涙13
数分後――
関谷の兄、雄蔵の寝室にゲートを潜って来た黒斗が現れ、研一の遺体をベッドで眠る雄蔵目掛けて放り投げた。
「がっ!?」
いきなりの衝撃に雄蔵は頭まで被っていた布団を捲り、毛が一本も生えていない頭部を露に身体に乗っかっているモノへ視線を移す。
すると白目の研一と目が合い、数秒の間があった後に彼は悲鳴をあげた。
「ギャアアアア!! な、何なんだコレは!? 誰が研一を こんな姿に!?」
「俺だ」
声が した方へ雄蔵が即座に首を動かすと、全身 血まみれの黒斗が視界に入った。
「何だ貴様! 何者だ!?」
「……………………死神」
雄蔵の問いに答えると黒斗は俯いていた顔を上げ、己の顔を見せつけるように雄蔵を真っ直ぐ見つめる。
「お前の弟は死神である俺が殺した。ソイツは救いようがない屑だった。だから殺した。それだけだ」
唖然としている雄蔵を尻目に、黒斗は言いたいことだけを言ってゲートを潜り、その場から立ち去った。
「……死神……が、研一を……?」
上手く働かない頭でボンヤリと研一を見やる雄蔵。
すると、研一の傷は みるみるうちに塞がり、流れていた血も瞬時に止まり、非現実的な光景に雄蔵は1人悲鳴をあげた。
───これでいい。
───これで、関係のない人間に関谷殺しの疑いは かからないだろう。
───全て終わったんだ……。
真っ暗で静かなゲートの中、黒斗の溜め息だけが こだました――
******
日付が切り替わると同時に、黒斗はイチイの木の元へ戻ってきた。
全身に付着した返り血を拭うこともせず、彼は大木の前で力尽きたようにガクンと膝を折って座り込んだ。
「…………3人分の仇は討ったよ……お母さん……」
地面に手をつけて俯く黒斗が見つめるのは、掘り返した跡のように、こんもりと盛り上がっている土。
この土の下には、日向子の亡骸が埋まっている。
本当は ちゃんとした墓を立てたかったが、この辺りには墓石に なるような物も無いし、月影一家の墓も存在せず、火葬しようにも家にはマッチも無く、仮にあったとしても周囲の草むらに火が燃え移る危険性が ある。
その為、亡骸をそのまま埋葬するしかなかったのだ。
「……どうしてっ……頼ってくれなかったの…………どうして、俺に嘘を吐いて、1人で……どうしてだよっ……」
研一を殺す前に彼の記憶を覗き見た黒斗は、日向子が研一を呼び出し、彼を殺そうとして返り討ちに あったことを知っている。
知ってしまったからこそ、彼は悔しくて悔しくて仕方ない。
母が頼ってくれなかったことが。
母が嘘を吐いたことが。
母が その手を汚そうとしたことが。
「……ねえ、お母さん……どうして、何も言ってくれなかったの? どうして、頼ってくれなかったの?
俺が……頼りなかったから? 頼っても無駄だと、役立たずだと思っていたから……? どうして、ねえ、どうしてだよ……」
無意識のうちに口を突いて出てくるのは母を責めるような言葉ばかりで、そんなことしか言えない自分に黒斗は嫌気が さす。
研一が家に来た時、母を傷つけてでも苦しめてでも しつこく食い下がれば、このような結末は避けられたかもしれないのに、無知で愚かな自分は浅はかなる選択をした。
悪いのは、間違ったのは、自分ではないか。
「……そうだよ、ね……こんなバカで情けなくて簡単に騙されるような奴……お母さんが信用できる訳ないよ、頼れる訳ないよ……」
涙を流しながら自嘲の笑みを浮かべる黒斗。
彼は日向子の行動を知っていても、日向子の思いは知らない。
彼女が何を思って包丁を研一に向けたのか、何を思って黒斗に嘘を吐いていたのか――日向子亡き今では知る術は無い。
「……う、くっ……ううぅ…………ごめん、おかあさん……ごめん、まつたろう……おかあさんを、守れなくて……」
涙を流しすぎて頭が痛い。
それ以上に胸が痛い。
チクチクと刺されているような、チリチリと焼かれているような、口では説明しがたい痛みが絶え間なく襲ってくる。
痛い、痛い、痛い、痛い――
頬を伝う涙が返り血と混ざり、血の涙となって流れ落ちていく。
この世界は理不尽だ。
母のように、何も非が無いのに いきなり大切な人を奪われたり、罪を着せられる者も居れば、呆気なく殺される者も居る。
研一のように、罪を犯しながらも法や権力に守られて裁きを受けずに のうのうと生きている者も居る。
自分のように、大切な者を奪われた悲しみと己の無力さに嘆く者も居る。
理不尽な世界。
人が裁けぬ罪人が蔓延る、理不尽な世界。
そんな理不尽な世界に、罪人に、日向子は殺された。
そして、今こうしている今も黒斗が知らないだけで母のように苦しんでいたり殺されている者だって居るのだろう。
そんな非道なことを しておきながら、研一と同じように犯した罪に対する罰を受けぬ罪人が居る。
そう考えるだけで、黒斗は腸が煮えくり返る思いがした。
研一を殺したのに、怒りが収まらない。
自分勝手な理由で罪を犯し、繰り返す――この理不尽な世界を作り出した原因の一部である屑のような人間全てが憎い。
罪は罰せられなければならない
だが、この世界には罪を犯しながらも罰を受ける事なく生きている者が居る。
法律、権力、金、あるいは巧妙な工作ーー
様々な恩恵に守られて、人が裁けない罪人がいる。
人が裁く事が出来ないならば、その罪人は罰する事が出来ないのかーー?
