オープニング
あの時の光景も、音も、匂いも感情もなにもかも覚えている。
電車を一本乗り過ごしたある夏の日の朝、汗をダラダラ流しながら俺は自分の脚力を極限まで振り絞って自転車をこいでいた。
息を切らしすぎて酸欠になりかけて、何度も吐きそうになった。
目尻にはうっすらと涙が浮かび、飽きるぐらい見続けてきた風景が醜く歪んだ。
「はあ、はあ、はあ・・・」
あと何分だ。あとどれだけ漕げば辿り着く。
耳をつんざく忌々しい蝉の合唱が、一人無我夢中で自転車を走らせている俺に罵声を浴びせているような気がした。
もう間に合わないよ。どれだけ頑張っても無駄だよ。
その声に抗う言葉を、俺は持っていなかった。心のどこかで、俺も同じことを思っていたから。
都会ならともかく、田舎の電車で一本乗り過ごすというのは、それだけで致命的で絶望的だった。もはや瞬間移動でもしない限り、俺が時間までにそこに辿り着くことは不可能だった。
「くそっ・・・くそっ・・・」
行かなければいけないのに行けない。今日、試験会場に時間内に行かなければ、俺の人生は破滅も同然だ。けれど現実はどれだけ願っても手を差し伸べることなんてしない。どうしようもない葛藤が、執拗なまでに暑さに蝕まれた俺を痛めつけた。
いよいよ大きな交差点が近づいてきた。目的地まで丁度半分まで来たところにある交差点だ。
俺は哀願するように目を向けたが、歩行者信号は赤色を点灯していた。一体神様は、どこまで俺を苦しめたがるのだろう。
ふと、チラリと横を見ると、右折方向の歩行者信号が点滅しているのが見えた。
もうすぐ正面の信号が青に変わる。全てを捨て去ろうと自暴自棄になっていた俺にとって、それは唯一の神様からの贈り物に感じた。
ごめん神様。さっきまでのあなたに対する暴言は訂正する。やっぱりあなたは素晴らしい神様だ。
俺は全力で自転車を飛ばした。ブレーキに指をかけるのをやめ、グリップをこれでもかと力強く握りしめた。
歩行者信号が赤に変わった後、車用信号も黄色から赤に変わった。
いける。正面の信号はまだ赤だったが、俺はなんの迷いもなく交差点へ飛び込んだ。
まだ朝なのにも関わらず、夏の日差しは強くじりじりとアスファルトを照りつけていた。
唐突にクラクションが鳴り響いたのは、横断歩道に出てすぐのことだった。息を吐く音が、今までよりずっと深く、ゆっくり、そして大きく感じた。
「え・・・」
そんな短すぎる一言が、この世界で最後の一言になるなんて。
気付いた時には、信号無視をして猛スピードで突っ込んできた深紅のスポーツカーが、俺と俺の自転車を高く高く舞い上げていた。
悲鳴にも似た甲高いブレーキ音が響き渡った。自転車がアスファルトに叩きつけられる金属音の後に、追うようにして体を打ち付ける鈍い音が鳴った。
――――俺の耳から、叫び続けていたはずの蝉の鳴き声が消えた。