罪と罰11
発している本人でさえ聞き取れないような、小さく か細く、空気に混じって消えてしまいそうな言霊。
ただ ひたすら残酷なだけの言葉は黒斗の耳に しっかりと届き、彼の心と瞳を激しく揺るがせた。
「…………笑えない冗談だな。殺して、だって? ……冗談でも よしてほしい言葉だ」
強気に笑い飛ばしてやりたいところだったが、震える唇で紡がれたのは、自分でも情けなくなるほど弱りきった声で。
言葉に宿る重力が、身体に重く のし掛かってくるような――そんな錯覚さえ覚えた。
「……ウチは、罪人や……おとんを、あないな酷い方法で殺した………………せやから、今のうちに殺して……それがウチへの罰と……おとんへの……せめてもの償い、や……」
ニッコリと微笑む鈴だが、笑みとは対照的に瞳からは光が消え失せて濁っており、生来の明るさを微塵も感じられない。
己への絶望と蔑み――そういった負の感情だけが、彼女の瞳の奥で渦巻いていた。
それらを前にした黒斗は殺してほしいと、罰を与えてほしいと これほど懇願されても、手に持った死神の鎌で鈴の命を刈り取ることが出来ず、身体が小刻みに震えだした。
──罰。
──確かに俺は多くの人間達に、死という名の罰を与えてきた。
──それが奴らに とって、最大の罰であったからだ。
──だけどコイツは……違う。
──コイツには、死なんて罰にならない……コイツに相応しい罰は…………。
そこまで思考したところで、それを遮るように力強く突き飛ばされた。
「クソ、また勝手に出てきやがって……! ちくしょう、消えろカス、うざったいんだよっ!!」
激昂状態の鈴は狂ったように声を張り上げると、魔力が溜められたデスサイズを降り下ろし、床に深く突き刺す。
そして次の瞬間、デスサイズが刺さっている箇所から淡い光が溢れ――小さな、だけど凄まじい爆発を起こして目の前に居る黒斗を吹き飛ばした。
「がっ…………ぁ……」
地に身体を叩きつけられ、息が一瞬 つまる黒斗。
「月影っ!!」
「つきかげくん……!!」
内河と佐々木の悲痛な叫びが重なり響き渡る。
レギオンも悲鳴こそ あげなかったものの、鬼のような形相で鈴を睨みつけている。
大丈夫だと返事をしたいところだが、あまりの衝撃に身体中が悲鳴を あげて動くことが出来ない。
爆発音の影響で耳鳴りも する。
むせこみ、血混じりの咳を繰り返すことしか出来ない黒斗に鈴は ゆっくりと歩み寄っていく。
「バカだなあ……アタシを殺すには、さっきが絶好のチャンスだったのに。まあいい……自分の甘さを悔いりながら逝きな」
「……だま……れ……!」
蛇が獲物を狙うような鋭い視線に屈することなく、負けじと黒斗も鈴を睨みつける。
鈴は そんな彼の反応に満足したように笑い、彼の胸部に右足を上げ、全体重を乗せた。
「ぐぁ……」
身体中が圧迫されるような重みに、苦悶の声が漏れる。
「はああ……バカすぎて笑えねえよ……自分の身を守るだけで精一杯だってのに、この女のことまで助けたいとかさあ。そんな余裕、お前には ねーだろーが!」
踏みつけたまま黒斗をビシリと指差す鈴。
しかし、彼は圧倒的に不利な状況に置かれているにも関わらず、不敵な笑みを崩していなかった。
「……助けたい、だって? 何を勘違いしているんだ お前は。俺は橘を“助ける”気なんて さらさら無いぞ?」
「は?」
行動と大きく矛盾している発言に、鈴は鳩が豆鉄砲でも食らったような、呆気にとられた声を出した。
正気に戻れだの、消えるなだの言っておきながら、助ける気は無いという支離滅裂にも程がある言葉。
一体 彼は何をしたいのか――腹の内が まるで見えない。
「……お前さあ、さっきの爆発で頭でも やられたか? 助ける気が無いのなら、何で殺さなかった? 何で本気で戦わない? 頭マジでイカれてんじゃねーのか!?」
無意識のうちに声を荒げる鈴。
その乱暴な口調さえも黒斗はフッ、と鼻で笑って嘲り、余裕を見せつけてくる。
(……何なんだよ……何で、そんなに上から目線なんだよ……!)
