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俺たちはイックア国からコス=セラピス谷を経由し、ゼシュの密林を抜け、アギル国へと到着するルートを取る。囮が仰々しく街を出発する傍ら、頭まですっぽりと覆うフード付きのマントを身にまとい、隠れるように南へ街をでた5人の影がいたことには誰も気が付かなかっただろう。
精霊に愛されていると評されるイックア国の周囲は、豊かな自然に満ちあふれている。広がる畑には、いつの間にか生えていたハタケシメジをご馳走だと喜んで採取している子どもたちの姿が見える。
柵に腰掛けた麦わら帽を被った女性が、キュウリを齧りながら微笑ましそうに子どもたちの様子を見ていた。子どもたちは、そんな女性に気がついた様子もなく、カゴいっぱいのハタケシメジを抱え、笑い合いながら畑を出て行った。
この豊かなイックア国がかつて貧困で荒廃していたとは、子どもたちには信じられないだろう。
緑の丘を進む俺たちを間を、心地の良い風が吹き抜けた。ふわりと、フードが揺れて、茶色の髪を膨らませた少女は気持ちよさそうに目を細めた。
「俺は、ゾクタ=オカだ、シイタケ娘、あんたの名前は?」
「え? 一緒に旅をするのに名前を聞いてないのかい?」
「直接本人から名前を聞かないと、憶えられなくてね」
「ふーん、じゃあ自己紹介するよ、あたいはシイタケ娘の椎香。よーく憶えておきなよ」
椎香はふふんとなぜか得意げに笑った。首周りの白いモコモコがちらりと覗いた。
「そうか、よろしくな」
「おめーさんは確か囚人ってやつだろ? なにやらかしたんだい?」
「人斬り強盗だ、金に困ってね。あの頃は精霊の加護がなくこの国は貧しかったからな」
「そいつはいけねえな、いけねえ、いいかい、ちゃんと真人間になるんだよ」
精霊娘と、それもキノコ娘と話すのは初めてだが、初対面だというのに小気味良く言葉を紡ぐ椎香に俺は苦笑していた。牢獄の礼拝所で祈りを捧げるときに、精霊とはどんな存在なのかいろいろ想像したものだが、まさかこんな親しみやすいものだとは思わなかった。
「東に4人、盗賊のようだな」
一緒に護衛していた兵の1人が言った。
「どうする、仕留めておくか?」
東の林の影に弩を持った4人の影が見える。まだ襲ってくる気配はないが、こちらを注視している視線は感じる。
「……様子を見よう」
ただの盗賊か、オッゴン=ザイの手の者か。こちらの正体は遠目からでは分からないはずだ、藪を突くような真似はせずに様子を見たほうがいいだろう。
「あれが、盗賊ってやつらかい? 初めて見るよ」
椎香は少し緊張した様子で言った。
「大丈夫ですよ椎香さま、我々がいるかぎりあなたに指一本とて触れさせはしませぬ」
刀傷だらけの厳つい顔をした兵は椎香を安心させるようにそう言った。椎香はこの恐ろしげな風貌の男に少しだけ苦手意識を持っているようだ。あの顔じゃ仕方ないだろうな。
その時、殺気が膨れ上がった。盗賊たちがクロスボウをこちらに向けている。
が、それより早く俺たちの放った矢が4人の盗賊をすべて貫いた。
「さすがプノムが信頼している兵だな、見事な腕だ」
「ゾクタ殿こそ噂に違わぬ名手ですな」
弦がまだ少し振動している弓を持ったまま、男たちは声を揃えてお互いの腕を讃え合った。
「死んでおりますな」
急所は外したのだが盗賊たちはみな死んでいた。
「捕虜になるくらいなら自害をか、オッゴン=ザイの兵だと自白しているようなもんだな」
「急いだほうが良いでしょう、まだ我らの正体には感付かれてはいないと思いますが」
野営時の食事は椎香が作ってくれることになった。もちろん俺たちも野営の旅食くらい作れるのだが、何もせずに俺たちが野営の準備をしているのを眺めているだけというのは退屈なのだという。
「いやあ美味いですなあ」
キツネのような顔をした男は嬉しそうにシイタケスープを飲んでいる。出汁というものがシイタケにはあって、それがスープをより美味しくするらしい。料理には詳しくないのでよくは知らないのだが、質素な旅食に干しシイタケを加えるだけで、何度も修羅場をくぐり抜けてきた3人の厳つい兵たちが満面の笑みを浮かべて、器のスープを啜っていた。
「そいつは良かった、アタイも腕をふるった甲斐があったってもんだ」
焚き火の赤い光に椎香の顔が照らされている。料理の腕を褒められて嬉しいのか、それともシイタケを褒められて嬉しいのか、椎香は笑顔を浮かべていた。
「どうしたんだい? あんたは食が進んでいないようだけど、体調でも悪いのかい? そいつはいけないよ、ゆっくりでいいからたんとお上がり」
干し肉を齧っていた俺は、気まずくなって頭を掻きながら伝えた。
「俺、シイタケ苦手なんだ」
その日以来、椎香はあの手この手で俺にシイタケを食わせようとした。出された分はなんとか食べるが、しかめっ面の俺の表情は隠せない。その度に椎香は傷ついたという顔をして、次に負けるものかという顔をして、それから次はどうしようという顔をする。
面白い娘だ。キノコ娘というのはみなこういうものなのだろうか?
