罪と罰16
佐々木が屍に身体を食われているのと同じ頃――
内河は見失ってしまった松之助と邦之を探し、広い教会を宛もなくさまよっていた。
「くっそー、アイツら何処に行きやがった!! 見つけたらボッコボコに してやるう!」
今ここに居ない2人の大人へ苛立ちを口にする内河。
しかし、体力に自信がある彼も さすがに走り続けて疲れたのか額に滲んだ汗を腕で拭い、その場に しゃがみこんだ。
「ヒッ、ヒッ、フー。それにしても、何で お父ちゃんと邦之さんは教団の信者になったんだよ……第一 邦之さんは連れ去られたのに、仲間になるなんて おかしいじゃん? ありえないじゃん?」
娘が所属していた教団とはいえ、彼が信者となる理由が分からず、ただ首を捻るしかない。
まあ、どんな理由が あろうと強引にでも連れて帰れば良いかと、内河は疑問を さっさと片付けてしまう。
「……邦之さんには まだ娘が……千代ちゃんが居るんだ。姉に続いて父親まで居なくなるとか、あまりにも可哀想すぎるだろ。まったく、邦之さんも そこの所よく考えて、しっかりしてほしいもんだぜ」
「……しっかりしてほしい? 俺は……しっかりしてるつもりだったさ……それでも まだ足りないって言うのかい?」
思考に耽っていた内河に かけられた低い声。
それが聞こえた前方を改めて見やると、そこには探し求めていた松之助と邦之が立っていた。
彼らは しゃがんでいる内河を無表情のまま見下ろしており、内河が顔を上げたことにより必然的に視線が絡み合う。
「あーーーっ! 探したぞダメな大人コンビ! ここで会ったが百年目! 邦之さんを返してもらうぞ お父ちゃん!!」
立ち上がると同時に息巻いた様子で松之助を指差す内河。
それに対し、松之助はハエでも払うように手を振って うっとうしそうに答える。
「俺は別に返しても良いんだよ。けど、この野郎が帰りたくないっていうから仕方なく連れて来てるんだ。俺が無理矢理 連れまわしているような人聞きの悪い言い方は やめい」
「なんだとーっ!?」
飄々(ひょうひょう)とした松之助の物言いに、単純な内河は簡単に憤慨してしまう。
そして彼は鋭く細めた目で邦之に視線を移し、「こんな奴に付き合う必要ありません、帰りますよーっ!!」と手を差し伸べる。
しかし、邦之は その手を一瞥しただけで取ろうとはしない。
「おいっ! 知代ちゃんだって、アンタの帰りを待ってるんだぞ!?」
「………………疲れたんだよ」
内河の怒声に、邦之は息を切らしたような低く小さな声を返し、そのまま言葉を続けた。
「……内河さん……君の お父さんから聞いたよ……清菜が この教団の信者で……龍馬と……松美ちゃんを殺したんだって……」
邦之の言葉に内河はハッと息を呑む。
自分が言うか言わないか迷っていた真実を、この父親は簡単に明かしてしまったようだ。
「き、聞いちまった……のかよ……」
内河の背中を冷たい汗が伝う。
清菜が最初に殺した龍馬は、彼女の実の兄であり、邦之が妻との間に初めて授かった子供。
次に殺された松美の家族である内河家とも親しい仲。
息子を殺された被害者としての悲しみと、加害者家族としての苦しみ。それらを邦之は同時に味わってしまったのだ。
彼の苦悩は計り知れない。
「……どこで間違ったんだろう」
不意に邦之がポツリと呟く。
「連れ添いには先立たれて、男手一つで子供達を育てて。大変たけど、それなりに上手くいっていたんだ。龍馬も清菜も知代も、悪いところはあっても良い子だった。
なのに……いつから俺達 家族は おかしくなっていた? いつから壊れはじめていた? それとも気づいていなかったのは俺だけか?
