涙7
あれから1週間――日向子は1度も町に降りることなく、黒斗と共に裏山に籠りっぱなしで過ごした。
日向子は自宅で編み物をしたり、食事の用意などをして過ごし、黒斗は日向子の家事を手伝ったり、人間の世界の常識などに ついて彼女から教えてもらった。
もともと好奇心が強い黒斗は当たり前のことから細かいことまで、日向子に しつこいほど聞いたりしたが、それでも彼女は嫌な顔一つもせずに にこやかに笑って丁寧に教えてくれたのだ。
まだ1週間ほどしか共に過ごしていないにも関わらず、黒斗は人が良くて心優しい彼女へ心を開いていた。
それだけに、彼は日向子が悩みを打ち明けてくれないのを もどかしく感じるばかりである。
******
「おはようございます」
ある日の朝、いつものように目覚めた黒斗は居間で編み物をしている日向子に声をかけたが、彼女からの返事は無い。
「……日向子さん?」
怪訝に思って声をかけるも やはり返事は無く、黒斗が彼女に近づいて肩を叩くと、日向子は短い悲鳴をあげて振り向いた。
「あらー、黒斗くん。おはよー」
そう言っていつものように笑う日向子だが、黒斗は彼女の様子が おかしいことに気づき、訝しげに顔を覗きこむ。
赤く火照った頬、とろんとした瞳。
そして妙に間延びした声。
もしやと思い、黒斗は日向子の額に手を押し当てた。
すると額が熱を帯びていることに気づき、黒斗は眉を潜める。
「日向子さん、熱があるじゃないですか! 編み物なんかしてないで寝てて下さいよ!」
「フフ、大丈夫よ。ただの風邪だもの」
「大丈夫じゃないですっ! 横になってて下さい」
黒斗は日向子が持っている編みかけの手袋を奪い、寝室をビシッと指さすも、日向子は困ったように笑うだけだ。
「でもね、今日は編み物を売ったり食材の買い出しに出掛けたりしなくちゃいけないの。寝てる場合じゃないわ」
「いやいや寝てる場合ですよ。それに……編み物を売ったり、買い出しとかなら俺がやりますから」
胸を張って己を指さす黒斗だが、日向子は唖然としたように あんぐりと口を開けている。
「く、黒斗くんが1人で町に? 大丈夫なの? 迷子になったりしない?」
「迷子って……小さな子供じゃないんですから。俺1人でも大丈夫です」
拗ねたように唇を尖らせて黒斗が言うと、日向子はクスリといたずらっ子のように微笑んだ。
「分かったわ。じゃあ、折角だから今日は黒斗くんに甘えちゃおうかしら」
そう言って日向子は立ち上がると、戸棚から小さな紙を取り出して何かを書き始めた。
一方 黒斗は初めて日向子から頼られたことに嬉しさを感じ、頬が緩んでいる。
(やった……日向子さん、ちょっとは俺に心を開いてくれたかな)
日向子は優しく接してくれるものの、黒斗は何となく自分と日向子の間に見えない壁を感じていた。
黒斗の心には踏み込んでくるけど、自分の心には踏み込ませない、自分のことは自分で解決しようとする――そんな雰囲気があるのだ。
だから買い出しという些細なことでも、日向子が自分を頼ってくれたのは彼女との壁を1個壊したようなものである。
「はい、これ。買ってきてほしい物を書いておいたわ」
そう言って差し出された紙には、食料や糸の名前等が こと細かく記されていた。
「何だか心配だわ。本当に1人で大丈夫?」
「日向子さんは心配しすぎです! では行ってきます!」
風呂敷を持って勢いよく黒斗は家を飛び出す。
だが、はじめてのおつかいに行った黒斗は数十分後 後悔してしまうことになるのだった。
******
裏山から降りて、町へと辿り着いた黒斗。
だが――
「どうしよう……」
この間の小さな時計台がある広場にて、心なしか顔から血の気が引いている黒斗は 不安そうに風呂敷をギュッと握りしめ、日向子から貰った買い物リストと辺りを せわしなく見渡している。
買い物リストに書かれているのはジャガイモやニンジン等の野菜、それと赤色の布。
つまり向かう先は八百屋と呉服屋なのだが、そう簡単に行けない理由が彼にはあった。
