罪と罰6
鈴の部屋の前に辿り着いた義之は、中に入る前に神経を研ぎ澄まし、部屋から物音や邪悪な気配が していないかを探る。
数秒 経過して今の鈴は危険な状態ではないことが分かると、扉を控えめにノックしてから中に足を踏み入れた。
「…………何だ、寝てるのか」
部屋に入るなり独り言を漏らし、ベッドでクマの ぬいぐるみを抱きながら眠っている鈴に近づき、顔を覗きこむ。
「……スー、スー……」
穏やかに寝息をたてる鈴。
彼女の寝顔は あどけなく、死神の人格が表に出ている時に見せる、悪魔のごとき醜悪な笑みを浮かべている人物と同じには全く見えない。
出来れば この可愛らしい人格のまま大人になってもらいたいところだが、それは無理な話であろう。
(ほんと、小さいくせに難儀な奴だよ……)
溜め息を吐きつつ、義之は椅子に座ってグッスリと眠っている鈴を見つめた。
やることもないし、あんな美月の声を聞いた後は読書をする気分にもなれないので、部屋で鈴の様子を見守ることにしたのだ。
(とりあえず、鈴が急に死神にならないか見てて……起きそうになったら さっさと退散しよう……気まずいし)
鈴の家出が きっかけで母に こっぴどく叱られ、鈴に八つ当たりをしてしまった義之。
彼女に ぶつけた“偽善者”を はじめとする暴言の数々は、溜まりに溜まった鬱憤も あって、全てが怒りに任せただけの言葉ではなく、本音も混ざっている。
怒鳴りつけていた間は興奮していた為、鈴が傷ついた顔を しても何とも思わなかった。
だが数時間が経過して冷静さを取り戻すと、義之は妹に酷いことを言ってしまった罪悪感に苛まれた。
本当なら すぐに謝るべきなのだろうが、義之は その一件以来、気まずさと申し訳なさから鈴と まともに顔を合わせることも、会話を することも出来ないでいたのだ。
義之自身も鈴と仲直りしたいとは思っていても、彼女と話そうとするだけで緊張感からか、吐き気がしてしまう。
いつまでも うじうじ していて、妹に「ごめん」と一言 謝ることすら出来ない自分――そんな情けない自分が、義之は嫌で嫌で仕方ない。
「すぅ…………う、うん……」
「はっ……」
静かに寝息をたてていた鈴が突然 呻き、人格が死神になったのではないかと、腰を浮かして身構える義之。
しかし、そんな彼の警戒心を嘲笑うかのように鈴は寝返りを うち、何事もなかったとばかりに再び気持ち良さそうな寝息をたてた。
どうやら義之の心配は杞憂に すぎなかったようだ。
(……ったく、驚かせるなよ……寝返りなんかして紛らわしいんだよ)
義之の居る方向に身体を向けて眠る鈴に心の中で文句を言い、浮かしていた腰を再び椅子に下ろす。
すると、彼女が抱いているボロボロのクマのぬいぐるみが見え、義之は思わず顔を しかめた。
さっきまでは あまり見えなかったが、こちらに身体を向けたことによってハッキリと見えるようになった ぬいぐるみ。
体長 約30㎝程度の その ぬいぐるみは、茶色い布の所々に刃物で切り裂いたような裂け目が入っており、そこから綿が顔を覗かせている。
そのうえ破れたところを縫い直した継ぎはぎが全身に あり、目玉が一つ取れていることもあって、可愛いとはお世辞にも言えない悲惨な状態と なっていた。
普通なら こんなにボロボロになれば、捨てるなり新しい ぬいぐるみに買い替えるなり するだろう。
実際に両親は鈴に新しいのを買ってあげるから、それを捨てないかと提案している。
けれども、鈴は その提案を頑なに拒み続けた。
何故なら、この ぬいぐるみは鈴が生まれて初めて貰ったクリスマスプレゼントだったからだ。
珠美も蒼も共働きしているものの、橘家は家計が苦しかった。
何しろ蒼は死神の為に貯金など一切なく、珠美は両親と縁を切っている為に援助も家の財産も無いのである。
