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さらに翌日には、笹雨も退院してクラスに戻ってきた。
教室に入ってくる笹雨の姿を見て、冬野は椅子から立ち上がり、
「よかった……」
と、涙をにじませていた。
そのまま歩み寄ろうとしていたのだが、笹雨はそんな冬野には目もくれず、一目散に駆け出した。
「仲良さん、大丈夫だった?」
笹雨が駆け寄ったのは、友樹の席だった。
「あっ、蛍風くん……。うん、ボクは大丈夫。蛍風くんも、もう大丈夫なんだね……?」
「うん、もうすっかりよくなったよ」
遠慮がちに声を返す友樹に、明るい笑顔を向けながら、笹雨は答えていた。
すぐに薪と優助も笹雨のもとに駆け寄ってくる。
いつの間にか、冬野の取り巻き三人組もそばに集まってきていた。
瑞菜も友樹のそばへとやってくると、さりげなく薪の横に並んだ。薪のほうも軽く瑞菜に目配せしてから、友樹へと視線を戻す。
なんとなく、上手くいってるんだな、というほのかな雰囲気を漂わせているふたりだった。
そんな様子にも気づかず、笹雨は話し続けていた。
昨日、退院する前に、森母先生が笹雨のもとを訪ねたのだという。
先生は毎日のようにお見舞いに行っていたようだ。
それで、先生から友樹の話を聞いた。
先生はやっぱり状況を把握していないようで、「仲良さんも蛍風くんと同じように誰かにいじめられていたのかしら」と悲しげに目を伏せていたらしい。
話を聞いた笹雨は、心配を募らせていた。
友樹が冬野からいじめや嫌がらせのような行為を受けていたことに、感づいていたからだろう。
「でも、元気そうでよかったよ」
そう言って友樹に笑顔を送る笹雨。
「うん、ありがとう」
微かに頬を染めて、友樹と笹雨は見つめ合う。
その様子を見た優助が、ヒューヒューと冷やかしの声をかけていた。
と、そんなふたりの背後に、突然人影が現れる。
「…………!?」
素早く後ろから抱えるようにして、その人影は左腕を笹雨の首へと回す。
右手には、鋭い刃を輝かせたカッターナイフが握られていた。
そしてその切っ先が、笹雨の首筋に押し当てられる。
「な……なにしてるの!? 松園寺さん!」
笹雨を背後から押さえつけているのは、冬野だった。
友樹は叫び声を上げる。
瑞菜や優助たちも、突然のことに目を丸くしていた。
「動かないで! 動いたら、このまま首を切るわよ!」
狂気に支配されたような淀んだ目をした冬野は、周囲で驚きの声を上げるクラスメイトたちを一喝する。
「やめなよ! どうして、そんなことするの!?」
取り巻きとしていつもそばに控えていたというのに、いや、いつもそばにいたからこそなのか、冬野を心配するように声を荒げる唯。
「そうだよ! これ以上印象を悪くして、どうするのよ!」
「いい加減にしないと、冬野自身が痛い目を見るよ!?」
いつも黙って従っている幸緒と美春のふたりも、冬野を責め立てる言葉を並べた。
「もう、いいのよ! 笹雨くんを殺して、あたしも一緒に死ぬ!」
取り巻き三人組からの言葉を受けた冬野は、よりいっそう強い口調と視線で、そう言い放った。
「ダメだよ! やめなよ! こんなことしても、松園寺さん自身が傷つくだけだよ!」
友樹も必死に冬野の説得に回る。
「ふん……。仲良さんは、あたしがいなくなったほうがいいんじゃないかしら?」
自虐的な笑みを浮かべて吐き捨てる冬野に、友樹は反論を返す。
「そんなわけないよ! そりゃあ、そんなふうに思ったこともないわけじゃないけど……。でも、こんなのダメだよ!」
「笹雨くんを道連れにしようとしてるから、ってことね? あたしひとりなら、勝手に死ねばいい。そう思ってるんでしょ!?」
