涙10
翌日の朝 日向子と黒斗の家
「…………いで! 出……って下さ……!」
「…………んぅ?」
布団の中で眠っていた黒斗の耳に日向子の声が届き、彼の意識を覚醒させる。
「おかあさん……?」
黒斗は眠そうに目を擦りながら起き上がり、隣に敷いてある布団を見ると日向子が居ないことが分かり、続けて声が聞こえてくる方向に視線を移す。
「金に糸目…………から、たの……」
「…………いう問題じゃあ……」
居間の方から かすかに聞こえてくる日向子と男の声が気になり、黒斗は半分寝ぼけたまま足音を立てないよう静かに歩き、僅かに開いた襖の隙間から居間の様子を覗き見た。
「…………!?」
居間で日向子と向かい合っている男の姿を見た刹那、寝ぼけていた黒斗の頭が一気に目覚める。
何故なら、母と会話をしている男が あの関谷 研一だったからだ。
(何でアイツが……!? お母さんに何かするつもりか……!?)
研一の姿を認めると同時に心臓がドクドクと脈打ち始め、冷たい汗が背中を伝う。
すぐに居間へ飛び出して、あの下劣な男を この家から追い出したい衝動に駆られるが、日向子と研一は互いに手を少し伸ばせば届くほど近い距離だ。
下手に自分が出ていけば、研一が日向子に危害を加える可能性が ある。
そのことを危惧した黒斗は、焦るばかりの気持ちを落ち着かせる為、なるべく音を立てないように深呼吸を繰り返す。
何とか少しだけ冷静さを取り戻し、改めて黒斗は研一の観察を する。
(…………殺意等は無い……とりあえず、お母さんに何かしようって訳じゃないみたいだ)
危害を加えるつもりでないのなら、彼は何しに来たのか。
とりあえず懸念していることは起きないようなので、このまま黒斗は息を潜めて2人の会話を盗み聞きする。
「……何と言われても、私は考えを変えるつもりは ありません。お引き取り下さい」
黒斗には日向子の背中しか見えておらず、表情を見ることは出来ないが、怒りを必死に抑え込んでいるような静かな震え声から察するに、決して穏やかな表情では ないことが窺い知れた。
そんな彼女と向かい合っている研一は困ったように眉を下げているが、その口は嘲笑を浮かべている。
「日向子さ~ん、意固地に ならないで下さいよ。このまま あの子が ここに住んでいても幸せに なれない……なれる筈が無いんです。
金は無い、町の住人からは忌み嫌われる、唯一の頼れる相手が老い先短い老婆……お先真っ暗では ありませんか。
だから私が直々に あの子を養子として引き取ると言っているのです。豪勢な屋敷に住んだ方が、あの子も幸せでしょう」
「……何も知らない癖に……勝手に あの子の幸せを決めつけないで!!」
腕を振り、声を荒げる日向子。
一方 黒斗は2人が何の話を しているのか分からず、ただ首を傾げるばかりだ。
「幸せを決めつけているのは貴女でしょう? 何ですか、その『私が居ないと あの子はダメなの』という考えは。自惚れにも程がありますよ」
日向子をバカにするように失笑すると、研一は右手の指先で鼻の下に生えている髭を擦り始めた。
「貴女が裏山で1人は寂しいのなら、代わりに私の家の使用人を適当に差し上げましょう。もしくは、先程 申した通り お金の方が良いでしょうか?」
「ふざけないでっ!!」
日向子の怒鳴り声に研一は おろか、黒斗までもがビクリと震えて目を見開く。
(……お母さんが……怒ってる……)
日向子と一緒に暮らして3年に なるが、黒斗は1度たりとも穏やかな母が怒ったり怒鳴ったりした姿を見たことが無い。
そんな母が人を怒鳴っている場面を目撃し、黒斗は動揺を隠せない。
一体 何が母に そこまでさせるのか。
気になって仕方ない黒斗は罪悪感に苛まれながらも、盗み聞きを続ける。
「……ハア、本当に強欲ですねえ……たかが一円では売れないと? では、太っ腹に いきましょうか」
研一は呆れたように深い溜め息を吐くと、徐に背広の内ポケットへ右手を入れると、これ見よがしに一円硬貨を五枚も取り出した。
「!!」