――いや、そんなことは無い。
人が裁けないのなら、人ならざる者が裁けばいいではないか。
ひとしきり涙を流した後、黒斗は俯いたまま ゆっくりと立ち上がる。
ある決意を胸に。
───人が裁けぬ罪人は、“死神”である俺が裁く。
───関谷のような罪人を、1人でも多く減らす為に。
───お母さんのような悲劇を、1つでも多く減らす為に。
───そして……
───収まらない怒りを晴らす為に。
人が裁けぬ、法に守られた罪人を殺す断罪者として生きていく。
これは、母を傷つけて殺した『人間の悪意』と『理不尽な世界』への彼なりの復讐であった。
───俺は無知で、愚図で、弱かった。
───そんな情けなくて弱い自分が許せない。
───だから俺は、“弱い自分”を捨てる。
───弱さの証である涙を、感情を、胸のうちに押し込める。
───死神に不要な感情を抑制する。
───もう2度と、涙など流さない。
───これは俺に必要ないものだから。
目尻に残っていた涙を拭い、黒斗はイチイの木に背を向ける。
泣きすぎたせいで腫れている目は、氷のように冷たかった。
「………………さよなら、お母さん」
ポツリと呟くと、黒斗はゲートを潜って立ち去った。
母と出会って全てが始まり、母が死んで全てが終わった この場から、姿を消した。
───俺は死神だ、あまり人間の世界に関与するべきではないことは分かっている。
───だから……3回だ。
───本当に どうしようもなく救いようの無い人間は、罪を繰り返す。
───俺が裁くのは、そんな愚かな罪人だ。
───3回の間に、罪を犯すことを やめなければ、人が裁きを下すことが出来ぬのならば。
───俺が無慈悲なる裁きを下す。
******
「………………本当に俺は、バカだ……今も、昔も……」
回想を終えた黒斗は肩をガックリと落として項垂れる。
「……ずっと、お母さんに迷惑ばかり……。お母さんが生きている間は笑ってばかり、甘えてばかり。お母さんが死んだ後は、心配をかけて縛りつけて……こんなんじゃ、お母さんに信用されず頼られない訳だよ……」
「違うの! ……頼りないとか、信用していないとかじゃないの……貴方に人を殺そうとする私の醜い姿を見られたくなかった……そんな、自分勝手な理由で嘘を吐いてしまったのよ……」
「…………そう、か。お母さんが俺を信じてなかった訳じゃないと分かって、良かったよ」
口角を僅かに上げて微笑する黒斗だが、その微笑みは寂しげで、今にも泣き出しそうなものだった。
だが、それでも黒斗の目に涙が滲むことは無い。
そんな黒斗の頬に日向子が両手を添えた。
「……我慢しないで……自分の感情を押さえつけないで……泣きたいなら、泣いて……貴方は、あの日から……私が死んだ あの日から、1度も涙を流していない」
「…………我慢、なんか……していない」
ふいっ、と顔を背けるも添えられた日向子の手に よって強引に元の位置に戻されてしまう。
「……貴方は私が死んでから、感情を抑制してきた。あんなに表情が豊かな子だったのに笑わなくなった、怒らなくなった、泣かなくなった。
でも世界を回って この町に戻って、鈴ちゃんや玲二くんと出会って、貴方は少しずつ感情を面に出すように なっていった。
