空虚感7
同日 九条家
「……はい、はい……分かりました……」
通話を終えると同時に九条は丸型のテーブルに顔を突っ伏し、深い溜め息を漏らした。
(……悪い噂は広がるのが早いわね……)
ノロノロと顔を上げて、求人誌の一部に赤ペンでバッテンをつける。
シフトを減らすと言い渡されてから、他の仕事を探そうとアルバイト募集中の店に電話をかけているが、スーパーでの九条の悪評が広まっているのか、九条の名前を聞いた途端に面接を断られ続けていた。
(このままだと……このままだと生活が……)
もともと夫の稼ぎは少なく、電気・水道・ガス代や家賃、娘の学費・給食費などの集金で半分以上の給料が飛んでいた。
貯金をする余裕もなく、残っていた金も集金と生活費に消えていき、まさに危機的状況である。
(……生活保護を受けるしかないかしら……)
最後の手段を思い浮かべるが、その考えをもみ消すかのように携帯電話がやかましく着メロを鳴らした。
「ひゃ! ……もう、脅かさないでよね!」
うるさい携帯に悪態をつきながら、九条は番号を確かめず電話に出る。
「はい、九条です」
『……九条くん』
「あっ……店長……? お、お疲れ様です」
思わず姿勢を正す九条。
「あの……どういったご用件ですか?」
もしかして来週のシフトを増やしてくれるのだろうか――そんな淡い期待を抱く九条。
だが、返って来た返事は彼女の期待を打ち砕く、重々しいものであった。
『……どういったご用件じゃないよ…………君、今 店で何があったか分かってるの……? ハアァ……』
「え……?」
店長の怒りを堪えるような低い声と溜め息に、九条の身体がビクリと震え、心臓の鼓動が早まる。
『……今すぐ店の事務所に来なさい。いいね?』
「は、はい……」
九条が返事をすると、電話は切られた。
有無を言わせない口調と低い声から、温厚な店長が本気で怒っていることを感じとり、嫌な予感がしながらも九条は店に向かった。
******
小型スーパー内 事務所
事務所に着いた九条が目の当たりにしたのは、腕を組んで顔をしかめている店長。
そして、椅子に座ってうつむいているアヤとジュース入りのペットボトルだった。
「……君さあ、どんなしつけしてるわけ?」
「す、すいません」
店長の威圧に圧され、震える声で謝罪をする九条。
「すいませんじゃないよ! 娘が母親の仕事先で万引きとか、ふざけんな!!」
バン、と店長が強くテーブルを叩くと、アヤの小さな肩がビクンと跳ねた。
怯えているのか罪を意識を感じているのかは分からないが、アヤは黙って涙を流している。
「あのさ、確かに君は不幸な身の上だろうけど前にも言った通り、僕らには関係ないんだよね! 仕事や家事で忙しい? そんな事情知るか! 娘くらい、ちゃんとしつけなり面倒みるなりしろよっ!!」
「…………申し訳……ありません…………」
涙を流して謝る九条だが、吐息のように小さな声だった為に、店長の機嫌がさらに悪くなる。
「君を雇ってから評判は悪くなるは客からクレーム入れられるわ、ロクなことが起きない! この疫病神が!」
飼い犬に手を噛まれたような気分の店長は、九条に容赦ない言葉を浴びせた。
九条だって人間なのだから店長の暴言に、1つや2つ言い返してやりたくもある。
だが、これ以上 自分の立場や噂を悪化させない為にも、拳を握り締めてひたすら耐える。
「……とにかく、僕も鬼じゃないからね……せめてもの情けとして警察沙汰にはしないでおくよ。だが九条くん、君はクビだ。来週、来なくていいから」
「……………………はい」
迷惑をかけた側なので何も不平や文句を言えず、九条はアヤと共に店を後にした。
******
帰り道
九条もアヤも、何も言わずに歩いている。
離れて歩き、互いに近付こうとも目を合わそうともしない。
「…………アヤ」
不意に口を開く九条。
しかしアヤは立ち止まることも、振り向くこともしない。
そんな娘の態度からは反省の色が全く見られず、我慢が限界に達した九条はアヤの肩を乱暴に掴み、無理やり身体を自分へ向けた。
「痛いよっ! 何するの!」
「何するのはママの台詞よ! どうして……何でこんなことをしたのっ!!」
九条が怒鳴り付けると、アヤの大きな瞳から涙が溢れた。
「……だって……ママ、アヤのことを構ってくれないから…………寂しかったんだもん……」
「寂しかったら万引きをしてもいいの!? あなたがやったことは、れっきとした犯罪なのよ!!」
唇を噛むアヤ。
力が入りすぎたのか、血が少し流れるが激昂している九条は気づかず、怒りをぶつけ続ける。
「あなたのせいでママは仕事が無くなったのよ!! ママだって大変なのに、これ以上迷惑をかけないで!!」
「っ!」
その言葉を聞いたアヤの顔色が変わった。
─“これ以上”迷惑
─ママはアヤが居て、迷惑だったの?