見たことが無い大金に黒斗は思わず息を呑むが、その金を目の前で見ている日向子は身じろぎも しない。
「お金を仕舞って下さい。いくら大金を積まれようとも、私は息子を売ったりなんかしません!」
日向子が キッパリと言い切ると、研一は舌打ちをして五枚の一円硬貨を内ポケットに仕舞った。
「……今日は大人しく帰ってあげましょう。でも私は諦めませんからね」
不敵な笑みを浮かべた研一は ゆっくりと彼女に背を向けるが、その途中でキョトンとしたように目を丸くして動きを止めた。
だが それも一瞬のことで、直ぐ様 表情をニヤケ顔に戻すと彼は踵を返し、そのまま家から出ていった。
研一が家から出ていくのを見届けると、黒斗は襖を開けて居間へと足を踏み出し、玄関の前で佇む日向子へ近寄った。
「…………黒ちゃん、起きてたのね」
「うん……」
頷く黒斗だが、日向子は こちらに背を向けたまま何も言わない。
気まずく重い沈黙が居間に舞い降りるが、それを破るべく黒斗は思いきって口を開く。
「あの関谷 研一って男……俺が欲しいんでしょ? 俺が目当てで……昨日も今日も来てたんでしょ?」
「………………」
「……アイツは俺が目当て……俺を手に入れるまで、俺が ここに居る限り、何度でも……この家に来続ける……俺の……せいで……」
言葉を紡ぐ度に気持ちが落ち込んでいき、その気持ちに呼応するように顔も俯いていく黒斗。
すると日向子が振り返り、眉を下げて切なそうな表情を浮かべた。
「黒ちゃんのせいじゃないわ。それに、あの人が毎日 来たって何も問題ないでしょう? 関谷さん、ああ見えて悪い人では ないのよ?」
「悪い人では ないだって? いい加減 誤魔化すのはやめてよ……俺は知ってるんだよ……あの男が……お母さんの夫と姑を殺し、その罪を お母さんに 擦り付けたことを……!」
俯いていた顔を上げて黒斗が言うと、日向子は驚愕の表情を浮かべた後、そっと目を伏せた。
そんな日向子の両手を黒斗は握り、諭すように言葉を かける。
「お母さんなら分かってると思うけど……アイツは普通じゃない……今は まだ お母さんを どうにかしようと考えてる訳じゃなさそうだけど……いつか お母さんに危害を加える可能性が高い……」
研一の危険性を話す黒斗の脳裏には、昨日 覗き見た彼の記憶が鮮明な映像となって映し出されていた。
******
関谷 研一が世界で一番 愛した男――月影 譲治。
2人が出会ったのは、研一・譲治共に5歳の頃だった。
出会いの切っ掛けは、研一が両親や使用人の目を掻い潜り1人で外へ出て、今も尚 残っている時計台広場へ行ったこと。
その広場で彼は、偶然にも1人で お手玉をして遊んでいる譲治と出会ったのだ。
3つの お手玉を、まるで曲芸師のように器用に回す譲治に みとれる研一。
その動きは勿論だが、短く切られている赤毛まじりの茶髪と、髪と同じ色をした くりくりとした大きくて愛らしい瞳という整った容姿にも研一は惹かれていた。
そして暫く見つめ続けていると、彼の方から研一に話しかけてきた。
「良かったら、一緒にやらないか?」と。
遊びに誘われたことに研一は喜び、早速 譲治から お手玉を借りて、譲治が やっていたように上へ放り投げる。
だが、お手玉を回すどころか上から下に落下する お手玉すら満足にキャッチ出来ず、研一の表情が段々と苛立ちを含むものへと変わっていく。
何度目かの お手玉を受け損ねて落とした時 研一は癇癪を起こし、手に持っていた残り2つのお手玉を地面に叩きつけ、「何で お前には出来て、俺には出来ないんだ」と喚きだした。
だが譲治は自分のお手玉を乱暴に扱われたことにも腹を立てず、穏やかな笑みを浮かべて研一に言う。
「俺が教えるから、一緒に練習しよう」と。
そう言った時の優しくて可愛らしい笑顔を見た研一の胸がドキンと鳴り、怒りが引っ込んだ彼は素直に頷いた。
この時から既に研一は譲治に恋心を抱いていたのかもしれない。
「…………ふう、つかれたあ」
遊び疲れたのか、研一はグッタリと地面に座り込んだ。
