痛み2
次の日の朝
「よし、準備オッケーや!」
自室で身支度を整えた鈴は両手で拳を作り、グッと握りしめた。
そんな彼女を傍らのリンが興味深そうに見つめている。
「ミャーン」
声をかけてきたリンに振り向き、喉を撫でてやる。
「堪忍なリン、今日は一緒に遊べへんのや。……ウチな、ココアを殺した犯人を見つけて、警察に捕まえてもらうんや」
愛犬ココアを殺され、悲しむカナを見た鈴は昨日、犯人を見つけることを決意した。
刑事でもなければ探偵でもない自分でも、犯人の情報を少しでも探ることが出来れば、と思い立ったのだ。
今日は日曜日で学校も休みだから、丁度いいと鈴は張り切った。
「ええか? 絶対に外に出たらアカンで? ほな!」
「ミィー」
外に出てはいけないとリンにしっかりと言い聞かせ、戸締まりも確認すると、意気揚々と外に飛び出して行った。
******
数時間後
「はあ…しんどいわー…」
コンビニで買ったおにぎりを頬張りながら、鈴はトボトボと歩いていた。
朝の10時に家を出て、現在の時刻は15時すぎ。
5時間も情報収集しているにも関わらず、有益な情報は全く得られず、強い疲労感が鈴を襲った。
そもそも日名田公園自体、あまり人が寄りつかないことで有名な場所である。
ココアがさらわれた時や死骸が置かれた時に、都合よく、人が近くを歩いている訳ではないのだ。
「ふう……やっぱり無理やったんかな…ウチが犯人見つけるなんて…」
おにぎりを食べ終えて、思わず弱音をこぼしてしまうが、脳裏にカナの泣き顔がよぎり、頭をブンブンと振って気を取り直す。
「弱気になったらアカン! 考えろ、考えるんや……日名田公園での目撃情報が期待できないんやったら……他の場所で…」
腕を組み、うーんうーんと唸りだす鈴。
数分が経過した後、ある考えに至って、顔を勢いよく上げた。
「そや! 最初の犠牲ネコの飼い主さんが住んでいる場所の近くやったら、日名田公園よりは人目につきやすいハズや! 行ってみよか!」
先程よりも軽くなった足取りで、鈴は走り出した。
******
一方、その頃
「アカン、アカン。ウチとしたことがケータイを忘れてまうなんて」
パート先に向かっていた鈴の母親、珠美は忘れ物を思いだし、大急ぎで自宅に戻ってきていた。
手早く玄関の鍵を開け、充電器に差し込んだままの携帯の元に走る。
「ふう…充電したまま、忘れてまうこと多いな~。ブドウ糖が足らへんのかしら」
何気ない独り言をブツブツと呟きながら携帯を鞄に仕舞い、玄関に鍵をかけて慌ててパート先へと向かった。
この時、珠美は慌てるあまり気づかなかった。
珠美が玄関を開けた、ほんの一瞬の間にリンが外へ飛び出したことに。
******
「はい、おおきにー!」
人の良さそうな中年の主婦に頭を下げ、鈴はにこやかな表情を浮かべた。
「犯人らしき人物は、中年男性で大きな鞄を持っていた……っと」
先程の主婦から聞いた有益な情報を、さっそくメモ帳に書き記す。
最初に犠牲となった猫の飼い主の近所を中心に、死骸が発見される前に不審な人物が居なかったかという聞き込みをした所、早朝に大きな鞄を持った中年男性が、早足でゴミ捨て場から立ち去る場面を目撃したらしい。
ようやく手に入れた情報に、鈴の表情が思わず綻んだ。
「日も暮れてきたし、今日の捜査はここまでにしよか。リンも待っとるしな!」
可愛い愛猫の姿を思い、鈴はスキップでもしそうな足取りで帰路につくのだった。
「ただいまー」
鈴が自宅に帰ってきたのは、夕暮れ時。
我ながらよく働いたものだと思う。
明日も捜査を頑張ろうと気合いを入れて、自室へと入った。
「ただいまリン! ええ子にしとったか?」
返事はない。
「リン?」
いつも鈴の声がすれば鳴きながら飛びついてくる筈なのに、今日は何の反応もなかった。
違う部屋で寝てるんかな、と思い立ち、リンの名を呼びながら家中を探し回るが姿は全く見当たらない。
「な、なんでや…ちゃんと戸締まりして、リンが出られへんようにしたのに……」
真っ青な顔で立ち尽くす鈴。
(ど、どないしよう…探さな…!)
