死人に口無し幽霊そこに在り
最後まで読んでくれると嬉しいです。面白いですよ。
俺は死んだ。
仕事が終わり22時。重い身体をどうにか引っ張り帰路に着く。真っ暗な空に白い息をはく。雪でも降り出しそうな2月の空は、街のうるさい灯りさえ太刀打ちできないほどに黒かった。気持ちが沈むシチュエーションでも愛する人を思い出すと自然と笑みがこぼれてくる。明日はふたりの運命の日。愛し合うふたりの未来を握る大切な日。段々早くなる歩調を赤信号でピタリと止める。相手の家族に報告したい。俺の両親にも早く言いたくてしょうがない。なんだか緊張してきた。明日、ちゃんと出来るだろうか。喜んでくれるだろうか。一世一代のプロポーズ!バイクの走行音も人々の話し声も耳には入らない幸せ絶頂な俺の背中を、誰かがドンと押した。視界が弾けた感覚を覚えた。
「―え」
情けなく口の端から零れた声は喧騒に掻き消され、すぐ横に来ているトラックのブレーキ音がやけに大きく感じた。自分はこれから死ぬんだと悟ったのは一瞬のことで、悲しみや恐怖を感じる間もなかった。ゆっくりトラックの方に目をやると、運転手と目が合った。ああ、可哀想に。この人は一生この光景を夢に見るんだろうな。この人に落ち度は少しだってない。ただ偶然この道を走っていただけなのに。もうこれがトラウマになって車の運転は出来ないかもしれない。そう思うとこの運転手が不憫でならなくて、俺はゆっくり微笑みかけた。瞬間、うるさい鼓動の音。視界の端に広がる赤黒い液体。遠くから聞こえる甲高い叫び声。白く弾けた視界。体温が抜けていく身体。静かになる鼓動の音。
冷たく白い結晶を手の甲に見たのを最後に、消えゆく意識の中で確信した。
俺は死んだ。
薄暗い部屋で目を覚ました。
「死んで、ない?」
周りを見ると横たわって白い紙を顔に被せた人がたくさん居た。それが死体であると理解することは簡単だった。そして同時に、俺の視点が天井スレスレ、やけに高いことも気になった。
下を見ると俺がいた。
正確には、ブルーシートに包まれた大体人間と同じくらいの大きさの何かがあった。でも断言できる。これは俺だって。そこで悟った。やっぱり俺は死んだんだ。死んだことさえわかり、理解出来ればあとは想像に容易い。視点が高いのは浮いているから。自分の姿はきっと誰にも見えず、自分目線だと上半身しかない。そしてここは霊安室か安置所。要するに俺は幽霊となってこの世に留まったということ。でもわからないこともまだ多い。この世に留まっているのは俺だけなのか?皆死んだらこうなるのか?もし俺だけなら、それは何故なんだ?俺はこれから一体何をすれば良いんだ?わからないことだらけだけれど、取り敢えず動いてみることにした。足は無いけど何故か動ける。念というのだろうか、この場合は。どうして念なんかで動けるのかというどうでも良い問いは幼い頃からH〇NTER × H〇NTERを愛読していたからなと自分で結論付ける。
部屋を出ると、真っ暗な廊下の椅子に座って泣いている人がいた。顔を見なくてもわかる。俺の愛する人だった。なんで、どうして、と繰り返す彼女を見下ろすことしか出来なかった。こんな自分が情けない。触れたくて、ここに居るよと言いたくて、彼女に近づいて手を伸ばす。そっと俺の手が彼女の頬に触れ―なかった。俺の指先が彼女に触れるその瞬間、何かに弾かれた。彼女にも俺にも見えないその何かは生者と死者を明確に分けるボーダーで、俺はもう何も出来ないんだと突きつけられる。
今の俺は壁や床を通り抜ける事が出来る。反対に、触ろうと思えば物体に触ることが出来る。ただ、愛する人の涙を拭うことは出来なかった。そこから一晩、涙を流して苦しむ愛する人をただ眺める時間は地獄以外の何物でもなかった。
この施設の人に声をかけられ彼女が帰って行った頃、俺はある事が気になった。そういえば俺、なんで死んだんだっけ?あの日のことを思い出す。信号待ちをしていて、それで、背中に強い衝撃を受けて。車が来て。…強い衝撃?
