涙5
「……………………」
気がついた時、テトラは処分場の真ん中で1人 立ち尽くしていた。
「……俺、どうしたんだっけ?」
前後の記憶が思い出せず、ボンヤリとして重たい頭を抱えるテトラ。
すると突然 床が動きだし、バランスを崩したテトラは仰向けに倒れて頭を強かに打ち付けた。
「いっ、たあ……」
ズキズキと痛む頭部を擦っている間にも、動く床は彼の身体を何処かへ運んでいく。
閉じていた瞼を開き、進行方向を見やると高速回転をしている螺旋構造の刃が映った。
「ひっ!!」
刃の他にも、壁に こびりついている鮮血や、足元で転がっている血濡れた目玉や微塵切りにされた脳髄等も視界に入り、戦慄するテトラ。
何とか立ち上がり、刃から逃げようと床が進む方向とは逆方向に走り出すも、足が縺れて倒れこんでしまう。
「うぅ……」
倒れたまま、背後を見ると刃が近くまで迫って来ていた。
「っ……いやだあっ!! 死にたくないよ、誰か……誰か助けてええぇぇぇ!!」
叫んだって誰も助けてくれないことは分かっている。
だが、それでも叫ばずにいられないのは性だろうか。
「助けて、助けてっ!!」
必死に叫び続けるテトラ。
その時、前方に金色の光の玉が現れ、その玉は人の手へと形を変えた。
「…………助け、て」
得体の知れない金色の光に手を伸ばすテトラ。
伸ばした手は、金色に輝く手を しっかりと掴んだ。
******
「キャア!」
不意に女の短い悲鳴が聞こえると、目の前の光景が暗転した後に、顔に幾つもの深いシワを刻んだ女の顔が視界に入った。
「…………え?」
見覚えの無い白髪の女を目の当たりにして、一瞬 思考が停止するテトラ。
すると女はニッコリと微笑み、ゆっくりと口を開いた。
「良かった、気がついたのね。酷いケガだったから、心配していたのよ」
「…………ケガ…………?」
朦朧としていた意識が徐々にハッキリして、テトラは自分が横たわっていることに気づく。
さらに目だけを動かして己の身体を見てみると、半裸の状態で身体中に包帯が巻かれていること、そして伸ばしている右手が女の手首を掴んでいることが分かった。
「あっ……ご、ごめんなさい!」
咄嗟に謝りながら女の手首を離すと、彼女はクスクスと笑いながら「いいのよ」と言った。
「えっと……あの……」
上半身を起こし、布団から立ち上がろうとするも女に肩を掴まれて制止される。
「ダメよ、まだ安静にしていないと」
「あ……は、はい」
「うん、素直で宜しい。お水、飲む?」
「はい……」
「分かったわ」
正座をしていた女は立ち上がり、いそいそと襖を開けて出ていった。
1人残されたテトラは何気なく部屋の中を見渡す。
畳と障子、それに襖が揃っている和風の小さな部屋。隅には包帯を巻く際に女が脱がしたのであろうテトラのコートが畳まれて置いてある。
また、部屋の中には小さな木棚しか置いてなく、明かりも小さな蝋燭の灯火だけ。
質素というよりは貧相な印象である。
「お待たせ」
襖が開く音と共に緑色の湯のみを持って女が戻ってきた。
彼女はテトラが座っている布団の傍らに座り、水の入った湯のみを手渡した。
「ありがとう……ございます」
テトラは軽く頭を下げて礼を述べると、一気に水を飲み干した。
冷たい水はカラカラに乾いていた口内や喉に潤いを与え、枯れた大地に水が撒かれているごとく全身へ染み渡る。
「プハア」
心身共にリフレッシュしたテトラは水を飲み終えると同時に笑顔となり、湯のみを女に返した。
「フフ、とても美味しそうに飲むのね。可愛い子」
ニコニコと笑いながら、女は湯のみを床に置いてある皿の上に乗せる。
そんな彼女をジッと見つめて観察するテトラ。
年の頃は顔のシワから察するに、五十代後半くらいだろう。
長く柔らかい白髪は頭の後ろで団子状に纏められており、薄紫色の着物を身に纏っている女の表情は常に にこやかで優しい雰囲気があり、見ていると不思議と気持ちが落ち着いた。
「……それにしても驚いたわ。散歩に出かけたら、男の子が血濡れになって倒れているんですもの」
テトラの視線に気づいたのか、女はテトラの目を真っ直ぐに見つめながら喋りだした。
「……貴女が手当てをして下さったんですよね。ありがとうございます、えっと……」