慌てて玄関から飛び出し、誰かに協力を仰ごうと携帯の電話帳を開く。
「……いや、アカン。もう時間も遅いし、迷惑かけられへん…」
真っ先にカーソルを合わせた【クロちゃん】の文字を見つめながらポツリと呟く。
携帯をポケットに仕舞い、顔を上げると丁度帰ってきた母親の珠美と目が合った。
「あら、帰ってたんか」
「うん…でも、またちょっと出てくるわ」
鈴の言葉を聞いて、珠美が驚いたように瞬いた。
「今から!? もう遅いし、やめときや」
「でも…リンが居なくなってもうたんや…」
「リンが?」
「そや、ちゃんと戸締まりもしたのに…」
そこまで聞いた珠美は、考え込むような素振りをした後、思い当たることがあったのか「あっ」と声をあげた。
「もしかして、ウチが帰った時…」
「えっ!? おかん、家に帰ってたんか!?」
驚く鈴に珠美は頷き、話を続ける。
「忘れもん取りに帰ってな。多分、玄関を開け閉めした時に出ていったんやと思うわ」
のほほんとした様子で事情を話す珠美とは逆に、鈴は焦燥感に駆られた表情を浮かべた。
「そんな!! なら、やっぱり探しに行かな!」
今にも飛び出しそうな鈴の肩を、珠美が掴んで制止する。
「慌てへんでも大丈夫やろ。猫は気ままやからな、好きな時に出かけて、好きな時に帰るんよ。ウチが子供の頃に飼ってた猫も1週間くらい経ってから、ひょっこり戻ってきたんやで」
諭すような珠美の言葉を聞いて、鈴の勢いが失われていく。
「明日、学校やろ? 風呂入って、ご飯食べて、ゆっくり休みや」
「……はい」
本当は納得していなかったが、母親に心配をかける訳にもいかず、渋々家の中に戻っていった。
******
「……リン……」
ベッドに横たわりながら、姿を消したリンを思い浮かべる。
(大丈夫…やよな? 明日になったら、無事で戻ってくるよな?)
半ば自分に言い聞かせるようにして、睡眠をとるべく鈴は瞼を閉じるのだった。
******
一方――
鈴がベッドに入り、リンを心配していた頃、林は自宅で、1枚の封筒を緊張した表情で見つめていた。
封筒に記された差出人の名前は【林 千加子】。
(ち、千加子…)
家を出て行ってから音沙汰の無かった妻からの手紙。
大の大人であっても緊張してしまうものだ。
ゴクリ、と生唾を飲み込んで封筒を開き、中に入っていた紙を取り出す。
(もしかしたら、帰ってきてくれるのか?)
淡い希望を胸に、折り畳まれていた紙を広げる林。
「はぁ……………?」
林が紙に書かれていた“離婚届”という文字を理解する時間は長かった。
―何だコレ
―離婚届?
―つまり千加子は俺と別れたがっている?
―もう千加子には俺への愛が無いということか?
