの時、ちゃんと殺しておくべきだった。お前も洋介も、悪運が強かったばかりに……」
その言葉を聞いた玲二の顔色が、一瞬で青く染まった。
「……まさか。洋介を突き飛ばした犯人は……」
「そうだよ、俺だよ! 俺が洋介を突き飛ばしたんだ!」
「でも、君だって襲われたじゃないか……?」
「あれは自分でやったんだよ。襲われた2人と親しい俺は真っ先に疑われる。だから疑いを晴らす為に、自分で足を刺したんだ」
あまりの狡猾さに目眩を感じる玲二。
洋介までも殺そうとした有理に抱く感情が、恐怖から憎しみへと変わっていく。
そんな玲二の気持ちも知らずに、興奮状態の有理はベラベラと動機を語りだす。
「洋介が腕を切除された時、心底嬉しかったぜ。もうコイツは何も描けないって確信していた。だけど、アイツは足で絵を描きはじめた……まあ、どうせ足で描ける訳がないと思ってた……それなのにっ!」
ギリッと歯ぎしりをする有理の脳裏に、フランスで洋介に味あわされた屈辱が映し出される。
******
フランスの美術学校に通っていた有理は、優等生として講師から注目されていた。
昔のように“天才”と称えられていた有理は心地よい優越感に浸り、日々を楽しく過ごしていた。
だが彼にとって平穏だった日々は、またも友によって壊される。
“足で絵を描く少年”として一躍、時の人となった洋介の記事が、フランスの芸術関連の本に掲載されたのだ。
足を使っているにも関わらず、芸術的な洋介の絵はフランスでも話題となった。
それと同時に、有理の絵が洋介と比較されることが増えはじめる。
「洋介の方が絵が上手い」
「洋介と比べれば、有理はまだまだ」
「有理も才能があるが、洋介の方が……」
洋介と比べられ、自分が下に見られる声が聞こえる度、プライドが高い有理の心が かき乱されていく。
そして、不安定だった有理にトドメを刺したのは講師の何気ない一言だった。
それは、コンクール用に描きあげた自信作を講師に見せた時のこと――
「ユーリ。確かに君は絵が上手いし、丁寧に描いてある。だが……心が足りない。綺麗に描くだけでなく、心を込めてみなさい。君と同じ日本人で言うなら、ヨースケのように」
有理の心を冷たい風が吹き抜ける。
「ヨースケは素晴らしいよ。足で描くのは勿論、絵を楽しんで描いてるのが伝わってくる作品も高評価だ。君に無くて、ヨースケにあるものは沢山ある。それに……」
もう講師の言葉は有理の耳に届いていなかった。
───洋介、邪魔だ。
───コイツが生きている限り、俺は1番になれない。
───洋介、殺さないと。
───コ ロ サ ナ イ ト……!
殺意に支配された有理は、洋介を殺す為に日本に戻ってきた。
******
「……君は間違ってるよ」
不意に聞こえた玲二の声が、有理を現実に引き戻す。
「本当に絵が好きなら才能なんて関係ないだろ! 1番だの才能だの気にして、そんなものに こだわって描いてるから、君の絵は評価されないんだ! 皆の心に響かないんだ! 洋介にあって君に無いのは、“純粋に芸術を愛する気持ち”だよ!」
立ち上がって有理と対峙する玲二。
恐怖感が完全に消えた訳ではないが、それ以上の怒りが彼を奮い立たせていた。
「綺麗事なんかいらねえよ。お前は黙って洋介を殺せばいいんだ」
全く動じることなく、有理は玲二に歩み寄った。
「俺に逆らって殺されるのと、警察に捕まるの……どっちが良いのか分かるよな?」
玲二が逆らえないことを確信しているように、いやらしく笑う。
「…………」
沈黙を承諾と受けとったのか、有理は満足そうに何度も頷いた。
それを無視して玲二は、そっと瞼を閉じる。
“本当に変わりたいと思わなければ、お前は変われないままだ”
尊敬する兄貴である黒斗の言葉を思い出し、玲二は覚悟を決めて、目を開ける。
───オレは強くなりたい。
───強くなる為に変わるんだ。
「オレ……洋介を殺さない」
「は?」
思わぬ答えに、有理の思考が一瞬フリーズする。
「自分の身を守る為に、友達を殺すなんて……そんなの嫌だっ!!」
ドッ
玲二が言い終えると同時に、聞き覚えのある重く鈍い音が響く。
違和感を感じた腹部を反射的に見下ろすと、有理が持つナイフの刃先が突き刺さっていた。
「じゃあ死ね」
冷たく言い放つと、躊躇うことなくナイフを引き抜いた。
「あっ……ぐぅ……」
ナイフが抜かれた傷口から、大量の血液が溢れ出る。
刺された箇所が急激に熱を帯び、よろめく玲二を有理は押し倒し、馬乗りになった。
「……ゆうり……こ、れ以上……その手を、よごしちゃ、ダメ、だ……」
「うるせえよ。ノロマの屑の癖に、天才の俺様に口答えすんな」
そう言って有理は血で濡れたナイフを大きく振りかぶり、勢いよく玲二へ降り下ろした。