Epilogue
「………………ん…………」
深くまで沈んでいた意識が浮上すると同時に、スズメの囀りが聞こえ、半ば無意識に鈴は瞼を開く。
すると白い天井が視界に入り、暗闇に慣れていた目が その鮮やかな色に眩しさを感じ、生理的な涙が僅かに滲んだ。
反射的に腕で目を拭い、上半身を起こして辺りを見渡す。
「……えっ、と……ここは……」
清潔感のある白くて無機質な部屋。
窓から射し込む目映い朝日。
何気なく それを見つめていると、やがて半分 眠っていた鈴の意識が覚醒した。
「ここ、病院……! ウチ、帰って来れたんかっ!?」
思わず大声を出してしまい、しまったとばかりに慌てて口を塞ぐ鈴。
ドクンドクンと鳴り響く心臓を落ち着かせつつ、彼女は棚の上に置かれたスマホを手に取り、待受画面を表示させる。
(…………日付が一日しか変わってへん……ちゅうことは……アナスタシオス教団のアジトで過ごした時間は、こっちでは一晩での出来事だったっちゅう訳か……!)
あの教会は蒼いわくゲートの中で作られたもの。
人間界と時間の流れが異なっていても、別に おかしな話ではないだろう。
ひとまず、何日間も行方不明になっていた訳ではないと分かり、鈴はホッと胸を撫で下ろした。
しかし その安堵も束の間、すぐに鈴の頭に玲二と内河の姿が思い浮かび、2人は無事なのだろうかと心配が芽生える。
(……オトンは動けなかったから、教会の消滅に巻き込まれて……もう…………でも、レイちゃんと内河くんは大丈夫なんかな? 逃げ遅れてたり……してへんよな?)
心配からか、冷や汗が背中を伝う。
その時――
「橘さん、もう荷物の整理は出来た!?」
「キャアアアアア!?」
病室の扉が いきなり開け放たれ、考え事に夢中だった鈴は悲鳴と共に肩を大きく跳ね上がらせた。
「び、ビックリしたー! 寿命 縮んだわー!」
「ビックリしたのは こっちです! まったく、朝からテンション高い子ね!」
溜め息まじりに悪態をつく看護婦。
少々 気取った感じの年若い彼女は長い髪を かきあげると、気を取り直して鈴に声を かける。
「……で、荷物は片付いたの? って、まだ病院のパジャマじゃないのっ! 早く着替えて準備しなさい! 他の人に迷惑が かかるわよ!」
いきなり怒鳴りつけてくる看護婦だが、鈴は彼女の言っている言葉の意味や叱られている理由が分からず、目を丸くして驚いていた。
「あ、あのー……すんません、準備って……何の準備ですか?」
「はあ!?」
恐る恐る訊ねてみると、案の定 看護婦は信じられないといったリアクションを してきた。
あまりにも威圧的な態度に、鈴は何だか自分が悪いような気がしてきて、思わず肩が強張る。
「何のって……退院の準備に決まってるでしょ! 昨日、すぐに病室を開けられるように準備してねって あれほど言ったのに!」
「…………は?」
今度こそ言葉を失い、きょとんと瞬きを繰り返す鈴。
看護婦は昨日から退院の準備をするよう言っていた、と主張しているが、鈴は そんな話を聞いた覚えがない。
そもそも主治医からも退院の話を切り出されてすらいないのに、いきなり こんなことを言われても困るし、準備だって出来ている訳がない。
だが看護婦は彼女の気持ちも露知らず、苛立ちを隠すことなくビシッと指を さしてきた。
「これだから最近の女子校生は嫌いなのよ! 見た目ばかり着飾って態度も頭も悪い! さっさと準備しなさい、皆 迷惑してるのよ!」
言いたいだけ言って、看護婦は さっさと病室から出ていってしまった。
扉は乱暴にピシャリと閉め、廊下を わざとらしく足音をたてながら歩いていく。
患者に対して無礼な態度ではあったが、鈴は気分を害した様子もなく、指示通りに身支度を始めた。
(……ウチの入院が、わりと長かったのって…………もしかしたら、お兄ちゃんが裏で手引きしとったからなんかな……)