俺が気づけなかったから龍馬は死んで、清菜は人殺しになって死んだのか? 俺が悪いのか? 俺が間違えたせいなのか? なあ教えてくれよ松男くん……」
暗く沈んだ その声色は、何もかも諦めてしまったのか、それとも ただ単純に答えを求めているのか――内河には知る術がない。
何を言えば正解なのかも分からない。
だが、弱々しく心なしか やつれているように見える邦之の姿は、内河の目には憐れで情けなく映った。
「……もっと しっかりしろよ……アンタ大人だろ? 親だろ? アンタがシャキッと してなくて どうするんだよ……」
思ったことを率直に言うと、邦之の眉がピクリと動き、瞳に怒りの炎が宿った。
「大人、親…………。だから どうしたんだ。大人は弱音を吐いちゃいけないのか? 親は誰かに すがっちゃいけないっていうのか?」
「そ、そこまでは言ってねーよ! でも、アンタが そんな弱気だったら誰が知代ちゃんを守るんだよ!」
「じゃあ俺のことは誰が守ってくれるんだっ!?」
息巻いていた内河だったが、邦之の怒声に圧されて その勢いが消えてしまう。
それをいいことに邦之は堰を切ったように言葉を続ける。
「俺だって……親だって人間なんだよ! 弱音を吐きたい時もあるさ! 誰かに助けてほしい時もあるさ! それなのに、俺達の苦労を何も分かっていない お前達のようなガキは、皆 口を揃えて しっかりしろと言う!
しっかりしてるつもりだったさ! 何が正解なのか分からない中、自分なりに頑張っていたさ! でも その頑張りが間違いだった時……報われなかった時……俺達 大人は、親は……どうすればいい?」
訊ねるような口振りでありながら、邦之は すぐに首を振って、内河が言葉を紡ぐ隙もなく再び口を開く。
「……罪を償うべき清菜は死んでしまった。遺された俺は どうすればいい? 息子を奪われた悲しみを何処に ぶつける? 被害者家族に どんな顔をして生きていけばいい?
清菜の代わりに俺達家族が償わなければならないのか、色んな奴らに人殺しの家族だと白い目を向けられ続けるのか…………浮かんでくるのは こんな考えばかり。もう疲れた。
自分の足で立っているのも やっとなのに、このうえ知代まで支える余裕なんて俺には無いんだ。そんなことをしたって共倒れになるだけ。
だから俺は逃げた。自分が壊れる前に……全てを捨ててきた。もう何も考えたくない。1人で ここまで頑張ってきたんだから、逃げ出したっていいだろう!!」
「…………く、邦之……さん……」
邦之の言葉から滲み出る彼の苦悩に言葉を失う内河。
冷や汗を流す彼へ さらなる追いうちを かけるように、今度は松之助が喋りだす。
「俺もコイツと同じでな、疲れたんだよ。家族と生きていくのに」
内河へ憎悪を秘めた眼差しを向け、ポツリポツリと語りだす。
「最初は幸せだったさ。惚れた女と毎日 顔合わせて、手作りの弁当を会社の同僚に自慢して、家に帰ったら出迎えてもらえて、体力が続く限り出すもん出させてもらって。
遂には子供が2人も出来やがって、これ以上の幸せは ねーわと……心から思ってたんだぜ。女も子供も夫であり、父親である俺を信頼し、俺を頼ってくる。
信頼されるって嬉しいもんだと感じてた……けど……いつからかねえ、その信頼が“重い”と感じるようになったのは」
「お、重い……だと……」
呆けたように復唱する内河。
すると松之助は不敵な笑みを たたえながら、震える息子へと近づいていった。
「無条件の信頼、愛情は俺にプレッシャーを与えてきた。俺が しっかりしなければいけないという その思いが強くなるにつれ……それに応えるのに嫌気が さしてきた。
だけど家庭の大黒柱は俺だ。俺が弱っていたら皆が不安になる。だから嫌なことがあろうと、悲しいことがあろうと、辛かろうと……普段通りに振る舞った。
……でも……俺だって人間だからなあ……限界は来るんだよ……会社でも家でも自分を押し隠して仮面被って、吐きたいヘド堪えて……バカらしくなってきた。
溜まりに溜まった不満を違う女に ぶつけてみたが、心は満たされない。だけど いつか満たされると信じて行為を続けた。そのうち松里に浮気がバレてしまったがな。