「ああ、ごめんなさい。まだ名乗ってなかったわね。私は月影 日向子、宜しくね」
「は、はい」
名前を聞かれなかったことにホッとして胸を撫で下ろすテトラ。
「………………」
「………………」
しかし今度は沈黙という気まずさに襲われ、重力に押し潰されているように肩にズッシリとした重みを感じる。
(…………どうしよう、何か言った方が良いのかな)
あまりの気まずさに耐えかねて話題を切り出そうとするも、話題どころか一言すら思いつかず頭を抱える。
何しろ彼は生きてきた320年の中で、まともに会話をしたのはウンデカだけであり、そのウンデカとも ちゃんと言葉を交わしたのは2、3回程度である。
コミュニケーション力など皆無に等しい彼には、話題を切り出すことは難易度が高すぎた。
内心 冷や汗を流すテトラの心情を察したのか、日向子は苦笑いを浮かべて口を開いた。
「えっと……貴方みたいな子供が血濡れで倒れているなんて普通じゃないし、着ている服も変わってるわよね。一体、何処から来たの?」
気まずい沈黙からは脱せたものの、今度は返答に困る質問を投げかけられ、再びテトラは頭を抱える。
正直に冥界から来たなんて言える訳がない。
例え言ったとしても信じてもらえないだろうし、下手をしたら頭が おかしい奴だと思われて追い出される可能性もある。
だが嘘をつこうにも、いかんせんテトラは人間界の地理に関する知識を持ち合わせていない。
それ故、適当に地名を言って誤魔化すことが出来ないのだ。
本当のことも嘘を言うことも出来ず、黙って俯くことしか出来ないテトラ。
──怪しまれたかな……?
何も事情を話さないなど、不審以外の何者でもない。
俯いているせいで日向子の表情は見えないが、きっと訝しげな視線を向けているに違いない。
恐る恐る日向子の顔を盗み見るテトラ。
「…………あっ…………」
テトラの予想とは裏腹に、日向子は優しい眼差しで こちらを見つめていた。
冷ややかな反応を覚悟していただけに、少し拍子抜けしてしまう。
「ねえ……違っていたら ごめんなさいね?」
日向子は そう前置きをすると、少しの間を置いた後に ゆっくりと口を開いた。
「あなた…………もしかして、死神さん?」
「!!!」
正体を言い当てられてしまったテトラは息を呑み、思わず顔を上げる。
(何で……!? どうして分かったんだ!?)
不審者と思われることは予想していたが、正体が見破られるだなんて夢にも思わなかった。
完全に想定外な展開にパニックになったテトラは何を言えばいいのか分からず、ただ口をパクパクと動かすことしか出来ない。
(お、お、落ち着け俺! 黙っていたら肯定してるようなもんだぞ! とにかく、死神だということが色んな人間に言いふらされて騒ぎになったら困る! 何とか誤魔化さないと!)
冷や汗がダラダラ流れる顔を両手で何度も叩いて自分自身を叱咤し、何度も深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
「ふう…………」
ようやく気分が落ち着き、テトラは おずおずと口を開いた。
「俺が死神な訳ないじゃないか。死神なんか居る訳ないじゃないか。何をバカなことを言っているんだ、ハハハ」
生まれて初めて吐いた嘘。
テトラ自身は上手く誤魔化せていると思っているようだが、その嘘は お世辞にも上手とは言えない粗末すぎるものであった。
演技かかった言葉、ヒクヒクと引きつった口の端、決して日向子を見ようとしない目。
得意気な顔で下手な嘘を吐くテトラを日向子はジト目で見つめた後、呆れ果てたような深い溜め息を吐いた。
「はい、嘘ですー。全く……小さな子供でも もう少し まともなことを言えるわよ?」
「うぐっ……俺の嘘は幼子以下ってことなのか……」
320年も生きてきたのに年端もいかない人間の子供に劣っていると言われ、何気にショックを受けるテトラ。
しかし日向子は そんな彼の心情など まるで気に止めずに、言葉を続ける。
「そんな下手な嘘を吐かなくても大丈夫よ? 別に私は他の人に あなたのことを言いふらしたりなんかしないわ」
「そ、そうですか…………でも、どうして日向子さんは俺が死神だと分かったんですか?」
「フフ、聞いて驚かないでね? 実は私……子供の頃、死神さんを見たことがあるのよ」
