思い3
夕日も沈み、空に月が出てきた時刻。
(…………んっ)
尿意を催したシローは起き上がり、背伸びをした。
(ふわあああ……よく寝たぜえ。丁度いい頃じゃないか)
敷いている新聞紙の上で暗くなり始めた空を見上げると、シローは懐から懐中電灯を取り出し立ち上がった。
僅かな缶を金にした後シローはのばら公園に戻り、夜に備えて睡眠をとっていた。
また今夜も黒斗が襲ってくる可能性を踏まえての睡眠である。
死神が寝込みを襲わないとは限らない――だから昼になるべく睡眠をとって、夜は日が昇るまであげようと考えたのだ。
******
公園の中心辺りまで来ると、ウシオを始めとする他の仲間達が他愛ない話で盛り上がっていた。
「おや、シローさん。今からお出かけですか?」
マリコという名の老婆がシローに気づいて声をかけると、他の者も一斉に彼を見た。
注目を集めたシローは居心地が悪そうに顔を背けると、そのまま無視して公園の出口に向かう。
「おいおい、何か言ったらどうなんだよ!」
四十代後半の坊主頭の男が怒鳴るが、シローは動じることなく立ち去って行った。
「まったく、愛想も何も無いクソジジイだな! とっととくたばっちまえ!」
「これ、そんなこと言うもんじゃないよ」
坊主頭の隣に座っていたキツネ目の老婆が不謹慎な発言を注意する。
「シローさんは誰とも仲良くしようとしないなあ。昔からあんな偏屈だったのだろうか」
「ハハハ、あれでも若い時は純粋だったんだよ? お人好しで仕事熱心かつ愛妻家で有名だったねえ」
過去を懐かしむようなマリコの言葉に、ウシオが驚いて目を丸くする。
「純粋……想像がつかない……というか詳しいですねマリコさん」
「まあアタシはシローさんのお店の常連客だったからねえ。シローさんとは割りと仲が良かったし。あんなことが起きる訳まで」
「あんなこと?」
気になる言葉が出てきてウシオはマリコに詰め寄った。
「あれはまだシローさんが五十代の時の話だけど…………」
マリコが語り始めたシローの知られざる過去話を、ウシオや他の仲間達は黙って聴いた。
******
今から12年前。
マッサージ屋を営んでいたシローだったが、腱鞘炎になってしまい渋々店を畳むこととなってしまった。
独立して家を出ている息子は仕送りが無く、収入はシローの店の売り上げのみだった為、店を畳んでしまった為に金が入ることは無くなった。
息子の仕送りも期待出来ず、シローも妻も年金を貰える年齢に達していない。
生活保護を受けようにも五十代前半の夫と四十代の妻では、働き口があるから対象にはならない。
(うーん……とにかく仕事が見つかるまでは梨恵に節約してもらうよう説得しないと……)
貯金はあるにはあるが、浪費癖がある妻の梨恵が原因で心許ない。
今の状況で梨恵に好き放題されては一文無しもありえない話ではないので、どうにか妻の出費を抑えようと様々な説得の仕方を考える。
(……まあ優しい梨恵なら、きっと分かってくれるよな!)
ちょっと金遣いが荒いが、よく気が利き、物分かりが良い愛する妻の姿を思い浮かべてシローは足早に自宅へ戻った。
「ただいまー!」
玄関を開けるシロー。
「……?」
いつもならシローが帰るなり「お帰りなさい」と笑って飛びついてくる梨恵の出迎えが無い。
「梨恵ー?」
いつもと違う状況を不思議に思いながらもシローは靴を脱いで家に上がる。
台所、浴場、便所、ベランダ。
あらゆる場所を探したが梨恵の姿は見当たらない。
それに心なしか、家の家具や置物がやけに少ない気がする。
─何かおかしい
強い違和感を感じるが、その違和感の正体がハッキリと分からずモヤモヤとした気分で寝室に入る。
「……ん?」
寝室に入ったシローの目に真っ先に止まったのは、ダブルベッドの上に置かれたピンク色の封筒。
手に取って見てみると、裏面には『梨恵』そして『さよなら』の文字が書かれていた。
「さよなら!?」
無意識のうちに声をあげながら、封を開けて中身を取り出す。
「…………は?」
その便せんに書かれていた内容にシローは己の目を疑った。
『今までアンタの稼ぎが良かったから一緒に居てやったのに、その稼ぎが無くなったんじゃアンタに価値は無いわ。今さら質素な暮らしなんか出来るもんですか。他に稼ぎが良い男に乗り換えるわ』
─嘘だろ?
