すれ違い3
「……ここ、どこ?」
気がついたら、みきほは真っ黒な空間で佇んでいた。
先ほどまで自分が何をしていたのか、何処に居たのか全く思い出せず、どうすればいいのかと途方に暮れる。
「……あれ?」
ふと、辺りを見回すと遠くの方に小さな光が見えた。
反射的にみきほは光に向かって駆け出す。
みきほが光のもとに辿り着き、それにソッと触れるとまばゆい光がみきほを包み込んだ。
とっさに目を閉じたみきほが目をゆっくりと開けると、そこは見覚えのある部屋。
みきほにとって、忌々(いまいま)しい記憶しか無い家だ。
『何だこの異常者があ!! お前、今警察呼んだるから待っとけや!!』
2度と聞くことは無いと思っていた怒鳴り声が聞こえ、みきほの肩が強張った。
ゆっくりと振り返ると、そこには涙で顔をグチャグチャにした母・みどりと、真っ赤な顔で怒鳴り散らしながら携帯を振り回す父・一志の姿があった。
『やめてよ!! 貴方、警察にカニチャーハンで喧嘩しましたなんて言うつもりなの!?』
泣き叫びながら、みどりが一志の携帯を奪い取ろうと手を伸ばすが、上手いことかわされていく。
(ああ……この時は、アイツがママの作ったご飯に文句つけて、喧嘩になったんだっけ)
過去の記憶を思い出し、遠い目をするみきほ。
『いい加減にしてよお!!』
みどりの絶叫と共に、一志の持っていた携帯が床に叩き落とされる。
『ゴラアアア!! 壊れるだろうがああ!!』
携帯を落としたことによって一志の逆鱗に触れ、みどりは一方的に殴られた。
腹や背中など、服に隠れて見えない所を狙っていく。
しばらくすると目の前の画面が切り替わり、みきほの部屋になった。
部屋の中では、泣いているみどりとみきほが寄り添いあっている。
『ねえ、みきほ。ママおかしいの? 間違ってるの?』
『ママおかしくなんかない』
まだ中学生だった時のみきほが首を振りながら言う。
『ママ、ね。パパなんかどうでもいいの、みきほだけで良いの……』
そう言いながら、みどりが優しくみきほを抱きしめた。
(……可哀想なママ。毎日のように理不尽な暴力を受けて、それでもあたしの為に頑張って耐えていた)
またも画面が切り替わり、今度は一志が踞って泣いているみきほの頭を思いきり蹴飛ばしている光景が映った。
『このクソガキが! 首を切って殺したろうか!!』
『子供にまで暴力を振るわないでよっ!!』
みどりが止めようとするが、逆に殴られてしまった。
(この時は、あたしの目付きが悪いとか言って、なぐってきたんだっけ)
画面が切り替わると、やはり泣いているみどりとみきほが寄り添い合う場面になった。
『ママ……もぉ、やだよ……パパなんか嫌い、怖い。死んじゃえばいいのに』
『でも、みきほ。貴方の実のお父さんなのよ?』
『知らないよ! あたしはママだけが居ればいいの、ママと2人がいいの!』
『みきほ……ママも同じよ。いつか家を出て、“2人”で幸せになろうね』
「ウソつき」
ぼんやりと目の前の光景を眺めていたみきほの後ろから、恨みがこもったような声が聞こえて振り向く。
そこに居たのは幼い少女。
みきほは、聞こえた声から幼い頃の自分であることに気づく。
「この頃は、あたしもママもお互いが生きる糧だった。あたしが一番大切なのはママで、ママが一番大切なのは、あたしだった」
「……やめてよ」
顔を背けるが、幼いみきほは続ける。
「でも今は違う。ママが一番大切なのは、あたしじゃなくなった。ママが一番大切なのは自分。幸せなのもママ1人だけ」
「やめてってば!」
しゃがみこんで耳を塞ぐが、彼女の声はそれを突き抜けて聞こえてくる。
「ママ寂しいよ。昔みたいに遊んでくれなくてもいい。楽しく話をしたい、一緒にいてほしい、あたしにはママしかいないの。どうして分かってくれないの? 寂しい、寂しい、寂しい。…………憎い」
最後に発せられた冷たい声を聞いた瞬間、みきほの意識は途切れた。
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「……さん、みきほさんっ!」
自分を呼ぶ声が聞こえて、みきほの意識がゆっくりと浮上する。
重たい瞼を開けて、俯せていた顔を上げると、こちらを心配そうに見つめる玲二と目が合った。
「あれ……? あたし……」
ボンヤリする頭のまま、辺りを見渡すと見慣れたダイニングが視界に入った。
それと同時に、先ほどの出来事は夢だったのだと理解する。
「あたし、寝てたんだ……」
「そうだよ! うなされてたから、つい起こしちゃったけどね…ごめんなさい」