死に物狂いで2人が働き、今のところ何とか食い繋いでいる状況だ。
それ故、子供達への誕生日やクリスマスのプレゼントなど5年間の中で鈴に二回、義之には一回しかしたことが無かった。
一昨年 クリスマスの次の日
起床した義之が顔を洗おうと洗面所に向かう途中、リビングから鈴の興奮した声が聞こえてきた。
『オカン、オトン! あさ おきたら、まくらもとにクマさんが おった! めっちゃ かわええクマさんがっ!』
『…………?』
一体 何を騒いでいるのかと気になった義之は、リビングに通じる扉の隙間から中の様子を窺う。
すると、可愛らしいクマの ぬいぐるみを持って はしゃぐ鈴と、そんな鈴を にこやかに笑いながら見つめている両親の姿が視界に入った。
『クマさん かわええ~!! めっちゃ うれしいわあ!』
ぬいぐるみを抱き締め、頬擦りをする鈴。
少し はしゃぎすぎではないかと義之は思ったが、鈴にとって これは、生まれて初めての ぬいぐるみとクリスマスプレゼントなのだ。
むしろ このくらい喜んでくれないと、両親も奮発した甲斐がないだろう。
『良かったなー、鈴! きっと鈴が良い子にしてたから、サンタさんがプレゼント持ってきてくれたんだよ!』
そう言って鈴の頭を撫でる蒼。
続けて珠美が はしゃいでいる鈴を抱き上げ、ぷっくりとしている彼女の頬にキスをした。
『せっかくサンタさんがプレゼントしてくれたんだから、大事に せんとアカンで?』
『うん! ウチ、ずっとクマさん だいじにするー!』
『よしよし、鈴はエエ子やなあ』
笑いあう親子3人。
微笑ましく、幸せそうな3人。
その輪の中に、自分は居ない。
必要と、されていない。
『…………何か……僕という存在が、完全に忘れ去られているような…………ハハッ、これが俗に言う空気って奴なのかね……』
口調こそ冗談を言っているように軽いものの、胸は今にも張り裂けそうな程 痛い。
慣れた筈なのに、慣れなくちゃいけないのに。
まだ身体は、心は、あの輪の中に入ることが出来ない現実を辛いと感じてしまうようだ。
『……僕が必要とされてないのは、今に始まったことじゃない……もっと強くならなくちゃ、ね』
弱々しい声で呟きつつ、義之はフラフラと 扉から遠ざかり、洗面所に向かった。
涙を一筋 流しながら――
(…………クマの ぬいぐるみを喜んでいた鈴。でも、次の日に死神の人格が出てきて、部屋に閉じ込められている八つ当たりで ぬいぐるみを傷つけたんだよね……。
ボロボロになった ぬいぐるみを見て泣いてる鈴は、ちょっと可哀想だったかな。母さんが何とか直したから良かったものの)
回想を終えた義之は やるせない表情で、眠っている鈴を凝視する。
(……母さんと父さんは、一昨年の埋め合わせを するように、去年 誕生日にリア王の本をプレゼントしてくれた。プレゼントしてくれたのは嬉しかったけど……でも……本当に欲しかったのはプレゼントなんかじゃない……)
クリスマスプレゼントを貰って大喜びの鈴と、そんな彼女を見て笑う両親の姿が脳裏に浮かび、自ずと目に涙が溜まる義之。
滲んだ涙を零さないよう、彼は鈴から視線を離して天井を仰いだ。
(……母さんと父さんは、いつも鈴しか見ていない。鈴のことで頭が いっぱい。それは仕方ないことだと分かってるよ。でも……やっぱり寂しいんだよ。
プレゼントなんか いらないから、僕を見てよ。僕を愛してよ。鈴に やってるように、頭を撫でてよ、抱き上げて ほっぺたにキスしてよ。僕を見て笑ってよ……!
楽しそうにしているのは、いつも僕を除いた3人で集まってる時だけ……。僕は、僕は ここに居るんだよ? 背伸びして大人に なったつもりでいるだけで、ホントは寂しいんだよ?
どうして僕を見てくれないの? どうして僕に振り向いてくれないの? どうして、どうして、どうして?)