……だけど…………まだ、涙は流していない。貴方の先生が亡くなられた時も……貴方は涙を流さないように必死で堪えていた。
本当は泣きたかったでしょうに、本当は亡骸に縋って叫びたかったでしょうに」
日向子の言葉を聞いた黒斗は、今度は顔ではなく目を背けた。
「……俺は捨てたんだ、弱い自分を。だから涙など流さない。涙なんて……死神にとって邪魔で不必要なものでしかないのだから」
「…………貴方は、涙を流すのは弱いからだと本気で信じているの?」
眉を潜めながら日向子が紡いだ言葉に黒斗が無言で頷くと、彼女は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて溜め息を漏らす。
それは呆れというよりも、残念がっているような溜め息だった。
「……誰かの為に涙を流すのは弱さじゃない、優しさよ……。誰かを思って泣いて、何かを成し遂げられずに悔しくて泣いて……それをバネに強くなれる」
「それは人間の場合だ。死神には そんな感情も、己を弱める枷でしかない」
「……普通の死神なら、そうでしょうね……。だけど貴方は違う。感情が、心が あるじゃないの」
1度言葉を切って深呼吸した後、日向子は曇りなき瞳で黒斗を真っ直ぐ見つめながら言葉を続ける。
「いくら貴方が もがいたって、胸の奥に閉じ込めたって、心を消すことなんか出来ないの。いくら貴方が何も感じていないと自分に言い聞かせたって、心は傷ついているの。
消すことが出来ないのだから、貴方は その心と、自分自身と向き合って生きていかなくちゃならない。なのに貴方は心を閉じ込めて、無意識に傷つけてしまっている。
ずっと見てきたから知ってるのよ? 貴方が罪人を殺す度に自分の心も傷ついていること。貴方は本当は優しい子だものね……」
スラスラと淀みなく話す日向子の言葉に、黒斗の心が大きく揺さぶられる。
(……お母さんは……やっぱりズルいよ……)
自分の苦しみは面に出さないくせに、人の悩みや考えは心を見透かしているように的確に言い当てる。
それでいて掛けてくる言葉は、優しいものばかりで。
だから つい甘えたくなってしまう。
その優しさに身を委ねたくなってしまう。
弱さを、また出してしまいそうになる。
(……ダメだ。ここで お母さんに流されてしまったら……今まで押さえつけてきたものが、全て飛び出してしまう)
拳を握りしめ、爪を食い込ませて感情を抑える。
───思い出せ、何の為に感情を抑制したか。
───弱い自分を捨てる為だろう?
───罪人に情を抱かず、無慈悲な裁きを下す為だろう?
───強く、なる為だろう?
握り拳に さらなる力が入り、歯もギリギリと音が鳴る程 食い縛る。
だが、そんな彼の身体は日向子の細い両腕によって包み込まれた。
「なっ……お、お母さん?」
いきなり抱き締められたことに驚く黒斗の頭に日向子の右手が乗せられた。
「おかあさ」
「もう いいの……もう、頑張らなくていいの」
優しく穏やかな声を聞いた瞬間、黒斗の思考が一瞬ストップした。
「ずっと、1人で頑張ってきたわよね。相手が罪人であっても、命を奪うことに罪の意識を感じながらも、弱音も泣き言も言わずに頑張ってきたよね。
でも、頑張りすぎは良くないのよ? たまには、肩の力を抜かないといけないのよ?