ボンヤリする頭を片手で支えながら、さらに文字を目で追うと【林 千加子】と書かれた文字の隣に、印鑑が押してあった。
グシャ
数分の間があった後、林は手に持っていた離婚届をしわくちゃに丸め、床に投げ捨てた。
「ハアー……ハァー……」
あまりに強いショックの為、林は息を荒げながら片膝をつく。
「嘘だ…嘘だ嘘だ!! 悪い冗談に決まっている…そうだ…アイツはイタズラ好きな奴だった……今回だって、どこかに“ドッキリ大成功”とか書かれた紙があるに決まってる!」
ヨロヨロと立ち上がり、テーブルの上に置いてある封筒の中身を確認すると、もう1枚、折り畳まれた紙が見つかった。
それを確認した林は安堵の溜め息を吐く。
だが次の瞬間、そんな甘い考えは粉々に打ち砕かれた。
“菊三さん、私達もう終わりにしましょう。あなたはいつも自分の意見ばかり押しつけてきて、私の話を聞いてくれない。もっと貴方と対等に、色んなことを話したかったのに。私が冷たくなった理由、家を出た理由……きっと、あなたは今でも解っていないでしょうね。もう疲れたわ。今までありがとう、さようなら”
「うわあああああああああ!!!!!!」
読み終えるや否や、林は頭を抱えて悲鳴をあげた。
「イヤだイヤだ!! 千加子と別れるなんてイヤだあああ!!!!」
駄々っ子のように泣き叫ぶ林は、自身の髪の毛をブチブチと引きちぎりはじめた。
「……何で、何で俺ばかり責められる。解ってくれないのは千加子の方じゃないか……俺がこんなにも愛しているのに、解ってくれない!!」
手を止めて、ゆっくりと顔を上げた林の瞳は黒く濁っていた。
「皆、自分のことばかり。誰も俺の気持ちを解ってくれない、理解してくれない。俺がどんなに悲しんで苦しんで、痛みを抱えてると思ってるんだ……」
地の底から沸き上がるような恨めしい声で呟きながら、林はノロノロと自室へ入った。
「ミャーン……」
以前、ココアが入っていたケージの中に居るのは前足、両足共にキツく縛られたリンだ。
怯えて縮こまっているリンを、林は冷血な眼で見下ろす。
外を出歩いていたリンを林は偶然にも発見してしまった。
ココアの飼い主であるカナと一緒に居た少女が、大切そうに抱いていた猫であると首輪を見て気づいた林は、直ぐにリンを捕獲した。
林にとっては幸いにも、リンは人懐こい性格だった為、捕獲は容易だった。
「お前らは良いよな……」
冷酷な表情を浮かべたまま、血濡れた包丁を手に取る。
「何も気を使わず、可愛こぶって適当に媚びを売ってれば、愛してもらえる」
ケージから引っ張り出したリンを机の上に置く。
「俺とは違って、皆に愛してもらえる」
そう呟くと、林は振り上げた包丁をリンの首めがけて降り下ろした。
ザシュッ
「ミ、ッ!!」
喉に包丁を突き刺されたリンが声なき悲鳴をあげる。
勢いよくリンの首からナイフを引き抜くと、傷口から血が噴き出す。
「何でお前らばかり! 何で俺ばっかり!!」
再びリンの首に包丁を突き刺す。
飛び散る血しぶきが林の身体を赤く染めていくが、全く動じずにリンの首を滅多刺しにしていく。
「お前らも思いしれ!! 俺の苦しみを、痛みをっ!!」
ブヂッ
何度目かも解らない包丁をリンの首に突き刺した時、イヤな音と同時に、リンの首が胴体から離れた。
「お…?」
それに気付いた林がリンを一瞥すると、首と胴体が繋がっていた部分から、どす黒い血が大量に溢れ、床に血だまりを作っていた。
何度も包丁を突き刺されたことによって、リンの首の皮が薄くなり、とうとう千切れてしまったのだ。
「……ざまあみろ……いい気味だ…」
返り血を浴びながらも不敵に笑う林の姿は、悪魔のように恐ろしかった。
******
ピリリリリ
携帯のアラーム音が鳴り響き、鈴はゆっくりとベッドから起き上がる。
アラームを止め、鏡の前に立つと、目元に隈が出来ているのが見えた。
結局、あれからリンの事が心配で一睡も出来なかった。
