涙3
ゲートを潜り、外に足を踏み出すと柔らかい地面の感触がした。
(……ここが人間の世界……)
生まれて初めて見る人間界。
日は既に沈んでいるようで、広くて青黒い夜空にはキラキラとした美しい星が幾つも浮かび、輝いている。
辺りには沢山の草木が生い茂り、大きな木から伸びている枝には新緑色の艶々とした葉っぱが ついている。
草むらや土から漂う自然の匂いが、鉄の匂いしか嗅いだことしかないテトラの心身をリフレッシュさせ、味わったことのない心地よさに思わず頬が緩んだ。
(……風が気持ち良い……)
涼しい夜風に吹かれながら、テトラは ゆっくりと歩みを進めていく。
辺りには見渡す限りの緑色。
花など咲いてはなく、人間にとっては何てことのない草木だらけの場所なのであろうが、洞窟や監獄の殺伐とした場所しか見たことが無かったテトラには とても美しい光景に見えた。
さらに進んでいくテトラ。
すると、多くの大木の中でも一際 大きく沢山の葉を付けている木が目に止まり、テトラは小走りでソレに駆け寄った。
「うわあ~、立派な木だなあ」
間近で大木を見上げたテトラは感嘆のあまり、思わず声を出した。
円錐形の樹型で、幾つもの枝には濃緑色の先端が尖った葉が無数についている。
他にも大木は沢山あるが、何故かテトラは この大木に夢中で、目が離せないでいた。
だが、いつまでも大木を見ている訳にもいかず、テトラはガックリと肩を落としながら俯き、大木から視線を外す。
(…………人を……殺さないといけないんだ…………もっと、ゆっくり見ていたかったけど……)
ウンデカが言っていた制限時間のことを考え、テトラは肩を落としたまま大木の横を すり抜ける。
だが その途中で彼は何を思ったのか足を止めてデスサイズを取り出し構えると、振り向きざまにデスサイズを薙いだ。
すると縦に割れ目が入っている樹肌に真横に長く深い傷口が入り、それを見たテトラは満足そうに笑い、樹肌に触れる。
「へへっ……人間界記念に、な」
そう呟くとテトラはゲートを開いて潜り、ターゲットの居る場所へと向かった。
******
西暦1592年 安土桃山時代
こういった時代特有の木造の家の中に やって来たテトラはドクロの仮面をつけ、玄関から狭い部屋をキョロキョロと見渡す。
すると座敷の上で、目を閉じて足を崩しながら座っている若い女の姿があった。
桃色の着物を纏い、頭頂部に黒髪を束ねている彼女は間違いなくターゲットの女性だ。
テトラはゴクリと唾を飲むと、足音を立てないよう ゆっくりと静かに歩み寄った。
だが気配を察したのか、女は目を閉じたまま顔を上げてテトラの方を向いた。
「…………おや……こんな夜遅くに、私に会いに来て下さったのですか……」
鈴を転がすような澄んだ声で言葉を発すると、女は膨れている腹を片手で撫でた。
「見て下さいまし、こんなにも大きくなられました。この世に誕生するのも、あと少しでございます」
その言葉を聞いたテトラは女が子供を身籠っていることに気づき、息を呑んだ。
一方、女は目を閉じたままテトラに言葉を続ける。
「私のような小汚なく目も見えなくなってしまった遊女を愛して下さり、私は本当に幸せものでございます。
日々が満ち足り、あなた様から愛を貰う度に、日に日に大きくなっていく我が子が居る腹に触れる度に、幸せを感じています。
それこそ、幸せすぎて怖いくらいに……」
そう呟く女からは、『喜び』に満ちた感情エネルギーが感じられた。
幸せそうに笑う女だが、対してテトラは表情を歪め、荒い呼吸をしながら彼女を見つめている。
(……こんな……こんな奴を、殺せって言うのか……?)