美月の誘いを断り、深く落ち込んでいたせいか、ネガティブな考えが次から次へと浮かんでは消え、消えては浮かんでくる。
一度 悪いことを考えたら止まらず、堂々巡りになってしまうのは自分が一番よく分かっているのに、止めることが出来ない。
箍が外れたように、黒い感情が大量に溢れて手に負えなくなってしまう。
(……少しでも駄々を こねれば、お兄ちゃんなんだから しっかりしろと そればかり……! たかが数秒先に生まれたくらいで、僕は何でもかんでも我慢しなくちゃならないってのか?
もう嫌だウンザリだ……親からは愛されない、友達も居ない、将来に夢も希望も見出だせない……何の為に生きてるのか分かんないよ、いっそ死にたいよ。
ああでも、こんなこと母さんや父さんに言ったら また叱られるんだろうなあ。“お兄ちゃんなんだから”って、“鈴は もっと辛いんだぞ”って お決まりの説教が、始まるんだろうなあ。
はいはい、もう僕1人が悪者でいいですよ。僕が甘ったれでワガママで寂しがりやだから全部 悪いんですよ、悪いんですよ、悪いんですよ。ああ、何も感じられなくなればなあ)
虚ろな瞳で宙を見上げる義之。
その時――
「嗚呼、なんと哀れで愚かな子供だろうか。実に見ていて痛々しく、それでいて“素養”のありそうな子供だ。実に興味深い」
背後から聞いたことのない男の声が して、我に返った義之は勢いよく振り向いた。
「なっ……おじさん、誰ですかっ!?」
振り向いた先に居た、黒いコートを纏って佇む赤毛の男に驚き、椅子から立ち上がって後退りする義之。
一方 赤毛の男は落ち着きはらった様子で、顔を しかめている義之を見下ろしている。
「そう警戒するな。私はウンデカ……お前の父親の友人だ」
「……父さんの友達?」
「ああ。今日は お前に用が あって来たんだ」
手を伸ばしながら義之に歩み寄っていくウンデカ。
しかし、義之はデスサイズを素早く召喚して、切っ先を彼に向けて威嚇する。
「……いきなり出てきて、父親の友達と言い張る不審な男を、ああ そうなんですかと信用する訳ないでしょう。貴方は何者で、何が目的なんですか?」
己の身長より遥かに高いデスサイズをウンデカに突きつけ、幼くて可愛らしい顔で睨みつける義之。
小さな身体からは確かな殺気が滲み出ているが、いかんせん幼い故に迫力が感じられず、外見と中身のミスマッチさにウンデカは つい吹き出してしまう。
「ハハハ……無理に背伸びするな。たかだか5歳のガキが凄んだ所で怖くも何ともない。それに、お前だって本当は大人ぶるのが嫌なんだろう?」
「僕のことを よく知っているような口を きかないで下さい!」
「よく知っているぞ? お前が誰よりも愛情に飢えていることを。本当は寂しいと訴えてベッタリと甘えたいのに、家庭が それを許してくれないことを。
お兄ちゃんなんだから しっかりしろと言われ続けて、自分の気持ちを押し隠して気丈に振る舞っていること…………正直、お前の両親よりも お前のことを理解していると自負している」
口角を吊り上げて不気味な笑みを見せるウンデカを前に、義之は動揺を露に目を見開き、眼球を震わせる。
──何なんだ この人。
──何で僕の気持ち、知ってるんだよ……!
己の心情を言い当てられ、驚愕を隠せない義之。
今の彼の目には、ウンデカの姿が人の皮を被った得体の知れない化け物に映っていた。
そんな義之の反応に気を良くしたのか、ウンデカは笑みを さらに深めて言葉を続ける。
「……お前は、まるで悲劇の物語に登場する哀れな王のような奴だな。お前自身は愛されず、必要とされているのは その能力だけ。唯一お前自身を見てくれた者は突き放して、自分で自分を孤独にする」
その言葉を聞いて、義之の脳裏をリア王の物語が よぎった。
父親のリアではなく、彼の持つ地位や財産を愛していた長女と次女。
息子の義之ではなく、彼の力を必要としている両親。
唯一リアを父親として、人間として見ていてくれていた末娘を自ら遠ざけたリア王。
彼を思い、慕っていてくれていた鈴と美月を、自分のせいで傷つけ、絆を失ってしまった義之。
環境など大まかな違いは あれど、義之とリア王は確かに よく似ている。
だけど――
(リア王は愛する末娘を亡くした。だけど僕は誰も亡くしていない。僕はリア王より不幸じゃない……!)