「そんなことない! ボクは、みんな仲よくすればいいんだって、そう思ってるし……」
「綺麗ごと言ってんじゃないわよ! あたしのこと、恨んでるんでしょ!? 正直に言いなさいよ!」
息をもつかせぬ言葉の応酬に、他のクラスメイトも固唾を呑んで見守ることしかできなかった。
「ボクは……、嫌だったけど、でも! 恨んでなんか、ないよ!」
「嘘おっしゃい!」
「嘘じゃないよ! その、どっちかって言うと、かわいそう、って……」
そう言いながらも友樹は声を落とし、余計なことを口走ってしまった、といった表情を浮かべる。
「あ……あんたなんかに、かわいそうなんて言われたくないわ!」
火に油を注いでしまった友樹の言葉で、冬野はカッターを握る手に力を込める。
勢いで刃が軽く触れた笹雨の首筋から、赤い雫がタラリとこぼれた。
「やめなよ、冬野!」
「松園寺さん!」
みんな一斉に制止の声を飛ばす。
「も……もうここまでやってるんだから、あたしに未来はないわ! もうお終いなのよ!」
冬野は、ぐっとカッターを握る手に、さらなる力を込めた。
「ごめんね、笹雨くん……。でも、あたしには、こうするしか……」
涙をにじませながら、冬野は笹雨を見つめる。
笹雨は言葉を返すことができなかった。
微かに穏やかさを含んだ表情で、ただ冬野の瞳を見つめ返すのみ。
「冬野! お終いなんかじゃないよ! わたしたち、友達でしょ!?」
唯が声を荒げて問いかける。
「……あなたたちにとっては、表面上の、でしょ?」
声に勢いこそなくなっていたものの、自虐的な態度を崩せない冬野に、唯は追い討ちをかけるようにたたみかける。
「違うって、前にも言ったじゃない! ずっと一緒にいたのに、そんなことにも気づかなかったの!? わたしたちは、本当の友達だよ!」
「そうよ! そうじゃなかったら、とっくに離れてるよ!」
「そりゃ、面白がって止めなかったわたしたちも悪かったかもしれないけど、今ならまだ間に合うよ! だけど、これ以上やっちゃったら、本当に戻れなくなるんだよ!?」
唯に続いて幸緒と美春も、必死の形相で想いを叫ぶ。
三人とも、その瞳には輝く雫をたたえていた。
「そうだよ、今なら大丈夫。ぼくも、少し首が切れたみたいだけど、こんなのどうってことないし。これくらいの傷なら、小さい頃、一緒に遊んでた冬野に殴られてできた傷と、大差ないだろ?」
笹雨も、優しく冬野を諭す。
(小さい頃、一緒に遊んでた……。それに、冬野って下の名前で呼んでる……。そういえば幼馴染みだって言ってたよね。……そっか、ふたりはすごく仲よしだったんだ……)
友樹は、今まで冬野が自分を目の仇にしていた理由も、ようやくわかったような気がした。
「松園寺さん、もうやめよう……。ボク、もっと松園寺さんとゆっくり、お話とかしてみたいよ」
「……なんで……あなた、なんか、と……」
強がりを吐き出そうとするものの、声にならない冬野。
「クラスメイトなんだから……友達なんだから、これからいくらでも、やり直せるよ」
瑞菜の声に、他のクラスメイトもそれぞれの想いを重ねていく。
「そうだよ!」
「クラスって、そういうもんだろ!?」
「許し合えるのが、友達だよ!」
みんなの熱く優しい言葉を受け取った冬野は、戸惑いながらも、さっきまでとは違った感情から溢れ出てくる涙を、その瞳に浮かべていた。
「でも、あたし……」
「もう、いいよ。松園寺さん、その……これからもクラスメイトとして……、仲よくやっていこうよ。……ね?」
友樹の声に、冬野はついにその場に崩れ落ちる。
そして、クラスのみんなが見下ろしている前で、大声を上げて泣き始めた。
そんな冬野の体から、すーっと影が離れる。
影は徐々に人の形を成し、やがてそこには、教室を貫く大樹の精霊、ねみみが姿を現していた。