そうだ。あの時俺は誰かに突き飛ばされた。背中を強く、悪意を持って。その犯人は俺を殺して、俺の愛する人の顔を涙でぐちゃぐちゃにした。百歩譲って俺を殺したことは許せる。ただ、俺の愛する人を悲しませたことだけは絶対に許せない。許さない。犯人は必ず見つけないといけない。
人に干渉することは出来ないけれど、色々なところに入り込んで犯人を突き止めるくらいは出来るはずだ。俺がこの世に留まった訳がようやくわかった気がした。俺の愛する人、ツキを泣かせた奴を俺が見つけてみせる。
とは言いつつも、何をしたらいいか分からないままぼんやりと日が流れて行った。俺の葬式が終わり、作られた墓を眺めていた。初めの数日は親戚連中が入れ代わり立ち代わり来ていたけれど、直ぐに静かになった。そんなある日、ツキが俺の墓を訪れた。葬式で見た時よりも痩せていて、顔色も悪い。ゆっくりと近づいてきた彼女はそっと墓の前にしゃがみ込み、一輪の花を置いた。花に詳しくない俺はそれが何かは分からなかったが、項垂れたような白い花弁が彼女の姿と重なって、どこまでも儚く美しく感じた。
いい加減俺は本気で犯人探しを始める事にした。となればまず行くべき場所は一つだろう。ふよふよと間抜けな効果音が聞こえるような姿で、俺は押上警察署を目指した。事件現場から1番近い警察署はここで合っていたはず。もう警察が犯人を突き止めている可能性もある。壁をすり抜け中に入ると二人の刑事が睨み合っているのを見つけた。そのうち一人は俺のよく知る奴だった。永年コウ(ととし こう)。そういえばあいつの勤務先は押上だったっけ。もう一人は知らない中年で、多分コウの上司だろう。
「だから!交差点死亡事件の捜査を再開させてください!草野が自殺なんてするはずない!」
コウの言葉に二重の驚きがあった。警察が俺を自殺として処理しようとしていること、そして、あのコウが声を荒らげていること。中学の頃からコウはいつも冷静で表情もほとんど変わらない。冷静で、馬鹿やってる俺らをぼんやり眺めているタイプ。そんなコウが俺の為に声を張上げている。その事実だけで自殺で処理されてることなんてどうでもよく思えた。
もう無いはずの俺の鼓動が強く打ったのと同時に、上司の中年が面倒くさそうにコウを睨みつけた。
「私情で物を言うな。一刑事でしかないお前の主観だけで捜査再開なんぞ出来るわけないだろ。終わった事件にうだうだ言う暇があったらとっとと次の事件にかかれ。わかったな。」
わざとらしく大きな溜息をついて部屋を後にする中年の背中を、コウは唇をかみ締めて見つめていた。中年の言っている事は正しい。だからコウはなんの反論も出来ずにいた。誰も居なくなった空間を見つめるコウの足元に滴が落ちるのを見た。言わずもがな、その滴は俺の見たことないもので、何も出来ない自分に腹が立った。ふと部屋の隅の机に置いてある紙とペンが目に止まった。そうだ、手紙を書いて「ここにいるんだ」と伝えよう。そう思った俺が文字を書き始めると、書いたそばから文字が消えていった。あくまで干渉はさせて貰えない。となれば次の作戦だ。俺は紙ヒコーキを折って飛ばしてみた。ポスッとコウの頭に突き刺さって床に落ちたそれを見て、コウは大きく目を見開いた。
「...草野号...?」
「...草野号!」
声が被ってちょっとビビる。あいつに俺の声は聞こえてないけども。コウが笑ったのを見て俺は窓から外に出た。