既に空はオレンジ色の光で照らされており、どうやら2人は何時間も お手玉に夢中となっていたようだ。
「……そろそろ かえらなきゃ……でも、お前みたいに お手玉を回せなかったなあ」
譲治に手取り足取り教えてもらったものの、結局
研一が出来たのは放り投げた お手玉をキャッチするという基本的な事だけ。
そのことが よっぽど悔しいのか、研一は唇を尖らせながら手のひらで お手玉を転がしている。
「ハハハ、そんな直ぐに出来る訳ないじゃん。俺だって、ここまで出来るのに何日も かかったんだよ?」
「え、ほんと?」
目を丸くして驚く研一に、譲治は さらに言葉を続ける。
「うん。だからキミも、れんしゅう すれば出来るようになるよ! それまで一緒に がんばろうよ!」
譲治が言った“一緒に”という言葉を聞いた瞬間、研一の心臓が激しく動き出し、ドクドクと脈打つ速度が増す。
「また……遊んでくれるのか?」
期待を胸に恐る恐る問いかける研一。
すると譲治は歯を見せながらニッコリと笑い、右手を研一に差し出した。
「当たり前じゃん! 俺たち もう友達だろ? 俺、よく1人で、ここで遊んでるからさ、また来てよ!」
その言葉を聞いた研一は目に涙が滲んでしまった。
これっきりの縁だと思っていたのに、また会ってくれると、遊んでくれると――そして何より、見惚れた相手が生まれて初めての友達になってくれたことが嬉しくて堪らなかったのだ。
「ありがとうな! 俺は せきや けんいち、お前は?」
「俺、つきかげ じょうじ! 宜しくな、けんいち」
互いに名を名乗り、2人は微笑みあいながら握手を交わした。
華族の研一と、平民の譲治。
この日から身分が違う2人の友情が始まった。
2人は互いに初めての友達だった。
研一は気難しい性格ゆえに友達が出来ず、譲治は お手玉や あやとり等、女児が好むような遊びばかり していた為、男からも女からもバカにされ続けていたのである。
だからこそ、大切で かけがえのない友人だった。
月日が流れ、学校に通うようになってからは研一も譲治も少なからず友人が出来たが、お互いが一番だということには変わりなく、むしろ時が進むにつれて友情は深まっていったのだ。
まあ、研一の場合は深まったのは友情よりも愛情だったが。
毎日のように会っては他愛のない話をしたり、研一が約束も無しに譲治の家へ遊びに行くなど、いささか礼儀に欠いた行動をしても譲治は怒るどころか喜んで友人を迎えた。
だが そんな2人の日常を大きく変える出来事が、ある日 突然 前触れも無く起きてしまう。
それは暖かな日差しが射し込む、春のことだった。
22歳となった研一と譲治は、譲治の亡くなった父の墓へと手向ける花を買うべく、この町唯一の花屋を訪ねた。
「譲治、何の花を買うんだ?」
「うーん、まだ迷ってるんだよなあ……見栄えが綺麗で派手な花にするか、父上が好きだった花にするか……」
難しい顔をしながら、店先に並んでいる色とりどりの鮮やかな花を見つめる譲治。
「やはり ここは菊の花……いや しかし父上は菊が あまり好きではなかった…………おお、こんな所に綺麗な紫陽花が……しかし仏様には向かない花だと母上が仰っていたな……」
花を一輪 手にとっては戻し、また手にとっては戻しを繰り返す譲治。
ブツブツ呟くばかりで一向に何の花を買うか決められない優柔不断な友を見兼ね、研一は せわしなく動く彼の頭を軽く小突く。
「いたっ」
「譲治 悩みすぎ。別に良いではないか、譲治の父様が好きだった花で」
思ったことを率直に口にすると、譲治は考え込むように腕を組んで俯き、すぐに顔をバッと上げて笑う。
「ハハハ、研一の言う通りだな。確かに父上が喜ぶような花が一番だ。よし、菫にするよ。おおーい!」
さっきまで悩んでいたのが嘘のように すんなりと決めると、譲治は店の奥に向かって声を出し、店員を呼びつける。
すると直ぐ様「はーい」という穏やかな女の声が聞こえ、数秒の間があった後に桃色の着物を着た若い女が、店の奥から姿を現した。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません。お花は お決まりでしょうか?」