今となっては知る術もないことをボンヤリと考えながら、鈴は黙々と準備を進めるのだった。
******
同日 正午前
食材の買い出しをしていた内河は、大量の買い物袋を1人で抱えながら、ヨロヨロと歩いていた。
「ひい~、ひい~……買いすぎたあ! 生還記念パーティーだからって、張り切って買い物しすぎたあっ!」
泣きながら笑う内河。
今 発した心の声の通り、彼はアナスタシオス教団のアジトから無事に自分・鈴・玲二の3人が帰還できたことを祝うパーティーを開く為に、食材を買い込んでいたのだ。
とはいえ、今回の事件で失ったものは沢山ある。
鈴は兄と父を。
玲二は母と親友を――それぞれ亡くした。
それに邦之だって連れて帰れなかった。
手放しで喜べることではない。
だが内河は それを理解して尚、皆を集めてパーティーを開こうとしていた。
騒ぐ目的ではなく、死んでいった者達の思いを無駄にせず、強く生きていこうと誓いあう為に――
しかし。
「重たいものは、重てーんだよーっ!!」
彼が どんな気持ちだろうと、無情にも食材の重さに変わりはないのである。
「はひー、ひひー、ふひー、へひー、ほひー……駄目だ真っ直ぐ歩けないいぃ……フラフラするー!」
言葉通り、酔っ払いのように左右に揺れて歩く内河。
このままでは荷物を落としたり、無様に転んだり、人や物に ぶつかってしまうかもしれない。
そう危惧した内河は安全面を優先し、痺れてしまった腕を休ませるべく、買い物袋を降ろし始める。
すると、不意に誰かに背中を叩かれた。
「んん? 誰だあ?」
独り言と共に内河が振り向くと、携帯を握りしめている知代の姿が そこにあった。
「ち、知代ちゃんじゃないかあ! どうしたんだ!? 俺に何か用か!?」
「どうも こんにちは松男さん。用が あるから話しかけたんですよ」
無愛想に言うと、知代は持っていた携帯を内河に向けて ずいっと突きだしてきた。
その勢いは強く、一瞬 顔に ぶつかるのではないかと内河は本気で心配してしまう。
「うおおう……あっぶねえ、つーか何このケータイ?」
「何って……貴方の携帯ですよ。尻ポケットから落ちるのを見て、拾ったんです」
「えっ!?」
目を見開き、慌てて携帯を受けとる内河。
何かを確かめるように携帯をベタベタと触ったり、色んな角度から眺める。
そうすると僅かにヒビが入っている箇所が見つかった。
このヒビは この間、誤って携帯を踏みつけた際に出来てしまったものであり、蜘蛛の巣のような模様が内河の携帯であると証明していた。
「うほほーいっ!! サンキュー知代ちゃん、危うく携帯を無くして大騒ぎするところだったぜえ!!」
「…………どういたしまして」
携帯を掲げ、その場で高速回転する内河にドン引きする知代。
彼女は渋い顔をしながら溜め息を吐き、無駄にテンションが高い内河から、彼の足元に置かれた買い物袋に視線を移す。
「…………すごい荷物の量ですね。これ、1人で運ぶの大変じゃありません? お手伝いしましょうか?」
面倒なことは嫌いな知代だが、さすがに人に ぶつかったりしてトラブルを起こす可能性がある人物を放っておく程 薄情ではない。
加えて彼は姉の親友だった松美の兄なのだ。世話になった人物の家族に冷たくする理由もないだろう。
そういった思いを持って知代が手伝いを申し出ると、内河は回転を止めて ただでさえ大きな目を さらに大きく見開き、驚愕の表情を浮かべた。
「て、手伝ってくれるのか!? こりゃあ願ってもない申し出だあっ! あ……でもでも、知代ちゃん本当に良いのか? 何か用事とかあったりすんじゃねーの?」
「……別に急ぎの用事とかじゃありませんよ。コンビニにお昼と夜用の弁当を買いに行くだけですから」
素っ気なく答えられた言葉に対し、内河は腑に落ちないような険しい顔で首を傾げる。
