第三話 不思議なめまいの話
午後の産業保健室は、静かだった。
窓から差し込むやわらかな光が、机の上を淡く照らしている。
保健師の星野は、次の面談者の書類に目を通していた。
その隣で、寺西は手元のメモに軽く視線を落としている。
時計の針の音だけが、かすかに聞こえる。
「この方ですね」
星野が小さく言うと、寺西はうなずいた。
ノックの音がして、二人は同時に顔を上げる。
「どうぞ」
「失礼します」
ドアを開けて入ってきた小川和子は、椅子に座るとき、少しだけ机に手を添えた。
「こんにちは、小川さんですね。産業医の寺西と言います。めまいがあると伺っています」
「はい。ふとしたときに、目がまわる感じがして」
「それは大変でしたね」
寺西の手元の書類には、主治医からの診断書が添えられていた。
――めまいのため、時短勤務を要する。
保健師は、その一文に一瞬だけ目を細める。
時短勤務。そう書かれていること自体は珍しくない。
けれど、めまいで仕事が難しいのであれば、通常は休養になることも多い。
来られるなら通常勤務、難しければ休む。
そのあいだに置かれたこの指示に、少しだけ引っかかるものが残る。
とはいえ、特に口に出すことはなかった。
検査では異常はないという。薬も使っているが、はっきりした変化はない。
寺西は、書類から視線を上げた。
「めまいが始まった時期に、何かありましたか」
小川は、少し考えた。
「……去年の秋くらいからで」
言葉を探すように、間があく。
「娘が、結婚して家を出て」
静かな声だった。
「それまでは、一緒に食事をしていたんですけど」
寺西はうなずくだけで、続きを待つ。
「ご飯を作っても、一緒に食べる人がいなくて。夫は夜遅いですし」
少し笑うような、困ったような表情になる。
「前は、よく“おいしい”って言ってくれていて」
それ以上は続かなかった。
部屋の中に、短い沈黙が落ちる。
「家の中、少し静かになりましたか」
「……そうですね」
ゆっくりと、うなずく。
「それと、夫の転勤がきまりまして。4月からなんですが」
「はい」
「仕事を辞めて、ついてきてもいいって言われて」
一度言葉を切る。
「……なんとなく、自分の仕事って、してもしなくても同じなのかなって」
小さく付け加えた。
寺西は、少しだけ間を置いた。
「そういうときに、出ることもあるかもしれませんね」
小川は、小さく息をついた。
「寂しかったのかもしれません」
その言葉は、静かに置かれた。
寺西はその後、いくつか経過を確認し、主治医の診断書の内容を踏まえて、当面は時短勤務が望ましいと記した意見書を作成した。
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二回目の面談では、
「近所の集まりに、少し顔を出してみていて」
と話した。
誰かと話す時間が、少し増えたらしい。
「今の仕事は、続けようと思っていて」
そう言ったあと、表情が少し落ち着く。
「めまいはどうですか」
「最近は、あまり」
理由を探すような言い方ではなかった。
寺西は小さくうなずいた。
「定時までお仕事できそうですか?」
小川はうなずいた。
寺西は通常勤務が可能とする意見書を作成した。
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三回目の面談の日。
時間になっても、小川は来なかった。
保健師が、少し困ったように言う。
「どうやら、忘れてしまっていたみたいで」
寺西は軽くうなずいた。
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その日の午後、保健師が小川に電話を入れた。
体調の確認と、次回の面談について。
「小川さん、最近、いかがですか」
受話器の向こうで、女性の声は落ち着いていた。
「だいぶ大丈夫です。外に出ることも増えて」
少し笑う気配が伝わる。
「ご飯も、またちゃんと作るようになって」
保健師は、いくつか事務的な確認をしたあと、言った。
「次の面談は、どうされますか」
少しだけ間があって、
「……もう、いらない気がします」
と返ってきた。
保健師は、わかりました、と応じた。
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午後、書類を整理していると、保健師がふと口を開いた。
「先生、小川さんなんですけど」
「はい」
「めまいって、寂しさで起こることって、あるんですか」
寺西は、少しだけ考えた。
「教科書的には、はっきりとは言えないですね」
保健師は、小さくうなずく。
「でも」
寺西は続けた。
「今回の経過を見ていると、そういうことも、あり得るんだろうなと思います」
それ以上は言わなかった。
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面談室のドアは、静かに閉まったままだった。
午後の光が、机の上に落ちている。
何かが特別に変わったわけではない。
ただ、来なくなった。
それで、十分だった。
めまいや腹痛、腰痛など、はっきりした原因が見つからない症状に出会うことがあります。
そうしたとき、身体の変化が、その人の置かれている状況と重なって見えることがあります。
身体と心の関係には、不思議なところがあります。