自分は そこまで哀れではないと唇を噛む義之だが、ウンデカは彼の気持ちを見透かしたように鼻を鳴らした。
「……ああ、お前は まだ知らなかったな。既にお前の思い人は この世に居ないということを」
「は……?」
呆気にとられる義之。
彼の言葉を聞きとることが出来ても、その意味を理解することが出来ず、怪訝な表情でウンデカを見つめる。
するとウンデカは手を伸ばし、人差し指を義之の額に当てた。
「見た方が早いだろう」
「何を言って……っ!」
不意に激しい頭痛に襲われ、義之が堪らず頭を抱え込んで目を固く閉じると、瞼の裏にフラッシュバックのような映像が映し出された。
『早く、早く救急車をっ!!』
焦燥感に駆られた男性の声が聞こえると同時に、ボヤけていた映像が鮮明になり、横断歩道に立ち往生している大型バスに、沢山の人間が群がっている光景が見えた。
『救急車、救急車っ! いや、まずバスを退かすんだ!』
『バカね、バスを動かしたら余計に身体が傷つくでしょう!』
顔面蒼白で騒ぐ若い男女のカップル。
何やら揉めている彼らを尻目に、バスの運転手らしき人物は死人のような顔色で、放心したように『私は悪くない、私は悪くない』と繰り返している。
バスの周りに居る者も、バスに乗っていて窓から外を眺めている乗客も、皆 この世が終わり行く様を見ているように絶望感を全身から醸し出していた。
『…………ハア…………』
力尽きたような溜め息と共に、バスの一番近くに居た白衣の男性が立ち上がった。
『……ダメだった。まあ、こんな幼い少女がバスのタイヤの下敷きになって助かるなんて、奇跡でも起きない限り、無理だったんだ』
白衣の男性が ゆるゆると首を振りながら呟くと、騒いでいた群衆が声を発することをピタリと止めた。
『……あとは、警察に任せよう』
疲弊した様子で独り言を漏らすと、男性はフラフラと覚束ない足取りでバスから離れ、群衆は無言のまま彼に道を開けた。
その時、先程まで人の頭で隠されていたバスの足回りが露となった。
『……可哀想に。まだ小さいのに』
心底 残念そうに呟き、振り向く男性。
彼の視線の先に広がっていたのは、バスの前輪を中心に広がっている血だまり、そして――
前輪から首だけ飛び出している美月の遺体だった。
「うわあああああああああああっ!!」
義之が悲鳴を あげると、それに掻き消されたかのように映像が一瞬で消え去り、現実に引き戻される。
「みつ、みっ……みつき、ちゃんが、死、し、死ん、で……あ、あっ、あぁぁぁああ」
生々しく、それでいて変わり果てた美月の姿を思い出し、悪寒と吐き気に襲われる義之。
呂律が回らず、焦点も定まっていない。
完全にパニック状態となっているようだ。
信憑性が あるか分からない、もしかしたら幻覚だったかもしれない映像だが、義之には衝撃が大きすぎた。
「う、そ。ウソ、ですよね? 美月ちゃんが死んじゃったなんて、悪い夢……」
「残念ながら、私が今 見せた映像は本物だ。疑うならば、美月とかいう少女の魂の気配を探ってみろ。まだ天には昇っておらず、朽ちた状態で残っている筈だ」
「……う、うぅ……」
ウンデカに言われ、義之は精神を集中させて美月の魂を探り始める。
──絶対に嘘だ。
──美月ちゃんが死んじゃう訳ない、僕は信じない……!