「……昼飯と晩飯がコンビニの弁当?」
「はい。実は父さん、昨日 出かけたっきり帰って来なくて……電話をかけても繋がらないし、職場にも顔を出していないそうなんです。
それで、どうしようって叔母さんに相談したら、まだ警察沙汰にするのは早いんじゃないかって……明日まで様子を見ることにして、今日は叔母さんの家に泊まらせてもらうことになったんです。
こういう時は、親戚の家が近所で本当に良かったと心底 思いましたよ。でも叔母さん夫婦も仕事が忙しくて、私に ご飯を作る余裕が無くて……だから、コンビニで弁当でも買って来るようにと」
抑揚のない口調で知代は事情を説明し、最後に疲れきった溜め息を吐いた。
父が失踪し、今も尚 音信不通。
基本的に無表情な知代は この状況を何でもないように振る舞っているが、精神は かなり疲弊しているのだと内河は感じ取っていた。
今 彼女が吐いた深い溜め息こそ、心労の証拠である。
大人ぶっているだけで知代は まだ肉体的にも精神的にも子供だ。兄、姉に続いて、今度は父まで居なくなってしまったら心に深い傷を負うだろう。
だが、もう彼女の父――邦之は帰ってこない。
全てに疲れたんだと言い放ち、娘を1人 残して遠い何処かへ去ってしまった。
警察に捜索願いが出され、彼の行方を探っても きっと見つかることは ない。
「…………俺は邦之さんを、止められなかった」
知代と会って話をすることにより、さらに強く感じられる罪悪感。
彼女の話によると親戚が近所に住んでいるとのことのなので、恐らく その親戚に引き取られて暮らすことになるのだろう。
しかし、衣食住は保証されても家族を全員 失ってしまった傷は癒えない。
「……すまねえ、俺が止められなかったばっかりに……俺が未熟だったばっかりに……」
「は?」
「うおあっ!! な、何でもねーです! 何でもな~い、何でもな~い!」
いつもの癖で呟いてしまった心の声を、慌てて無かったことにする内河。
妙な態度をとる彼に知代は怪訝な顔をするも、空気を読んだらしく それ以上は何も聞かなかった。
何とか誤魔化せて、内河は額の汗を拭う。
「……ふいー、危なかったあ。けど…………知代ちゃん、やっぱり寂しそうだなあ」
知代に聞こえないようボソボソと呟き、彼女の為に何か出来ないかと思考する。
勿論 自分は赤の他人であることも、家族を無くした穴を埋めることも出来ないことは理解している。
だけど、何もせずには いられなかった。
捨てられた知代に手を差し伸べずにはいられなかった。
人が見たら、単なる自己満足の罪滅ぼしだと嘲笑うかもしれない。
家族を亡くした者同士で、傷を舐めあおうとしているだけだと軽蔑されるかもしれない。
けど、それでも良かった。
こんなエゴで、少しでも彼女の支えになることが出来るなら――内河は何と言われようと構わなかった。
「あっ、あのさあ知代ちゃんっ! 良かったら……ホンットーに良かったらだけどさあ……昼飯と晩飯……弁当で済ますくらいだったら、ウチに食いに来ねえ?」
「えっ!?」
全く予想だにしていなかった内河の誘いに仰天する知代。
確かにコンビニの弁当で食事を済ますのは味気ないとも寂しいとも思っていたが、だからといって内河が こんなことを言い出す理由が分からない。
親しかったのは姉の清菜と彼の妹である松美。
自分と内河は顔見知りではあるが、互いの接点は殆ど無い他人同然の関係だ。
彼の申し出は驚きこそしたが、嬉しい。
でも、いくら同情したからといって、友達でもない自分を家に招き、さらに食事まで振るってくれるなんて、あまりにも申し訳なかった。
「…………ありがとうございます。でも、大丈夫です。ご迷惑かかりますし……」
「め、迷惑なんかじゃないって! じ、実は俺、まだ松美が居なくなったのに慣れてなくて、いつも ご飯を1人分 多く作っちまって余るんだ!
