罪と罰5
死神と人間、二つの血を引くハーフである大神は、精神面や知能の発達が他の子供達よりも群を抜いて早く、3歳に なる頃には およそ9歳程度の思考を持っていた。
だが それは魔力を上手く制御できている大神だからこそであり、逆に力が不安定な鈴は一般的な人間の子供と同じ成長速度であった。
幼いながらも大人びている兄と、無邪気で可愛い幼子そのものの妹。
生まれた日は同じ筈なのに、いつしか双子の間には差が出来て、その差は縮まることなく広がっていくばかり。
妹と同じ速度で、成長という名の道を進むことが出来ない現実。
大神は そのことを寂しく感じていたが、達観した考えを持っている彼は、今さら何も知らない幼児として振る舞うことなど無理だった。
何故なら、彼には死神としての鈴が暴れだした時、止める役目が あるのだから。
その責任感は大神を さらに大人にして、“我慢”という悲しい強さを与えた。
そう、“我慢”。
大神は賢く聞き分けの良い子供だった。
鈴が外に出してもらえない理由も、両親が鈴のことで疲れきっていることも すぐに分かった。
だから彼は我慢を覚えた。
両親は疲れているのだから、さらに余計な気苦労を かけないように、寂しくても それを顔に出さないよう我慢した。
友達からの純粋ゆえに残酷な言葉に傷ついて帰っても、泣かないように我慢した。
喉から手が出るほど欲しいオモチャが あっても、おねだりしないように我慢した。
大神は何度も何度も我慢した。
たくさん涙を呑んだ。
たくさんワガママを呑んだ。
たくさん、たくさん。
その結果、大神は泣かない、ワガママを言わない、言いつけは必ず守る――親の理想像とも言える子供に なった。
だが――そんな大神に、蒼も珠美も無意識のうちに甘えていたのかもしれない。
2人の子供、どちらにも均等に愛を注ぐべきだったのに――両親は、長女にばかり愛情を注いだ。
親も人間だ。子供達への愛情が時には偏ってしまうことも あるだろう――しかし、蒼と珠美の愛情は完全に鈴に傾いていた。
2人に とって鈴は悩みの種では あるものの、可愛い娘であることに変わりはない。
外に出て遊び回ることの出来ない不憫な子。だけど死神の血が活性化すれば、悪魔のように恐ろしい子供となる。
だからこそ、普段の素直で天真爛漫な鈴が より愛しく感じられ、この笑顔を守りたいと思わせるのだろう。
そして鈴に愛情を注いだ分、大神への愛情は薄くなる。
『義之は しっかりしてるから』
『義之は ちゃんと事情を理解してくれているから』
『義之は駄々をこねたりしない良い子だから』
『義之は お兄ちゃんだから』
そうやって言い訳して、鈴ばかりを優先してきたのだ。
いかんせん蒼と珠美は親としては未熟だった。
蒼は女を愛することを知ったばかりで、子供に対する愛情の注ぎ方を今一つ分かっていなかった。
珠美は蒼を愛するあまり親や友達の反対を押しきって、半ば縁を切るような形で蒼と結婚し、子育てのノウハウを教わることが出来なかった。
どちらか、ではなく、どちらも未熟だった。
それが故、2人は均等に愛を注ぐ程の器や器用さが無かった。
『義之は大人びているから大丈夫』だと、何の根拠もない自信で彼を放置した。
決して大神を可愛いと思っていない訳ではない。
鈴への愛情が、少し――ほんの少し、勝っていたのである。
けれど、精神面が いくら成熟していても大神は所詮 子供だ。
親から あまり相手にされなくて、寂しいと思わない訳がなかった。
時には妹に嫉妬することもあった。
だけど大神は家族が本当に大好きだったから。
だから、何も言わずに ずっと我慢してきた。
その胸の奥に押し込めた感情を利用されるとは知らずに――
******
大神――いや、義之が姿を消した日
幼稚園にて
読書の時間で他の園児達が友達と絵本を囲っている中、義之は部屋の隅で1人、小説を黙々と読んでいた。
「あらあら義之ちゃん、熱心に何を読んでいるの?」
不意に年若い女教論が声をかけ、義之が読んでいる本を横から覗きこんでくる。