追いつめているのは こちらなのに、逆に追いつめられているような焦燥感。
見えない何かが身体に纏わりついてくるような、得体の知れない恐怖感。
胸中を様々な“負”の感情が駆け巡り、鈴の心臓がドクンと大きく跳ねる。
その鼓動は戸惑いによるものなのか、それとも虫の知らせなのか――冷静さを失いつつある彼女に知る術など無かった。
自ずと目線が泳ぐ鈴。
彼女の動揺を見透かしたのか黒斗は笑みを消し、真剣な表情で見上げた。
「…………俺は償いの意味を履き違え、犯した罪と向き合おうとしないバカの間違いを正したいだけで、助けるつもりはない。
己の間違いを理解して尚 消えたいと願うのなら……勝手にすればいい。お前の人生だ、お前が決めろ」
淡々と言い切る黒斗。
口調こそ冷たいものだったが、射抜くような鋭い目からは情熱が確かに感じられる。
それに彼の言葉は目の前に居る鈴ではなく、その奥に居る彼女――人間の鈴に向けて発せられているようだった。
「……お前は罰として、そして償いとして殺してほしいと言ったな。だが そんなの罰にも償いにも なりはしない。
ただの“逃げ”だ。自分の罪が重すぎて、背負うことをハナから放棄して、楽になりたいが為の……逃げだ」
「…………」
黙ったまま何も答えない鈴だが、黒斗は言葉を止めない。
自分の声が人間の鈴へ届いていることを確信しているように、滑らかになりすぎた舌が休み無く動き回るのだ。
「死が罰になるのは、死を恐れている人間にだけだ。お前のように自分から死を望む奴を殺したって、それは“死による救い”になるだけ……。
……楽になれるなら、確かに それが一番だろう。そう求めることは罪じゃない。だが……お前は本当に それで良いのか?」
黒斗の瞳に映る鈴がビクリと肩を跳ね上げる。
「……殺した父親に悪いと思っているんだろう? 自分が許せないんだろう? だったら死んで逃げるな。お前に相応しい罰を受け、償ってみせろ」
「……………………そないな、こと……どうすれ、ば……エエっちゅうんや…………?」
黒斗の言葉は、やはり鈴の心に しっかりと届いていたようで、またも人間の人格が出てきた。
だが、瞳は赤色と青色の点滅を交互に――まるで信号の如く忙しなく繰り返しており、人格の均衡が今までよりも不安定になっていることを物語っている。
鈴の意識も、膨れ上がった風船のように いつ壊れるか分からない危険な状態なのかもしれない。
次に発する言葉が全てを決めると言っても過言ではない。
大事なのは、彼女の意思を止まらせる言葉だ。
しかし、黒斗は迷ったり考えたりすることなく、ごく自然に――そして軽やかに言葉を紡いだ。
「……罪を背負い、生きていけ。それが お前が受けるべき罰であり、父親への償いとなる」
「えっ…………」
黒斗の示した答え。
それは死ではなく、生への道。
人を殺しておきながら生きていくという おこがましい答えに、鈴は絶句する。
「……お前は苦しむの嫌だから、死んで逃げようとしてるだけだ。本当に父親に申し訳ないと思うのなら生きろ。どんなに苦しくても、死んだ方がマシだと思っても、一生 罪を背負って生きていけ……!」
「あ、あ、あぁ…………」
鈴の瞳孔が開き、瞳の赤色が鳴りを潜めて青色に染まっていく。
けれど、その身に纏う殺気が消えた訳ではなく、鈴は黒斗に乗せていた足を大きく上げ、再び彼の身体に落とした。
「ぐああ!」
口から悲鳴と共に深紅色の血が飛び出す。
そんなことなど お構いなしに、鈴は何度も黒斗の身体を踏みつける。
「黙れ、黙れ、黙れ、死ね、死ね、死ねっ!! この身体はアタシのものだ、もう自由を奪われて堪るか! 大体、何でアタシばかり封じられなきゃなんねえんだよ!?