身支度を整え、トボトボと黒斗の家に向かう鈴。
途中、いつものようにリンが可愛らしく鳴きながら駆け寄ってくるのではないか、と思ったが、現実は無情である。
黒斗の家に辿り着き、玄関に足を進める鈴。
だが、玄関の前に置かれていた“モノ”を視界に入れた瞬間、目を大きく見開いて立ち止まった。
ドサリ
持っていた鞄が音を立てて地面に落ち、鈴もそれに続いて、ガクリと膝をついた。
「イヤアアアアアアアアア!!!!」
耳を突き抜けるような悲鳴を聞いた黒斗は飛び起き、パジャマのまま、声の出どころへ向かった。
「どうした!?」
勢いよく玄関を開けた黒斗の眼に映ったのは、地面に踞って泣き叫ぶ鈴。
そして、真っ赤に血濡れたリンの生首だった。
******
リンの生首を発見した黒斗は直ぐに警察へ通報した。
数十分後、現場に辿り着いた警察に発見時の状況を伝え、両手で顔を覆い泣きじゃくる鈴を支えていた。
「うっ……うぅ…リン、リン……」
絶え間なく大粒の涙を流し続ける鈴。
「おい、何の騒ぎだ?」
「猫の生首ですって、気色悪いわね」
「なになに? 面白そうな事件?」
思い思いの言動を発する野次馬達に黒斗が冷ややかな視線を送ると、尋常ではない気迫に圧されたのか1人、また1人とこの場を立ち去っていった。
「君、ちょっといいかね?」
「はい」
警察に呼ばれ、黒斗はそちらに歩み寄る。
「昨日、自宅の周囲に不審な人物の姿は見なかったかい?」
「いいえ、見てません」
「じゃあ、今日の朝は?」
「寝てたから知りません」
ぶっきらぼうに答える黒斗の顔を、刑事は腕を組んで真っ直ぐに見つめた。
「どうして、死骸が君の家の前に置かれていたのか心当たりはあるかい?」
「さあ」
その言葉を聞いた刑事は、ここからが本番だと言わんばかりに腕を組み直した。
「ここ最近、姿を消したペットの惨殺死骸が飼い主に発見される事件が起きていてね、今回で3回目なんだ」
一息ついて、刑事は更に続ける。
「我々は、犯人はわざと飼い主に死骸を発見させ、悲しむ様子を陰で見て楽しんでいると思っている。そのうち、2回目と3回目の犠牲となったペットの飼い主は君の知り合いだったね」
「……遠回りな言い方せずに、ハッキリ言ったらどうですか? お前が犯人じゃないのかって」
ストレートな物言いの黒斗に、思わず刑事が怯んだ。
「2回目と3回目の飼い主と俺には接点があった。だから2人が行きそうな場所を憶測し、先回りすることが出来た……あんたらが言いたいのは、こういう事だろ?」
「…ああ、そうだ。正直に言わせてもらうと、我々は君を疑っている」
やっぱり、と黒斗が鼻で笑うと、刑事が眉を潜めて睨みつけてきた。
「違う!!」
泣いていた筈の鈴が現れ、2人の間に割って入る。
「クロちゃんは、そんなことをする人やあらへん!! 何も知らないくせに、いい加減なこと言わんといて!!」
泣き叫ぶ鈴に圧され、刑事は「すまない」と謝罪の言葉を口にはしたが、瞳には黒斗への疑いの色が残っている。
暫くした後、警察は現場から撤収し、リンの生首は業者が引き取っていった。
鈴の手元に残ったのは、赤黒く染まったリンの首輪だけだった。
「…………」
黙ったまま俯き、涙を流し続ける鈴。
「……家まで送る」
「でも…クロちゃん、学校……」
遠慮がちな瞳でこちらを見つめてくる鈴に、黒斗は溜め息を吐く。
「今は学校よりも、お前が一大事だろうが。着替えてくるから少し待ってろ」
そう言って家に戻っていく黒斗の背中に、鈴は「おおきに…」と消え入りそうな声で礼を述べた。
一言も会話を交わすことなく、2人は鈴の自宅に辿り着いた。
「……送ってくれておおきにな」
こちらへと振り向いた鈴の目は、赤く腫れていた。
「なあクロちゃん……」
光が消え失せ、ただ絶望と悲しみだけが渦巻いている瞳で黒斗を見つめる。