すると彼女は驚いたように目を瞬かせ、本と義之の顔を交互に見た。
「えっ、えっ? 義之くん、これは何の ご本かなあ?」
「……リア王。シェイクスピア四大悲劇の1つ」
無愛想に義之が言うと、教論は あんぐりと口を開けた後、すぐに笑顔を取り繕って彼の頭を撫でた。
「すごいわ義之ちゃん。そんな難しい ご本が もう読めるなんて。きっと将来は天才少年ね」
手放しで義之を誉めちぎる教論。
しかし誉められている当の本人は表情を変えず、彼女の言葉など聞こえていないかのように文字を目で追っている。
普通ならば喜ぶべき場面なのだろう。
だが彼は喜ぶこともなければ、嬉しいと思うこともなかった。
その言葉は他の誰でもなく、両親に言ってほしいのだから。
(……ママもパパも、僕が どれだけ勉強や運動が出来ても上の空。いつだって鈴のことで頭が いっぱい……僕が入り込む隙間は無いんだ……)
ネガティブな感情が胸中を よぎり、無意識のうちに涙がジワリと滲みでる。
自分で自分のことを可哀想だと思い、酔っている自覚は ある。
だけど そう分かっていても、涙が意思とは無関係に出てきてしまうのだ。
我ながら面倒くさい奴だと、義之は乱暴に目元を拭いながら自嘲する。
「義之ちゃん、どうかしたのかなあ?」
「……何でもありません」
泣いて赤くなった目を見られないよう、ふいっと顔を背ける義之。
そんな彼の態度を教論は疑問に思わず、「じゃあ、また後でね」と言って側から離れていき、義之は また1人に なった。
(…………ハア……先生も いちいち絡んでこなくていいのに)
内心 溜め息を吐きながら、義之は室内を見渡す。
読書の時間なので、いつもは忙しなく動き回っている園児達も大人しく座って絵本を読んでいる。
中には走り回って騒いでいる者も居るが、すぐ教論に注意されては座り込む。
殆どの園児が仲の良い友達同士で集まって、1つの絵本を読んでいる。
それなのに義之は部屋の隅で小難しい小説を読んでおり、その姿は、率直に言って かなり浮いていた。
(……まあ、浮くのは仕方ないか。僕には絵本なんて退屈だし……おめでたい おとぎ話なんか、僕には眩しすぎるんだ)
どうでもいいとばかりに鼻を鳴らし、気取ったような表情で再び本に視線を落とす。
だが一度 様子を見てしまったせいか、楽しそうに笑いあっている園児達のことが気になり、本の内容が頭に入ってこなくなってしまった。
気にしないようにしていても、やはり心のどこかでは寂しさを感じているのだろう。
(……僕も……あの輪の中に入りたいな……)
本を上げて顔を隠しながら、義之は男女入り交じった5人組で、絵本を読みながら談笑しているグループを コッソリと見つめた。
そのグループの中には彼が密かに思いを寄せる女児の姿もあり、義之は頬を赤く染めながらも彼女の観察を続ける。
「ホントのホントに!? ウソだと言ってよ、美月ちゃん!」
突然、義之が片想いをしている美月の友人の女児が涙目で叫びだした。
それに反応して、彼女らと一緒にいる残り3人の園児が美月に注目する。
義之も一体 何を騒いでいるのかと気になり、読書を しているフリをしながら会話に聞き耳を立てた。
「ねえ、どーしたの?」
さっきまで絵本に夢中だった男児が騒いでいる女児に訊ねるが、女児は めそめそと泣いているだけで答えない。
代わりに美月が苦笑しながら問いに答えた。
「あのね、みつき、あさってには おひっこし しなくちゃいけないの。それをヤエちゃんに言ったら泣いちゃったの」
「えええええっ!?」
美月の言葉に、ヤエ以外のメンバーが驚愕の声を あげた。
「何で!? 何で美月ちゃん居なくなっちゃうの!?」
「えっと……パパが てんきんっていうのをするから、みんなで おひっこしするんだってママが言ってたの」
「そんなあ~……美月ちゃん居なくなったら さびしいよう」
まるで お通夜のように沈痛な空気に包まれる美月の友人達。
その会話を聞いていた義之も、表情には出してはいないものの深いショックを受けており、鈍器で頭を殴られたように視界が大きく揺れだした。