好きなことやって、好きに生きて、何が悪い! どうせ人間なんか生きていたってロクな事を しでかさない! 互いに傷つけあって殺しあって、勝手に数を減らしてるじゃねえか!
そんな自滅を繰り返している奴らを殺して、何が悪い! お前だって断罪とか、らしい言い訳くっつけて殺しまわってるだろうが! やってる事はアタシと同じだ!」
「……それは、否定しない…………俺も、罪人だ…………いつかは……俺も、罰せられる時が……来るだろう……。
だから…………どんな罰も、受け入れるつもりだ…………例え、死の罰だろうが…………永遠の孤独だろうが、な……!」
傷を負いながらも、黒斗の瞳から強い意志の光が消え失せる気配は無い。
「……ど、どうなるんだよ……頼む、どっちも無事で助かってくれい!」
祈るように手を組む内河。
その手のひらは汗でベッタリと濡れており、それがポタポタと雨のように床へ降り注いでいる。
佐々木もまた、レギオンの前に立ちはだかったまま片時も2人の戦いから目を離していない。
しかし、不意にレギオンの身体が小刻みに揺れ始め、異変に気づいた佐々木は そちらに顔を向けた。
「れ、れいじ……?」
小首を傾げながら声をかける佐々木。
だが彼女に応えたのは、玲二ではなく蒼の方だった。
「まずい……! レイジくんの意識が、レギオンの魔力の影響で暴走を」
「アニキ……アニキ ヲ キズツケル ヤツ……ユルサナイ!!」
切羽詰まった蒼の声は、憎悪に満ち溢れた玲二の低い声によって掻き消された。
黒斗のことを認識し、彼が襲われているのも理解しているが、襲っている人物が鈴だとは分かっていないようである。
彼は蒼以外の顔の目線を鈴に向けさせ、爪を一つだけ伸ばした。
「なにをするつもりなの!? あのこは、たちばなさん……あなたたちの、たいせつな、おともだちなのよ!?」
レギオンの進行方向を塞ぎ、必死に呼びかけるも、彼の眉間のシワが深まるだけだ。
「ウルサイ! アンナノ、スズチャン ジャナイ!!」
「きゃっ!」
怒声と共にレギオンは立ち塞がる佐々木を押しのけ、ズシズシと地響きを鳴らしながら鈴目掛けて走っていく。
「うおおおおい!! 橘! と、ついでに月影ー! に、逃げろーい!!」
突き飛ばされて倒れた佐々木を助け起こしつつ、黒斗達に危険を知らせる内河。
彼に言われるまでもなく、黒斗はレギオンの接近に気づいているのだが、特に慌てた素振りは見せていない。
対して鈴は元々 気を察知する能力が無いうえ、頭に血が上っている状態となっており、内河の警告さえも聞こえていない。
彼女だけはレギオンの接近に気づかず、血走った目で黒斗を凝視し続けている。
「……最後に……俺の、主観から……ものを、言わせてもらう……」
「ハァ……ハァ……なん、だ……ゲホッ……」
叫び続けて息切れしている鈴が首を傾げる。
そして黒斗は おもむろに口を開いた。
「……罪を背負って生きるか、罪から逃げて死ぬか……決めるのは お前自身だ……だが……死を選ぶということは……父親の思いを踏みにじるということだ…………!」
「……っ!」
黒斗の言葉を受け、赤から青へ、青から赤へ変色を繰り返していた瞳が青色で定まる。
「……俺は、お前達 家族の詳しい事情は知らない……だけど……お前の父親が……殺されても尚、娘の幸せを願っていること……己の命を懸けて お前を人間として生きられるようにしたことは、知っている……。
……死にたいと思うのは勝手だ、お前の自由にすればいい。父親の死を、思いを……全てを無駄に する……その覚悟があるならな」
「…………あ…………」
鈴の瞳が揺れ動き、同時に涙が溢れだした。
持っていたデスサイズは手のひらから滑り落ち、金属音を響かせながら硬質な床の上に落下する。
すると、どこからともなく黒い炎が現れてデスサイズを包み込み、チリも残さずに それを焼き尽くして消滅させた。