富永から万引きを提案された時に言われたことを思い出す。
“アヤちゃんのお母さんのお店で万引きをすれば、お母さんの本当の気持ちが分かるよ”
寂しかったから、母が自分のことをどう思っているのか知りたかったから。
だから、犯罪だと分かっていてもやってしまった。
アヤには母しか居ない。
それなのに母が構ってくれないのが、寂しくて堪らなかった。
嫌われているのではないかと怖かった。
そして――ようやく母の気持ちが聞けた。
─覚悟はしてたけど……やっぱり悲しいよ……
自分を迷惑だと、疎ましく思う母への愛情は瞬時に憎悪へと変わっていった。
愛と憎しみは表裏一体だという言葉を体現するかのように。
「…………アヤを大切にしてくれないママなんか嫌いだっ!! パパじゃなくて、ママが死んじゃえば良かったのに!」
渾身の力で九条の手を振り払い、アヤは泣きながら走り去っていった。
(……………………)
1人残された九条は、呆然とアヤが去っていった方向を見つめる。
“パパじゃなくて、ママが死んじゃえば良かったのに!”
その言葉は、鋭い刃となって九条の心に深く突き刺さった。
─私は……ただ、アヤの為に……
自分1人しか居なかったらとっくに人生を捨てている。
金が無くとも、世間から白い目で見られようとも、それでもがむしゃらに頑張ってきたのはアヤが居たからだ。
大切な娘、愛する娘。
どんなに辛くても、アヤが居たから頑張れた。
それなのに、その娘からは存在を否定するような言葉を投げ掛けられた。
─私は何の為に頑張っているの?
─娘に憎まれ、存在を否定されてまで、頑張る必要なんてあるの?
不安定だった九条の精神がグラグラと揺れ動く。
─もう、疲れちゃった
九条の中の何かが、音をたてて崩れていった。
******
その日の深夜 九条家
「…………」
居間の仏壇に飾られている夫の写真の前で、目を閉じて手を合わせている九条。
「……私、駄目だったみたい。アヤの為に頑張ってきたけど、アヤにまで嫌われちゃった」
感情の抑揚のない、淡々とした言葉で喋る。
あれから、アヤとは全く口も利かず、目も合わせることはなかった。
無言で食事をとり、無言で後片付けをした。
「私、頑張ったわよね? だから休んでもいいわよね」
目を開けて九条は立ち上がると、部屋の隅に置いてある2つの灯油缶の元へ行った。
灯油缶を1つ手に持ち、居間に中の液体を撒いていく。
─たった1人の家族に憎まれ嫌われて、生きる理由なんかない
家中に満遍なく大量の灯油を撒き、缶の中身が空っぽになると、それを投げ捨ててもう1つの灯油缶を手にする。
─しつこい記者、自分に酔ってる主婦共、世知辛い社会――何もかもウンザリ
灯油特有の匂いが充満する家の中をフラフラと歩きながら、液体を撒いていく九条。
─でも、私が居なくなったらアヤは一人ぼっちになってしまう
最後に残ったアヤの部屋に入り、ベッドでグッスリ眠るアヤの顔を覗きこむ。
寝つくまで泣いていたのか、頬にはハッキリと涙痕が残っていた。
それを見た九条は部屋の中に灯油を撒き、最後に灯油缶を大きく掲げて注ぎ口を真下に向け、自分に残っていた灯油を全てぶちまける。
─だから置いていくなんて無責任なことはしない。ちゃんと連れていくわ