ペコリと頭を下げる玲二。
一方みきほは、睡眠前の記憶を探る。
「あ、みきほさんね、野菜切り終わったから、鈴ちゃんに休憩するよう言われたんだよ。でも椅子に座るなり、みきほさんすぐ寝ちゃったんだ。たぶん、慣れないことをやって疲れたんじゃないかな」
腕を組んでいるみきほの考えを察してか、玲二が状況を説明した。
「もうすぐカレー出来るよ! 鈴ちゃんと兄貴が仕上げしてる!」
言われれば確かに、カレーのスパイスが効いた美味しそうな匂いがしている。
「ねえ、みきほさん……今日もお母さん帰り遅いの?」
遠慮がちに聞かれた質問に、みきほの眉がピクリと動いた。
「…そうだよ。だから何? あんたには関係ないし、ママの帰りが遅いのだって、慣れてるから何ともないし」
不機嫌そうに言いながら、みきほは台所に向かう。
「ご、ごめんなさい……でも、みきほさん、寝てた間、ずっとママ、ママって言ってたから……それに、いつも寂しそうだし……。
何か悩んでることが、あったら言ってね。オレはバカだから、力になれないかもだけど、兄貴や鈴ちゃんだったら、きっと相談のってくれるよ」
「…………」
玲二の言葉に何も答えずに、みきほはダイニングを後にした。
「起きたのか。もう飯は出来てるぞ」
ダイニングに現れたみきほを見た黒斗が、声をかけてきた。
「お待たせ! 温かい内に食べてな! その間にウチらは後片付けをして、帰るから!」
鈴に何故か泡立っている紫色の不気味なカレーが盛られた皿を手渡されたみきほが、窓の外を見ると、すっかり日が暮れていた。
「ありがとう」
皿を持ったみきほはダイニングに向かい、テーブルに着いてカレーを食べる。
昨日と同じく、見栄えの悪さに反して味は良かった。
だが、カレーを食べている間も、さっき見た夢が引っかかり、気分は晴れなかった。
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「じゃあ、お邪魔しました!」
「うん、バイバイ」
みきほの部屋を出た3人は、階段を降りていき、アパートを後にした。
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「…………みきほさん、元気なかったな。どないしたんやろ……何かあったんかな」
帰る道すがら、鈴が心配そうに呟く。
「みきほさん、やな夢見てたっぽいんだ。それから元気なくなってた」
「…………」
鈴と玲二の会話を黙って聞く黒斗。
「やっぱり君達だったんだ。みきほの友達って」
しゃくに障る声が聞こえ、黒斗が真っ先に振り向く。
鈴と玲二も同様に後ろを見ると、そこには大神が立っていた。
「チッ、またお前か」
大神の姿を見た途端、黒斗が苛立たし気に舌打ちをする。
「えっと……誰?」
初対面の玲二が隣に立つ鈴に訊ねる。
「ウチとクロちゃんの同級生で、大神くんっちゅうんや」
「へえ、兄貴の友達なんだ!」
「友達なんかじゃない。冗談でも吐き気がする」
以前、鈴が学校を休んでいる時に大神が見せた醜悪な笑顔を思い出し、黒斗が強い憎悪を含んだ眼差しで大神を見つめる。
「まあまあ…………あれ? 大神くん、今“みきほ”って言わへんかった?」
「ああ」
鈴の質問に、大神は無表情で頷く。
「な、何で大神くんがみきほさんのことを知っとるんや!?」
「何でも何も、僕はみきほとは幼い頃からの付き合いだから」
「ええっ!? つまり……幼馴染みっちゅうこと!?」
「まあ、ね」
思わぬ事実に、鈴が驚愕するが、大神は涼しい顔をしている。
「みきほ、あんな性格だから中々友達出来なくて心配してたんだけど……友達が出来て、それも気の良い君達で安心したよ」
安堵の笑みを浮かべる大神だが、黒斗にはその言葉も笑みも嘘にしか感じられなかった。
「これからも、みきほのこと宜しくね」
「おう! 任せときや! な、クロちゃん、レイちゃん!」
「うん!」
純真無垢な鈴と玲二は、笑顔で大神の言葉に答えた。
「それじゃ大神くん、また明日な!」
鈴は手を振り、踵を返した。
黒斗もさっさと前を向き直し、歩き出す。
「あっ、待ってよ2人共!」
「待って」
出遅れた玲二が慌てて後を追おうとするが、大神が呼び止める。
「はい?」
キョトンとする玲二に大神はゆっくりと歩み寄り、耳打ちをする。
「君、人の罪を隠蔽したのは何度目?」
「っ!!」
声にならない悲鳴をあげながら、玲二が後ずさりをした。
(な、何で……何でこの人、知ってるの!?)