鈴が身に纏っていた死神の黒いコートは霧散し、染み一つ無い白くて綺麗な入院着が現れる。
「れいじ、やめなさい!」
佐々木の悲愴な叫びが、黒斗の鼓膜を震わせる。
レギオンは既に鈴の背後に到着し、その鋭い爪で彼女を引き裂かんと手を振り上げていた。
それでも黒斗は、眉一つ動かさずに鈴の目を見つめている。
「……結局、どうするんだ? お前の答えを聞かせろ……橘」
名を呼ばれ、鈴は涙で濡れた目で彼の姿を捉えた。
清々しい青空を思わせるスカイブルー色の澄んだ瞳に、黒斗がハッキリと映し出される。
その瞳の中に居る彼は、とても優しげな笑みを浮かべていた。
「ウチは…………ウチは……」
乾ききった唇を動かし言葉を紡ぐ鈴。
掠れた その声は途中で消え入り、音となって黒斗の耳に入ることはなかったが、唇の動きから彼は鈴の思いを確かに受け取った。
「おとんの死を、無駄に しとうない」という、彼女の思いを――
「……だったら、強く生きてみせろ」
ポツリと呟くと、黒斗は身体に乗せられている鈴の片足を掴み、そのまま勢いよく後方へ乱暴に投げ飛ばした。
「わっ! と、とと……」
死神としての身体能力を駆使し、宙で くるりと回転をしながら体勢を整える鈴。
猫のように綺麗な着地を決める――と同時に、背中へ生温い液体が浴びせられた。
「ひゃっ」
気色悪い感覚と温もりに短い悲鳴をあげ、振り向く。
すると、鈴を守るように仁王立ちを している黒斗の背中と、彼の胸を貫通しているレギオンの爪が視界に入った。
「………………あっ…………あ……」
視界が小刻みに揺れる。
胃の奥から苦い液体が沸き上がってくる。
脳が鉛にでもなったのではないかと錯覚するほど、頭が重くて仕方ない。
「……また……ウチは、また……守って、もら…………」
黒斗の背中。
身体を突き破って飛び出している、鋭利な刃物。
その切っ先は彼の血がベッタリと付着し、真っ赤に染まっている。
既視感を覚えた鈴の脳裏に、ある映像が過る。
それは大神に連れ去られ、彼と恵太郎に監禁されて、黒斗と玲二に助けられた日の出来事。
廃工場から脱出し、大神の不意打ちから黒斗が庇ってくれた時のこと。
今と あの時――状況や刃物は違えど、同じような出来事が起きている。
自分は また、彼に守られてしまったのだ。
「月影ーーーっ!? 串刺しになってるう! 月影串なんて いらねーぞっ!? さっさと抜け、いや抜いたら もっと悲惨なことにい!?」
「…………れいじ、が……つきかげくん、を……」
阿波踊りをしながら叫ぶ内河と、虚ろな瞳でレギオンを見やる佐々木。
鈴に至ってはショックのあまり、座り込んだまま悲鳴をあげることも出来ない。
「…………橘」
レギオンの爪を身体に刺されたまま止まっていた黒斗が、不意に口を開いて鈴の名を呼んだ。
身体が小刻みに震えて上手く動かせない彼女は、眼球だけを動かして彼の背中を見上げる。
「……父親の思いを汲むつもりなら、生きろ。辛くても、罪に潰されそうになっても……最後まで足掻いて生き抜いてみせろ。それが父親の願いであり……何よりの償いとなる」
「………………く、ろ……ちゃん…………」
青白い顔で黒斗の名を口にすると、不意に彼は己の胸を貫いているレギオンの爪を両手で鷲掴みにした。
「ヴヴァン!?」
思いもよらぬ行動に驚愕の声をあげるレギオン。
黒斗に掴まれた爪は とてつもない力で引っ張られ、爪が伸びている腕が、メキメキと悲鳴をあげる。
「…………お前も、いい加減にしろよ…………佐々木……!」
俯き気味だった黒斗の顔が上げられ、鮮血色に輝く瞳が露となった。
その おぞましくも、何処か妖艶な輝きは、感情が高ぶっている証であり、彼が暴走寸前であることを示している。
(めが、ひかってる……あぶないんじゃ……!)