「…………んぅ」
異様な匂いで目が覚めたのか、アヤが目を擦りながら上半身を起こした。
「……臭い…………ママ? 何やってるの?」
寝ぼけているせいか、母親が何をやっているのか分からないアヤ。
そんな彼女を尻目に、九条はズボンのポケットに入れていたライターと小さく折り畳まれたチラシを取り出した。
「アヤ、ママと一緒にパパの所に行こうね」
「………………え?」
その言葉を聞いたアヤの目が一気に覚めて、母が持つ物が何なのか、そして部屋中に漂っている匂いが灯油のものだと気づく。
しかし、アヤが呆然としている間に九条はチラシに火を着けて、それを床に落とした。
ボオオォ
チラシを火種に、部屋中に炎が広がった。
「イヤアアアアアア!!」
火の海と化した部屋を見たアヤは悲鳴をあげるも迫り来る死の恐怖に屈し、その場から逃げることが出来ない。
「ママ、ママッ! 熱いよ、熱いよー!」
母に助けを求めるも、既に九条の身体は炎に包まれている。
火だるまになった九条は満面の笑みを浮かべ、やがてその場に崩れ落ちた。
「いやっ、イヤーーーーー!!!!」
喉が潰れそうなほどの大声でアヤは叫ぶが、そんな彼女の身体もやがて炎に包まれた。
******
草木も眠る丑三つ時――
まだ太陽の姿も無く、薄暗い空の下、真っ黒に焼け焦げた一軒家の前に大勢の人間とパトカー、救急車、そして消防車の姿があった。
警察が張った黄色いテープの向こうから一軒家を見つめる人々の多くは寝巻き姿であり、異変を察知して駆けつけたことが見てとれる。
野次馬の中には携帯やカメラで炭と化した家を撮影したり、テープから身を乗り出して様子を伺う者などがおり、警官が手を制して不謹慎な行為を戒める。
やがて、焼け焦げた家の中から数人の消防隊員が出てくると、人々がどよめいた。
消防隊員が持つ、2つの担架には白くて大きな布が掛けられており、その布の下に何があるのかは見えない。
だが、その場にいた多くの人間が、布の下にあるものが何なのか分かった。
良くも悪くも噂になっていた、この家に住む母娘が黒焦げになった姿だと――
パシャッ パシャッ
担架に乗せられた布が掛かった焼死体が地面に置かれると、人混みの中心辺りから耳障りなシャッター音を鳴らしながらカメラのフラッシュが焚かれる。
「死んだ! 母親も娘も焼けて死んだ! 悲惨すぎるなあっ!」
そう言って笑いながら、狂ったように撮影を続けるのは冨永だ。
周囲の冷たい眼差しをものともせず、ひたすら遺体と家を交互に撮っていく。
「……ふう」
少しした後、富永は先程の興奮を何処かに置いてきたかのように落ち着きを取り戻し、もうここには用が無いと言わんばかりに人混みを抜けて、現場から立ち去った。
(……やった、こうも上手くいくとは)
撮影した写真を見て、ニヤリとほくそ笑む富永の頭の中に、直ぐさま記事の内容が思い浮かび、手帳を取り出して走り書きをする。
『無理心中? 夫を亡くし、孤独な母親が選んだ最期。誰も彼女を救うことは出来なかったのか!?』
自分で書いた文字を見ながら富永は、満足そうにしたり顔で頷いた。
(やっぱ、記事はこうじゃないとな! 自殺や殺人ほど盛り上がるもんは無いぜ!)