(……美月ちゃん……引っ越し……しちゃうのか……)
両親の転勤――それ自体は仕方ないことであり、いくら自分達子供が泣きわめいたところで、親の転勤を取り消せる訳ではない。
どうしようもないことだと、仕方ないことだと――分かっている、筈なのに。
完全に割りきることが出来ないのは、まだまだ子供だからだろうか。
「うっ、うっ……美月ちゃんと お別れするのヤダよお……ヤダヤダ」
未だに泣きじゃくるヤエ。
すると美月も堪えられなくなったのか、涙が大きな瞳から零れ落ちてきた。
「わ、わたしだって、みんなとおわかれしたくないよ……けど、しょうがないんだってママが言ってた……」
「……じゃあ、なんで もっと早く言わなかったの。きゅうに言われても かなしいよ」
「わたしがママと せんせーにたのんだの。みんなが わたしに気をつかって、いつもと ちがう感じになっちゃったら、いやだから。だから、ギリギリまで 内緒にしててほしいって」
大粒の涙をポロポロと零しながら話をする美月達。
親しい友人達との別れに、皆ショックと悲しみを隠しきれないようだ。
一方、義之も美月と特別 親しいという訳ではないが、やはり淡い恋心を抱いている相手が居なくなるといのは精神的に こらえていた。
告白などするつもりはなく、遠くから見ているだけで良いと思っていたのに、その姿を見ることも出来なくなるとは、運命の神様は随分と意地悪のようだ。
「……でも、でもね。ママが、きょう よーちえんが おわったらね、わたしの おうちに おともだちを よんで、おわかれ ぱーてぃ してもいいって! だから、みんな おいでよ!」
さっきとは うって変わって明るい口調で美月が言いきると、ずっと俯いていた4人がバッと顔を上げて笑顔を浮かべた。
「美月ちゃんの おうちで、おわかれパーテー! いくいく! ぜったいにいく!」
今まで漂っていた重苦しい空気は何処へやら。
お別れパーティーという単語に、ヤエ達は満面の笑みを見せて無邪気に はしゃいでいる。
しかし、美月達とは裏腹に義之の心に かかったモヤは晴れないどころか深まっていくばかりだった。
(……お別れパーティー……か……せめて、最後に彼女との思い出として参加したいところだけど……関係が薄い僕なんかが来たって しらけるだけだよね……)
孤立してはいないが、友達と呼べる相手が居ない義之。
他の子供とは違いが多すぎる彼は、いまいちクラスに馴染めていない。
彼自身も同年代の相手に どのような態度を とればいいのか分からず、他の園児も義之が自分達とは何かが違うことを薄々 感じとっているのか、彼には あまり近づこうとしない。
勿論 全ての園児が彼を避けている訳ではなく、積極的に話しかけてきて、一緒に遊んでくれたりする相手も居た。
だけど、結局 最後には義之から離れていく。
家に遊びに行ってみたいと言われても、いつ暴れるか分からない妹が居る為、断るしかない。
一緒に外で遊んでいても、鈴に異変があったら友人に下手な言い訳をして帰宅しなければならない。
そんなことが何日間が続くと相手の方から自然と義之と距離を置き、最初から友達ではなかったかのように会話を交わさなくなる。
家に遊びに行かせてくれない、遊んでても突然 帰ってしまう。
そんな よそよそしい相手よりも、一緒に居て楽しい友人を取るのは当たり前のことだろう。
最初は義之も友人が1人、また1人と去っていくのに胸を痛めていたが、今では何も感じなくなってしまった。
慣れというのは実に恐ろしいものである。
(……家でも幼稚園でも、誰からも相手に されないか……ホント、僕って何の為に生きてるんだろ。ただ鈴を止めるだけの都合の良い存在なだけじゃないか)
唇を強く噛むと同時に本を持つ手にも力が入り、尋常ならざる握力で握られている文庫本がクシャリと悲鳴を あげる。
──生まれてから ずっと1人ぼっち。
──誰からも本当に必要とされていない、妹のストッパー。
──僕は誰の、何の為に生まれてきたの?