だからさ、その……今日も どーせ いつもの癖で多めに作っちゃうだろーし……だから その……作る手間とか そーいうの心配しなくてオッケー! ああ、自分でも何 言ってんのか よく分からなくなってきた」
混乱しているのか、真っ赤な顔で頭を抱え込む内河。
滑稽極まりない誘いかたと姿であったが、そのコミカルさの裏に秘められた彼の思いやりを知代は感じとり、自ずと頬が緩んだ。
「……フフ、内河さんって愉快な方ですね。じゃあ……お言葉に甘えて、今日は お邪魔させてもらいます」
「お! おう! 腕によりをかけて、ご馳走 作るからさ!!」
「はい」
誘いを受けた知代は年相応の可愛らしい笑みを浮かべ、内河と共に荷物を持って、彼の自宅へ向かうのであった――
******
一方その頃
退院の手続きや準備、未だ入院中の母への挨拶などを済ませ、鈴は ようやく病院から外に出てきた。
(……おかんは まだ入院かあ……でも、もう少しで退院出来るらしいし……ひと安心やな)
ほぅっ、と息を吐き、何気なく空を見上げてみる。
視界に映るのは どこまでも広がる青空と、汚れ一つ無い真っ白な雲。
闇と血で彩られた あの教会とは正反対の、光の世界。
兄に あの場所へ連れていかれた時は、もう二度と太陽の下を歩けないと思っていたが、人生 分からないものである。
(……よく生きて帰れたもんやと我ながら思うわ……)
腕を組み、うんうんと頷く鈴。
だが、不意に ある違和感が胸に芽生えた。
それは――
(そういえばウチら……どうやって帰って来たんやっけ?)
頭からポッカリと抜け落ちている、帰還した方法。
父が何らかの方法で、自分と玲二の身体を治してくれたことは覚えているのに、その後どうやって帰って来たのか――全く記憶に無いのだ。
(……いや…… 忘れとるのは、帰った時のことだけやない……死神の人格が出てるウチを止めて、レイちゃんをレギオンから助けて……お兄ちゃんを殺した人のことも……全然 思いだせへん……)
あの場に もう1人、“誰か”が居た。確かに居た。
しかし、その“誰か”の姿や正体が――思い出せない。
その時の状況は鮮明な映像で脳裏に浮かべることは出来る――けれども、その映像の中で“誰か”の姿は黒いペンで塗りつぶされたように、シルエットでしか映らないのだ。
さらに記憶を探ろうとすると、脳が それを拒むように頭が酷く痛み、思い出すことも ままならない。
(……まあ、無理に思い出す必要も あらへんか。きっと記憶が混乱しているせいで、ハッキリと思い出せへんだけなんや……)
そう自分に言い聞かせ、鈴は さっさと自宅に向かって歩きだす。
誰が兄を殺したのかは気になるが、思い出せないものは仕方ないのだから。
「あーっ!! 鈴ちゃんだあああ!!」
曇っていた気分を晴らすような、底抜けに明るい声。
随分と久し振りに感じられる その声に、鈴の険しい表情が一気に和らいだ。
「レイちゃん! レイちゃんやないか!」
前方からドタドタと走ってくる親友に駆け寄っていく鈴。
2人は互いに近寄ると、手を握りあって笑いかけた。
「鈴ちゃんも無事だったんだ! 本当に良かったよー!!」
「レイちゃんこそ! 身体が黒いのも綺麗に治って……! ホンマに良かったわ!」
無事と再会を喜ぶ2人。
こうして また笑いあうことが出来た奇跡に、彼女達は涙を流して歓喜した。
「……オレ達、ちゃんと皆で帰ってこれたんだね。何だか夢みたいだよ」
「せやなあ……また、いつも通りの生活が送れる訳や」
