空虚感2
「ただいまー!」
自宅に帰った玲二は明るい声で、家に居る父に挨拶をした。
「ああ、玲二おかえ……ギャアアアア!!」
「ふわっ!? お、お父さん!?」
いきなり発せられた父の悲鳴に驚き、玲二は急いで声が聞こえてきたキッチンに向かった。
「お父さん、どーしたのっ!?」
玲二がキッチンに駆け込むと、母が愛用していたピンクのフリル付きエプロンを着ている父・竜二がシンクの前で右手を押さえて踞っていた。
「大丈夫っ!?」
「あああ玲二! 血が! 血ーがーでーたーぞー!!」
折り曲げていた膝を戻し、長身の体をガタガタと震わせながら竜二は玲二に人差し指を見せた。
――が、その指にあるのは血が滲んでいる程度の傷であり、大声を出して騒ぐほどの傷ではない。
父が軽傷であることを確認すると、玲二は呆れと安堵を半分ずつ含んだ深い溜め息を漏らした。
「ちょっと切れただけじゃん! もー、大袈裟なんだからー! こんなのバンソーコー貼ってれば治る…………ん? 何か前にもこんなやり取りあったような……」
首を傾げる玲二をよそに竜二は自分で傷を確認した後に、ニカッと白い歯を見せながら笑った。
「ハハハッ、本当だ! オレとしたことが取り乱してしまったようだ、驚かせてすまなかったな玲二!」
短く切り揃えられた前髪を指先でなぞりながら、得意気に言う竜二。
本人は格好つけているつもりのようだが、整っている顔立ち、筋肉質でスレンダーな程よく日焼けした身体と身につけているピンクのフリルエプロンがあまりにもミスマッチすぎて違和感しかない。
「……それはいーけどさ……何でエプロンなの? つか何で指を切ったの?」
ジト目で父を見つめる玲二。
すると竜二は何故か人差し指を突き上げた。
「よくぞ聞いてくれた玲二! 実はなあ、お父ちゃんは明日、お前に美味しいお弁当を作るために特訓していたのだ!!」
「ええーっ!?」
父の言葉に驚き、身じろく玲二。
それもその筈、何故なら竜二は一度たりとも料理などしたことが無いのだ。
家庭的な一面などまるで無い竜二が弁当を作るというのだから、玲二が驚くのも無理はない。
「い、いいよー。オレ、コンビニでパンでも買って食べるからさー」
「な、何と!? 玲二……そんなにお父ちゃんの手作り弁当が嫌なのか……!?」
見る見るうちに目に涙が溜まり、それが大粒の涙となって竜二の頬を伝い落ちていく。
「ち、違うよ! お父さんだって会社があって大変なのに、お弁当まで作ってたら更に大変になっちゃうでしょ? だから、無理しなくてもいいよって意味で言ったの!」
ボロボロ涙を零す父に慌ててフォローを入れる玲二。
「グズッ……何だ、そんなことを気にしていたのか! 心配しなくても大丈夫だぞ玲二! 何故なら、お父ちゃんは体力だけは有り余っているからだ!」
そう言って、竜二はフンッと力こぶを作った。
「弁当を作るだけで倒れるようなヤワな体作りはしていない! だから玲二は何も心配せず、明日のお弁当を楽しみにするんだ!」
竜二は少々――いや、かなり天然ボケな性格をしているせいか、どことなくふざけたような印象に見えるが、本人は至って真面目である。
彼自身も愛する妻を亡くして落ち込んでいるものの、それでも明るく振る舞っているのは息子を思っているからだ。
父親である自分が暗く沈んでいては、息子に心配をかけてしまう――そう思って竜二はいつも通りに明るく振る舞った。
弁当を作ると張り切っているのも、少しでも玲二を元気づけたいという一心からである。
「お父ちゃん、料理なんかしたことないけど……それでも頑張るからさ。玲二に喜んでもらえるように」
「お父さん……」
竜二の熱意を受け取り、玲二はゆっくりと頷いた。
「……分かったよ。明日のお弁当楽しみにしてる! あ、でも無理とケガだけはしないでね!」
「おう! 任せておけい!」
愛息子から期待を一身に受けて、竜二は張り切った様子でまな板の上に置きっぱなしだった包丁を手に取った。
「さあ、再開だ……覚悟しろニンジンめ! 必ず貴様を輪切りにしてみせる!」
包丁を握りしめながらニンジンを睨みつける竜二の邪魔にならないよう、玲二はソッとキッチンを出た。
自室に戻る途中、廊下にある洗濯機を見た玲二は汚してしまった黒斗のハンカチを思い出す。
(兄貴から綺麗に洗って返せって言われてたっけ……まあ礼儀として、新しいハンカチを返した方が良いよね……)
そう思いながら玲二はハンカチを洗濯機の中に入れて自室に戻り、机に向かった。
(ふう…………本当にオレって良い友達と両親に恵まれてるなあ)
口では厳しいことを言っていても何だかんだで面倒見が良い黒斗。
親切で優しく、ノリが良い鈴。
幼馴染みの洋介。
マイペースだが、いつも可愛がってくれる父。
そして――ちょっと短気だったけど、深い愛情を注いでくれた亡き母。