暗い感情が胸中に渦巻き、それに比例して身体も小刻みに震え始める。
──鈴が居なかったら、こんなに苦しむこともなかったんだろうなあ。
可愛い筈の妹への憎悪が奥底から湧き上がり、そのせいか瞳が かすかに赤く輝きだす。
──アイツさえ居なければ。
殺意に似た どす黒い感情に包まれる義之。
その時――
「ねえ、義之くん」
「へっ?」
不意に声を かけられて義之が我に返ると、頬を赤く染めている美月が視界に入った。
「み、美月ちゃん。どうか、したのかい?」
いきなり話しかけられたせいか、声が裏返ってしまう義之。
動揺を見透かされているのではないかと不安と恥ずかしさを覚えるも、彼の正面に立っている美月もまた もじもじとしている。
「あ、あの……その……実は、義之くんに……おはなしが あって……」
「いやまあ話があるから話しかけたんでしょ……っと、何でもないよ。続けて」
いつものクセで皮肉じみた言葉を吐きそうになるも、すんでの所で それを呑み込み、愛想笑いを浮かべて美月の話を促した。
明らかに猫被ったような態度であったが、美月は特に気にすることなく会話を再開する。
「あのね……わたし、あさってには おひっこしするの。だから、ママが今日は おうちに おともだち よんで ぱーてぃ してもいいって言ったの。だから、義之くんにも おわかれぱーてぃに来てほしくて……」
はにかんだ様子で用件を口にした美月。
だが、それに対して義之は彼女の言葉など聞こえていないように虚ろな瞳で宙を見上げているだけだ。
無表情ゆえに彼の心情を はかり知ることは難しいが、冷静に見えて内心ではパニックを起こしているに違いないだろう。
なんといったって恋をしている相手――そんな女性から自宅への お誘いを されたのだ。
ウブな義之には刺激が強い一言だっただろう。
「え、あの、その……い、いいの? 僕なんか来たら、みんなテンション下がるんじゃないの?」
「てんしおん? よく わかんないけど、みんな義之くんのこと、きらいじゃないから だいじょーぶ だよ! それに……」
胸の辺りで手を合わせ、上目遣いで義之を見やる。
「わたし、義之くんに きてほしいんだ。だめ、かな……?」
「……っ!!」
あざとくも可愛らしい美月の表情を見て、義之は顔全体に熱が集まっていくのを感じた。
思いを寄せる相手に このような顔をされて呼び出されて、断る男は居るだろうか。
いや、断る奴は男じゃない。
そんなことを考えながら、義之は真っ赤に染まった顔で慌てたように答えた。
「も、も、もちろん 行くよっ! 行かせていただきますともっ!!」
「ほんと!? うれしい、ありがとう!」
笑いながら義之の手を握る美月。
握られているのは両手だけだというのに、まるで身体全体が彼女に包み込まれているようにポカポカと暖かい。
鈴も母に抱きしめられている時は、こういう風に暖かくて安心する気持ちになるのだろうか。
(……ああ、美月ちゃんを身体中に感じるよ……とても気持ちいい…………って、変態か僕は!)
義之が自分で自分にツッコミを入れている間に、美月は彼から手を離してグループに戻っていった。
******
「じゃあ、またあとでね義之くん! ぱーてぃ は、きょうの四時からだからねー!」
手を振る美月に笑顔を返し、義之は彼女の温もりが残っている手を己の頬に添えた。
「美月ちゃん、義之くん何だって~?」
グループに戻った刹那、ニヤニヤしたヤエが そう訊ねると、美月は うっとりとした表情で その場に座り込んだ。
「……来てくれるって……! いきおいで手まで にぎっちゃった!」
「ひゅうううう~」
真っ赤な顔を両手で覆い隠す美月を一斉に冷やかす一同。
ニヤニヤが止まらないとばかりに歯を見せながら笑っているが、その笑顔は美月を小馬鹿にしているというより、微笑ましいという意味合いだと見てとれる。
「ほーらね、だから言ったじゃん! 美月ちゃんと義之くんは“りょーおもい”なんだから、ぜったいに来てくれるって!」
「もうヤエちゃん! おっきな声で りょーおもいだなんて言わないでよ!」
恋する乙女を生温い目で見守る園児達。
一方その乙女に好意を寄せられている義之は、美月に誘われたという嬉しさと気恥ずかしさで興奮しており、彼女らの会話が全く耳に入っていなかった。
******
その後 幼稚園が終わり、義之は かなり ご機嫌な様子で1人 帰路についていた。
(四時からパーティー、四時からパーティー! 絶対 遅れないようにしなくちゃ!)