腰まで流れる艶やかで細く、絹のように美しい黒髪を持つ店員が にっこりと笑いながら譲治に問いかける。
美しいのは髪だけでなく、まるで人形のように愛くるしい顔立ちと、穢れを知らぬような純粋で吸い込まれそうな漆黒の瞳が特徴な顔立ちをしている。
一般的には男女問わず、思わず振り向いてしまいそうな美女に分類されるのだろうが、研一は彼女に興味など一切なかった。
しかし、対して譲治は心を奪われたかのように呆けた表情で彼女を見つめている。
「……あの……どうかなされましたか?」
呼びつけられたのに何も注文をされず、女が困ったように眉を八の字にしながら苦笑いを浮かべると、譲治はハッと我に返った。
「す、すまない! この菫の花、だが、あの、その……花束にして くれないだろうか!?」
「はい。承けたまりました」
何故か どもっている譲治を不審に思うことなく、女は彼が示した菫の花を数輪 手に取り、再び店の奥へと姿を消した。
後に残された譲治と研一はボンヤリと店内に立ち尽くし、女が戻ってくるのを待つ。
その間にも、顔だけでなく耳まで真っ赤にしている譲治は落ち着き無く その場をグルグルと回っており、そんな彼を見た研一は嫌な予感を抱く。
「…………譲治、お前……まさか、あの おん」
「お待たせ致しました」
研一の言葉を遮りながら、花束となった菫を抱えた女が戻ってきて、未だに茹でタコ状態の譲治に花束を差し出した。
「あ、あ、あ、ど、ども」
一昔前の からくり人形のように やたらとカクカクしている ぎこちない動きで花束を受けとる譲治。
「お代金は十銭となります」
「あ、ああ」
やはり妙に かくついた動きで着物の内袖から金を取り出し手渡すと、譲治は くるりとUターンをして、軍隊のように足を高く上げながら歩き出し、店の出口へ向かう。
だが その途中、彼は何か思いとどまったかのように歩みを止め、上半身を捻って女の方へ振り向いた。
「あ、の! 差し支えなければ……貴女の名を教えては、いただけない、だろうかっ!?」
「!!」
目をギュッと閉じながら声を絞り出した譲治。
彼が放った言葉に女と研一が同時に目を丸くして驚くも、女は直ぐに笑顔を浮かべて ゆっくりと口を開いた。
「私、月影 日向子と申します。どうぞ お見知りおきを」
「月影だってえ!?」
素っ頓狂な声をあげる譲治に、さすがの日向子もビクリと肩を跳ね上がらせる。
「あっ、驚かせて すまない! 俺と同じ姓だったものだから……つい興奮してしまって」
「まあ、そうなのですか。偶然とは面白いものですね」
上品に口許へ片手を当てて笑う日向子。
そんな彼女の仕草 一つ一つに譲治は目を惹かれ、心の中が綺麗に洗われるような感覚を抱く。
一方 そんな日向子と譲治の やり取りを面白くなさそうに見つめていた研一は痺れを切らしたように舌打ちをし、譲治の左腕を鷲掴みにして強引に引っ張り始める。
「ほら譲治! さっさと行くぞ!」
「うわっ、ま、待てって研一~! うわーん、日向子さん さらば~!」
「はい、またの ご来店お待ちしております」
騒々しく出ていく客2人に、日向子は嫌な顔1つせずにペコリとお辞儀をして見送るのだった。
「おい……研一 痛いって、離してくれよ」
花屋を出て遠ざかっても尚、腕を引き続ける研一に文句を言うと、ようやく彼は譲治の左腕から手を離した。
解放されたものの、強く捕まれてジンジンと痛む左手首を振る譲治。
すると研一は彼に背を向けたまま口を開いた。
「……お前さあ……様子がおかしくなかったか? 何で わざわざ店員の名前なんか聞くんだよ」
口調は強気だが、言葉を紡ぐ声が微かに震えているのは研一の不安を投影しているからだろうか。
彼は拳をグッと握り、譲治の言葉を待つ。
──譲治は誰にでも友好的だ
──だから、あの女にも そういう思いで接していただけ
──俺は そう……そう信じてる!