何故なら――
「……迷子になっちゃった」
日向子の不安が現実となってしまったのだ。
「…………これはマズイ……ちゃんと日向子さんから店の場所を聞いとくんだった」
子供扱いされてムキになり、そのまま ろくに話も聞かずに飛び出してきたことを今になって後悔する黒斗。
呉服屋には この間 連れて来られたりはしたが詳しい場所は忘れており、八百屋に至っては行ったことすら無い。
そのうえ町の地理も帰り道も分からないという始末。
帰って日向子に店の場所を聞くことすら出来ず、後悔先に立たずとは まさにこのことだ。
辛うじて内河兄妹と出会った広場には辿り着けたものの、歩いても歩いても同じ所をグルグル回って、また この広場に戻ってきてしまう悪循環に黒斗は頭を抱え込む。
誰かに道を訊ねようにも、コミュニケーション力が極端に低く内気で人見知りな黒斗が見知らぬ人間に話しかけるのは勇気のいる行動だった。
夜になればゲートを開いて帰れるが、さすがに日が暮れるまで町をウロウロするのも格好が悪いし、傍目から見れば不審者である。
(……ええい、落ち込んだって仕方ない! 前向きに考えるんだ前向きに! とりあえず先に編み物を売ろう!)
ポジティブシンキングでいこうと、黒斗は共同椅子に風呂敷を置いて広げ、売り出しを開始した。
日向子によると、この編み物の売り上げが生計となっているらしいので、黒斗は気合いを入れて商売に取りかかる。
が、広場には大勢の人間が行き交ってるというのに誰1人として寄ってこない。
ならば、と黒斗は この間 日向子と町に来た時に聞いた掛け声を発した。
「……あぁみぃもぉのや~! あっみものー!」
口に手を当てながら声を張り上げる黒斗。
枝豆だか何だかを売って回っている人間の掛け声を参考にしたようだが、恥ずかしさのあまり声は裏返っており、頬はリンゴのように赤く染まっている。
「あみーものー! 編みたて~……ではないけど、フワフワのー、あぁみぃもぉーのー!!」
「……何やってんだ、お前」
「うおっ!?」
いきなり後ろから声をかけられたことにビックリして振り向くと、呆れたように半目で こちらを見つめる松太郎の姿があった。
「お前は…………えーっと…………ぐちかわ……まつのすけ……だったっけ?」
「内河 松太郎だっ! 松太郎と松之助じゃ全然 違うじゃん! お前の脳みそ腐ってんのかっ!?」
まだ声変わりしていないせいか、女の子のように高いキンキン声で文句を言う松太郎だが、黒斗は何食わぬ顔で彼を見つめているだけだ。
挙げ句の果てには面倒そうに深い溜め息を吐く始末である。
「グチグチグチグチうるさいガキだな。小さなことを気にしてばかりだから大きくなれないんだ」
「余計なお世話だっ! これから先、伸びていくんだ! ていうか、それなら俺も言わせてもらうぞ! その掛け声は何なんだ!?」
「だって、皆 物を売って回る時こう言ってるぞ?」
「阿呆! 枝豆ならまだしも、編み物で そんな掛け声をして売る奴があるかっ! 周り見てみろ!」
ビシッと効果音がつきそうな勢いで辺りを指さす松太郎。
そんな彼が指さす方向に視線を移すと、横目でこちらを見ながら避けるように遠ざかっていく人々の姿が見えた。
「……何か、変な目で見られてるような……」
「“ような”じゃなくて、まさに そうなんだよ! ああもう、日向子さんったらコイツに どんな教育してるんだよ!」
嘆くように目元を片手で覆う松太郎だが、黒斗は涼しい顔で頭をポリポリと掻いている。
まだまだ人間の感性に疎い黒斗は、良かれと思ってやった掛け声の使い方がズレていることに気づいていないようだ。
やたらとテンションが高い松太郎に、黒斗が どうしたものかと腕を組むと、彼は何かを思い出したようにハッと息を呑んで黒斗に ずいっと顔を近づけた。
「そうだよ日向子さんだよっ! この前、母上に石をぶつけられただろっ? 大丈夫だったのか!?」
