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次の日、いつもどおりの重い足取りで教室に入ってきた友樹は、教室の雰囲気がいつもどおりではないことに気づく。
普段から朝のホームルーム前は騒がしいことが多かったが、今日の騒がしさはベクトルが違っているように思えた。
だが、友樹は大して気にも留めず、自分の席へとすたすたと歩いていく。
クラスに馴染めていない友樹にとっては、なにが起こっていたとしても自分には関係ないと決めつけていたのだ。
ただ今回ばかりは、そうもいかなかった。
なぜならば、騒がしい声の発生源が、友樹の席のすぐそばだったからだ。
正確には、友樹の席の後ろということになる。
友樹の席の後ろ――。
そう、あの「吸血樹」が床から天井まで貫いている教室の片隅だ。
その樹のすぐ前、友樹の席の後ろに、昨日まではなかったはずの机と椅子が置かれ、ひとりの女の子が座っていた。
学校指定のセーラー服を身にまとう彼女は、昨日友樹がお話した女の子、ねみみだった。
少々幼い外見で違和感があるのだが、誰もこの学校の生徒だと信じて疑っていないようだ。
ねみみの周りには、主に男子生徒が集まっていた。
そしてねみみは彼らにグラスを渡し、これにお水を入れて持ってきて、とお願いする。
お姫様に仕える従者よろしく、ひとりの男子がそのグラスを手に取って足早に教室を出ていった。
「ねみみ様、他になにか御用はありませんか?」
「そうねぇ~。お菓子が食べたいですのん。なにかお持ちじゃありませんですか?」
「あっ、おれ、チョコ持ってきてるよ!」
「……う~ん、溶けかけてますのん。いらないです」
「ごめんなさい、ねみみ様っ!」
そんな状況が目の前で展開され、思わず口をだらしなく開け放ち、呆然と立ち尽くしてしまう友樹。
と、その友樹の横を、大急ぎの男子が通り過ぎる。
「はいっ、お持ちしました、ねみみ様! お水です!」
「ありがとうですのん」
先ほどグラスを渡された男子が駆け足で戻ってきたのだ。
グラスを受け取ったねみみは、中の水を美味しそうに飲み干す。
「ごきゅ、ごきゅ、ごきゅ、ぷふぁ~! やっぱ、お水は最高ですのん~♪」
「はいっ、水は最高です、ねみみ様!」
友樹は……とりあえず現実から目を逸らして、黙ったまま自分の席に着くことにした。
☆☆☆☆☆
すぐにチャイムが鳴り、ねみみの周りを囲っていた男子も散り散りに席へと戻る。
じきに森母先生が教室に入ってくるだろうという、微妙な空き時間。
つんつん。
(……無視しないでほしいですのん)
指で友樹の背中をつつきながら、ねみみが背後から小声を投げかけてくる。
現実から目を逸らしている最中の友樹は、どうするべきか迷いの淵に立っていた。
(む~。無視されるとウチ、のどが渇きますねん。水がないとなると、赤い液体を欲してしまいますのん)
(……ちょっと、あなた、なにしてるのよ? それに、さっきのはなんなのよ?)
ねみみの不穏な発言に、友樹は慌てて振り向くと、とりあえず注目を受けないように小声でねみみに話しかける。
その様子を見て、ねみみは満足そうに笑みをこぼした。
(あは、ウチ、このクラスの生徒になってみましたのん。精霊であるウチの力を持ってすれば、これくらい朝飯前ですねん)
誇らしげ言ってのけるねみみ。
(それはべつにいいんだけど……。ねみみ様ってなによ? お姫様気取り? 水まで持ってこさせてさ)
皮肉を含んだ友樹の言葉に、ねみみはちょっとムッとした表情を浮かべる。
(いいじゃないですか。お姫様は女の子の憧れですのん。それに、ウチにお水は必須なんですねん。ウチは樹ですから。この教室から出たりもできない、不憫な身の上なんですのん)
(……そうなんだ)
(そうです。だからこその、マイグラスですねん。今後も定期的に、水を飲ませてほしいですのん)
(わかったわ。でも、だからって、あれはさすがにないよ。ボクが水を持ってきてあげるから、男子を使ったりしないでね。もっと普通の中学生っぽく振る舞わないと、伐採されちゃうかもよ?)
(はう、伐採はイヤですねん! む~、わかったですのん)
(よろしい)
友樹はこうして会話をしながらも、無意識に現実から逃避していた。
つまり、ねみみが「吸血樹」に宿る精霊であるということも、そんな彼女がなんの目的でこんなことをしているのかということも、一切気にしないようにしていた、ということだ。
「こら、仲良さん。前を向いて! ほら、倉梳さんも。先生が入ってきたら、お喋りはやめなさい! ……それじゃ、ホームルームを始めます」
いつの間にか教室に入ってきていた森母先生の注意を受けて、現実に引き戻された友樹は前を向く。
どうやら先生も、ねみみの存在に疑いを抱いてはいないようだ。
精霊の力とやらを使って完全にクラスに溶け込んでいるのだろう。
ちょっとおかしな状況ではあったが、それでも友樹は、なんとなく安らいだ気持ちになっていた。
教室の中でこうやって誰かと無駄話に花を咲かせるのも、この中学校に入って以来、初めてのことだったからだ。
「明日からお友達になってあげますねん」
確かにねみみは昨日、そう言っていた。
そして今日、本当にその言葉どおりになっている。
一緒に泣いたり笑ったりできる友達がいること、それは生きていく上でとても大切な要素となるだろう。
そういった友達が、昨日までの友樹にはいなかったのだ。
得体の知れない相手とはいえ、ねみみに心を開き、すがってしまったのも、当然の成り行きだったのかもしれない。
あるいはそれを、ねみみは狙っていたのか。
ともかくねみみは今、友樹の友達として、教室の片隅にある席に座って授業を受けている。
友樹にとっては、明るく楽しい未来が両手を広げて待ってくれている、とすら感じられるほどの状況と言えるだろう。
こうして友樹は、久しぶりに穏やかな気持ちで授業に臨むのだった。
☆☆☆☆☆
そんな教室の中。
(――なにか、おかしいわ……)
誰もが違和感なくねみみの存在を受け入れているように思えたが、ただひとり。
彼女だけは、納得がいかないといった表情を浮かべ、首をかしげていた。
休み時間になって、後ろの席のねみみと楽しくお喋りしている友樹の姿を、じっと見つめる彼女。
「冬野、どうしたの?」
「べつに……なんでもないわ」
そう答えながらも、松園寺冬野は怪訝な表情を崩すことはなかった。