駆け足でアパートに向かう義之。
いつも家に帰る時の足取りや気分は重たいのに、今日に限っては随分と軽く感じるし、心中は とても晴れやかだ。
これも愛の力だと、義之は平気で恥ずかしいことを考える。
(確か お小遣いは あと百円くらい残ってたし、うまい棒を十本買って美月ちゃんに あげよう! あと、あと、オシャレも しないと!)
パーティーの準備を考えるだけでも頬が緩み、すれ違う大人達が妙な目で見つめてくるも、今の義之には そんな視線など痛くも痒くもなかった。
しばらくしてアパートに到着し、義之は玄関を勢いよく開けて中に入った。
「たっだいまーっ!!」
普段のクールな義之と同一人物とは思えないほど、底抜けに明るい声を発し、靴を脱ぎ散らして部屋に上がる。
すると、リビングから慌てた様子の珠美が出てきた。
「おお義之、ちょうどええタイミングで帰って来たなあ。助かったわ」
「……ちょうどいいタイミング?」
勢いを削がれた義之が やや不満そうな表情を浮かべるも、珠美は お構いなしに言葉を続ける。
「あんな、お母さん 急にバイトが入ってな。今から夜の七時まで かかるんや。せやから、晩御飯ちょいと遅めになるで」
「……ふーん。まあ、別に どうってことないね。行ってらっしゃい」
どうでもいいとばかりに母の横を通りすぎて自室に向かおうとするも、すれ違い様に肩をガッシリと掴まれて それを阻止されてしまう。
「待ちいや、まだ話は終わっとらんで!」
「何なんだよ、僕 急いでるから早く言ってよ」
「相変わらず可愛いげのない やっちゃな! とにかく、ウチはバイトが あるから出かけなアカン! でも今はオトンも おらへんから、ウチらが おらん間は鈴を ちゃんと見とくんやで!」
「……え?」
矢継ぎ早に告げられた珠美の言葉を耳にした瞬間、義之は身体中から血の気がサーッと引いていくのを感じた。
母は今からバイトに行き、“夜の七時”まで帰ってこない。
それに加えて、今 父は家に居ない。
そして、美月の お別れパーティーは“午後四時”から。
これらが意味することを理解した義之は、全身の毛穴から嫌な汗が噴き出てくるのを感じた。
「うん、じゃあ用件は済んだからウチは行くで!」
言いたいことだけ言って、足早に その場を去ろうとする珠美。
すると今度は義之が彼女の服を掴んで、移動を妨げた。
「ま、待ってよ母さん……父さんは、父さんは何時頃に帰ってくるの?」
「うーんと、会社の同僚とゴルフに行っとるからなあ……早くても六時頃に なるんちゃうかな」
「そんな!」
震える唇で必死に紡いだ言葉に返ってきた無情な現実に、義之は真っ青な顔で思わず絶叫してしまう。
──四時から美月ちゃんの お別れパーティーが あるのに……。
──このままじゃ、パーティーに行かれない……。
──せっかく美月ちゃんが誘ってくれたのに……そんなのヤダよ!