「えっ!?」
驚き、目を丸くするテトラ。
「…………あれは、まだ私が10歳になったばかりの頃……私は自分の部屋で眠っていたの。すると居間から お父様の悲鳴と凄い物音が聴こえて、私は飛び起きて 襖の隙間から居間の様子を窺った。
すると見えたの……全身が血だらけになって苦しむ お父様の姿と、血が ついた大きな鎌を持った黒い服を着た男の姿が」
「……………………」
黙って日向子の言葉の続きを待つテトラ。
「お父様は痛みに呻きながらも持っていた刀で死神の腹を斬りつけた。
だけど、死神が受けた傷や辺りに飛び散った血飛沫は あっという間に消え去って、そして…………持っていた鎌で お父様の首を切り落とした。
お父様が死んだのを確認すると、死神さんは黒い穴の中に入って姿を消したわ。」
話を終えて、一息つく日向子。
一方 テトラは唇を噛み締めて俯いたまま、日向子の顔を見れないでいる。
「あなたを見つけて家に運ぶ途中、完全にではないけど幾つかの傷が少しずつ塞がっていくのを見て確信したの。
ああ、この子は死神さんなんだなあって。着ている服も私が見た死神さんと全く同じものだったし」
軽い口調で喋る日向子だが、彼女の言葉を聞くテトラの気持ちは対称的に重くなっていく。
(…………俺達 死神のせいで……この人は父親を亡くした…………)
手当てをしてくれた恩人の親を仲間が殺したことを知り、罪悪感に苛まれる。
父親を目の前で亡くした日向子は さぞかし悲しかったことだろう。
「…………ごめん、なさい」
無意識のうちにテトラの口をついて出てきたのは、謝罪の言葉だった。
テトラ自身が殺した訳でないとはいえ、仲間が――身内が彼女の親の命を奪ったことに違いは無い。
テトラが謝っても意味が無いことも、償いにも何にもならないことも分かっている。
それでも彼は日向子に謝罪をせずにいられなかった。
「…………貴女の……お父さんを……仲間が、殺して……ごめんなさい」
消え入りそうな震え声で謝るテトラの手に力が入り、色褪せている布団がギュッと握り締められる。
「……ごめ……なさ、い……」
目を固く閉じて謝罪を繰り返すテトラ。
そんな彼の頭に日向子の手が乗せられて、優しく撫でられた。
「あなたが殺した訳ではないのだから、気にすることないのよ。顔を上げてちょうだい」
「でも……」
「いいのよ……昔のことなのだから、今は もう気にしてはいないし、死神さんを憎んでいる訳じゃないもの」
一言 一言を区切って、言い聞かせるように日向子が話すと、ようやくテトラが顔を上げる。
「私のことより あなたよ。どうして血濡れになって倒れていたの?」
首を傾げながら訊ねる日向子に、テトラは一瞬 言葉に詰まるが、死神だとバレている以上 嘘を吐く必要も無いと考え、冥界での出来事を話し始める。
「…………心がある死神は失敗作として処分される。そして俺は心がある失敗作。だから、俺も他の失敗作と同じように殺処分される所だった。
でも、俺は死にたくなくて……逃げてきたんだ。我を失う程 必死になって……逃げて、ここに来た」
あまり多くを語らず、簡潔に あらましを述べたのはテトラにとって冥界で過ごしてきた日々は、思い出したくもない苦痛でしかなかったから。
血生臭い牢屋、狂った死神の奇声、処分されている死神の悲鳴。
そして処分場での仲間達の死にざまと、監獄中に転がっている凄惨な遺体。
思い出すだけでヘドが出そうだった。
「そう…………あなたも大変だったのね」
テトラの頭から手を離し、同情するように悲しげに目を伏せる日向子。
簡潔な説明だったが、彼女にはテトラが悲惨なめに あってきたことが伝わったようである。
「……でも、あなたは これからどうするつもりなの?」
「…………どうするって?」
日向子の言葉の意図が分からず、きょとんとした表情を浮かべるテトラ。
「…………あなたは生まれ育った死神さんの国から逃げ出して、ここに来たんでしょう? 住む場所とか、行く宛とかは あるの?」
「……………………」
彼女の素朴な疑問に、テトラは何も答えない――否、答えられなかった。
何故なら、住む場所も行く宛も何も無いからだ。