「……ウチ、大げさなんかな…ペットが死んだくらいで悲しみすぎやよな……?」
空色の綺麗な瞳が揺れ、また涙が零れ落ちる。
「でもな…笑うかもしれへんけどな………ウチにとって、リンは本当に特別な存在やったんや…大切な……家族やったんや……!」
涙が頬を伝い、それがポタポタと地面に吸い込まれていく。
「ハハッ……やっぱウチって、おかしいかなあ……」
自嘲気味に笑う鈴の瞳を、真っ直ぐ見つめながら黒斗は口を開いた。
「お前の言うことを笑いながら嘲る者もいれば、同調して一緒に涙を流す者もいるだろう。おかしいか、おかしくないかは人によって変わる」
黙ったまま鈴は黒斗の言葉を待つ。
「……俺はペットの死を悼み、心から涙を流せるお前は純粋で、優しすぎると思う」
「………………」
何も言わず、立ち尽くしたままの鈴に背を向けて、黒斗はその場を立ち去った。
******
「橘、可哀想にね」
宛もなく歩いていた黒斗の耳に、聞き覚えのある声が届き立ち止まる。
「……またお前か」
振り向いた先に居たのは、予想通りの人物だった。
その刹那、黒斗の表情が不機嫌なものに変わる。
「学校はどうしたんだ?」
「風邪ひいたから休んだ。今、病院の帰り」
「へえ……」
淡々と答える大神に、黒斗は苛立ちを募らせていく。
「橘の猫、殺されたらしいな。可哀想に。早く死神が犯人を殺していれば、こんなことにはならなかったのに」
聞き捨てならない言葉に黒斗が食いかかった。
「前も言ったが、お前は死神が罪人だけを襲っていると、本気で思ってるのか?」
コクリと頷く大神。
「実際、こないだの江角だって犯罪者だった」
「……偶然だろ」
黒斗の言葉に、大神は薄ら笑いを浮かべた。
「偶然じゃない。やっぱり死神は罪人だけを襲ってると僕は思ってるよ。全ての罪人は、死神に殺されればいいん…」
言い終える前に、黒斗が大神の胸ぐらを掴んだ。
真っ赤な瞳に怒りの炎を灯らせ、大神を睨みつける。
「全ての罪人は死神に殺されるべきだと? この世界は人間の世界だ。曲がりなりにも“神”である死神が無闇に関与していい場所じゃない」
胸ぐらを掴む手に、更に力が入る。
「罪を犯した人間は、人間に裁かれる。それが、本来の正しい道理だ」
そう言うと、黒斗は乱暴に大神の胸ぐらから手を離した。
乱れた服装を大神は無表情のまま直す。
「血の気が多いな、月影は。赤い瞳も合間って、死神みたいだ」
「……赤い瞳はお前も同じだろうが」
「…………」
無言のまま大神は立ち去っていった。
(人間のくせに、何を考えてるのか解らない……不気味な奴だ)
チッ、と舌打ちをすると黒斗も踵を返して、その場を去った。
******
午後11時56分
間もなく日付が変わろうとしている時間帯、林は寝室のベッドで仰向けになりながらビールを飲んでいる。
ココアに目をつけていた時から、林はリンのこともマークし、鈴がよく行く場所は既に調査済みだった。
毎朝、学校がある日は黒斗の家に向かうことを知っていた林は、先回りしてリンの生首を置き去った。
(あのガキ、さぞかしショックを受けただろうな)
住宅街という人目につきやすい場所ゆえに、鈴がリンを発見する場面を見れなかったのは残念だったが、あの可愛がりようだったら悲しんでいるのは間違いないだろう。
「俺の痛みを、皆が思いしればいい。誰も俺のことを解ってくれなかった復讐だ。ハッ、ハハハ」
ほろ酔い気分で笑い出す林。
ふと思い出したように起き上がると、部屋の隅に置いてある黒いゴミ袋へと近寄り、中身を確認した。
袋の中に入っているのはリンの首なし死体だ。
(さて……首だけ死体の方がインパクトあると思って、そうしたが……さっさと捨てないとな)
動物を殺すことに抵抗はなくとも、さすがに死骸をいつまでも自宅に置いておくのは気分が悪い。
とりあえず、もう少し夜がふけて、人目が少なくなってから捨ててこようと考え、ベッドに戻ろうとする。
―何度目だ?