先程までの ふざけた態度から一変して、真剣な眼差しで詰め寄る松太郎。
そんな彼の態度からは心の底から日向子を心配していることが感じられ、黒斗は松太郎が日向子の身を案じていることに嬉しさを感じた。
何せ日向子は町の人々から魔女と呼ばれて忌み嫌われている身。
だが、それでも松太郎や松子のように日向子と優しく接してくれている者が居るのは彼女を心配している黒斗にとっても喜ばしいことなのだ。
「……日向子さんは大丈夫だよ。そんなに大したケガじゃなかったし」
黒斗が そう言うと、松太郎は胸を撫で下ろした。
「良かったー。母上のせいで日向子さんが死んだら どうしようかと思ったよ」
大したケガではなかったと聞き、安心したようにニコニコと笑う松太郎。
そんな松太郎の様子を見ていた黒斗の脳裏に、ある考えが過る。
(……コイツだったら、日向子さんが町の人間から嫌われてる理由を知ってるかも)
日向子の力になるには、まず彼女を取り巻く環境や人間関係、そして彼女と町の人々の間に起きたトラブルを知る必要がある。
だが彼女が張っている壁は分厚く、黒斗が いくら聞き出しても日向子は のらりくらりと彼の問いを かわすばかりだ。
ならば他人から聞いた方が早い――そう考えた黒斗は思いきって松太郎から話を聞くことにした。
「……なあ。お前は、日向子さんが皆から嫌われるようになった理由を知ってるか?」
「はあ!? 日向子さんと一緒に住んでるくせに、そんな当たり前のことも知らないのか!?」
驚いたように目を丸くする松太郎だが、彼は直ぐに表情を得意気な笑顔に変え、黒斗を上目遣いで見つめた。
「仕方ないな。凛々しくて優しい、サムライの心を忘れない日本男子である、この俺が教えてやろう!
どうだ嬉しいか!? ありがたいか!? ありがたければ礼を言え!」
「はいはい……松太郎さん、最高ですー、ありがとー」
適当かつ気だるそうに返事をする黒斗だが、松太郎は偉そうに笑いながら「そこまで言うなら教えてやろう!」と、胸を張って答えた。
「聞いて驚け!! 実はな…………何と、日向子さんは2人の人間を殺したことがあるらしい!!」
高々と言い放たれた松太郎の言葉に、黒斗は絶句した。
──日向子さんが人殺し?
──それも1人だけでなく、2人も殺した?
予想外の真実に困惑する黒斗。
あの優しい日向子が人を殺しただなんてあり得ないし、それに――
(日向子さんは人を殺したにしては、魂に穢れが無かったじゃないか……)
罪を1度でも犯した人間の魂は穢れてしまう筈だが、日向子の魂は罪を犯していない人間と同じく綺麗な状態である。
つまり、日向子は無罪という訳だ。
ならば何故、彼女は人を殺したことになっているのだろうか。
疑問を口に出すのを堪え、黒斗は松太郎の言葉を黙って待つ。
「俺が生まれる前の出来事で、母上から聞かされただけだから詳しくは分からないけどな……」
松太郎は そう前置きをすると、日向子の過去について 大まかに話し始めた。
彼の話によると、日向子は今から丁度30年前に夫と、夫の母の心臓を一突きにして殺したらしい。
それも、息絶えた後も心臓を何度も刺すという残酷な方法で。
あまりにも猟奇的な殺害方法に、町の者達は蔑みと恐れを込めて日向子を“魔女”と呼ぶようになった。
22年の服役を終えて日向子は出所してきたものの、殺人者である彼女を快く迎える者など居る訳もなく、恐れられ忌み嫌われる日向子は逃げるように町から離れ、裏山に住み始めた――とのことだ。
「……それから8年間、日向子さんは ずっと1人で生きてきた。たまに町へ降りると編み物を売って生活費を稼いだり、その生活費で食材を買ったりしててな。
まあ、編み物を買ったり、品物を売ってくれたりするのは日向子さんの事情を知らない一部の人間くらいだったけど」
そこまで話し終えると、松太郎は「ふう」と一息ついて、さらに続けた。