懇願するように瞼を閉じる研一。
「ハハハ、やっぱり研一は勘が良いなあ。実は俺……あの女性に一目惚れをしてしまったんだ」
研一の淡い祈りは、譲治の軽い口調から放れた言葉によって粉々に砕け散った。
「いやあ、あんな美しい人は初めて見た。まさに立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花って奴だよ」
ほんのりと赤かった頬を再度 上気させ、興奮気味に喋る譲治。
だが今の彼が紡ぐ言葉は、研一に とって心に容赦なく突き刺さる鋭利な刃物でしかない。
──分かってたさ、いつか こんな日が来ることは
決して譲治に振り向くことなく、研一は唇を血が流れ落ちるほど強く噛み締める。
普通の友人ならば、ここで譲治を祝福したり応援したり、からかったり等するのだろう。
だが譲治に密かな恋心を抱いている研一にとって、譲治が誰かに恋をしたと言うのは失恋と同等――もしくは それ以上のショックなのだ。
確かに男同士であることを考慮して、思いを伝えることも つもりも無かったが、いきなり譲治に片思いの相手が出来たことを喜んでやれるほど研一は出来た人間ではないが、譲治が破局するのを願うような酷い人間でもない。
──どうせ……どうせ俺達は男同士……どっちにしろ結ばれない運命……
──だったら……せめて譲治が幸せになれるよう祈るしかない
「…………良かったな、譲治。応援するから、頑張れよ」
「おう、ありがとう研一!」
菫の花束を抱え直しながら笑顔で礼を言う譲治。
一方の研一は暗く重い気分と、血を吐くような思いをしながら愛する男の恋の成就を祈った。
その後、譲治は日向子にアタックするべく花屋に足繁く通った。
穏やかな日向子と、心優しく話し上手な譲治が仲良くなるのに そう時間は かからなかった。
何度も会って話をするのを繰り返すうちに、日向子は気さくな譲治に好意を抱き、やがて好意は愛情に変わり、そのまま2人は すんなりと結婚した。
日向子は譲治より5歳も年上だったが、年の差を感じないほど2人は仲睦まじい夫婦であった。
ちょっと のんびりやな日向子。
ハキハキとしていて しっかりものの譲治。
そして、そんな息子と息子が選んだ女を愛する譲治の母親。
3人の世界が、家庭が築かれていく その様子を、“家族”ではない研一は、寂しそうに見つめるしか出来なかった。
──これで、きっと、良かったんだ
──譲治が幸せなら、俺も幸せなんだ
──俺は、譲治の一番の親友として、側に居られるだけで良いんだ
そう思っていた。
思っていた、のに。
譲治は結婚してから、研一に冷たくなった。
否、決して譲治は研一に冷たくしていた訳でも、研一が嫌いになった訳でもない。
仕方なかったのだ。
家庭を持つ以上、譲治だって毎日 四六時中 研一に構ってやれる訳ではないのだから。
研一が会いたいと言っても家庭が出来た譲治にだって都合があるし、約束も無しに研一が譲治の家に遊びに来ても、譲治だって困る。
気ままな独身なら ともかく、妻や家庭の事情が あるのだから必ず家に上げられないのだ。
だが、研一は そんな友人の態度が冷たいと、前とは別人のように変わってしまったと、そう感じていた。
そして、譲治が冷たくなったのは日向子のせいだと――日向子が誘惑しているからではないかと思うようになっていった。
──譲治は こんな奴じゃなかった
──きっと あの女に唆されているに違いない……
──早く……早く あの女を譲治から引き離さないと……
──譲治は あの女の操り人形になってしまう!