「ハッ!?」
突然聞こえてきた声に、心底驚き部屋を見回す。
「だ、誰だ!?」
問いかけに答える声は無く、豆電球が照らす薄暗い部屋の中には誰も居ない。
それなのに、林は誰かからの視線を確かに感じていた。
(ま、まさか…)
震える足でゴミ袋に近づき再度、中を覗きこむ。
そこにあるのは先程と変わらない死骸だけだ。
(猫が化けて出るなんて、ある訳ねえよ)
安堵の溜め息を吐き、立ち上がる林。
ザシュッ
何かが切り裂かれるような鈍い音が響くと同時に視界が揺れて、床に膝をついた。
「え…?」
背後から強い殺気を感じて振り向くと、そこに居たのは黒いフードつきのコートを着た黒髪の少年が立っていた。
少年が持つ大鎌の切っ先には血液が付着し、ポタポタと床に落ちて赤いシミを作っていく。
数秒の間を置いて、林は背中に激痛を感じ、ようやく斬られたことを理解した。
「……っ、イッ、イデエエェ!!!!」
強い痛みにのたうち回る林。
そんな彼を少年…黒斗は微笑しながら見つめ、持っていた鎌で林の胸を切り裂いた。
肉が裂かれ、そこから血が噴水のように噴き出す。
「がああああぁぁ!!」
あまりの痛みに悲鳴をあげる林。
「くっ、ふうぅ…!」
荒い呼吸をしながら、林は己を見下ろす黒斗を睨みつける。
「だ、れだ……!! 何なんだ、テメー、はっ!!」
「動物を殺したのは何度目だ?」
問いかけには答えず、逆に質問してくる黒斗に林は怒鳴りつける。
「んな、もん…知るかあっ!! テメーは、何だ!! 俺を、殺すつも…」
胸の傷口に黒斗が片足をあげ、全体重を乗せて強く踏みつけてきた。
「ガッ……グ、ギィ」
骨が軋み、踏みつけられた傷口から血が零れ落ちる。
胸だけでなく、床に押しつけられている背中からも血が溢れて服を濡らしている感覚がして、言葉では言い表せない嫌悪感に林は襲われた。
「お前が動物を殺したのは3度目だ」
「だ、から、ど…した…」
感情の欠片も感じられない黒斗の言葉に、林は意味が解らないという表情を浮かべる。
「お前はやりすぎた。犯した罪に対する罰を受けてもらう」
その言葉を聞いて、林は身体の芯から冷えていく感覚がした。
グシイィッ
「ギアアァァッ!!」
足を退けられると同時に、今度は右肩から袈裟懸けに切り裂かれる。
「ヒッ、フッ、フゥッ……」
身体中を襲う痛みに、林は身を捩らせる。
己の身体を見てみると、全身が血で赤く染まっていて、床には大きな血だまりがあり、どんどん広がっていた。
出血は既に致死量に達している筈なのに、意識は依然とハッキリしていて、激痛も続いている。
「だ、誰に、頼まれた? どう、せ、頼まれたんだろ? 言えよ!! ペットの飼い主か? 従業員かっ!? …まさか、千加子か…!?」
喚く林の言葉に黒斗はゆるゆると首を振る。
「誰にも頼まれていない。言っただろう、犯した罪に対する罰を受けてもらう、と。これは、お前への罰だ」
それを聞いた林は、怒りを露に黒斗を鋭い眼光で睨みつけた。
「何が罰だっ!! 何で俺が!! たかが畜生を殺したぐらいで、殺されなきゃなんねえんだ!! ふざけんじゃねえぞクソガキ!!」
痛む身体を叱咤し、林はゆっくりと立ち上がり、フラフラと机の上の包丁を手に取り黒斗に向けた。
理不尽への怒り、生への執着、殺されてたまるかという強い意思。
それだけが、満身創痍の林を突き動かしていた。
じりじり、と黒斗ににじりよっていく。
「いつも、いつも俺ばかり責められる!! 誰も俺の気持ちを分かってくれやしない!!」
「じゃあ、お前はペットを殺された飼い主の気持ちが分かるのか?」
思わぬ言葉に、林は足を止めた。
「んなもの…分かるかよ!!」
「従業員や妻が離れていった理由は?」
「知らねえよ!! 所詮アイツらのワガママだ!!」
呆れたような溜め息を吐く黒斗。
「自分の気持ちばかりを押しつけるからだ」
大きく目を見開く林。
「相手の気持ちを分かろうとしない、自分の気持ちを分かってもらう努力もしない。押しつけることしかせず、人の話を聞こうともしない」
林の脳裏に、過去のフラッシュバックが映る。
“あ、あの…社長…早退させていただきたいのですが…”
“はあ!? 何でだ!?”