「……何ボケーッと しとるんや。はよ手を離せや、遅れてまう」
「……いやだ」
「ハア?」
「僕は今日、友達と約束が あるんだ! だから、留守番は出来ないっ!」
涙目で俯いていた義之が、ガバッと顔を上げて懇願するように珠美を見つめてきた。
「約束て……んなもん、電話ででも行かれんくなったって言うとけばエエやないか。友達より妹が大事やろ? 誰も居ない時に暴れたら どないするんや」
「じゃあ、母さんがバイトを断りなよ! 今日は 友達の お別れパーティーなんだ……せっかく誘ってくれたのに、約束 破りたくないよ! 一生のお願いだよ、母さん!」
まるで命乞いでも しているかのように、必死に頼み込む義之。
彼が ここまでワガママを言うのは、生まれて初めてのことだった。
いつも通りなら ここで食い下がらず、素直に「はい」と頷くイエスマンだった。
だが今日は事情が違う。
義之がパーティーに行くと言った時に見せてくれた美月の笑顔――それを悲しみの表情に変えたくないのだ。
好きな人だからこそ傷つけたくない、約束を守りたい。
しかし、そんな彼の思いは母に届かなかった。
「一度 引き受けたのに、そう簡単にバイトを断れる訳ないやろうが! アンタは妹より友達が大事なんか!? お願いやから、ワガママ言って お母さんを困らせんといてや! お兄ちゃんなんやから、しっかりしいや!!」
刺々しい珠美の言葉が、義之の心を深く抉る。
義之の初めてのワガママは、珠美にとって大きな苛立ちにしか過ぎなかったようだ。
目の前で こちらを見下ろす珠美は、自分の母親だとは思えないほど醜い顔をしている。
その鬼――いや、阿修羅とも言える形相は、義之に逆らうことの出来ない威圧感を醸し出していた。
──お兄ちゃんだからって、それが どうしたってんだよ。
そんな言葉が口を突いて出てきそうになるが、拳を握り、爪を食い込ませることによって それを堪える。
「話は終いや。たくっ……皆 頑張っとるんやから、協力してくれな困るでホンマに」
義之が叫びだしたいのを我慢している間に、珠美は勝手に話を切り上げて さっさと家を出ていってしまった。
1人 残された義之は そんな母の背中を見送った後、覚束ない足取りで電話機へと向かっていく。
──仕方ないんだよ。
──僕は お兄ちゃんだから、しっかりしなくちゃ いけないんだよ。
──辛いのは、大変なのは僕だけじゃないんだよ。
──母さんも父さんも鈴も苦しんでるんだよ。
──だから、僕も我慢しなくちゃ。
虚ろな瞳で前を見据えたまま自分に言い聞かせる義之。
やがて棚の上に置いてある電話機の前に辿り着くと、彼は台を持ってきて その上に乗り、受話器を手に取って美月の家の番号を打ち込んだ。
(ああ、行きたかったな お別れ会。でも仕方ないよね、妹が一番 大事に決まってるんだからね)
トゥルルル、という呼び出し音が耳に当てている受話器から一定のリズムを保って聞こえてくる。
三回程 音は繰り返されたが、まだ応対は無い。
だが無機質な その電子音が鼓膜を震わせる度に、胃の中がカーッと熱くなり、細くて小さな針でチクリチクリと刺されているような感覚が する。
それに伴って心臓もバクバクと激しく鼓動し、若干 吐き気もしてきた。
(……留守番電話だったら良いのになあ)
自嘲気味に笑いながらも、強く そう祈る義之。
だが、その祈りも虚しく呼び出し音はプツリと途絶え、代わりに男性のハスキーボイスが響いてきた。
『はい、矢内です』
「あっ…………あの、矢内 美月ちゃんの友達の、橘 義之と申します」
『義之……? ………………ああ! 美月が今日 招待した子かい!』
美月の父親なのであろう男性は、心底 嬉しそうな声を あげた。
その声は、受話器越しだというのに彼の笑顔が簡単に想像できるほど明るいものであり、これからのことを思うと、義之は重力で押し潰されているように身体中が重くなってくる。
「……あの、美月ちゃん いらっしゃいますか? ちょっと、お話が ございまして……」
『美月なら居るよ、ちょっと待っててね。おーい、美月ーっ! お前の友達の義之くんから電話だぞー!』
大声で美月を呼ぶ父親。
すると、数秒の間を置いてバタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。
『パパ、どうしたのー?』
『義之くんから、電話だよ。お話が あるんだって』
『えっ、義之くんから!? なんだろー!』
何も知らない美月の無邪気な声。
この明るく、癒されるような優しい声が もうじき悲しみに満ちた暗い声音へ変化を遂げると考えると、義之は受話器を握り潰して通話を強制的に終えたい衝動に駆られる。