そう思った研一は、譲治から日向子を遠ざけるべく行動を開始した。
譲治と日向子が結婚してから半年 経った ある日――
日向子が花屋の仕事で家を留守にしているのを見計らい、研一は またも約束無しに譲治の家を訪れた。
いきなり やって来た研一を譲治は内心 快く思っていなかったが、親友を傷つけないように笑顔を張りつけて彼を部屋に招き入れた。
「……で、どうしたんだい? 急に家へ やって来て」
丸型の卓上に緑茶が入った灰色の湯のみを置くと、譲治は向かいに座っている研一に問いかけた。
「…………」
しかし研一は、俯いたまま何も言わない。
「研一?」
覗きこむように身を屈める譲治。
すると突然、研一が両手の拳で卓上を強く叩きつけた。
ガタン、という音と共に研一側の湯のみが傾いて倒れ、中に入っていた緑茶が湯気と共に飛び出し、木製の卓上と畳を濡らしていった。
その様子を見ていた譲治は呆気にとられて言葉を失っていたが、不意にハッと息を呑んで我に返る。
「お、おい けんい」
「譲治!! 頼む、あの女と別れてくれっ!!」
譲治の言葉を掻き消して、研一は声を張り上げながら土下座をした。
あまりにも急な展開と研一の言っていることの意味が分からず、譲治は戸惑うばかり。
すると研一は四つん這いで譲治の側に寄り、彼の右手を両手で包み込んだ。
「君は気づいていないようだけど、君は確実に あの女に毒されて おかしくなってきている! このままでは、君は君で無くなってしまう!」
「ま……待ってくれ研一! あの女って日向子のことか!? それに俺が おかしくなったって……俺は何も変わっていないぞ?」
息巻く親友を落ち着かせるべく、両手を突き出しながら言い聞かせるように喋る譲治。
だが研一の勢いは削がれるどころか、むしろ強まってきており、その行動は逆効果だったようである。
「おかしいんだよっ!! だって……だって、前の君は毎日のように俺と会ってくれたのに、結婚してからの君は毎日 会ってくれなくなった!
俺が家に来たら、喜んで出迎えて上げてくれたのに、今では門前払いばかりじゃないか!!
君は変わった、おかしくなった、冷たくなった! あの女のせいで!」
言いたいことを叫んで吐き出すと、研一は息が切れたのかガックリと項垂れて荒い呼吸を繰り返した。
研一が「ハアハア」と息を吐き出す度に肩が上下し、額に滲んだ脂汗が1滴だけポタリと畳に落ちた。
「……………………」
譲治は何も言わず、呆けたように研一を見つめるだけ。
先程まで研一の声が やかましい程に響いていた部屋は、今や研一の荒い呼吸音だけが支配している。
「…………クスッ」
不意に譲治の笑い声が聞こえ、研一が ゆっくりと顔を上げると、予想通り笑みを浮かべている譲治と目が合った。
「なーんだ研一。構ってもらえなくて日向子に嫉妬してるのか? アハハ、可愛い所も あるんだな」
合点が いったようにケラケラと笑う譲治だが、研一の表情は未だに暗い。
「寂しい思いをさせて ごめんな。でも俺だって結婚した身だからさ……前みたいに頻繁に会える訳じゃないってことは、理解してほしい」
「………………」
研一は黙って譲治の顔を見つめている。
「お前の言っている通り、確かに一緒に出掛けたりは あまり出来なくなった。でも、これは家庭を持つ以上 仕方のないことだ。日向子のせいじゃない。
前のように会えなくても、お前が俺の一番の親友であることには変わりないし、時間が あれば会って話をしたいと思ってるよ」
「譲治…………」
優しい笑みを浮かべて言う譲治を見て、研一の心臓が早鐘を打ち始める。
(こ、この……譲治め! そんな笑顔を見せられたら……我慢できなくなるじゃないか!)
欲情に駆られてしまう研一。
身体中が火照ったように熱くなるのを感じる。
大事な所が元気になって大きくなるのを感じる。
興奮のあまり、口の端から僅かに唾液が流れるのを感じる。
今まで会えなかった分の寂しさと欲求不満が手伝って、抑え込むのが難しい程の性的興奮を研一は感じていた。
だが、ここで激情に駆られるまま彼を滅茶苦茶にしてしまったら何もかもが終わりだと思い、研一は血ヘドを吐くような思いをしながら必死に理性を保つ。
しかし譲治は そんな彼の苦しみなど露知らず、心配そうに眉を寄せて顔を覗きこむ。
「大丈夫か研一? 随分と顔色が悪いみたいだし、汗もスゴいじゃないか……具合が悪いなら横になるか?」
「……っ!」
互いに息が かかりそうな程に近い距離に、研一の理性という名の箍が飛びそうになる。
ただでさえ興奮しているのに、更なる興奮を与えてくる愛しい譲治を研一は恨めしそうに睨みつける。
別に譲治に他意は無い。
彼は昔からボディタッチなどのスキンシップが過多なのである。
平常時の研一ならば、このスキンシップに喜んで胸を ときめかせるだろうが、今の研一には理性を破壊しようとする凶器でしかない。
──頼むから、これ以上は……!