黒斗の瞳に気づき、駆け寄ろうとする佐々木。
しかし内河に肩を掴まれて、動きを阻止されてしまう。
「ちょ、ちょっと……どうして とめるの?」
怪訝な顔で内河を見やると、彼は何やら悟りでも開いたような清々しい顔をしていた。
「……今のアイツなら大丈夫だって。何となく そんな気がすんだよ。まっ、俺様の素晴らしい直感と月影を信じてやりな」
爽やかな顔で言い切る内河だが、そんな一言で佐々木の不安が全て拭われる訳がない。
黒斗のことは勿論 信じているが、万が一 暴走などしてしまっては取り返しがつかなくなるのだ。
それを考えるだけで胃がキリキリと痛みだし、自ずと眉間のシワも深くなる。
そんな彼女の顔を横目で見るなり、内河は己の胸を力強く叩いてみせた。
「もし、ヤバイ事になったら俺が責任とってやるよ! 切腹しろと言われたら切腹、切腹しろ切腹しろ切腹しろと言われたら、三回 切腹するくらいの心意気でなあ!」
「…………」
いまいち分かりにくい例えに閉口する佐々木。
すると、彼女の耳にコンクリートがヒビ割れるような鈍い音が届く。
音が した方向に顔を向けると、黒斗が握っているレギオンの爪に亀裂が はしり、今にも砕けそうになっていた。
「アアアアヴッ!! オギィアギィ!」
痛みにレギオンは身を捩らすも、それで痛みが和らぐ訳でもない。
それどころか黒斗が纏う威圧感が増していくばかりである。
「……お前の手は、こうして誰かを傷つける為のものじゃない…………夢を、描く為の……掴む為のものだろうが!!」
そう叫ぶと、黒斗は渾身の力で掴んでいたレギオンの腕を引き千切った。
「ガゥアァァァイィウウ!!」
筋肉と腱が ちぎれるブチブチという生々しい音と、骨が折れて砕ける硬質な音、そしてレギオンの けたたましい悲鳴が室内に響き渡る。
肘の先が無くなった腕から、バケツを ひっくり返したような大量の血液が溢れ、床を おぞましい黒色へと変えていく。
腕の欠損部位は下手なハサミで切られたようにジグザグとしており、伸びきった皮膚が出血に紛れてブラブラと左右に揺れていた。
「……ア、ァーヴー…………」
フラフラと その場に崩れ落ちるレギオン。
鈴に負わされて蓄積したダメージと、今の黒斗による手痛い一撃が合わさったのであろう。
疲弊した様子で荒い呼吸を繰り返し、もはや戦意など微塵も感じられなかった。
「ヴア、アァ…………イタ、イ……アニキ、イタイヨ……クルシイヨ…………ナニモ、ナニモ ミエナイ…………」
吐息のように か細く小さな弱りきった声で、苦しみを訴えるレギオン。
だが、黒斗は何も言葉を返さない。
己の身体に刺さった爪を、レギオンから ちぎった腕ごと躊躇なく引き抜いてみせるだけだ。
そのことによって如月高校の青い制服に傷口から零れた血が染み込み、赤色の歪な模様が描かれていった。
「……オレ、コンナノ、イヤダ……コノママ、ナンテ イヤダ……モドリタイヨ……モトニ、モドリタイ…………」
レギオンの顔が歪み、今にも泣き出しそうな表情に変わる。
見た目は玲二とは全く似つかない醜い容姿だというのに、鈴や佐々木の目にはレギオンと玲二の姿が重なって見えた。