でもよお……ぶちギレてる松里を見ても罪悪感は無かったんだ。だって、俺を追いつめたのはアイツ……そして お前ら子供達だ。
誰も俺の無言のSOSに気づいてくれず、俺の苦しみも知らずに のうのうと暮らしていた お前ら家族が憎く思った。だから捨ててやろうと思った。
うっとうしい家族を捨てて、教団が作る新しい世界で新しい人生を歩むことにしたんだよっ!」
息継ぎなしで長い言葉を言い切ると、松之助は目の前に立つ息子の肩に手を置いた。
「お前達みたいに親の苦労を知らない奴は、皆 大人のくせに、親のくせにだとか そう言う。その言葉が どれだけ俺達を苦しめていたか分かるか?」
「…………わ……分かんねーよ! 分かりたくもねーっての!!」
肩に置かれた父の手を乱暴に払い、後ずさりをしながら睨みつける内河。
勇んでいるように見えるものの、あちこちを さまよう目線と妙に引けている腰は、彼が動揺していることを現していた。
「ア、アンタの苦しみってのは……ただの逆ギレじゃねえかよっ!」
震える指で松之助を指し、裏返った声で内河は そう反論する。
「何がプレッシャーだ、何が仮面だっ! テメーが勝手に悩んで勝手に背負って、勝手に追いつめられただけじゃねえか! 1人で気負う必要なんか全然 無いだろ! 辛いなら頼れよ、何の為の家族だったんだよ!」
「頼る? 精神的に参って やつれている俺を見ても、労りの言葉一つ かけねえ奴らに頼って、何が変わるんだ? 言ってみろよ、おい」
先程 払われたにも関わらず、松之助は再び内河の肩に、今度は手を置くのではなく腕を まわしてきた。
さらに馴れ馴れしく顔まで近づけてくる為、彼が口を開ける度にタバコのヤニ臭い口臭がイヤでも漂う。
直に浴びせられる不快な それに、内河は顔を しかめて松之助の身体を離そうとする。
「クッセーよ、加齢臭とヤニのコラボレーションとか誰得だよ! それに いくら家族でも、言わなきゃ分かんないことだってあんだよ! お母ちゃんだってアンタが疲れてると分かったら気を使ってたさ!」
「いーや、ありえない。あの女は気遣いのスキルが欠如している。逆に頑張れと叱咤されるだけだ」
「勝手に決めつけんなあ! お母ちゃんは厳しいけど、そんなに冷たくないっ!」
子供のように不毛な口論を続ける2人。
低レベルな争いに、見守っている邦之も呆れを含んだ溜め息を漏らす。
(……自分でも勝手で情けないのは分かってるさ……でも、もう戻れない。取り返しは つかないんだ)
邦之だって知代のことは可愛い。
可愛いけれど、その愛情よりも精神的疲労の方が勝ってしまった。
それに、清菜の罪を全て知ったうえで自分は どんな顔をして娘と暮らしていけばいいのか分からない。
いつか罪の意識に苛まれて壊れてしまう気がして仕方ない――だから、そうなる前に離れていく。
これが邦之なりに娘を守る手段だった。
(勝手で情けないダメ親父で悪いな……でも、俺が この内河さんのように狂って お前を傷つけてしまう可能性が ある以上……一緒には居られないんだ)
自分の心は そんなに強くないのだ、と邦之は自嘲の笑みを浮かべる。
「…………内河さん。松男くんは放って、もう行きましょう。時間の無駄だ」
邦之が呟くと内河と松之助の会話が止まり、2人同時に邦之へ顔を向けた。
「ま、待てよ! 行かせね……」
「わーったよ。こんなクソガキに構ってる場合じゃないもんな」
内河の言葉尻は父によって遮られ、その遮った本人は息子の肩から腕を離して邦之の元へと歩いていく。
しかし その足取りは、今度は内河が彼の前に立つことによって遮られた。
「行かせねえよおおおお!? つーか、何処に行くつもりだよっ!」
「さあな、行き先は決めてねえ。まあ、お前らが居ない場所であることは確かだがな」
からかうように言う松之助。
そんな彼の胸ぐらを内河が掴む。
「はい そうですかって行かせるとでも思ったかあ!? さすらいの旅に出るぐらいなら刑務所にでも入ってろおお! 自分勝手にも程がある!