美月の無事を祈りながら魂を探る義之。
すると、美月の魂は すぐに見つかった。
――朽ち果てた状態で。
「あ…………あ、ぁああ…………」
残酷な現実に義之は言葉を失い、崩れ落ちるように膝を ついた。
光を失い濁った瞳で虚空を見つめている その姿は、まるで死刑を宣告された囚人のように悲愴感が滲んでいる。
しかし、そんな義之の背後で ぐっすりと眠る鈴は彼とは対照的に幸せそうな寝顔を浮かべており、夢の中で何か美味しい物でも食べているのか、口の端から涎が垂れていた。
もちろん鈴自身には悪意や他意は無く、そもそも彼女は眠っている為 兄が深く悲しんでいることを知らない。
だが、彼の後ろで だらしなく笑っている姿は、まるで兄を嘲笑っているように見える。
不幸を噛み締める兄と、幸せを噛み締める妹。
この構図は、彼らの関係を表しているようだった。
「どうした、ボンヤリとして。そんなにショックだったのか?」
鈴が どんな寝顔を しているかも知らずに、放心し続けている義之を見下ろしながら、ウンデカは続ける。
「美月という少女は、お前にパーティーの参加を断られたことによって強いショックを受け、そのまま激情に突き動かされるまま家を飛び出した。
この年頃の子供は行動理念などなく、感情に振り回されるまま好き勝手 振る舞うものだからな……そう考えると、あの少女の突飛な行動も理解は出来ないが納得は出来る。
まあ その行動の結果が、興奮のあまり横断歩道を赤信号の時に渡り、バスに轢かれて即死したというバカ極まりないものだったがな」
「……………………」
命を尊む思いも、幼い命が失われて悔やむような感情もない――思いやりの欠片もない、死者に鞭を打つウンデカの言動に、虚ろな表情を していた義之の顔に怒りが宿った。
手に力が入り、持っているデスサイズの柄がミシリと音を たてる。
けれど、その修羅のごとき迫力は すぐに消え失せてしまい、義之は悲しげに目を伏せた。
「……僕の、せいだ。僕が約束を破ったから、美月ちゃんは死んだ。僕のせいで、美月ちゃんは……美月ちゃんは……」
うわ言のように自分が悪いと繰り返す義之。
彼は決して同情してほしい訳でも、悲劇の主人公のような自分に酔っている訳でもない。
純粋に自分が悪いのだと、自分が美月を殺したようなものだと思い込み、己を責めているのだ。
それ故 言い訳をすることもなく、ひたすら義之は自責を続ける。
人が不幸になったり、悲しんだりするのは自分のせいだと信じて疑わない――彼は、昔から そういった自責思考の け があった。
とはいえ、彼が そうなったのは明らかに家庭環境に問題が あったからなのだが。
「美月ちゃん、ごめんね……僕のせいで……ごめんね……」
涙声で、今は亡き美月に謝罪し続ける義之。
そんな彼を黙って見ていたウンデカだったが、不意に口を開きだした。
「何故お前が謝るんだ? お前は悪くないではないか」
ウンデカが発した思わぬ一言に、義之は顔を上げて驚きの表情を浮かべた。
「……僕が、悪くないですって? そんな訳、ないじゃないですか。だって、僕が誘いを断ったせいで美月ちゃんは……」
「それは あくまでも結果論だ。大体、お前は元々 約束を破るつもりなどなく、パーティーに行こうと張り切っていたではないか。
だが、お前の無粋な母親が都合も考えずに留守を押しつけたせいで、お前は否が応でも誘いを断らなくてはならなくなった。
悪いのは お前の母親だろう。あえて お前の非をあげるとしたら、バカ正直に留守番を したことか。誰も居ないのだから、コッソリ抜け出せば良かったものを……」
残念そうに こめかみへ手を当てるウンデカ。
対して義之は、悪いのは自分ではなく母親なのだというウンデカの擁護に戸惑いを隠せないでいた。
今まで、何か問題があったら いつも両親は義之に言ってきた。
“お前が もう少し しっかりすれば、こんなことにはならなかったのに”と。
鈴が暴れて母や父にケガを させた時にしろ、結界を破られた時にしろ、責められるのは毎回 義之だった。
義之が自責思考の持ち主になったのも、それらの出来事が きっかけだろう。
彼は責められることに慣れていても、擁護されることは一度も無かった。
だけど――
今 義之は、生まれて初めて人に擁護された。
お前は悪くないのだと言ってもらった。
思わぬ初体験に、義之は どう反応すればいいのか分からず、困り果てたように視線を あちこちに さまよわせる。
「…………コッソリ抜け出せと言っても、無理、だったんですよ。僕が居ない間に鈴の死神が出てきたら危ないし、それに……僕は お兄ちゃんで、特別な力が あるから……ワガママを言っちゃダメなんですよ……」
ウンデカから視線を逸らしながら おずおずと言葉を紡ぐ義之。
そんな彼に、ウンデカは無表情のまま言葉を返した。
「……お前は確かに兄であり、特別な力を持つ者である。だが、それが どうした? いくら兄でも力を持つ者でも、お前が“子供”であることに変わりはないだろう?