隣り合って歩き、他愛ない会話をする鈴達だったが、たった今 彼女が発した言葉を聞いた途端、玲二の顔から笑顔が消えた。
「…………いつも通りの、だね。お母さんも洋介も、もう居ない……いつもの日常……」
「あっ……ご、ごめん……」
「ううん、気にしないでよ。鈴ちゃんだって、お父さんやお兄さんを亡くして辛いのは一緒じゃないか。それに……お母さんが二回も死んだのは悲しいけど……お母さんの分まで強く生きるって決めたから」
そう言って玲二は爽やかに笑う。
今の言葉に嘘偽りは無いようであり、さっぱりとした笑顔に影は見られなかった。
出会った頃と比べて、随分と たくましくなったものだと鈴は 内心 思う。
「……頼りないように見えるけど、レイちゃんは強いな。ウチも見習わへんと」
「頼りないは余計だよ~! もう……鈴ちゃんまで“兄貴”みたいなことを…………って、あれ?」
歩みを止め、玲二は その場で放心したように立ち尽くす。
「…………兄貴って……誰だっけ?」
無意識のうちに口走った、“兄貴”なる人物。
しかし、玲二は その人物が誰のことなのか自分でも分からず、心当たりも無かった。
兄弟なんて居ないし、父を兄貴と呼ぶのも おかしい。
有理や洋介を冗談でも兄貴と呼んだこともない。
如月高校で親しい友人だって鈴しか居ない。
それなのに“兄貴”だなんて言葉は、どこから浮かんできたのだろうか。
「兄貴……うーん……何のことだっけなあ……何で、こんなこと言っちゃったんだろ?」
「夢に出てきた人なんちゃう? ウチ、レイちゃんが誰かを兄貴って呼んだ所なんか見たことあらへんし」
「夢……なの、かな……? いや、でも……」
頭を両手で抱え、うーんうーんと唸りながら俯く玲二。
数秒 経過すると、彼は己の隣を横目で見やった。
誰も居ない――風が吹き抜けるだけの空間を。
「…………何かが、足りない気が する」
独り言を呟き、寂しげな顔で玲二を虚空を見つめ続ける。
「もう1人、誰か居なかった? いつも その“誰か”と一緒に、3人で お喋りしながら歩いてなかったっけ? 大切な友達が もう1人 居たんじゃないのかな」
「ちょ……ちょっとレイちゃん、どないしたんや?」
「何か大切なことを忘れてる気がする……! ねえ、鈴ちゃんも何かを忘れてない!?」
尋常ならざる玲二の様子に、鈴は冷や汗を流す。
さっきまで普通――いつもの明るく無邪気な彼だったのに、“兄貴”という言葉を口に した瞬間 様子が おかしくなった。
“足りない”、“何かを忘れている”と、狂ったように繰り返しだした。
一体 何が玲二に ここまで焦りを与えているのだろうか。
「……と、とにかくレイちゃん、落ち着こうや。きっと帰って来たばかりで混乱してるだけ……」
「混乱なんか してないよ! オレ、オレ……思い出さなくちゃ……!」
勢いよく鈴の方へ顔を向ける玲二。
すると、彼女の肩越しにある人物の姿が見えた。
その人物は人混みに紛れて全身こそ見えなかったが、顔は一瞬だけハッキリと見えた。
黒い髪と、血のように赤い瞳。
あまり歳が変わらないであろう その少年は、玲二の視線に気づくことなく、再び人混みに紛れて姿を消した。
「………………」
ずっと騒いでいた玲二だったが、少年の姿が見えなくなると同時に動きを止め、何も言わずに その場で立ち尽くした。
「……ごめん、鈴ちゃん…………なんか忘れてるって……オレの気のせいだったみたい」
さっきまで得体の知れない焦燥感に襲われていたのに、その焦燥感は いつの間にか玲二の中から綺麗さっぱり消え失せた。
