プロローグ
この作品は、以前別名義でこちらに掲載したものなのですが、今回大幅修正・加筆してみました。
ご感想などいただければ、嬉しく思います。
そのとき何が起こったのか、私には分からなかった。
所属部署の部長に新任の挨拶をしようと、扉を開けてすぐに頭を下げたんだけど、そこで野崎さんの「危ない!」という声が聞こえ、そのまま折り重なるように押し倒されてしまったのだった。なんでそんなことされたのか理解できない。
「だから、逃げてって言ったでしょっ」
野崎さん、すごく怒っている。大きい声じゃなかったけど、私に向けた怒気が孕んでいるのは確かだった。
でも、なんでこんなに怒っているのか、私には分からなかった。怒られるようなことは何もしていないはずだし、野崎さんを怒らせるようなことも言っていないと思う。ましてこんな寝技めいたマウントされる謂れもないはずだ。
「田波さんは、そこでじっとしていて。約束よ。絶対動いちゃ駄目だからね」
と野崎さんが、ものすごく切羽詰った声で、私にそう告げてきた。
扉を開けたとき飛び込んできた強い日差しに目が痛みチカチカしてしまっていたので、その表情までは分からなかったけど、この声の調子から行くと、きっとあの端正な顔が強張っているに違ない。
それにしても今の私、どんな状況になっちゃっているんだろう・・・。
会社に入社して研修が終わり、今日初めて顔を出した配属先。その配属先の部長に挨拶に行くことになり、先輩の野崎さんにここまで連れてきてもらったはずなんだけど・・・。
それなのに何で私、こんな戦場カメラマンみたいな状況になっちゃっているの?
そんなことを考えていると、徐々にだけど明順応してきた。チカチカしていたものが弱まり、あたりの様子がはっきりとしてくる。
まず目の前にあったのは、野崎さんの綺麗な胸元だった。首元からはネックレスが垂れてきて、それが私の鼻先を掠めていた。少しくすぐったい。
でも、その先がよく分からなかった。野崎さんに覆い被されているせいで視界が塞がってしまっていたので、部屋の全体像を見ることができない。
それに、さっきから感じていたけど、なんか変なニオイもするし、晴れているのに雷の音みたいなものも・・・。
「いい? 田波さん。そこでじっとしているのよ。私が動いても、絶対動いちゃだめだからね」
静かに言うと、野崎さんはすっくと立ち上がった。すると彼女はゆっくりと振り返りと、身構えたのだった。
なんだか、これから何かと戦おうとしているような格好・・・。
そう、それはあきらかに何かと対峙している人の姿だ。だって野崎さんの声色には先ほどから余裕がないのは分かっていたし、その表情もものすごく険しいものであったのだから、これはもう何かと戦おうとしているに違いない。
でも・・・。いったい何と戦おうと・・・?
野崎さんは視線を正面に向けたまま、相手の挙動を注視しつつゆっくりと片足ずつヒールを脱いでいく。タイトなスカートが腿の付け根まで捲りあがっていたけど、そんなこと気にする余裕もないみたい。
私はその視線の先に、何があるのか気になる。野崎さんが見据え、今まさに対峙しているモノの正体とは、いったい何なのか。
だけど野崎さんの体に視線を遮られていて、その向こう様子がよく分からなかった。なんだか先ほどから動物園で嗅いだような獣臭というか、動物臭がしてはいるんだけど、その正体までは分からない。
野崎さんに動いちゃダメだと言われているけど、私はどうしても確認せずにいられなかった。でもやっぱり恐いので、少しだけ、ほんの少しだけ首を動かす。
でも、その少しだけで、視界はだいぶ開ける。
まず見えたのは、なにやら堅く荒い岩肌のようなというか、固い鱗のようなものだった。しかも、それ、非常に大きい。全体像はまだ分からなったけど、何となく乗用車ぐらいはありそうな感じだ。そんなものが、この窓際に鎮座していたのだ。
しかも、それ、ゆっくりと脈打つように上下しているのが分かった。
こいつ、生きている?!
脈打つ上下運動、これは多分呼吸によるものだ。よく見れば、そいつには鱗に覆われたがっしりとした手足だって生えている。
さらに、低いうめき声のような音が聞こえていた。それは雷の音を連想させる音で、ものすごく恐ろしい音。さきほどから聞こえていたものは、どうやらこいつが発しているものだったのだ。
私は聞いているだけで、内臓を締め上げられる感覚に襲われ身が竦んでしまった。
こいつ・・・、たぶんあれで間違いない。っていうか、完全にあれだよね!? つーか、あれしかないよね!
ここにきて、さすがの私でもことの状況が理解できた。もっとも理解はできても、なんでこんなことになっているのかは全く分からない。けど、今私たちは生死の境に立っていることだけは理解できた。
だって目の前で巨大なトラバサミのようなものが、大きく開かれていたんだもの。恐ろしいまでの声を発し、鋭く大きい歯みたいなものがびっしり並んでいる様を目の当たりにしているのだから。
たぶんこれに挟まれたら、何人も逃れることができないはずだ。あの白く鋭い歯が私の肌に刺さったら、瞬く間に深く食い込んでくるに違なく、肉はおろか骨までが音を立てて砕け散ってしまうことになってしまうはず。
そしてその大きく開かれているものは、確実に私たちの方へと向けられていたのだった。
これでは、生きた心地なんてありはしない
「の、野崎さん。これって・・・」
「シッ! 黙ってって」
野崎さんは私の方は一切向かず、奴の方を向いたまま静かに答える。
だけど、私はもう黙っていられなかった。
「でも、これって動物園とかにいるあれですよね」
「分からないの、田波さん。黙ってなさい。死にたいの」
「でも、でも、これ・・・」
私は恐ろしげにこちらを向くそれを見ながら、いったん息を飲む。そして、
「・・・ワニですよね」
そう、奴はワニだ。しかも体長五メートルはあろうかという、巨大なワニだ。私たちは、今まさにそいつの食事にされようとしていたのだった。
よりにもよって、都心の一等地に建つ自分の会社の中で・・・。