皆の姿を思い浮かべて、玲二の頬が緩む。
(本当に皆、優しくて良い人達ばかり……何も取り柄が無いオレには勿体ない程に……)
しかし、徐々にマイナス思考となっていき、唇を噛み締める。
玲二は普段は明るい性格だが、一度落ち込んだり悩みを抱えたりすると、ネガティブ思考に陥りやすい性質なのだ。
(皆はオレを助けてくれるのに、オレは皆に何も返せない…………こんなオレに優しくされる資格なんてあるのかなあ……)
母を亡くしたばかりで、まだ完全に立ち直っていない為に自分を貶すことばかり考えてしまう。
(……ハア、また嫌なこと考えて落ち込む悪いクセが出ちゃったよ。本当にオレって面倒くさい奴……)
昔はこうして落ち込んでいる時、無心で絵を描くことによって気を紛らわせていた。
だが今の玲二は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)のせいで大好きな絵を描くことすら出来ない。
原因となった有理は死んでも、トラウマが消えた訳ではないのだ。
(取り柄もないし、絵も描けない…………オレって、何の価値も無いよ……)
ますます自分が嫌いになり、玲二は机に顔を突っ伏して落ち込むのだった。
******
その頃、先程玲二達にしつこく詰め寄っていた記者の男――富永 隼人は、タクシーの後部座席で手帳に文字を書き込んでいた。
(……佐々木 玲二。厄介でうるさい友人あり、狙うなら1人で居る時……っと)
玲二に関することを書き終えると、パタンと手帳を閉じて懐にしまう。
(……今は亡き凶悪連続通り魔殺人犯に大切な家族を奪われた遺族……ぶつけようのない怒りと悲しみを背負った彼らは何を思う…………うん、テーマとしては悪くないな)
記事の内容を考えながら頷く富永。
現場にあった、殴り殺された佐々木とウシオの遺体と散らかっていた血痕と肉片。
血痕と肉片は鑑識によってシローのモノだと判明し、尋常ではない殺害方法から“死神”に殺されたのだと世間に認識された。
そして現場に残っていた佐々木とウシオの血痕が付着していた凶器の石からはシローの指紋が検出され、2人を殺したのはシローだと警察は断定。
さらにその石は連続通り魔殺人事件の凶器と同じ種類のモノだと判明し、通り魔事件の犯人もシローではないかと世間は騒いだが、容疑者も被害者も亡くなっている為に真相は未だに謎のままだ。
しかし富永には真相など、どうでもいい。
ただ面白い記事になればいいと、そんなことしか彼は考えていないのである。
死神に殺された通り魔事件の容疑者、責める相手が居なくなった被害者家族。
彼にとっては良質なネタである。
(このネタは大切にしないとな……これで俺は再び成り上がり、俺を見下したアイツらを逆に見下してやるんだ……)
「お客さん、着きましたよ」
タクシー運転手から声をかけられて富永が我に返ると、車は目的地である小型スーパーの駐車場に停車していた。
どうやら富永が野心を燃やしている間に到着したようである。
「ああ、すみません。ありがとうございました」
運転手に会釈しながら代金を支払い、富永はスーパーの中に入っていった。
「いらっしゃいませ…………っ!」
入口の近くで品物を並べていた二十代女性の店員が、富永の顔を見ると同時に顔をしかめた。
それを見た富永は笑いながら、大袈裟に肩を竦める。
「何ですかその顔は。僕はお客様ですよ、笑顔で挨拶するのが普通では?」
「何がお客よ……もう二度と私の前に現れないでと言ったでしょう!」
怒りを露に富永に詰め寄る店員だが、富永は怯む様子もなくニヤニヤと笑ったままだ。
「いいんですか九条さん? 店員がお客様にそんな失礼な物言い……他のお客さんが見てますよ」
富永に指摘されて九条が辺りを見渡すと、買い物をしている客や同僚達が、怪訝な表情を浮かべながら2人を見ていた。
「…………失礼、いたしました……お客様……」
引きつった営業スマイルを浮かべる九条を鼻で笑うと、富永は手帳とペンを取り出した。
「さてさて、落ち着いた所で取材といきましょうか。愛する夫を亡くし、心の傷も癒えていない状態で家事と子育てとパートをこなすお気持ちは?」
富永の言葉を聞いた九条の顔から営業スマイルが消え、再びしかめっ面となる。
しかし、富永はやはり彼女の表情など気にも止めず、言葉を促すように持っているペンをクルクル回す。
「……貴方には何も話したくないわ! もう私に付きまとわないで!」
富永が取材している九条 美以子は、シローによる連続通り魔殺人事件 3人目の被害者であるサラリーマンの妻。
もともと彼女は専業主婦であったが、収入源である夫を亡くし、やむを得ずパートを始めたのだ。
家事と子育てとパートをこなす苦労人の被害者家族。