そもそもアンタが……アンタが俺達 家族に もっと心を開いていれば こんなことに ならなかったんだよっ! 松美だって死ななかったんだよ! コンチクショー!」
内河の手に力が入り、松之助のコートに刻まれるシワが入る。
松之助が松美を殺した訳ではないが、原因となったアナスタシオス教団に加担していたことは許せない。
母を責めて、内心ほくそ笑んでいたと思うと さらに許せない。
本当は気が済むまで ぶん殴ってやりたいが、暴力よりも罪を償わせる方が松美も喜ぶと思い、堪える。
「静まれ、躍動する俺の魂! ボッコボコに してやりたくても我慢するんだ! 俺は こんな奴とは違うのだよ、こんな奴とは! ハアー、ハアー!」
鼻息を荒くして、殴りかかってしまいそうな拳を必死に抑える内河。
その時――
「……ウゼえ。松美が死んで そんなにショックなら……同じ所に送ってやるよ!」
怒声と共に松之助が内河の首に手を かけ、そのまま力任せに絞め始めた。
「グ、ウ…………ゲェ……」
尋常ならざる力で絞められる首。
さらに松之助の手は あごの下辺りを強く押さえ、確実に気道を塞いで内河の呼吸を止めようとしている。
さすがに紐で絞められるより威力は低いが、それでも苦しいことに変わりはない。
「な、何をしてるんですか内河さん!? 松男くんが死んでしまいますよ!」
「死ぬ? 当たり前だ……殺すつもりなんだからよお!」
突然の凶行に驚き制止の声を かける邦之だが、松之助の手から力は抜けない。
その間にも内河は酸素が上手く体内に取り込めず、白目を剥きながら苦しみ もがいている。
このままでは彼は意識を失い、そして死んでしまう。
「嬉しいだろおお!? 妹に あの世で また会えるんだからなあ! 松美だって大好きな お兄ちゃんに会えて、きっと喜ぶさあ!」
「ウギィィ」
内河の目から零れる涙と、口から漏れる唾液が顔を伝って松之助の手を濡らし、ぬるりとした気持ち悪い感触を与える。
「内河さん……こ、殺す必要は ありませんよ!? 彼は普通の人間だし、俺達のことを警察に話したって信じられないだろうし、警官の多くはアナスタシオス教団の一味なんですし!」
心配は しているものの、自分まで危害を加えられることを恐れ、邦之は遠くから説得を することしか出来ない。
そんな邦之の言葉が松之助に届く訳もなく、松之助は血走った目で苦しみ息子を見つめる。
だが――その息子の背後に、ここに“居る筈がない”人物の姿が見え、松之助の目が驚愕で見開かれた。
「な……な、んで……おまえが…………」
背筋に冷たい汗が流れる。
松之助の動揺に呼応し、彼の手が震えて力が抜ける。
「ゲハッ、ハー……ハッ…………ゴハッ、ゲヘッ、ゲッ」
塞がっていた気道が解放され、空気を吸い込むと同時に むせて咳き込む内河。
首を絞められていた時間が それほど長くなかった為か意識も あり、呼吸する気力も僅かながらに残っているようだ。
ヒュー、ヒューと音を たてながらも、足りなかった酸素を内河は必死に体内へ取り込む。
一方 松之助は息子が息を しているにも関わらず、手を首に かけているだけで再び絞めようとは せず、内河の後ろに視線を注いだまま動かない。
まるで、化け物にでも遭遇したように恐怖の色を滲ませる彼の瞳に映っているのは――死んだ筈の娘だった。
「まつみ……!」
娘の名を震えた声で呼ぶと、俯いていた松美が顔を上げた。
露になった彼女の顔は血の気が失せた蒼白色であり、恨みがましい目付きで こちらを見据えている。
故人となった彼女が ここに居ることも さることながら、悪霊の如き邪悪なオーラを纏う その姿に、松之助に かつてない恐怖感を覚えた。
(……何だ? 内河さんの様子が おかしい……)
いきなり身体が震え、青ざめた顔をしている松之助の異変に首を傾げる邦之。
困惑した様子で内河親子を見守る彼の目には、松美の姿が映っていなかった。
『お兄様まで殺すんですか』
松之助の目を真っ直ぐ見つめながら、松美は そう言う。
その言葉は口から飛び出したものではなく、直接 松之助の頭に響いてくるものだった。
『私だけでなく、お兄様まで貴方は……』
「ば、ばか! 人聞きが悪いことを言うな、お前を殺したのは俺じゃなくて篠塚 清菜……」
『私は教団に殺された。貴方に殺されたも同然です』
地を這うような低い声が脳内で響く度に、胸がズクズクと痛む。
その痛みは良心の呵責だなんて綺麗なものじゃない。
呪いのワラ人形のように、胸に釘を打ち込まれているような――しつこく、それでいて激しい痛みだった。