一体 何をあんなに騒いでいたのだろうか。
思い出せないということは大したことではないだろうに、何故 必死に思い出そうとしていたのか、玲二は自分でも不思議に思う。
「ビックリさせてゴメンね鈴ちゃん! もう大丈夫! フツーのオレに戻ったよー!」
そう言って笑い、何故かボディービルのようなポージングを とる玲二。
彼は いつものテンションに戻ったが、それを見つめる鈴の顔は浮かないままだった。
やはり怖がらせてしまったのだろうか――そう心配した玲二は、なるべく明るい声音で彼女に声を かける。
「ど、どーしたの? もう大丈夫だよ、鈴ちゃん……いつものオレだよ?」
「……大丈夫や、あらへん。だって……レイちゃん、泣いとるもん」
「えっ?」
指摘を受け、慌てて目を腕で擦る。
すると服の袖が僅かに濡れており、ようやく彼は自分が泣いていることに気づいた。
「な、なんでだろ……何で、涙が……」
ボロボロと涙が溢れて止まらない。
何も悲しくなんかないのに、涙腺が壊れたように涙は止めどなく流れ落ちる。
拭っても拭っても、次から次へと目に涙が滲んでくる。
「れ、レイちゃん……落ち着いてや」
幼子のように泣きじゃくる玲二を鈴は宥めようとするも、不意に彼女の視界も滲みだし、続いて頬を温かい液体が伝った。
それが涙だと気づくのに時間はかからなかった。
「ウ、ウチまで……何でや? ウチらは何が悲しくて泣いとるんや?」
困惑する鈴と玲二。
あまりにも大量の涙が出てくる為、身体から水分が無くなってしまうのではないかと2人は心配になる。
「う、うう~……気持ち悪いくらい止まらないよ、鈴ちゃん……」
「だ、大丈夫……きっと、混乱してるだけや。そのうち、止まるって……」
止まらない涙を流し続ける2人。
帰って来たばかりで記憶が混乱しているだけだと、彼女達は自分で自分に、そして互いに言い聞かせる。
心に開いた穴を――言葉に出来ない喪失感を誤魔化しながら。
気のせいだと、目を逸らしながら――
******
その日の夜
母の亡骸が埋まっている裏山のイチイの木の前で、黒斗は1人 佇んでいた。
ボンヤリと大木を見つめる彼の右手には、玲二が鈴に似顔絵を渡した日、一緒に貰ったノートが握られている。
「……アイツらは大丈夫そうだ。思っていたより強力な封印だったし、俺のことを思い出させる奴だって居ない」
そう言いながら黒斗は ほっと息を吐く。
気温が低いせいか、吐き出された息は白い煙となって一瞬だけ宙に浮いていた。
自分に関する記憶を代償に、鈴と玲二の命を救った黒斗。
その際に蒼は封印に使って尚 余っていた感情エネルギーを使い、2人以外にも黒斗のことを知っている人間の記憶も消してくれた。
鈴と玲二だけが黒斗を忘れ、周りの人間は覚えているという不自然な状況を避ける為に、蒼が気を利かせてくれたのである。
お陰で この街で出会った人々の中に、“月影 黒斗”の存在を知る者は誰一人として居なくなったのだ。
「……アナスタシオス教団の事件は、とりあえず一段落といったところかな……まあ、ボスが潰せただけでも上出来だと思う」
解決ではなく、一段落と表したのは まだ完全に事件は終わっていないからだ。
大神は死に、ウンデカも教会の崩落に巻き込まれて消滅したが、彼らによって試練の水を飲まされた残党は まだ数多く存在している。
奴らは生きている間こそ普通の人間だが、死ねば動く屍と化し、人間を襲う危険な存在となるのだ。
そんな奴等を野放しにしてはおけない。