盲目であるにも関わらず、愛する男から沢山の愛情を貰い幸せと喜びに包まれている女。
子供も身籠っており、これからの人生に希望を抱いている女。
それなのに彼女は、理不尽にも その幸せな人生を奪われる。
強い感情エネルギーを持つ、それだけの理由で。
命も、子供も、幸せも、希望も、未来も。
全て、全て奪われる。
そして、それを奪うのは自分――
冷や汗がブワッと吹き出るテトラ。
もともと人間を殺すのを渋ってはいたが、実際に人間を目の当たりにすると、渋りは拒絶へと昇華されてしまっていた。
──死神の仕事は感情エネルギーを持つ人間の魂を刈ること
──分かっている、分かってはいるんだ
──だけど……身体が石のように固まって動かないんだ
その場に立ち尽くしたまま動かないテトラ。
すると女は立ち上がり、フラフラとした足取りでテトラへ近づくと、しばらく手を さまよわせた後に彼の手を掴み、自分の腹に触れされた。
「ほら……感じますか? 私達の子を……。まだ産まれてはいなくとも、ここに……この腹の中に命は確かにあるのです」
「…………あっ…………」
胎児が女の腹を蹴るのを感じとり、テトラの身体が震えだした。
──出来ない
──出来ないよ……
──この女の命も、子供の命も……
──俺には奪えない!
「…………すまないっ!」
「え?」
衝動的にテトラは女の手を振り払い、ゲートを開くと逃げるように中へ駆け込み、その場から姿を消した。
(…………殺せる訳ない…………あんなに幸せそうな人間を……子供もろとも殺せる訳が……!)
無我夢中でゲートの中を駆け抜けるテトラ。
命令に背いて どうなるか等、頭には無かった。
ただ、「殺したくない」という そんな思いだけが彼を突き動かしていた。
******
「ハアッ、ハア」
ゲートを潜り、冥界の監獄前へと戻ってきたテトラ。
だが、ゲートから飛び出すと同時に右肩を何かに深く切り裂かれ、痛みと共に彼は地べたへと倒れこんだ。
「あぐっ……」
骨まで到達している程の深い切り傷を押さえるも、指の隙間から血が流れ出てくる。
いつもなら瞬時に回復する筈なのに何故か治りが遅く、妙に思ったテトラは痛みに耐えて顔を上げた。
「…………っ!?」
血のついたデスサイズを構える、ドクロの仮面を被った3人の死神と、その傍らに居るウンデカを見たテトラの表情が固まる。
3人の死神は仮面をつけているせいで顔も表情も分からないが、傍らに居るウンデカは蔑むような眼差しで倒れているテトラを見つめており、血も凍りつきそうな冷たい視線にテトラは恐怖を抱く。
「タイプゼータ、ナンバー4。貴様は我らが父タナトスと、偉大なる神々の命に背いた。それ相応の罰を受けてもらおう」
ナイフでも突き刺すような口調でウンデカが言うと、仮面を被った3人の死神がテトラを取り囲み、そして――
「ああぁあああああぁあぁぁあっ!!!!」
一斉にデスサイズをテトラに突き刺した。
「ぐぁっ……うあああああ!!」
胸部、腹部、背中――三ヶ所もデスサイズで刺され、激痛のあまり悲鳴をあげるテトラ。
傷口から流れ出た鮮血が あっという間にテトラの身体と地面を真っ赤に染めていくが、3人の死神は鎌を抜くどころか、さらに肉へと食い込ませていく。
グシュッと嫌な音ともに血が噴き出し、肉が抉られるもテトラには反抗することも出来ず、ただ悲鳴をあげることしか出来ない。
「死神でありながら、人の魂を刈ることを躊躇うとは何と無価値なる存在よ」
背中に鎌を突き刺している死神は淡々とした声で呟くと鎌の柄から手を離し、テトラの元へと歩みより彼の血に染まった背中を蹴りつけた。
「が、はっ……」
胸の辺りでつかえていた血が衝撃によって気道を通り、口から嘔吐してしまう。
「脆弱で、何の役にも立たん」
その言葉と同時に鎌が引き抜かれ、そこから噴水のように真紅色の血が勢いよく噴き出し、仮面を被った死神達の身体を返り血で汚す。
だが死神達は気に止める様子もなく、血濡れのテトラをジッと見つめている。
「貴様のような欠陥品は、存在価値も無ければ何も出来ない無能だ」
死神の1人がそう言い捨てると彼らはゲートを開き、その中に入って姿を消した。
後に残されたウンデカは、ボロ雑巾のようになって倒れているテトラへ近づき、片膝をついて彼の顔を覗きこんだ。
「何故 殺さなかった?」
「…………ころせな、かっ、たから…………ころしたく、なか、た、から……」
「そうか」
掠れた声で紡がれたテトラの言葉を聞くと、ウンデカは彼を片手で抱えて監獄の中に入って行った。
******
「再生には暫くかかる。安静にすることだ」
テトラの牢屋に辿り着くと、ウンデカは文字どおり彼を牢内に放り投げ、すぐさま扉を閉めて鍵を掛ける。
ガチャガチャという音を聞いているテトラだが、彼は身体を動かす体力も残っていないのか、グッタリと横たわったままだ。
「……お前が殺さなかった女だが……後から他の死神に行ってもらうことにした。つまり、お前が殺そうが殺すまいが、奴は死ぬ運命だった訳だ」
鍵を掛け終えて呟いたウンデカの言葉を聞いたテトラの指先がピクリと動く。
「…………どう、して…………」
「何がだ」
「……どうして…………にんげんを、からなくちゃ いけないん、だ……」
「感情エネルギーを神々に捧げる為に決まっているだろう」
淡々と答えるウンデカだが、テトラは彼の答えに納得出来ず、さらに問う。
「……かみが、みの、ためなら……にんげんを、いくらでも、ころしていいのか……?」
「当たり前だ。人間を作り、生を与えたのは偉大なる神々。その神々が作った人間を どうしようが神々の自由。
人間は神々のお陰で生まれたのだからな。感情エネルギーを捧げるのは当然だ」
「…………かみがみが、つくっ、たからって……そんな、かんたんに、ころしていいわけが、ない……!