「お前……っ! 父親の俺を呪い殺そうとでも言うのか!? ああ!?」
脅すように敢えて口調を荒げて松美を睨むと、彼女は口を裂けそうな程に吊り上げて、クスクスと笑いだした。
松美は今の言葉に肯定も否定もしていない。だが松之助には娘が何を考えているのか、その不気味な笑みを見て直ぐに分かった。
「や、やめろ……ただでさえ俺は お前達のせいで苦しんできたのに、今度は娘に呪い殺されるなんて冗談じゃない!」
脂汗が止まらない。
目前の娘は自分より遥かに小さい筈なのに、迫力に圧倒されているせいか、とても大きく見える。
そんな彼女が放ってくる強力な殺気に尻込みし、松之助は内河の首から手を離して後ずさりを した。
「ハッ、ハッ……ヒィ、グホッ……ど、ゲヘッ……どうしたんだよ……?」
未だに痛みが残る首を さすりつつ、内河は父親に対する疑問を口にする。
松之助は一点を――内河の後ろを見つめ、怯えた様子を見せている。
何かが居るのだろうかと内河は振り向くも、やはり そこには何も無く、ますます訳が分からなくなる。
内河も また邦之と同じで松美の姿は勿論、声も聞こえていないようだ。
困惑する兄の側に立つ松美は彼を一瞥した後、松之助に向かって一歩 足を踏み出した。
「く……来るなっ!」
虫を払うように手を振って遠ざけようとするも、松美の歩みは止まらない。
「俺は お前の父親で、家族だぞ!? 家族に そんなことをして良いのか!?」
『…………私の家族は……お兄様と お母様だけです。家族に危害を加えるならば……地獄に堕ちる覚悟だってあります……』
松美の手が伸びて松之助の首に かかる――と、同時に彼女の姿は透き通り、そのまま虚空に溶けるように消え入る。
しかし、それを きっかけに松之助が突如 首に手を添えて苦しみだした。
「うがあああああっ!!」
「なっ、お父ちゃん!?」
いきなり悲鳴を あげ、地面で のたうち回る彼に驚愕する内河と邦之。
松之助の血走った目は大きく見開かれ、口の端からは唾液が流れる。
「アイツ、がっ! 松美が……来る、あああああああ!!」
「松美!?」
妹の名に反応する内河。
今の発言を問いただそうとするも、松之助は とても会話が出来る状態ではない。
錯乱している彼を内河が見つめていると、いきなり邦之に身体を押し退けられた。
「内河さん、何に怯えているのか知りませんが大丈夫ですよ! 何も居ませんから!」
言い聞かせながら邦之は取り出した携帯でゲートを開き、松之助の肩を掴んで彼を その中に押し込もうとする。
その間にも松之助は悲鳴を あげているが、自分の首に ずっと手を添えているので、邦之には危害が無い。
抵抗することなく、彼は されるがままに身体を押されていく。
「おい、待てよ お父ちゃん! 松美が来るって どういうことだよ、なあ……」
茫然としていた内河が我に返り、父に声を かける。
すると松之助の悲鳴がピタリと止まり、彼は息子にギョロりとしている目を向けた。
「……松美が……俺を……俺を……」
うわ言のように呟く松之助の視界には、彼が恐れる娘の姿は無い。
しかし、頭の中では彼女の声が繰り返し こだましている。
“私は貴方を許さない”と、恨み言を何度も何度も。
そして その声が響くと共に、首が引っ掻かれているように痛むのだ。
『一緒に堕ちましょう……お父様』
今度は脳内ではなく、耳元で その声が囁かれた――
「ギャアァアアアァァアァァア!!」
一際 大きな悲鳴が松之助の口から発せられ、彼は弾かれたように走りだし、自らゲートの奥へと入っていった。
まるで何かに とり憑かれてしまったような彼の行動に、内河も邦之も言葉を失い、ボンヤリとゲートを見つめるしかない。
「……幽霊にでも憑かれたのかね」
何気ない邦之の発言に、内河の眉がピクリと吊り上がる。
「……幽霊……松美……松美が来る…………まさか本当に……アイツが……?」
非現実的な考えに辿り着き、ありえないとばかりに内河は首を振る。
「でも…………今 俺達が経験してることだって、とんだファンタジーな訳で……だったら幽霊の方が まだ ありえる訳で……」
心の声をブツブツと口に出す内河だが、邦之がゲートに入ろうとしているのに気づき、慌てて彼に向かって走り出した。
「待てーーっ!! アンタまで行って どーすんだ! 知代ちゃんを残して行くなんて許さねーぞ!」
全速力で駆ける内河だが、邦之は既にゲートの前に立っているのだ。