“妻が交通事故にあって、危険な状態らしいんです。だから…”
“そんなもん、ほっとけ!! お前が行こうが行くまいが、死ぬ時は死ぬんだ!!”
“で、ですが…!”
“くどい!! あまりしつこいと、クビにするぞ!! 前科つきのお前が、すぐに雇ってもらえると思ってるのか!!”
“………………”
「痛みを抱えてるのは他人も同じだ」
“お帰りなさい、あなた”
“ああ、ただいま千加子”
“今日は腕によりをかけて、ご馳走を作ったの。久々に語り合わない?”
“俺はもう寝る。飯はいらん”
“えっ…ま、待ってよ…そんな…”
“疲れてるんだ!! 分からないのか!?”
“ご……ごめんな、さい……”
「お前だけが苦しい訳じゃない」
過去を思い出し、無意識のうちに林の包丁を持つ手が震える。
「っ……うるせええぇっ!! 俺ばかりが悪い訳じゃない!! アイツらが…アイツらが自分のことばかり考えてるからだ!」
叫びながら黒斗に向かう林。
だが、黒斗が降り下ろしてきた鎌が腹部に食い込み、そのまま切開される。
グチュッ
ブヂィ
ベダッ、ボチャ
生々しい音の後に、ヘドロが落ちたような音が響き渡る。
「あ………ハァ………………」
咄嗟に腹部を抑える林。
あまりの痛みに声も出ず、腹部を抑える手には、柔らかくてベタベタしたモノの触感がダイレクトに伝わってくる。
「お、ゲエッ」
口から吐き出された吐瀉物には赤黒い血が混じっていた。
切り裂かれた全身。
腹部から飛び出る内臓。
己の状態に、林はデジャヴを感じた。
「お前は、殺したペットのことをたかが畜生と言っていたな」
ゆっくりと歩み寄る黒斗。
―ペット? そうか……コレは……
ペットを殺していた間の出来事を思い出す林。
―1回目の猫は全身を切り裂いて殺した。
―2回目の犬は腹に穴を開けて、内臓を取り出して殺した。
―3回目の猫は…
「お前にとっては“たかが”でも、殺されたペットの飼い主にとっては、かけがえのない…大切な家族だった」
鎌を構える黒斗の瞳が輝く。
「他人の痛みを分かろうとしない、お前には理解出来ないだろうがな」
その言葉が耳に届くと同時に、林は奇妙な浮遊感を感じた。
まるで飛んでいるかのように、視界が高い場所にある。
眼球を下に動かせば、真っ赤な血を噴き出しながら崩れ落ちる自分の体が見えた。
ゴドッ
鈍い音と共に、床に叩きつけられる頭部。
生首となった林に黒斗は近づき、ゆっくりと鎌を降り下ろす。
林の意識はそこで途絶えた。
******
翌日の朝
ピピピピピピ
スマホのアラーム音で目覚めた黒斗は、身支度を整え、静かなダイニングに降りていく。
「…………」
予想通りダイニングには誰もおらず、テーブルの上には何も乗っていない。
朝食もとらずに黒斗は家を出て、ある場所へと向かった。
******
「鈴ちゃん、学校はええから、朝ご飯だけでも食べや?」
部屋に引きこもったままの娘に声をかける珠美だが、返事は返ってこない。
「……テーブルの上に置いとくから、食べる時はレンジでチンするんやで」
深い溜め息を吐きながら珠美は部屋から遠ざかっていった。
(……おかん、堪忍な)
ベッドに横たわる鈴は心の中で母親に謝罪の言葉を述べる。
(…………リン…………)
今は亡き愛猫の姿が頭から離れず、また涙が溢れる。
******
カーテンが閉まったらままの鈴の部屋を、黒斗は外から見つめ、やがて踵を返して立ち去った。
(立ち直れるかどうかは、あいつ次第だ)
そう思いながら、黒斗は1人で学校に向かった。