不謹慎かつ、人の不幸や死を喜ぶ富永。
彼が面白い記事を書く為に、他人を罠に嵌めて自殺に追い込んだのは今回が初めてではない。
今から6年前――まだ富永が特定の雑誌出版社に勤めていた頃。
富永は出版社の中でも1、2を争うほど能力が低く、記事を書いてはボツ、記事を書いてはボツの繰り返しばかりだった。
他の同僚達からはバカにされ、編集長からは怒鳴られてばかり。
ある日、次に成果が見られないようならばクビにすると言い渡され、いよいよ富永は追いつめられる。
しかし、それと同時に彼にとっては都合の良い噂話が浮上した。
有名AV女優の大麻吸引疑惑。
証拠などなく、彼女がインタビューで「撮影前には精神を落ち着かせるものを飲んでいる」と何気なく答えたのが発端だった。
芸能人のスキャンダルが好きな者、話を誇張して、ある事ない事好き勝手に言い広げる者。
それらが原因で噂に尾ひれが付いただけなのだが、富永はコレに食い付いたのだ。
隙や時間があれば彼女の前に現れ、ストーカーのごとき しつこさで追い回す。
何通も何通も「僕からは逃げられませんよ」と書いたメールを送り、精神的に追いつめる。
「あのAV女優が、すぐに“イク”のは麻薬をやってるから」
「撮影の前に飲んでいるのは麻薬」
そういった根も葉も無い噂話も、お喋り好きな若者や主婦へ広げていった。
あっという間に女優の大麻吸引への疑いは強まり、富永以外のマスコミからも追い回され、富永には執拗に追い回され、あらぬ疑いをかけられて、ついに彼女は精神を病んでしまう。
否――病が ぶり返したと言うべきか。
彼女はもともと鬱病を患っていて、精神を安定させる薬を撮影前や日常生活で服用していた。
麻薬だと言われていた精神を落ち着かせるものは、精神安定剤だったのだ。
病が再発した彼女は、自宅であるマンションに閉じこもる生活が続き、いつでもどこでも追いかけてくる富永への恐怖感に負け、彼女は飛び降り自殺をした。
彼女が飛び降りた先には、彼女の様子を伺っていた富永がおり、彼は彼女が飛び降りた瞬間を撮影することに成功し、AV女優の自殺に関する記事を書き、その記事が書かれた雑誌は瞬く間に売り切れ、一躍富永はマスコミ関係者の間で有名人となる。
だが、その栄光も長くは続かず、AV女優の自殺記事以降は成果を出せず、結局 富永は出版社をクビとなりフリーライターとしての道を歩む羽目になった。
フリーライターになっても、持ち込んだ記事は採用してもらえず、くすぶった生活を送っていた富永。
しかし死神に殺された連続通り魔殺人犯の話を聞きつけた彼は、面白そうな記事が書けると思い動き出した。
─家族を喪った遺族が、絶望して自殺すればインパクトがある
最初から自殺に導くことを目的に、富永は精神的に打たれ弱いであろう九条と玲二に近づいたのだ。
(娘も一緒に死んだのは嬉しい誤算だったぜ……これで、佐々木 玲二も自殺すれば完璧だ)
玲二が自殺した場合の記事の内容を考える富永。
(母を亡くした男子高校生、誰も彼を救えなかったのか……ダメだ、これじゃ九条と被ってる)
頭をブンブンと振って考え直そうとする富永。
――ゾクッ
その時、凄まじい殺気を感じた富永の身体が大きく震え、持っていた手帳を落としてしまった。
(な、何だ!? 誰だっ!?)
足元に落ちた手帳を気にも留めずに、殺気を放つ人物の正体を探す。
しかし周辺に人はおらず、他に人が居ると言ったら野次馬ぐらいであり、その野次馬は誰もが火災現場に釘つけとなっている。
(……気味が悪いな……何だったんだ)
殺気の出どころが分からず、諦めた富永は膝を曲げて落とした手帳を拾う。
手帳を拾った富永は曲げた膝を真っ直ぐに戻しつつ、顔をあげた。
すると、視界に漆黒のコートを纏ったドクロの姿が映った。
「うああああぁぁっ!!」
驚きのあまり、勢いよく尻餅をつく富永。
臀部から腰にかけて感じる痛みに思わず目を閉じ、表情を歪ませるが、すぐに顔をあげる。
だが、先程は確かに居たドクロは忽然と姿を消していた。
「は、はあ……?」
腰をさすりながら立ち上がり、辺りを見渡すがドクロは見当たらない。
(……幻覚……? いや、違う……あのドクロからは殺気が感じられた…………それに黒いコート……まさか……死神?)
世間を騒がす死神の存在を思い浮かべる富永。
すると、険しい表情を浮かべていた彼の口角が釣り上がった。
(死神までお出ましか? ククク……コイツは楽しみだ……来るなら来いよ……お前の正体を暴いてやる……)
かつての栄光を取り戻すという野心を抱いている富永には、世間を騒がせ、恐れられている死神も富永など“ネタ”の1つでしかないのだ。
だが彼は知らない。
死神の恐ろしさを。
道を踏み外した罪人に下される、無慈悲な裁きを。
“他人事”としてしか見ていないから、余裕でいられるのだということを。
「………………これで、2度目…………」
屋根の上から富永を見下ろし、黒斗は無表情で呟いた。