─梨恵が、あの優しい梨恵がこんなことを書くわけ……
信じたくないと目をこすって読み直すが、内容に変わりは無い。
ガクガクと震えていた膝が力尽きたように折れ曲がり、シローはその場にへたりこんだ。
─家の家具が少なかったのは、梨恵が自分の荷物を纏めて持って行ったから……
─そして、梨恵が愛していたのは俺自身じゃない
─俺が稼いだ金を愛していたんだ
─最初から、金が目当てで結婚して優しくして……
「…………はっ!」
そこまで考えた所でシローは震える足を叱咤して立ち上がり、通帳が入っている棚の引き出しを開ける。
だが、引き出しの中には恐れていた通り通帳は無かった。
梨恵が出ていく際に持って行ってしまったのだ。
「……………………」
あまりのショックでシローは涙も声も出なかった。
本当は泣きたいのに、叫びたいのに。
目はカラカラに乾いていて、唇も固まったように動かない。
手足も自分の物ではないように重く、自由が効かない。
己の感情を爆発させることすらシローには出来なかった。
自分を裏切った妻への憎しみと一番信用していた妻から裏切られた悲しみ。
二つの行き場の無い思いが心を抉っていくような痛みだけがシローの感覚だった。
妻に通帳を取られた末に逃げられたシローは、残っていた僅かな現金を全て酒とタバコに使い果たした。
ショックから立ち直れず、仕事を探す気も起きず、辛い現実から逃げるように酒に溺れていった。
そんな日々を送っていたシローの元に、突然息子からの電話がかかってきた。
電話の内容は「今月の仕送りはまだなのか」という金の催促であった。
息子自身も仕事はしているが、遊ぶ金が欲しいから独立してからも両親に小遣いをねだり続けている。
ちなみに息子にはシローが仕事を辞めたことを知らせていない。
親の気も知らないで図々しい催促をしてくる息子に苛立つが、グッと堪えて事情を伝える。
「…………と、いう訳だから、すまないが仕送りは無理だ……。逆に俺が金を送ってほしいよ……」
遠回しに息子から仕送りを希望するシロー。
だが、息子の返事はあくまでも冷ややかなものだった。
『マジかよ……じゃあ親父なんか用済みじゃん。今時、親父なんか雇ってくれる所なんか滅多に無いし給与も安い。ろくに金も稼げない、妻にも逃げられた……そんなんじゃ生きてる価値ないじゃん』
“親父なんか用済みじゃん”
“生きてる価値ないじゃん”
そんな残酷な言葉が、鋭利な刃物のようにシローの心へ突き刺さる。
赤の他人ならばまだしも、実の息子からこんなことを言われては悲しみも倍になるというものだ。
『ああ、間違ってもウチには転がりこむなよ。金食い虫なんか飼う気にもなれない。……んじゃ、もう電話かけないから、親父もかけてくんなよ』
シローが黙っているのを良いことに、息子は一方的に電話を切った。
「……………………」
シローは呆然と座り込んだままだ。
「…………しょせん、そんなもんか」
ポツリと呟き、天井を見上げる。
「金、金、金が全てなんだ。金が稼げない奴には誰も見向きしない。稼ぎが良い奴にはゴマすって近寄って、収入が無くなれば用済みになって捨てられる」
フラフラと寝室を出るシロー。
「愛なんて無い……気遣い、優しさ、いたわり、思いやり……そんな物は全部ウソっぱちだ! 皆、良い顔してるだけで、裏では利益のことしか考えていない!!」
足元に転がっていた缶ビールをグシャリと踏みつける。
「……もう誰も信じない……信じるものか! 俺は1人で生きていく……信じられるのは、自分だけだ!」
そう叫ぶと、シローは家を飛び出した。
─もう、どうでもいい
─どうにでもなればいい
人の汚さ、無情さ、薄情さ。
それらを嫌というほど家族から味あわされ、心を折られたシローは全ての人間を信じられなくなってしまった。
信じていた愛する家族から捨てられたシローの悲しみは、計り知れない。
******
「……と、アタシが知ってるのはコレで全部さ」
「……………………」
マリコが語ったシローの壮絶な過去を聴き、ウシオ達は言葉を失った。
「そ、そんなことがあったんだねえ」
「妻には金を持って逃げられて、息子にも見捨てられて……こんなんじゃ誰も信じられなくなんのも納得だよ」
顔を見合せる老人達。
「……でも、極論すぎますよ……奥さんに騙されたからって誰も信じないなんて」
ポツリと呟くウシオ。
「……アンタは体験していないから、そんなことが言えるのさ。シローさんが感じた辛さや悲しみは、同じめに合わなきゃ分からないよ」
マリコの言葉に、ウシオは何も答えられなかった。
******
住宅街
(……あのアマ……今日も旦那が汗水流して稼いだ金を遊んで使う気か)
電柱に隠れて、今日も奈美子の様子を窺うシロー。
奈美子が纏っているドレスは昨日と違い、黒色のロングドレス。
赤いドレスと比べれば地味な色だが肌の露出度はこちらの方が高い。
胸元は大きく開かれていて、背中部分も全開だ。
(ケッ、年を考えろってんだ。さて……今日はクラブか? それともホストか?)