別に美月の友達は他に沢山 居る為、彼1人来れないくらいで そこまで悲しんだりは しないのかもしれない。
約束を破ったから彼女が悲しむと考えるのは、あまりにも自惚れているのかもしれない。
むしろ、悲しまずに軽く流してくれた方が自分も気が楽だ。
だけど――
心の隅っこで、彼女が橘 義之という存在の為に涙を流してくれるかもしれないという、淡い期待を抱いている自分が居る。
結局 彼女に悲しんでほしくないのか、悲しんでほしいのか――自分でも よく分からない。
だが、自分の気持ちに整理が つかなくても言わなくてはならないのだ。
『もしもし、義之くん! どーしたの?』
ややノイズが混じった声で訊ねてくる美月。
義之は その声を噛み締めるように目を閉じると、二回 深呼吸を繰り返して高ぶる感情を静めた。
──今まで、遊んでいる途中で帰った時と同じ、淡々とした言い方で、良いんだ。
深呼吸を終え、閉じていた目を ゆっくりと開ける。
気持ちは落ち着いたが、今度は頭が熱くなってきた。
まるで脳味噌が熱湯に変化したかのように、頭の中が熱くて熱くて たまらなかったが、義之は それを堪えて口を開いた。
「……ごめん美月ちゃん。せっかくパーティーに誘ってくれたのに、用事があって行けなくなっちゃった。ごめんね」
この言葉を発した瞬間、義之は自分以外の もの全ての時間が止まってしまったような錯覚と、思ったよりも冷静な自分に対する驚きを同時に覚えた。
(……何だ、頭はボーッとしてるのに、ちゃんと演技 出来てるじゃん。僕も まだ捨てたもんじゃないな)
何も感情が込もっていない、素っ気なく、それでいて冷たさは感じられる抑揚のない声を、心の中で自画自賛する義之。
だけど、その心境とは正反対に胸は刃物で抉られているように痛かった。
「……と、まあ用件は それだけ。じゃあ、切るね。本当 残念だったよ」
言うだけ言って受話器を親機に戻そうと手を伸ばす。
だが――
『……フフフ……』
「は?」
スピーカーから聞こえてきた美月の笑い声に反応し、義之は怪訝な顔を しながら再び受話器を耳に当てる。
しかし受話器の向こうは不気味なほど静まりかえっており、たった今 耳に届いた筈の笑い声は全く聞こえてこない。
仮に あの笑い声が空耳だったとしても、美月が義之の言葉を聞いて沈黙しているのは不自然ではないだろうか。
──何だろう、嫌な予感がする。
美月の態度と静寂に違和感を覚え、義之は緊張した面持ちで彼女に声を かける。
「美月ちゃん? どうしたの、何か言ってよ……ねえ……」
『…………』
返事はない。
それでも義之は諦めずに彼女の名を呼び続ける。
「美月ちゃん、ねえ、美月ちゃんってば! どうしたって言うのさ!」
自分の焦った声しか聞こえない状況。
耳に届く声は自分自身が発しているものだというのに、彼の心に不安を植えつけてくる。
「……頼むから返事をしてよ! 美月ちゃ」
『義之くん!』
不意に美月が義之の言葉を大声で遮った。
『義之くん、だいじょーぶだよ! 私、義之くんの おうちまで、むかえにいくから!』
「……え? ちょっと待って、何を言っているのか分から」
『すぐに いくからね! まっててね!』
「みつ」
プッ、ツーツーツー
意味不明な言葉を一方的に言われ、通話を切られてしまった。
「……な、何なんだよ……迎えに行くとか何とか……大体、美月ちゃん 僕の家 知らないじゃないか……」
独り言をポツリと漏らすも、「まあ、いいか」と義之は台から降りる。
(……あーあ、きっと美月ちゃん怒ってるだろうなあ。きっと怒りのあまり、変なことを言ってのけただけだろうし……)
誰も見ていないというのに、格好つけたように すまし顔で廊下をテクテクと歩く義之。
しかし、身体というのは ある意味 心よりも素直であり、彼が一歩、また一歩と進んでいく度に肩はガクリと落ちていっている。
さらに表情も、大人ぶったものから年相応の幼く、悲しさを隠しきれていないものへと変わっていった。
それらは いくら彼が達観した精神の持ち主で、どれだけ人間離れした力を持っていようが、年端も いかない幼い子供にしかすぎないということを表していた。
(……僕は ずっと こうなんだろうか。友達も出来ず、出来たと思ったら向こうから離れていって……誰からも本当の意味で必要とされないまま、生きていくんだろうか……)
慣れている筈なのに、心に ぽっかりと大きな穴が空いているような空虚感は消えず、義之は とぼとぼと鈴の部屋に向かうのだった。