今後は罪人だけでなく、死して怪物となった者も刈る必要がある訳だ。
「…………まあ、刈る相手が増えたところで俺のやることは変わらないけどな」
そう呟き、黒斗は天を仰ぐ。
雲一つ無い、星と月がハッキリと見えて輝いている美しい夜空。
それは黒斗が初めて人間界に来た時の美しさと よく似ていた。
「…………アイツらと出会えて、本当に良かったよ」
まるで誰かに語りかけるような口調で、黒斗は言葉を続ける。
「アイツらは俺と出会って、強くなれた……変われたと言ってたけど……それは逆なんだ。
アイツらの お陰で俺は強くなれて、変わることが出来た。弱い自分と向き合うことが出来た。
こんな俺を慕って、信じてくれたから……俺は自分を信じることが出来た。
どんな困難に ぶつかっても、決してブレずに真っ直ぐ生きようとするアイツらの姿に……俺は勇気を貰ったんだ」
人間は弱くて醜いものだと思っていた。
いや、実際に そうなのだろう。
弱いから人は道を踏み外す。罪を犯す。
醜いから人は誰かを傷つける。自分の利益ばかり考える。
だけど、人は強く優しくなることだって出来る。
鈴達のように――
「……別れるのは寂しくないと言ったら嘘になるけど……でも、心は不思議と穏やかで、満たされているんだ。沢山 思い出を貰ったから……それを糧に、俺は生きていける」
視線を落とし、黒斗は手に持っていたノートを開く。
そこに描かれていたのは、黒斗・鈴・玲二・内河・佐々木の5人の絵。
鮮やかな色で描かれた彼らは皆、笑っていた。
楽しそうに、幸せそうに。
その絵を見ている黒斗の顔にも また、笑みが浮かぶ。
「……良い絵だな……これ以上はない餞別だよ、佐々木」
黒斗は そっとノートを閉じると、大切そうに それを小脇に抱える。
そして彼は大木に歩み寄っていき、その樹肌を手で愛しそうに撫でた。
「……俺は これからも断罪者として生きていく。また いつか躓いたり、挫けたりすることがあるかもしれない。
だけど……それでも俺は立ち上がってみせる。何度だって、立ち上がって歩いてみせる。だから……心配しないでね、お母さん」
イチイの木に向かって微笑むと、黒斗は踵を返してゲートを開き、その中に向かって歩きだす。
だが深い闇の中に入る直前に彼は足を止め、おもむろに再び夜空を見上げた。
「……ありがとう……そして、さようなら。これからも、どうか……その優しい心を失わずに、強く生きていってくれ。内河、佐々木……そして、橘」
この街で出来た かけがえのない友への別れの言葉を口にして、黒斗は闇の中へ姿を消した――
******
罪は罰せられなければならない。
だが、この世界には罪を犯しながらも罰を受ける事なく生きている者も居る。
法律、権力、金、あるいは巧妙な工作――。
様々な恩恵に守られて、人が裁けない罪人がいる。
人が裁く事が出来ないならば、その罪人は罰する事が出来ない。
だが、そんな罪人達に罰を与える人ならざる者が居た。
それは人の心を持つ死神。
彼は罪人に裁きを与える断罪者として生きていた。
そして これからも断罪者として生きていく。
母と友から貰った絆と思い出を胸に、人を殺す痛みと罪を背負いながら生きていく。
彼が生きている限り1人、また1人と罪人が裁かれていく。
罪を繰り返す愚かな人間の元に、今日も また死神が無慈悲なる裁きを下しに やってくる。
「何度目だ?」と、死の宣告とも言える問いかけと共に、闇の中から やってくる。
死神の鎌――“デスサイズ”を持って。
──────E N D─────