「俺と松子が日向子さんに会ったのは2年ほど前だった。俺達 兄妹は……まあ自分で言うのも何だが、ちょっと変わった性格だったから、ろくに友人も作れず、いつも2人で遊んでばかりだった。
そんな ある日、広場で いつものように遊んでると偶然にも編み物を売ってる日向子さんを見かけて、松子がリボンを俺に おねだりして買ってやったのが日向子さんと親しくなった切っ掛けなんだ」
過去を懐かしむように遠い目をする松太郎を見て、黒斗は複雑な感情を抱いた。
(……やっぱり、出会って1週間ほどの俺じゃあ日向子さんの支えには なれないのかな)
日向子と出会って2年の松太郎と1週間の自分。
どちらが日向子のことを より知っていて、より絆が深いかは見て明らかである。
実際に黒斗は、こうして松太郎に日向子の過去を聞かなければ いつまでも彼女のことが分からないままであっただろう。
それなのに、一人前に日向子の力になりたいとばかり思ってばかりの役立たずで頼られもしない おこがましい自分に黒斗は腹が立って仕方がない。
唇を噛み締め、拳をグッと握り締める黒斗。
すると松太郎は背伸びをして、小刻みに震えている彼の肩を軽く叩いた。
「あのさ、お前 日向子さんと一緒に住んでるんだろ? 頼みがあるんだ」
「頼み……? 俺に?」
訝しげな表情をしながら小動物のように首を傾げる黒斗。
そんな彼に、松太郎は白い歯を見せながらニカッと笑いかけると、落ち着いた声音で言葉を紡ぐ。
「周りの大人や、大人に言いくるめられた他の子供達は日向子さんが殺人者だと信じて疑ってない。
でも俺と松子は、あの優しい日向子さんが人殺しなんかする訳ないと、他に犯人が居るはずだと信じてる。……お前は どうなんだ?」
「……俺だって同じ気持ちだ。日向子さんは、冤罪に決まってる」
そう呟くと、松太郎は満足そうに何度も頷いた。
「だったら話は早い。頼みって言うのはな、日向子さんの力になってほしいってことなんだ」
「…………は?」
一瞬、松太郎の言った言葉の意味が理解できず 目を丸くして間抜けな声を漏らした黒斗。
──力になってほしい?
──何も出来ない俺が日向子さんの力に?
──どうして役立たずの俺に、そんなことを頼むんだよ
思わぬ言葉に混乱する思考を落ち着かせるように、こめかみに人指し指を当てて思案する。
松太郎が こんな頼み事をしてくる意味が黒斗には理解できない。
何せ自分は日向子と出会って1週間ほどの、付き合いが浅い存在だ。
ここは むしろ、自分よりも日向子と付き合いが長い松太郎の方が彼女の力になれるのではないか――そんな考えばかりが、黒斗の脳裏に浮かんでくる。
すると松太郎は そんな黒斗の考えを見透かしたかのように、真剣な眼差しを向けながら淀みなく言葉を紡いだ。
「俺や松子だって日向子さんの力に、支えになってあげたいよ。でも俺達じゃダメなんだ。友達では あるけれど、友達以上にはなれないんだ。
日向子さんが求めているのは、友達とか そういうんじゃなくて……もっと深くて確かな絆だから。
俺達には その絆を紡げないけど、お前なら出来る気がするんだ。悔しいけどな」
自嘲気味に笑みを零す松太郎は黒斗の手を取り、強く握りしめる。
「……頼んだぞ! 絶対に日向子さんを幸せにしろよな! 泣かせたりなんかしたら、承知しないぞ!」
娘と結婚する男に対する父親のような台詞を言い終えた松太郎は、黒斗から手を離して踵を返すと――
「うわあああああん!! 日向子さんは、もう俺だけの日向子さんじゃなくなるんだあーっ! こんな陰気くさい奴の日向子さんに なっちゃうんだあー!」
意味不明なことを叫び、泣きながら走り去って行った。
「…………」
先程までの しんみりとした空気を最後の最後で ぶち壊す松太郎は、なかなかの大物のようだ。
黒斗はポカーンと口を開けながら彼が立ち去った方向を見続けることしか出来ない。
「…………あっ。裏山への帰り道や店の場所を聞いとけば良かった」
我に返った黒斗は、「しまった」と残念そうに呟きながら、目元を片手で覆うのだった。