死にたくないという気持ちだけで突っ走り、ウンデカの助けもあって冥界から人間界に辿り着いたのは いいものの、そこから どうするのかは全く考えていなかった。
「えっと……その……」
落ち着きなく目線を さまよわせつつ、腕を組んで熟考する。
テトラは外見は人間でこそあれ、中身は れっきとした死神。
死神である彼は見た目が老いることもなく、永遠に少年の姿のままだ。
人間に紛れて生きようにも、不老であることがバレて騒がれたりしては困る。
ならば人里離れた山奥等で、ひっそりと暮らしていくのが一番 良いのかもしれない。
そうすればテトラの姿が見られる可能性は格段に減り、静かに生きていくことが出来る。
その代わり、1人 孤独に生きていかなくてはならないが。
(…………結局、人間界に逃げて来ても1人ぼっちなのは同じなんだ)
死の恐怖からは逃げられても、孤独からは逃げられない。
何とも言えない皮肉な話にテトラは自嘲するように笑う。
一方 日向子は押し黙ったままのテトラを見つめ続け、やがて意を決したように口を開いた。
「……行く宛も帰る宛も無いのでしょう? だったら……私と一緒に暮らさないかしら……? もしも良かったら、だけど」
「えっ…………?」
日向子の言葉に固まるテトラ。
「この家には私しか住んでいないし、町からも離れている人気の無い裏山……他の人が やってくる心配も無いわ」
胸を張って堂々と話す日向子だが、テトラの表情は暗いままだ。
「…………迷惑、かかりますから……いいです」
日向子の申し出はテトラにとって嬉しいものではあったが、日向子に負担や迷惑をかけてしまうことを危惧して断ろうとする。
しかし日向子は怯むことなく、さらに言葉を続けた。
「迷惑だなんて とんでもないわ。私……ずっと1人ぼっちで この家に住んでいたの。1人は気楽で自由ではあったけど…………寂しかった。
だから、もしも あなたが一緒に この家に住んでくれるのなら……嬉しいわ」
そう言い終えると日向子は俯き、テトラの返事を待った。
(…………日向子さんも、1人だったんだ……)
唾を飲み、俯く日向子を見つめる。
──1人は寂しいよ
──俺も孤独だったから、日向子さんの気持ちは分かる
──お互いがお互いの寂しさを埋め合わせる為に必要なら…………俺は…………
「………………日向子さんが迷惑でないのなら…………ここで、一緒に暮らしたいです。俺も……1人ぼっちは もう嫌だから」
震える手で布団を握りしめながらテトラが言うと、日向子は顔を上げてテトラを見つめながら両手で彼の右手を包み込んだ。
「…………ありがとう。これから宜しくね」
目に涙を滲ませ、穏やかな微笑みを浮かべる日向子の顔を見ていたら、不思議とテトラは気持ちが落ち着いた。
「そうだ……まだ名前を聞いていなかったわね。あなた、名前は何と言うの?」
「……………………名前は…………無い。死神には名前は与えられないから」
「ええっ?」
バツが悪そうに呟かれたテトラの言葉に目を丸くする日向子。
まあ、名前が無いと言われれば大体の人間は そういう驚いた様子を見せるだろう。
「……名前が与えられないって…………じゃあ、今まで何と呼ばれていたの?」
「タイプζ(ゼータ)ナンバー4、テトラ」
「………………たいぷ、ぜえた? なんばーふおー? てとら?」
現在の時代は明治40年。
それに対して日向子の年齢は五十代後半。
おそらく英語が授業に加えられる前に学校を卒業したのであろう彼女は、テトラの言葉を珍妙な顔で復唱する。
「……その、ぜえた とか てとらって何?」
「ぜえた じゃなくてゼータ。ゼータは6番めのギリシャ文字で、テトラはギリシャ数字で4を意味する言葉です」
「へええ……」
感心したように溜め息を吐く日向子だが、ポカンと口が開いたままの様子から察するに理解は していないようだ。
「……日本語で言うなら……少年型 死神4号って感じです」
「ああ、なるほどね。よく分かったわ」
合点がいったように手をパンッと叩くと、日向子はテトラの顔を食い入るように見つめた。
「……これから一緒に暮らすのに、4号だなんて呼び方は変よね。よし、名前が無いのなら私が つけるわ」
「え、ええっ? 何も そこまでしなくても……」
「私が嫌なの、物のように番号で呼ぶのは。うーん、と……何て名前にしようかしら」