心の中で悪態を吐きつつ、尾行を続ける。
繁華街までやって来た奈美子と彼女をつけてきたシロー。
今日、奈美子は特に行く店を決めていないのか風俗店ばかり建っている通路をブラブラしている。
「ねー、ねー。そこのキレーなおねーちゃん」
二十代くらいの茶髪の青年が奈美子を呼び止めた。
「あら、おねーちゃんって私?」
「他に誰が居るんですかあ?」
「やあねえ、こんなオバサン捕まえといて!」
「ええっ、スッゲー若く見えるんすけど!」
お決まりの会話を交わした後、青年が「ちょっと遊んでかない?」と奈美子と肩に手を回して、自分の店に連れていった。
顔はソコソコ良い青年に誘われたからか奈美子はどこか誇らしげで、客を捕まえられていない他の店のキャバ嬢を見下すような笑みを浮かべていた。
(ガキに気に入られただけで勝ったつもりかよ。あのガキだってテメーに惚れたんじゃなくて、良いカモだと思ったんだろうよ)
つまらなそうにシローは踵を返した。
奈美子が一度ホストに入ったら、帰りは日が昇り始める時刻になる。
さすがのシローも奈美子が出てくるまで店の前で待っている訳にもいかないので、他の場所で時間を潰すことにした。
とはいえ、行く宛も入れる店も無いのでシローはどうしようかと考えながら歩く。
(……いつもの河川敷に行くか)
しばらく悩んだ末、1人になりたい時よく行く河川敷で時間を潰そうと思い立ち、シローは急に駆け出した。
ドンッ
「きゃっ」
前方不注意だったうえ、いきなり走り出した為に華奢な女性とぶつかってしまった。
シローは少しよろめいただけで済んだが、女性の方は勢いよく倒れてしまう。
「ああっ、るり大丈夫か?」
女性の隣を歩いていた彼氏らしき人物が彼女を抱え起こす。
「イタタ……何とか大丈夫」
「そうか、良かった」
頭を強く打ってたらどうしようかと思っていた彼氏がホッと胸を撫で下ろした。
「……ふん」
カップルの様子を見ていたシローは鼻で笑うと、その場を立ち去ろうとする。
しかし、後ろから肩を掴まれてソレを阻まれた。
「おい! ぶつかっておいて謝りもしねえのかよ!」
シローは振り返り、肩を掴む彼氏を睨みつける。
「ケガは無かったんだ。別に良いだろう」
「ケガの有無の前に、ぶつかったら謝るのが常識だろ!」
「お前らがくだらん話でよそ見してたのが悪い」
「何だとクソジジイ!」
謝るどころか、こちらに責任転嫁してきたシローの態度に彼氏は頭に血が登り、拳を振り上げた。
「待って哲! そんな奴、殴る価値も無いよ! それにお年寄りをケガさせたら哲が悪者になっちゃう」
彼女の説得を受けて、彼氏は振り上げていた拳をゆっくりと下ろし、シローの肩からも手を離した。
「す、すまねえ……お前の言う通りだな。間違いを正してくれてありがとう」
「ううん。哲も私の為に怒ってくれてありがとう、嬉しかったよ」
手を繋いで微笑みあうカップル。
「けっ、綺麗事ばかりほざいてんじゃねえよ。身体が痒くなっちまうぜ」
尻をボリボリ掻きながらシローは続ける。
「若造共、教えてやるよ。愛してるだの何だの甘い言葉を囁かれていたって、相手は裏では何を考えてるか分かったもんじゃないぜ?」
「…………」
カップルは何も言わずにシローを見つめている。
「例えば小娘、お前の彼氏は身体だけが目当てのケダモノかもしれんぞ? お前の身体に飽きたら簡単に捨てられるかもしれない。それとも小娘の方が、金目当ての交際をしてるのかね」
「…………最低」
いやらしい表情を浮かべるシローに一言呟いて、カップルはシローの横を通りすぎて行った。
「愛なんて無いんだよっ! お前らの結末は破局だ! どちらかが必ず裏切るか捨てるぞ!」
立ち去るカップルの背中に向かって声をかけ続けるシロー。
しかしカップルが無反応だった為、興味を無くしたのか彼らとは逆方向に歩き出した。
「ハア……何だったんだ、あのジジイ」
「さあね……ただ哀しい人だとしか言いようが無いわ」
******
繁華街を出たシローは河川敷に辿り着き、川の近くで座り込んだ。
(ふいー……ちっと休憩してから石を探すか)
大きく身体を伸ばしてリラックスするシロー。