口をパクパクさせる研一。
それを見た譲治の反応は――
「どうした!? 何か言いたいのか!? 悩みとか あるなら、何でも言ってくれ」
研一の手を強く握り、真剣な眼差しで研一を真っ直ぐに見つめるという火に油を注ぐものだった。
「………………………………本当に、何でも言っていいのか?」
「当たり前だろ? 俺は研一の力に なりたいんだ」
その言葉を聞いた刹那、研一の中の何かがハジけた。
「譲治!」
叫ぶと同時に、研一は譲治の唇に自分の唇をぶつけた。
「ん、うっ!?」
突然の出来事に譲治は対処できず、唇を塞がれたまま研一に押し倒されてしまう。
「~~ん、んんんん!!」
研一の舌が自分の舌に絡まる。
息が出来ない程の熱いキスに譲治は呻き声を あげながら苦しむが、研一はリップ音を響かせるばかり。
さらに、研一の片手が股間に触れてきた。
「ーーーーーー!!」
我慢が出来なくなった譲治は渾身の力で、身体に乗っている研一を突き飛ばした。
不意に強い力で飛ばされた研一は亀のように引っくり返ってしまい、彼が起き上がる前に譲治は口内に残る己の唾と研一の唾液を吐き出す。
「うぉえぇぇぇ……うぐ、うげっ」
糸のように長い唾液が譲治の口から出てくる。
あまりの気持ち悪さに、生理的な涙が目に滲む。
「けんいちぃぃぃ!! なんのつもりだああ!!」
血走った目で、座り込んでいる親友を睨む譲治。
その目には明らかな怒気が含まれているが、研一は臆することなく口を開いた。
「だって、好きなんだよ!! 俺は君が好きなんだ!! 友達としてではなく、恋愛対象として愛しているんだ!!
子供の頃から ずっと愛してた!! でも我慢して秘密にしてた! なのに君が俺の心を乱すから……抑えられなくなった!!」
勢いに任せた研一が思いの丈をぶつけると、譲治の顔から表情が消えた。
「…………子供の頃からずっと……? つまり、お前は ずっと、俺が好きだったと……愛していたと……?」
絞り出されたような譲治の声に、研一がコクンと頷くと、その場に沈黙が舞い降りた。
研一も譲治も何も言わない。
ただ黙って お互いを見つめるだけだ。
2人の顔には表情が無く、何を思っているのか、何を感じているのか、まるで分からない。
「…………」
不意に譲治の震えている唇が、言葉を紡ぐ為に動きだした。
「…………気持ち悪い」
消え入りそうな声であったが、研一の耳にはハッキリと聞こえた。
拒絶の言葉が、否定の言葉が。
「じ、じょうじ……」
四つん這いで譲治に近づこうとする研一だが、彼は素早い動きで立ち上がり、まるで害虫でも見るような眼差しを向けながら部屋の隅に移動した。
「お前は……ずっと俺のことを そういう卑猥な目で見てたんだな。友達だと思ってたのに……裏切られた気分だよ」
「そ、そんな……待ってくれよ譲治!」
研一は立ち上がり、覚束ない足取りで譲治に近づいて右手を伸ばす。
だが伸ばした右手はパチン、と音を鳴らしながら勢いよく叩き落とされた。
「俺に近づくな!! いや……金輪際俺の前に姿を見せるな!!」
ハッキリと発せられた拒絶の言葉を聞いた研一は、頭の中が真っ白になり、身体中から感覚が消え去った。
唯一 残ってる感覚は、ジンジンと痛みを訴える、譲治に叩かれて赤くなった右手の甲。
研一が譲治に叩かれたのは、これが初めてだった。
──どうして?