なんで、草野号がここに。自分の無力さに情けなく泣いていた時、何も無い所から紙ヒコーキが飛んできた。しかもこの折り方は…。
―十二年前、中学二年の夏。八点の回答用紙が帰ってきた詩音は面白いくらいに青ざめていた。
「あっははは!!元気出せよ!」
「まあ、ドンマイ。」
大笑いしている草野を尻目に取り敢えず慰めの言葉を掛けておく。
「草ちゃんひでぇ。コウちゃんありがとう...。もうこれ捨てたい...。」
魂が抜けかけてる詩音の回答用紙を草野はひらりと持ち上げて、そのまま紙ヒコーキを作り出した。ついでに俺の79点の回答用紙と草野の96点の回答用紙も一緒に。三つ並んだ紙ヒコーキは変わった形をしていた。まじまじと観察する俺たち二人に草野は自慢げに笑う。
「完成!紙ヒコーキこの折り方すんの俺だけなんだよね!草野号!」
三つを詩音の掌に乗せると、飛ばしちゃえ!と窓を思いっきり開け放った。
「ありがとう!草ちゃん!」
そう言って晴れ晴れとした顔で紙ヒコーキを投げた詩音。数秒後、外を歩いていた生活指導のヤマ先に一つの紙ヒコーキが当たった。それが妙に可笑しくて、楽しくて。俺は声を出して笑った。感情表現が苦手でいつも無表情な俺が笑ったからか、二人は一瞬驚いた顔をしてから大笑いしていた。その後三人揃ってヤマ先に怒られたけど。―
窓から入ってきただけなんだろうけど、草野が泣いてる俺を励ましてくれている気がして頬が緩んだ。
「ふは。」
警察に希望が無い以上自分で犯人探しするしかないよな。空を適当にとびながら考え事していたら下に人だかりがあるのが見えた。気付けば俺は東京ドームの付近に来ていたらしい。どうせ時間はあるし、誰がライブしてるのか見に行こう。ライブはあの息が詰まる空気とアーティストのオーラが醍醐味みたいな所があるし、本当は生きているうちに来たかったけど。
会場に入ってみて驚いた。床から天井まで幽霊だらけ。その中でも一際アーティストの周りにはもうすごい量の幽霊がぎっしりと詰まっている。そこで気が付いた。ライブ会場の息が詰まる空気も、アーティストのオーラも、幽霊が集いすぎていたからじゃないのか?俺もその一員になるのはなんとなく癪なので、さっさと退散する事にした。
それはさておき次はさっきの草野号で思い出した、詩音に会いに行くことにした。
平日だしとダメ元で家に行ったけど、普通に在宅。
林藤詩音、俺は中学が同じで、コウと詩音は中、高、大で同じ学校。今でもしょっちゅう三人で集まって呑んでいた。
動かず発声もせずで19時になってしまった。いい加減飽きてぼんやりしていた頃、インターホンの間抜けな音が鳴り響いた。ハッとした様子でバタバタ玄関に向かう詩音。なんだなんだと着いていくと扉の奥から顔を出したのは昼にも見た顔、コウだった。またお前かい。どうやら二人で宅飲みの約束をしていたようで、コンビニ袋をさげたコウが部屋に入ってきて酒やらツマミやらを広げている。どこか重い空気感は俺が死んだからなんだろう。ビールの缶を開けた二人がコツリと小さく乾杯をする。暫く黙って飲み食いしていたけど、詩音がコウから視線を外したままゆっくり口を開いた。
「まだ、信じらんねぇよ。草ちゃんが死んじゃったなんて。受け入れられねえ。」
同意を求めるように顔を上げた詩音を真っ直ぐ見つめてコウは答えた。
「本当にそう思っているのか?」
え?