瞬きもせずにジーッとテトラを見つめる日向子。
ちなみにテトラは見つめられて恥ずかしがっているのか、頬が少し赤くなっている。
(うう……そんなに見つめられたら穴が空くよ……何でも良いから早くして……)
目を閉じて、日向子が早く名前を思いついてくれるよう心の中で祈る。
すると髪が指先で撫でられている感触がして、心底 驚いたテトラは「ひゃあ!?」と裏返った声を出して肩を跳ね上がらせた。
「い、いきなり髪を触らないで下さいっ。ビックリするし、くすぐったいです」
髪を触っている日向子に文句を言うも、彼女はテトラの黒髪を指先で触れたまま離そうとしない。
「ひ、ひなこさ……」
「決めたわ」
さらに文句を言おうとしたテトラの声を遮る日向子。
「こんなに綺麗な黒髪をしているし『黒斗』なんて どうかしら?」
「…………くろと?」
「ええ、黒斗よ。格好いい名前でしょう?」
「はあ」
格好いいと言われても、テトラは人間の感性やセンスが分からないので何とも言えない。
まあ、番号で呼ばれるよりはマシだと思い テトラは彼女が提案した『黒斗』という名前を受け入れることにする。
「いい? あなたの名前は『黒斗』。忘れてはダメよ?」
「……はい」
ニコニコ笑顔で そう言う日向子にテトラ――否、黒斗は どうでもよさそうに頷いた。
西暦1907年
今ここに『黒斗』という名の死神が、誕生した。
******
「…………ん…………」
布団で眠っていた黒斗が目覚め、ゆっくりと身体を起こす。
チラリと左の方を見ると、布団を被ってグッスリと眠っている日向子の姿が見える。
続いて壁に掛けられている古時計に視線を移すと、短い針が『3』の数字を指しているのが分かった。
日向子に助けられ、意識が戻った時の時刻は午後23時すぎ。
その後、会話を交わして眠りについたのが23時半すぎ。
あれから3時間半、黒斗は眠っていたようである。
(…………中途半端な時間に起きちゃったな…………)
まだ多くの人間が眠りについているであろう時刻だが、すっかり目が冴えてしまった黒斗は寝付くことも出来ず どうしようかと考える。
生活に必要な最低限の家具しか置かれていないシンプルな家には、暇潰しに使えそうな物は無い。
まあ、あったとしても物音を立てて日向子を起こしてしまうのも悪いし、勝手に物に触るのも よくないので やらないが。
(……外の空気でも吸いに行こう)
そう思い立った黒斗は布団から立ち上がり、部屋の隅で畳まれている死神のコートを身に纏うと忍び足で家を出ていった。
******
日向子の家から出てきた黒斗の視界に映ったのは、薄暗い中でも目立つ、見渡す限りの緑色。
沢山の草木が生い茂る光景と、土や木から漂う自然の匂い。
これらに 黒斗は覚えがあった。
(ここは……もしかしたら……)
まだ太陽が昇っていない薄暗い草原を見渡しながら、ゆっくりと歩く黒斗。
しばらく歩き続けると、他の木よりも一際 大きく、先端が尖った濃緑色の葉を沢山つけている円錐形の大木が目に留まり、黒斗は弾かれたように その木へ駆け寄る。
大木の前に辿り着くと、彼は両手でゴツゴツとした樹肌を撫で回し始めた。
その手の動きは何かを確かめているように見える。
やがて黒斗の手が樹肌に もともと入っている縦の割れ目ではない、深い切り傷に触れると彼の頬が緩んだ。
「……懐かしいな……まだ残ってたんだ、この木」
そう呟く黒斗が見つめているのは、樹肌に刻まれた横に長く伸びている切り傷。
これは黒斗が初めて人間界を訪れた時、記念としてデスサイズでつけた傷だった。
(ウンデカの奴、俺が人間界に来た時の場所にゲートを繋げたのか)
心の中でウンデカへ「グッジョブ」と言い、黒斗は お気に入りの大木に背中を預けて座り込んだ。
(……あれから300年も経つのに……変わらないな、この場所は)
肌を撫でるような心地よい そよ風に吹かれながら、自然が溢れる新緑色の草原を見渡す。
以前この地へ やって来た時は、じっくりと辺りを観察する暇も余裕も無かったが人間界に住むようになった今では、ここだけではなく様々な場所を思う存分 見ることが出来るだろう。
(冥界に居た時は、まさか人間界に住むことになるとは夢にも思わなかったな……運命って分からないもんだな)