唇を噛み締めて涙を堪える、あの可愛らしい少年の姿と――
「アニキ、ドウシタラ イイノ…………ココカラ デタイノニ、カラダガ ウゴカナインダ…………ドウシタラ イイ」
「どうしたらいいだって? そんなもの、答えは一つに決まっているだろう」
凛とした声でレギオンの言葉を遮った黒斗に、全員の視線が集められる。
注目の的となった黒斗だが、彼は特に緊張した様子も見せずに ゆっくりと口を開いた。
「……口が酸っぱくなるほど言った筈だ。自分では どうしようも出来なくなったら……抱えきれなくなったら…………助けを求めろと」
「アッ………!」
溜め息と共に言い放れた黒斗の言葉尻に、レギオン――否、玲二のハッとしたような声が重なる。
“1人で抱えられないのなら、自分では どうしようもなくなったのなら、限界が来たのなら……誰かを頼ればいい、助けを求めればいい。手遅れになる前に”
大神に唆されて首を吊り、その後 気まずくなって距離を とるようになってしまった玲二と黒斗。
鈴の励ましもあって玲二は黒斗に謝罪を入れることが出来、仲直りした際に黒斗は確かに玲二へ こう言っていた。
それに、この時だけじゃない。
母を亡くして陰湿なイジメに あっていた時も、彼は「本当に辛い時は周りに頼れ……お前は1人じゃないことを忘れるな」と言っていた。
何度も、何度も黒斗は救いの手を差し伸べてくれていた。
だけど自分は その手を払いのけて、掴もうとしなかった。
強くなりたいと願うあまり、無理をして1人で立とうとして、逆に状況を悪化させていた。
そんな無駄にプライドが高い自分に、黒斗は またも手を伸ばしてくれている。
今まで掴まなかった その手を、玲二は今度こそ掴みたいと、心から そう思えた。
「……ホントウニ、イイノ? タスケ ヲ モトメテ、イイノ? タスケテ、クレルノ?」
心配そうに訊ねる玲二。
そんな彼を安心させるように、黒斗は微笑を浮かべた。
「…………お前は、俺の舎弟だ。兄貴の俺が助けなくて どうする?」
泣いている幼子を あやすような優しい笑顔で黒斗は言った。
「……アニ……キ…………」
レギオンの身体が大きく震え、目が閉じられる。
これで涙を流せる身であったら、彼の優しさを受けて涙がバカみたいにボロボロと溢れ出すところであっただろう。
嬉しいやら、申し訳ないやら――そんな複雑な心境の中、涙が出ないというのはスッキリしないこと このうえない。
自分の思いを目から出すことは出来なかったが、代わりに玲二は鉄球つきの鎖で縛られているように重たい、“己の手”を伸ばした。
「…………タスケ、テ………………」
散々 黒斗と鈴を傷つけておいて、“助けて”なんて図々しいと自分でも思う。
だけど、その償いをする為にも――自分は ここから出るべきなのだ。
「……分かった。待ってろ、すぐに行く」
淡々と返事をすると、黒斗は優しい笑顔を真剣なものに変え、ゆっくりとレギオンに歩み寄っていく。
「……クロちゃん……レイちゃん……」
瞬きを忘れて、2人の様子を見守る鈴達。
緊迫した空気の中、黒斗はレギオンの前に辿り着き、そして――
迷いなく、レギオンの身体に右腕を突き刺した。