ちなみに石を探してどうするのかと言うと、答えは凶器に使うことである。
たかが石、されど硬い石。
コレで思いきり脳天を殴られれば、致命傷を負ってしまうのだ。
(たくっ、アイツらのせいで余計な疲れが出ちまったぜ)
先程のカップルの顔を思い浮かべ、苛立ったシローは石を拾って川に投げる。
投げられた石は水面で跳ねることなく、ポチャンと音を立てて沈んでいった。
(どれだけ人間が汚い生き物なのか知らずにイチャイチャと……本当にガキってのは頭が悪いぜ)
「ガキで頭が悪いのはお前も一緒だろう」
背後から声が聴こえると同時に寒気を感じ、シローは素早く懐中電灯を点けて後ろを照らした。
目映い光に照らされながら立っているのは黒斗だ。
「来やがったな死神!」
咄嗟に身構えるシロー。
だが黒斗が動く気配は無く、服装も漆黒のコートではなく普通のジャケットだ。
「……そう身構えるな。今日はお前を断罪しに来たんじゃない……忠告をしに来たんだ」
「忠告だあ?」
懐中電灯の光を黒斗に当てたまま、シローは訝しげな表情を浮かべる。
「……お前は、奈美子という女の殺害を考えているな? 悪いことは言わない……これ以上罪を増やすな……後悔するぞ」
「忠告じゃなくて脅しか? ハッ! 今さら何を言われてもやめる気はねえよ! あの女は必ずぶっ殺す!」
「何故そこまで、あの女の殺害にこだわる?」
「気に入らねえから、それだけだ!」
黒斗の問いにドヤ顔で答えるシロー。
対して黒斗は呆れたように、ゆるゆると首を振る。
「……やっぱりお前は“ガキ”だな。年をとったのは身体だけ、中身は幼稚で嫌なことがあったら泣き喚いて不機嫌になって、辺り構わず八つ当たりする駄々っ子のまま成長していない」
「ハア!?」
聞き捨てならない言葉にシローが恐ろしい顔で黒斗を睨みつけるが、彼は動じることなく言葉を続ける。
「お前は奈美子に、妻の姿を重ねているだけだ。憎くて仕方ない裏切り者の妻、復讐したくても奴がどこに居るのか分からない……だから似たような女を殺して、妻に復讐した気分に浸ろうとしている」
「…………っ」
何も答えられないシロー。
「……今までの被害者もそうだろう? お前の家族に似ていたから殺した……」
シローの脳裏に、己が命を奪った3人の姿がよぎる。
1人目の老婆。
彼女は家族に見捨てられて、1人で寂しく暮らしていた。
そんな境遇が自分と似ていて、ひどく惨めな思いをした。
哀れで、惨めで、情けなくて、孤独で、誰にも愛されない老人。
弱かった頃の自分を見ているようで、惨めで腹立だしかった。
だから殺した。
そうすることで弱かった頃の自分を消し去ることが出来るような気がしたから。
二人目の大学生。
彼は実家の親に金をせびってばかりの青年だった。
普段は親に電話などしないくせに、金が欲しい時ばかり頼ってくる。
自分の息子と似ていた。
金が無いからと自分を見捨てた息子の姿が青年と重なり、息子への憎しみが彼に被せられた。
息子への殺意を青年にぶつけて、復讐した気分に浸った。
3人目の会社員。
優しい妻と可愛い子供を愛する男。
騙されていたことも知らずに、家族に尽くしていた頃の自分と似ていて胸糞悪かった。
愚かな過去の自分と姿を重ねて、彼を殺した。
家族も許せなかったが、シローは過去の無知な自分も許せなかったから。
過去の自分を殺したかった、消したかったから。
だから似ている男を殺して、過去を消した気分に浸った。
「…………お、俺は…………」
身体が震えるシロー。
「……いくら似ていても他人は他人……お前の家族が死んだ訳じゃないし、お前の過去が消えた訳じゃない」
「……………………」
「彼らを殺して何かを得られたのか?」
黒斗の赤い瞳から逃げるように顔を背けるシロー。
「……まあ、今さら何を言ってもお前が罪人だということに変わりはないがな……だが、これ以上罪を繰り返すことはやめておけ……“来世”の為にもな」
それだけ言うと、黒斗はシローに背を向けて立ち去った。
「……………………俺が……やってきたことは…………何だったんだよ…………」
1人残されたシローは、生気が無い目で呟いた。