玲二が有理の罪を隠していることを知っているのは、当事者である玲二と今は亡き有理だけだ。
何故、この男が知っているのか。
(有理が話した……? そんな訳ない……有理は人一倍用心深い奴だった、わざわざ誰かに話す訳が無い)
どう考えても秘密が洩れる理由が思い当たらず、玲二は目の前にいる大神を恐ろしく感じた。
「あ、あなた……何なんですか……?」
「さあね」
震える唇で紡がれた言葉は、容易くかわされる。
「気をつけた方が良いよ、君みたいに罪を背負ってる者は、死神に狙われやすい」
「し、死神さん、に……」
有理が死神に罰を与えられていた光景を思い出し、玲二の身体が震える。
「っ……失礼します!」
大神への恐怖感が高まった玲二は、衝動的に彼のもとから駆け出し、去って行く。
そんな玲二を、大神は面白そうに見つめていた。
******
「ハアッ、ハア……」
いきなり全速力で走ったせいで息切れした玲二は、呼吸を整える為に、膝を曲げて深呼吸する。
「あ、レイちゃん! もう、気づいたらおらへんからビックリしたやないか!」
玲二が居ないことに気づいた黒斗と鈴が、道を引き返してきたようだ。
「ご、ごめん! アハハ……」
笑って誤魔化す玲二。
そんな彼に黒斗が近づき、鈴に聞こえないよう小さな声で話しかける。
「……大神に何か言われたのか?」
「っ、な、な、なに、何も言わ、れて、ないよ?」
「……そうか」
本人は上手く誤魔化せているつもりのようだが、目を合わせようとしないうえに、どもっている。
だが玲二が話したくないようなので、黒斗もそれ以上聞かないようにする。
まあ、玲二が隠したいことなど有理の事件くらいなので聞かなくても分かることだが。
(……大神 義之。注意が必要だな)
何かと不審な動きが多い大神を、黒斗は改めて警戒することにした。
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一方、その頃――
みきほは自宅のダイニングで、過去のことを思い出していた。
あの奇妙な夢を見たせいか、無意識の内に過去の出来事が頭に浮かんでしまうのだ。
みきほの父、一志は朝から晩まで酒を飲んでばかりで働きもしない体たらくな男で、妻であるみどりを無理やりキャバクラに勤めさせていた。
そのくせ、酒を飲んでは些細な理由で妻や娘に暴力を振るっていた。
機嫌が良い時は気さくで、にこやかに笑っているのだが、だいたい機嫌が悪い時が多く、みどりのいさかいは、ほぼ毎日起きていた。
みきほは、父と母の馴れ初めをそこまで詳しく知らないのだが、みどりによると、一志に脅されて仕方なく一緒になったらしい。
また、みきほが産まれる前からも一志はみどりに酷い暴力を振るっていたそうだ。
みどりは何度も一志との離婚を考えたが、娘であるみきほの親権が父親に渡ることを怖れて、行動を起こせなかった。
だが、転機は訪れる。
15歳になったみきほは、一志がみどりに暴力を振るっている際、110番に通報したのだ。
もうこれ以上耐えられない、父親と離れたいというみきほの一心からの行動だった。
あわよくば、父親が警官を殴って逮捕されれば良いとさえ思っていた。
実際、父親が逮捕されることは無かったが、みきほとみどりは家に駆けつけた警官に女性相談センターを紹介され、シェルターがある市に移った。
その後、みきほ達は相談センターから自分達がDVを受けていたことを説明され、一志との離婚や暴力に対する裁判をするよう奨められた。
だが、一志は裁判の準備中に自宅にガソリンを撒いて火事を起こし、焼身自殺を図り亡くなった。
一志が亡くなったことによって裁判も中止され、身の危険が無くなったみきほとみどりは、母娘2人で一からやり直すことになった。
最初は生活も苦しかったが、みどりは娘の為に仕事を頑張り、みきほも母の為にバイトや家の家事を頑張った。
互いに支えあい、どうにか生活を安定させることに成功したのだ。
(この時が一番幸せだった。……ママがパチンコに行きだすまでは)
地獄の日々から解放されて、箍が外れたのか、みどりは前から行きたいと言っていたパチンコに通いだすようになった。
最初はみきほも気にせず、みどりのやりたいようにさせていたのだが、徐々に状況は悪化していくこととなる。
みどりの帰りは夜遅くになり、ご飯も作らず、コンビニの弁当ばかり。
そして、みきほに対して無愛想となり、常にピリピリしているようになった。
(やっぱり、ママが冷たくなったのはパチンコに行きだしてからかな……)
腕を組んで、記憶の引き出しを探るみきほ。
パチンコ以外に、母が変わった原因が見つからず、思い出すことを辞めようとする。
「……あっ!」
その時、みきほの脳裏にある出来事がよぎった。
突然の閃きに、みきほ自身も声をあげて驚く。
「……そうだ! “アレ”以来だ……ママが冷たくなったのは!」
一番思い当たる出来事を、みきほは回想し始めた。