──どうして、こんなことするんだい?
──君は優しかったじゃないか、君は俺を叩いたことなんかなかったじゃないか
──それなのに、どうして?
──どうして拒絶するの、どうして叩くの?
──こんな酷いことをするなんて、君らしくないじゃないか
──嗚呼、そうか
──あの女が悪いんだ
──あの女が君を狂わせたんだ
──あの女が君を誘惑したから
──あの女が君を洗脳したから
──あの女に妖術を かけられたから
──君は、変わってしまったんだ
──ゼンブ、ゼンブ、アノ マジョ ガ ワルインダ
「…………悲しいよ譲治……もう、もう手遅れだったなんて」
「……はあ?」
研一の言葉の意味が理解できず、譲治は訝しげな顔をして首を傾げる。
すると研一は涙を流しながらニッコリと笑い、譲治を見つめた。
「譲治……君は あの魔女に洗脳されてるんだ。そして、その洗脳を解くには……」
言葉を切って背広の内ポケットに手を入れると、研一は そこから外国製の折り畳みナイフを取り出し、譲治に向けた。
「君を殺すしかないんだ。君を殺すしか、あの魔女から解放される手段が無いんだ」
そう呟くと、研一はナイフを強く握ったまま譲治に突進していった。
一方 譲治は、あまりにも予想外かつ急な出来事に頭が追いつかず混乱していたのか、向かってくるナイフを避けることも出来ず、そのまま心臓を一突きに されて、意識を失った。
「うわああああ……譲治、じょうじぃ……」
涙と鼻水、そして唾液で顔をグチャグチャにした研一は、泣き喚きながら譲治の心臓からナイフを引き抜き、再度 突き刺す。
「譲治、ごめんよぉぉ……こうなる前に君を救えなくて……ごめんよ、ごめんよおぉぉぉ……」
倒れた譲治の心臓を、何度も何度もナイフで滅多刺しにする研一。
彼の身体には返り血が大量に付着しているが、研一は それを気にすることも拭うこともせず、泣きながらナイフを刺しては抜き、抜いては刺すことを繰り返す。
猟奇的な光景が広がる部屋に響くのは、研一が すすり泣く声と、グチュッという肉が裂けて血が噴き出す音だけ。
「譲治、譲治、譲治。愛してた、愛してた、愛してた。今でも好きだ、愛してる……ああ譲治……」
何度目かのナイフを降り下ろして譲治の心臓に突き刺すと、研一は血糊でベッタリと濡れた手で譲治の袴を脱がし始めた。
亡骸の衣服を脱がすのは想像以上に時間と手間が かかるものだったが、それでも研一は手を止めず一心不乱に譲治の袴を脱がし続ける。
その甲斐あって、譲治の袴は脱がされて下半身が露となり、研一は鼻血と よだれを垂らしながら譲治の身体を まじまじと見つめた。
「譲治……最後に……君を感じさせてくれ」
熱を帯びた目で瞳孔を開いて死んでいる譲治を見つめると、研一は譲治の血が付着している唇で しゃぶりついた。
「…………ハ、アッ…………」
イヤらしい喘ぎ声をあげながら、研一は馬乗りに なっていた譲治の身体から転がり落ちた。
「……ありがとう譲治……ありがとう…………」
うわ言のように礼を述べる研一の姿は、一糸纏わぬものだった。
彼は遺体相手に、持て余した性欲を解消したのである。
研一が やったことは遺体への――死者への冒涜以外の何者でもない。
だが愛に生きて愛に溺れ、愛で壊れた研一には 譲治の身体を弄んだ罪悪感も良心の呵責も無かった。
「…………仇は討つよ……必ずな……」
研一は全裸のまま ゆらりと立ち上がると、譲治の胸に突き刺さっているナイフを引き抜いた。
生々しい音と共に血が噴き出すが、もはや体内の血液が枯渇しているのか、飛び出した血の勢いは非常に弱い。
「……譲治が寂しがると いけないから……君の母親も送ってあげるね」
血と研一の体液で汚れた譲治の遺体にニッコリと微笑むと、研一は嬉々(きき)とした様子で譲治の母親が居るであろう寝室へ向かうのだった。