心を持って生まれた その日に失敗作が殺される残酷な光景を見せつけられ、監獄に入れられ、処分される寸前で自我を無くして死神達を惨殺し、ウンデカに助けられて人間界に逃げ込み、そのまま人間の女と同居して。
我ながら数奇な運命を辿ってきたものだ。
(……冥界やウンデカは、どうなってるんだろうか)
冥界に戻るつもり等さらさら無いし どうなろうが知ったことでは無いと思っていても、やはり気になるものは気になる。
タナトスやウンデカが言うには、感情が暴走した黒斗によって殆どの死神を殺されて半ば壊滅状態にされたらしいので、今頃タナトスや他の神々は復興作業で大忙しかもしれない。
『また数を揃えるまでに何百年も掛かる』とタナトスが言っていたので、死神を造るのには長い時間が掛かるのだろう。
(…………でも、死神が少ない分 理不尽に人間が殺されることも減るんだ)
神々には堪ったものではないだろうが人間にとっては良いことだと黒斗は思い、次はウンデカのことを考えた。
(……それにしても……ウンデカにまで心があっただなんて)
確かに他の死神と比べれば表情も豊かだったが、まさか心があるとまでは思わなかった黒斗。
黒斗は正直 彼のことが嫌いではあったが、ウンデカのお陰で人間界に逃げられたことに関しては心から感謝している。
(……いつか迎えに来るとか言ってたけど……タナトスに歯向かって無事でいられる訳がない)
彼は生来の能力が高いのか、感情が あっても そこまで魔力は弱まってはいなかったようだったが、さすがに本物の死神と戦って敵う訳がない。
あの無慈悲なるタナトスが失敗作を――それも反逆者を殺さないでおくなど考えられないので、ウンデカは既に死んでいる可能性が高いだろう。
「…………まあ、考えたって 仕方ないか…………」
「何が 仕方ないの?」
何気なく呟いた一言に返事を返した声に驚き、黒斗が顔を上げると こちらを見下ろしている日向子と目が合った。
「日向子さん……おはようございます」
「おはよう黒斗くん。起きたら居なくなってるから、出ていったのかと思って驚いたわ」
「すいません……」
心配させてしまったことに罪悪感を感じ、立ち上がって深々と頭を下げる黒斗。
「おおげさね、別にいいのよ」
日向子は笑いながら そう言うと黒斗の隣に移動し、大木に凭れながら座り込んだ。
その様子を見ていた黒斗も遠慮がちに日向子の横に腰を下ろし、同じように大木に背中を預ける。
「黒斗くん、さっきも気持ち良さそうに座ってたわよね。この木、気に入った?」
「はい」
黒斗が そう呟くと、日向子は えくぼを見せながら嬉しそうに手を叩いた。
「フフ、私も この木が お気に入りなの。疲れた時や、気分転換したい時は、よく こうやって座ってる」
ニコニコと笑いながら日向子は言うと、傍らに落ちていた線形の濃緑色をした葉を手に取り、黒斗に見せるように掲げる。
「この木、イチイって言うのよ。大きくて綺麗でしょう」
「いちい…………」
日向子が手に持つイチイの葉を見つめながら、黒斗は小声で名前を復唱する。
「今年は もう時期が過ぎちゃったけど、春になると小さくて綺麗な花が咲くの。そして秋には甘くて美味しい実をつけるのよ。実がついたら、一緒に取りに来ましょうね」
穏やかな声音で言うと、日向子は立ち上がり臀部の辺りを手で叩いて埃を払う。
「そろそろ帰って朝食の準備をしましょう」
日向子に そう言われて空を見上げた黒斗は、太陽が薄暗かった空を照らし始めていることに気づいた。
考え事に夢中だったので気づかなかったが、随分と長い間この場所に居たようだ。
黒斗も立ち上がって埃を払い、朝食について1つ断りを入れておく。
「俺は ご飯いいです。食べなくても平気なんで」
さも当然のように黒斗は言うが、対して日向子は信じられないという表情を張りつけて、奇妙な物を見るような目を向けてきた。
「あのね黒斗くん……それじゃ一緒に住んでる意味が無いでしょう?」
「いや、だって その方が食費も浮きますし……」
「そんなことは気にしなくて宜しい! ご飯は1人で食べるより、誰かと食べた方が美味しいのよ」
穏やかではあるが、有無を言わさぬ不思議な迫力がある声で言いきると日向子は黒斗の手を引いて、自宅に向かうのだった。