寂しさを訴える、甘える、友人と遊ぶ、駄々をこねる……これらは子供にとって当たり前の行為だというのに、お前は そうすることを許されていない。
兄だから しっかりしろと、言葉の鎖で縛りつけられている。家族で力を合わせるのだと綺麗事を言っておきながら、嫌なことは全部 息子に任せて、息子の負担を軽くしようとしない、思いもしない。
お前の両親は明らかに異常だ。何故 兄だからと言って、お前が全てを抱え込んで我慢しなくてはならない? たかが数秒先に生まれたくらいで、何故 自由を与えられない?
いくら強力な力を持っていても、子供であることには変わりない。両親からロクに相手も されなければ、寂しいと思うのは当然だ。
それなのに奴らは、『義之は大人びているから大丈夫』だと勝手な思い込みで決めつけて、お前が心身共に傷つき、ボロボロになっているのを見て見ぬフリをしている。
お前は こんなにも頑張っているというのに。傷つきながらも、弱音も吐かずに頑張っているというのに、まだ お前を傷つけようとする」
「…………!」
矢継ぎ早に紡がれたウンデカの言葉を黙って聞いていた義之だったが、不意に身体の奥から熱いものが込み上げてきて、全身が小刻みに震えだした。
「……ふう。しかし、何だ……我が友ながら、蒼の愚かさには ほとほと呆れたよ、まったく………………ん?」
すまし顔で肩を竦めていたウンデカだったが、不意に義之の方を見た瞬間、眉がピクリと吊り上がった。
「…………何故 泣いている? 悲しむような場面などあったか?」
静かに涙を流す義之を、怪訝そうに見つめるウンデカ。
それなのに義之は頬を濡らす大粒の涙を拭おうとせず、笑いながらボロボロと涙を零している。
笑っているのに泣いている。泣いているのに笑っている。
相対する二つの感情を同時に出している義之を、ウンデカは怪訝な顔から興味深そうな顔に変えて まじまじと見つめた。
「……これが噂の笑い泣きというものか? しかし、涙が出るほど悲しいのに、どうして笑っているんだ?」
「…………違い、ます。僕は……悲しくて、泣いてるんじゃない。嬉しくて……泣いて、るんです……」
しゃくりながら辿々(たどたど)しく話す義之だが、ウンデカは それでも尚、彼の感情が理解出来ないと言うように首を傾げている。
その間にも、義之の涙は止まることなく次から次へと溢れていく。
(……僕は……ずっと……その言葉を待ってたのかもしれない……頑張っていると……誰にでもいいから認めてもらいたかったのかもしれない……)
寂しくても我慢してきた。
甘えたくても我慢してきた。
少しでも家族の力になろうと、泣き言もワガママも言わずに頑張ってきた。
だけど母にも父にも、その頑張りを認めてはもらえなかった。
どれだけ頑張っても、もっと頑張れと、しっかりしろと言われるばかりで。
それでも義之は挫けることなく、努力を重ねてきた。
しかし、皮肉にも 彼の努力を認めたのは両親ではなく赤の他人だったが。
それでも義之にとって、ウンデカの言葉は何よりも嬉しく、そして救いになったのだ。
「……うっ、うぅ……ごめんなさい、急に泣き出したりして……」
涙を拭いながらペコリと頭を下げる義之。
肩の荷が下りたような穏やかな表情は、純心無垢な5歳の少年そのものだった。
そんな彼をウンデカは黙って見守っていたが、不意に義之の頭に手を乗せた。
「……義之。私と一緒に来ないか?」
「えっ!?」
いきなりの誘いに肩を跳ね上げる義之。
涙で濡れた瞳でウンデカを見上げるも、ウンデカは相変わらず無表情のままで、その表情から彼が何を考えているのか読み取ることが出来ない。
「一緒に、って……どういう、意味ですか……?」
「そのままの意味だ。このまま この家に居ても、お前の為にはならない。ボロボロになるまで いいように利用されて、使い物に ならなくなったら捨てられるのがオチだ。