貴方は頑張りすぎたのよ……だから、もう良いの。頑張らなくていいの、泣いても……いいの」
一言一言を区切って言い聞かせるように喋る日向子の声に、黒斗の身体が震えだし、胸の奥が疼いた。
“もう、頑張らなくていいの”
思いがけない言葉に黒斗は戸惑いを覚えると同時に、肩の荷が下りるような感覚――そして
両目から熱いものが溢れるのを感じた。
「……あっ……」
涙が流れ落ちていることに気づき、黒斗は驚愕する。
捨てた筈の涙。
もう流さないと決めた筈の涙。
その涙が、母のたった一言で戻ってきた。
「…………そう。それでいいの……思う存分 泣きなさい。私が受け止めるから」
「…………っ……おかあ、さん……」
母の優しい言葉に、黒斗の中の何かが弾けて飛び出した。
「……おかあさん、ずっと、さみしかった……ひっ、うぅ……ずっと、くるしかった……うっく…………うああぁぁぁ……」
声を張り上げて涙を流す黒斗の背を、日向子が優しく撫でると さらに涙が滲んで零れ落ちた。
涙が溢れる度に、曇った心が洗われるような――そんな気がした。
「おかあさん、まもれなくて ごめん……ごめん、ね……ぐ、うぅ……ひぐっ……」
「いいの……私も嘘ばかりで ごめんね」
今まで押さえつけてきた涙は滝のように流れて日向子の胸を濡らしていく。
それと同時にモノクロだった世界に色が宿り、深緑色の美しい世界へと変わっていった。
長い間 泣き続け、黒斗が落ち着いてくると2人は身体を離し、互いに見つめあった。
「……もう、大丈夫よね?」
日向子の言葉に黒斗はコクリと頷く。
「……もう我慢しないでね、泣きたい時は思いきり泣いてね。笑ったり怒ったり泣いたりして、人は強くなれるのだから」
ニッコリと微笑む日向子だが、対照的に黒斗の表情は暗い。
「…………でも、怖いんだ。感情が暴走して……自分を見失ってしまうんじゃないかって……」
俯く黒斗の脳裏には、冥界を脱出した日のことが映し出されていた。
大量の屍。
傷だらけの自分の身体。
暴走中の出来事は覚えていない。
だからこそ恐ろしいのだ。
何を やらかすか分からない自分が、傷を負っても痛みすら感じていなかった自分が。
あの時はタナトスとウンデカが止めてくれたが、人間界で暴走状態に なったら一体 誰が自分を止める?
誰も居ないではないか。
そんな不安が胸中を巡る。
すると日向子は微笑みながら黒斗の頭を撫でた。
「……感情が爆発しそうになったら、自分では抱えきれなくなったら……誰かに助けを求めればいいわ。いつも貴方が言っているように」
「……助けを……求める…………でも、やっぱり不安だよ……」
「……自分を信じてあげて黒ちゃん。それに……」
言葉を切り、優しい笑みを浮かべると日向子は口を開いた。
「守ってあげたい子達が居るんでしょう?」
その言葉を聞いた刹那、黒斗の脳裏に鈴と玲二の姿が過った。
この町に戻ってきて出会った友人。
最初は うるさい奴らだと思っていた。
だけど2人はバカみたいに お人好しで、誰かの為に一生懸命に なれるような真っ直ぐな心の持ち主だった。
いつだって明るくて笑っていて、純粋で優しい2人が黒斗にとって かけがえのない大切な存在となったのは いつからだろうか。
笑っていてほしいと、守りたいと思い始めたのは いつからだろうか。
「……戻りなさい、黒ちゃん。貴方が大切に思う2人の元へ」
日向子が呟くと彼女の身体は金色の光に変わり、宙に浮かんだ。
「……お母さん……」
『帰ってあげて、黒ちゃん』
脳裏に日向子の声が響くと、金色の光は浮かび上がった後に手の形に変わり、黒斗に向けて手を伸ばした。
「……ありがとう お母さん……」
優しく穏やかな笑みを浮かべ、黒斗は その手を掴んだ――
******
「きゃっ!」
手を掴むと同時に聞き慣れた――けれども ひどく懐かしい声が聞こえて目の前が暗転し、次の瞬間には驚く鈴の顔と玲二が視界に入った。
それと同時に、鈴の右手を自分の手が掴んでいることに気づき、彼はパッと手を離して口を開く。
「悪い…………寝ぼけていた」
黒斗が そう言うと、驚いていた鈴と玲二の顔が みるみるうちに歪んでいき、2人の目から涙が溢れた。
「なんやのソレ!? 開口一番に寝ぼけてたとか何やねん!! 心配しとったウチらがバカみたいやん!」
「うわああああああん!! あーにーきー!」
泣きながら2人は同時に黒斗の身体へ抱きついてきた。
正直 2人も抱きついてくると重たいのだが、ここで そんなことを口にするのは野暮だろうと黒斗は黙って2人の頭を撫でる。
「ぐすっ……うぅ……もう起きへんかと思った……もうクロちゃんと話が出来へんかと思った……」
「お、オレも……白いカーネーションなんか持って来ちゃって、本当に兄貴が死んじゃったら どうしようかと……」
泣きじゃくる2人の言葉に、黒斗は苦笑した。
「……お前らみたいな危なっかしい奴らを置いていけるか」
幼子のように泣き続ける鈴と玲二に、黒斗はポツリと呟いた。
──コイツらを守ること、罪人を裁くという信念を貫くこと
──それが今の俺の生きる意味、理由
──もう俺は大丈夫
──だから……安心してね、お母さん
チラリと夕日が射し込む窓の外を見やると、金色の光が浮かんでいて、その光は やがて夕日に溶け込むようにして消え去った。
“大好きよ…………黒ちゃん…………ありがとう”