富永にとって世間からの同情を集めやすいネタである彼女はここ三日間、執拗に取材を迫られていた。
精神・肉体共に疲弊していて、夫の死を受け入れられていない九条は記者の取材に答える気力など無く、むしろそっとしておいてほしいと腹立だしく思っている。
その拒絶心は態度に現れているのだが、富永はまるで動じることも気遣うこともない。
そんな無粋な富永に、九条の苛立ちは更に募っていく。
「ケチケチしなさんな、別に減るもんじゃないし……旦那さんを亡くして、どれだけ悲しいか、苦労しているかを語るだけでいいんですよ」
「だからっ! 私だって、まだ自分の気持ちを整理出来ていないの!! お願いだから、もうほっといてよ!!」
なりふり構わず九条は大声で叫ぶと、数秒の間があった後に慌てた様子で辺りを見渡した。
「……やあねえ、あの店員さん……お客に怒鳴って……」
「ヒステリックって、嫌よね」
「印象が最悪すぎるな」
事情を知らない客達が、九条に対する不満を口にしていた。
冷や汗を流しながら真っ青な顔で立ち尽くす九条を一瞥すると、富永は爽やかに微笑みながら踵を返した。
「今日はこのくらいにしておきます。また来ますね」
他人事のように言いながら、富永は店を後にした。
残された九条は、客から白い目で見られながら拳を握り締める。
─どうして私ばかり、こんなめに
─私が一体……何をしたって言うのよ
零れそうになる涙を堪えつつ、九条は中断していた作業を再開した。
******
翌日の朝
「へっへへ~、フンフン」
嬉しそうに笑いながらスキップする玲二。
そんな玲二を、後ろから見つめる黒斗と鈴。
「レイちゃん、今日はご機嫌やな。何か良いことあったんかな?」
「……さあな」
不思議そうな顔を浮かべながら鈴と黒斗が話していると、会話の内容が聞こえたのか玲二は足を止め、クルッと回りながら振り返った。
「ヘヘッ、兄貴も鈴ちゃんも気になってるみたいだね。どう? オレのご機嫌な理由聞きたい? 聞きたい!?」
「聞きたい?」と質問してはいるが、そわそわしていて落ち着きが無い様子から、本当は話したくて仕方ないということが見てとれる。
「……勿体ぶってないで、さっさと話せ……まあ、どうせ大したことじゃないだろうがな……」
「聞きたいの!? 聞きたいなら仕方ないなあ、教えてあげてもいいよ!!」
言葉に少し皮肉を混ぜていた黒斗だったが、興奮している玲二には届いていなかったようである。
「聞いて驚け、見て驚け……ジャッジャジャーンっ!!」
そう言って玲二が鞄の中から取り出したのは、手ぬぐいで包まれた大きな二段重ねの弁当箱だった。
一般的な弁当箱よりも大きなソレに、鈴が思わずギョッとするが、すぐに気を取り直す。
「おっきな弁当箱やなー。それ、どないしたん? まさかレイちゃんが自分で作ったんか?」
「違うよ! これはね、お父さんが作ってくれたんだー!」
満面の笑みを浮かべながら玲二が言うと、鈴は納得したように頷いた。
「そういえば、お前の父親……単身赴任から戻って来てるんだったな。弁当を作れると言うことは、料理はそこそこ上手いのか?」
「ううん、お父さんは料理とか全然ダメだよ! ていうか、このお弁当が初料理だよ!」
「……初料理……大丈夫なのかソレ……」
「たぶん、味はそんなに良くないと思うよ。でも、それでもいいんだ! 料理なんてしたことが無くて、仕事で疲れているお父さんが、オレの為に早起きしてお弁当を作ってくれた……それがスゴく嬉しいんだ」
そう言って弁当箱を見つめる玲二の眼差しは優しく、まるで宝物を扱うように弁当箱を抱えている様子から本当に父親が大好きで、彼からの愛情を嬉しく思っていることが分かる。
微笑ましい父と息子の関係に、クスリと笑う鈴。
「……お父さんって良いな」
ポツリと呟かれた鈴の言葉は玲二には聞こえていなかったが、隣に立つ黒斗にはハッキリと聞こえ、横目で鈴を覗き見る。
表情こそ微笑んではいるが、その目には寂しさや羨ましさの感情が含まれていた。
「……ん? どないしたん、クロちゃん」
「……いや、何でもない」
視線に気づいた鈴がこちらを向き、目が合うと黒斗はさりげなく視線を外した。
「変なクロちゃんやな……まあエエか。それより、お昼が楽しみやなレイちゃん!」
「うんっ! まだ中身を見てないから、更に楽しみだなー」
笑いながら、再び黒斗達は歩き出した。
(……母を亡くした息子の為に、料理に不慣れな父親が奮闘……うーん、いまいちだな……)
黒斗達の会話を電柱の陰から盗み聞きしていた富永は、手帳に走り書きしながら溜め息を吐いた。
(家族を亡くしながらも、遺族は支えあいたくましく生きている……こんなありきたりな綺麗事なんか面白くもない。もっとこう、ドロドロとした話が良いのに)
心底つまらなそうな表情を浮かべて、富永はその場から立ち去った。