どんなに頑張ったって間に合う訳が無い。
それを分かっていても、内河は足を止めない。
ダメだからと最初から諦めるのは、彼のプライドが許さないからだ。
邦之も彼の考えを察しているのか、青臭いなと思いながら苦笑いを浮かべる。
(若いからこそ真っ直ぐで……折れても すぐに立ち直れる。理想に向かって頑張れる。でも俺は違う。理想だけでは生きていけないし、そんな青臭いものは もう捨ててきたんだ)
ゲートの奥へ さらに入っていく。
その後方で内河が言葉にすらなっていない叫び声を未だに あげているので、邦之は溜め息を吐きつつ口を開いた。
「松男くん、間違えたら何度でも やり直せば良いって綺麗事が世の中には あるけれど……アレは嘘だよ。
取り返しのつかない間違いは沢山ある。今回の俺みたいにな……誰かを死なせた、死なせる間違いは……どうすることも出来ない。
選択を間違え、失敗した本人は確かに いくらでも やり直せるけど、犠牲になった人の人生は二度と やり直せないんだ……。
君は まだ若いから、熱さを簡単には失えない。でも覚えておくと良いよ……現実は君が思っている程 綺麗でも優しくもないと」
「……は?」
意味が分からないと言わんばかりに何度も瞬く内河。
彼が呆気に とられている間に邦之はゲートへ入り込み、そして姿を消してしまった。
「…………行っちまったか。まあ、説得しても駄目だろーなーとは思ってたけどよ……やっぱヘコむわ……」
疲労感と、邦之を止められなかったことによる知代への罪悪感が同時に押し寄せてくる。
父の松之助も錯乱した状態で姿を消し、もう2人の行方を探る手立ては無い。
恐らく これが永遠の別れなのだろうと、内河は肩をガックリと落とす。
「……つーか、邦之さん……俺は現実が綺麗だとは思ってねーよ。何も悪くない松美が死んだ この世界、どう考えたって理不尽だ」
誰も居なくなった細長い通路で、内河の口に出している心の声だけが響く。
「……確かに死んだ人の人生は やり直せねーよ。でも……俺達は それ背負って生きていくしかないじゃん。
もう二度と誰も死なせないように、間違えないように生きていくしかないじゃん。例え辛くても、そうするしかないんだよ。
人から みっともないと思われても良いさ。自分の価値は自分で決めるんだからよっ!」
不意に拳を突き上げ、大声で内河は言う。
敵が居るかもしれない場所で騒ぐなんて迂闊も いいところだが、興奮している彼に そんな思慮は無い。
「見ててくれよ松美! お兄ちゃん、立派に生きてみせるからな! そして、この理不尽な世界を少しでも変えてやるからなあああ!!」
スケールの大きな目標を立て、内河は1人 雄叫びを あげ続けた。
******
時同じくして、ゲートの中。
黒い世界を無言で進んでいく邦之だったが、その途中で地に落ちている――否、倒れているものを見て、足を止めた。
「内河さん……」
彼の視線の先には、顔面蒼白で横たわる松之助が居た。
松之助は白目を大きく見開き、鼻の穴と僅かに開いている口の端からは透明な液体を流している。
呼吸も完全に止まっており、既に その身は ただの骸と化していた。
邦之は そっと松之助に近より、傍らで片膝を ついて彼の顔を見下ろす。
血の気が失せ、青ざめている顔には恐怖の色が未だに残っている。
まるで恐ろしいものを見たまま死んでいったように。
続いて松之助の身体に触れてみると、氷のように冷たく、それでいて石のように固かった。
(……つい さっきまで生きてたのに、おかしくないか?)
松之助をゲートに入れて すぐ、邦之も彼の後を追った。
つまり、松之助は死んで まだ数分も経っていない――それなのに彼の亡骸は体温が全て失われ、死後硬直でも しているように筋肉が張り固まっている。
異常ではないだろうか。
先程 いきなり様子が おかしくなったのもあり、悪霊に とり憑かれて呪い殺されたというのは あながち間違いではないかもしれない、と邦之は思った。
(……俺も いつか、清菜か龍馬に とり憑かれたりしてな)
自嘲するように頬を あげ、邦之は立ち上がって再び歩きだした。
松之助を置いて。
(そのうち試練の水とやらの効果でゾンビになるんだろうけど、ここだったら……人間の世界には出てこないから大丈夫だよな)
空間の狭間であるゲートの中に閉じ込めておけば、ゾンビになろうが何になろうが、害は無い筈。
(……知代は、俺のようになるなよ)
そう考え、邦之は進んでいく。
もう二度と会うことが出来ない娘を思いながら――