にんげんだって、いきてる、のに。いのち、あるものなのに……」
「命ある者? 笑わせるな。人間も我々 死神も、神々が造りし“道具”にしか過ぎん」
テトラの言葉を一蹴すると、ウンデカは彼に背を向けて歩きだした。
「………………」
1人になったテトラは、泣きそうな顔をしながらも涙を溢さず、唇をギュッと噛み締めた。
──死神だって人間だって、命があるのに
──いくら神々が造ったからと言って、必死に生きている人間の命を奪う権利なんか無いのに
──道具なんかじゃなく、生きているのに
希望も何もない神の世界。
あまりにも理不尽な世界。
幼い故に純粋な心は、都合の良い道具としてしか人間と死神を見ていない神々に怒りを、憎しみを覚えるのだった。
******
初めて人間界へ行き、帰って来た後は ずっと牢屋の中で過ごした。
血生臭い匂いに包まれ、狂った死神の奇声、処分される死神の悲鳴を聞きながら。
恐怖、絶望。
テトラの胸中にあるのは、そんな思いしか無かった。
(…………心なんか、いらなかった…………)
唇を強く噛み、血が流れるもテトラは動じない。
(心が無かったら……こんなに苦しむことはなかった……こんなに惨めな思いをせずにすんだ……)
逃れられない恐怖を何百年も味わった。
いつかは他の死神と同様に気が触れて、何も感じなくなると思った。
だけど、彼の精神は壊れることは無かった。
(…………俺は何の為に生まれて、何の為に生きているんだ……。誰からも必要とされず、殺されるのを ただ待つだけの存在……俺は、死ぬ為に生まれたのか……)
──分からない
──わからない
──ワカラナイ
自分の存在理由が、生まれた意味が。
こんなに苦しむのなら、いっそ生まれてこなければ良かった。
神々は無情だ。
自分達の都合で命を創っておきながら、自分達の都合で命を奪う。
命とは何なのだろうか。
尊いものではなかったのだろうか。
神々にとっては、命など石ころ当然なのだろうか。
確かに死んだ人間の魂は浄化され、新たな命として生まれはする。
だけど魂は同じでも、“その人間”は1人しか居ない。
転生した時点で、もう別人なのだ。
(…………もう疲れた…………)
考えることにも生きることにも疲弊したテトラは、壁に背中を預けてガックリと項垂れる。
(今日。今日で俺は処分されるんだ。全部、全部 終わるんだ)
もう苦しまなくて済む。
そう考えると、鉛のように重い気持ちが少しは軽くなった。
だけど、心の何処かでは「死にたくない」という思いがあり、身体が震える。
(…………生きたいのか、死にたいのか……一番 分からないのは俺自身だ…………)
深い溜め息を吐くと、牢の鍵を開けられる音が聞こえ、そちらに視線を移した。
視線の先にはタイプδ(デルタ)と呼ばれる銀髪の中年女性の姿があり、鍵を外して扉を開くと部屋の隅に居るテトラを見下ろし、口を開く。
「タイプゼータ、ナンバー4。時間だ」
「……………………」
テトラは無言で頷き、腰を上げた。
──終わりだ
──これで、全てが終わる