3人の兵たちは、そんな俺たちの様子を微笑ましそうに眺めていた。シイタケステーキを頬張りながら。
宿場街まであと1日という時だった。
まばらに低木の生える湿原を進んでいた時、俺は背筋に強い悪寒を感じた。
「なにか来るぞ!」
俺は鋭い警戒の声を発した。はっとしたように3人の男たちも馬を止めて周囲を警戒する。
「あれは……」
そらに大きな、黒い影が見えた。皮膜の翼を広げ、巨象ほどもある体躯で空を駈けるその姿。旋回など飛ぶのは決して得意ではないが、直線速度に関しては隼並の速度で飛翔するその姿。口からこぼれた炎が明々と輝くその姿。
「ドラゴン!」
赤い鱗をした巨大な竜が俺たちを見据えて降りてきていた。
「オッゴン=ザイめ、竜を使うとは」
「欲深い竜を財宝で手懐けたんだろう、しかし……いや今はいい、逃げるにしても竜の翼は馬より速い。どうする?」
「竜は精霊を敬わない、構わず襲ってくるぞ」
「であれば、椎香さまに近づけるわけにはいけませんな、我らが抑えましょう」
2人の男、刀傷のある男とキツネ顔の男が馬を走らせた。
「ゾクタ殿! ビジク殿! 椎香さまを頼みましたぞ!」
「え? ええ!? ちょっと2人とも!」
竜に向かって躊躇せずに走りだした2人に椎香が驚きの声を上げたが、俺たちは椎香の馬の尻を叩いて走らせた。
「いくぞ椎香」
「だめだって! たった2人で竜に挑むなんて死ににいくようなもんじゃないか!」
「ははは! 椎香さま! お達者で! 昨晩のシイタケの煮付け美味しゅうございましたぞ!」
遠ざかっていく声は、勇ましく、そして嬉しそうに笑っていた。
「追ってくるな」
馬を走らせ、しばらく先に進んだのだが、咆哮と共に竜が翼を震わせながら追ってきた。片目には矢が突き刺さり全身に傷を負っていたが、それでも膨大な生命力を燃やして竜は飛ぶ。
「どうします?」
「あれならなんとかなるはずだ」
俺は馬から降りて弓を構えた。矢筒から2本の矢を取り出し、祈りの言葉をつぶやく。
「シィ!」
気合を口の中に含ませて、俺は弓を引いた。矢は風を切って飛び、竜の額を穿つ。
「ガアアアア!」
小さき者と普段バカにしている人間に深手を負わされ、竜は怒り狂っていた。その体躯にすら収まらないほどに巨大な自尊心は、俺たちすべて八つ裂きにしなければ抑えられないほどに憤っていたのだ。
ゆえに本来は人間より遥かに賢く狡猾な竜も、怒りに曇った思考によって獣へと堕ちていた。
突き刺さった矢から、音の魔法が竜の全身を貫いた。激しく不快な衝撃音が竜の分厚い頭蓋骨の中を激しく揺らした。竜は思わず空へと咆哮した。
顕になったその首筋にある逆鱗。竜の唯一の弱点。そこを目掛けて俺は2本目の弓を射る。
「矢の精霊よ、どうかこの矢に宿り私に狙いを外さないための力を貸してください」
そして放たれた矢は竜の逆鱗を貫いた。
「ガ……」
竜は凍りついたように固まると、ぐらりと揺れて倒れた。
ドラゴンは死んだのだ。