だったら そうなる前に……お前が これ以上 傷つかないように、家を出た方が良い。私と共に来れば、お前は自由の身となる。両親に こき使われることもなくなる。
私としても友人の子供が悲しみ、壊れていく様を見るのは非常に心苦しいからな。それに何よりも……私には、お前が必要なのだ」
「……っ!」
義之の大きくて赤い瞳が、一瞬 揺れ動いた。
「……僕が……必要……」
「ああ、必要なんだ」
そう言ってウンデカは優しげな表情を浮かべて、手を差し伸べた。
──これでコイツはオチる。
確信を持って ほくそ笑むウンデカ。
しかし、彼の予想を裏切って義之は首を横に振った。
「…………ごめんなさい。やっぱり僕……出ていく訳には……いかないんです……」
「……何故だ? ペット以下の扱いを受けておきながら、何故そこまで両親に執着する?」
訝しげなウンデカの視線を避けるように目を伏せる。
「……愛情を貰えなくても、僕を生んでくれた親だから。それに……僕が居なくなったら、誰も鈴を止められなくなっちゃう……だから、貴方とは……行けません」
申し訳なさそうに固く目を閉じながら、義之は小声で そう言った。
どんな扱いをされようとも、親は親。
例え自由を奪う足枷であっても、鈴は可愛い妹。
時には煩わしい時もある。
時には怨めしく思う時もある。
だけど、それでも――
大切な家族であることに変わりはない。
それに、もしかしたら いつか頑張りが認められて、愛してもらえる時が来るかもしれない。
そう思うと、簡単に家族を捨てることが出来ないのだ。
「……貴方が、僕を心配してくれたのは とっても嬉しいです。でも、やっぱり……一緒には行けません……」
絞り出したような弱々しい声。
子供好きな大人ならば、その気丈でありながらも儚さと弱さを含んだ声に胸の痛みを覚えるだろう。
しかし、ウンデカは そんな痛みなど感じない。
それどころか、先程までの優しい表情を、苛立ちの表情に変えて義之に鋭い視線を向けている始末だ。
しかし、ウンデカは そんな痛みなど感じない。
それどころか、先程までの優しい表情を、苛立ちの表情に変えて義之に鋭い視線を向けている始末だ。
「……チッ、子供というのは単純で簡単な生き物だと思っていたが……まあいい。力ずくで、連れていくのみ……!」
ウンデカの瞳が赤く輝くと同時に、彼は右手を伸ばして義之の手首を掴み、間髪入れずに左手を後方に振ってゲートを開いた。
「うわあああっ!! 何するんだ離せぇっ!!」
人が変わったように狂暴な顔つきとなったウンデカに恐怖感を抱き、引き剥がそうとする義之。
掴まれているのはデスサイズを持っている右手首の為、デスサイズで攻撃することが出来ない。
代わりに爪をたてて必死に引っ掻くが、ウンデカの手には あかぎれのような小さい傷が出来るだけで拘束は解かれることがなく、そのうえ傷は すぐに塞がってしまう。
力には かなり自信が ある義之だったが、所詮それは、自分よりも遥かに大きな体格を持つ相手に通じるものではなかったのだと痛感させられた。
「お前の親が どれだけの屑なのか教えてやろう。そして全てを知った時……お前の家族に対する愛情は、憎悪に変わることだろう」
言い聞かせるように呟くと、ウンデカは義之を引き摺ってゲートの中に入った。
「嫌だ、離せ! 離してくれええぇぇぇ!!」
絶叫しても状況が変わる訳もなく、ウンデカと義之を飲み込んだゲートは消え去り、後には何も知らずに眠っている鈴だけが残された。
普通、あれだけ騒がしければ いくら熟睡していても目覚める筈だろう。
だが彼女は、二つの不安定な人格を持っているせいで肉体的にも精神的にも常に負担と疲労を抱えている。
疲弊した精神の回復に努める際には、いつも彼女は こうして昏睡しているように深い眠りに つく。
それ故 彼女は兄の身に何があったのか知らずに、愚かにも幸せそうな寝顔を浮かべ続けるのだった――