「え?」
まさかの返答に戸惑う詩音に構わずコウは続けた。
「草野が死んで悲しいのかと聞いているんだ。」
いつもの淡々とした声と顔をみると自分がおかしいのかと思う。俺は詩音の驚いている顔を見て安心したが、詩音はそうもいかない。俺の事は見えていないのだから。可哀想である。
「悲しいに決まってんじゃん!コウちゃんは悲しくないって言うのかよ!?いつも三人で遊んできたじゃん!もう遊べないんだよ!?」
声を荒らげて捲し立てる詩音にコウは冷静に返す。
「もういいよ。あいつは死んだんだ。もうお前ばかり我慢しなくていいよ。」
その一言に詩音は目を見開く。何かに気付いたような、明るい未来を見つけたかのような。そして今度は俺が戸惑う番。我慢?俺がさせていたって言いたいのか?訳が分からなくて、じっと次の言葉を待つ。詩音が葛藤するような表情で俯いたあと、全てを諦めたような表情で顔を上げた。
「そうだよコウちゃん。俺ずっと我慢してた。あいつが、草ちゃんが居たから。いつから気付いてたの?俺ちゃんとキャラ通してたのに。」
キャラ?何を言ってるんだ。詩音はずっと明るくて馬鹿で良い奴で...。
「一緒にいれば分かるよ。勉強できないのはガチだけど、お前は馬鹿じゃない。」
無言で微笑む詩音は俺の知らない顔をしていた。知らない人のように見えてしまい、目が離せない。
「俺はね、運動神経に自信があんの。運動神経バツグンだけど勉強はてんでダメなクラスの中心的存在、さりげない気遣いが出来る優男!が、小一から中一までの俺のキャラ。でも中二で初めて草ちゃんと同じクラスになって、どう?」
どうって何なんだ。だってずっと三人で「クラスの三馬鹿」って言われて中心だったじゃんか。
「俺は草ちゃんのオマケ。三馬鹿とか言われてたけどその真ん中に居るのはいつも草ちゃん。だってそうだよね。運動も勉強もクラスで1番、人当たりが良くて誰にでも平等に優しい。顔が整ってて身長は168cm、コウちゃんに次いで2番目に高身長!...ね?何もかも俺は草ちゃんに劣ってた。そんなのさ、嫉妬しない方がおかしいじゃん。」
「否定はしないよ。」
いや、そんな事ないでしょ。詩音は俺よりクラス盛り上げるの上手かったし、コウは俺より女子に人気だったし。
「極めつけはツキちゃんだよ。本当にさ。」
深い溜息をつく詩音。俺の知らない詩音がそこに居て。今度はなんだろう。ツキの話?
「俺は大学入ってからずっとツキちゃんが好きだった。2年の冬に付き合えた時は夢なんじゃねって思った。卒業しても順調に付き合い続けて、」
え?は?付き合ってた?ツキと詩音が?俺と付き合う前に?理解が追いつかない。ツキとコウと詩音が同じ大学のサークルに入っていたことは知っていた。ツキを紹介した時にこんな偶然あるんだなと笑ったのを覚えている。
「あと1年か2年も経てば結婚しようと思っていた頃だよ。たしか4年目記念の半年後とかだったはず。好きな人が出来たから別れたいって言われたのは。あはは...もう意味わかんねえもん。」
「あれな。詩音、かなり荒れてたよな。」
それは覚えている。俺がツキと付き合う2ヶ月くらい前、大学時代からずっと付き合い続けた彼女に振られた詩音がもう立ち直れないんじゃないかって程荒れていたのを。その相手がツキだったっていうのか?そんな事があるのか?
「その数ヶ月後に草ちゃんがツキちゃん紹介してきた時はびっくりしたよ。マジで。」
「そうだな。本当、世界は狭いんだなって心底思ったよ。」
それ本当なの?俺のせいでお前はあんなに傷ついてたの?言いたいことが多すぎるのに、届かない。死人に口無しとはまさにこの事なんだな。俺がここに居ることも知らずに。
「だから殺したのか?」
突然。低いコウの声が談笑ムードをバッサリと切る。冷たく、重い空気に逆戻りした。
「元恋人と親友の幸せを願ったお前は笑顔でい続けた。キャラを守り抜くことを誓った。でもあいつからプロポーズの話を聞いた時、やっぱり嫌だと思ったんじゃないか?その場では受け入れられたとしても、聞かされた予定日の前日に考えが変わったか。とにかくお前はあいつのプロポーズを阻止したくて、それであいつの事を」
「違う!!!」
詩音は机を思いっきり叩いて立ち上がった。すかさずコウも立ち上がる。
「でも!あいつの事殺す動機がある奴なんてお前くらいだろ!」
「動機があっても!!俺は絶対にあいつを殺さない。それはツキちゃんの為じゃねえ。あいつは、草ちゃんは俺の親友だから。動機が幾つあっても、その倍の数好きなんだよ。草ちゃんの事。」
机の向こう側からコウの目の前に歩いてきた詩音の目は途中から涙が溢れだしていた。優しく笑う詩音が嘘をついているようには見えなかった。
「好きじゃなかったら、あいつの幸せのために何年もキャラ作ったりしないよ。ツキちゃんとの関係黙ってたり、しないよ。」
涙を流す詩音の顔をじっと見つめ、やがて正面から肩を掴みながら崩れ落ちていく。
「ごめん、ごめん。俺、動揺してた。」
「うん。」
コウの前に膝をつき、優しく相槌を打って続きを促す詩音。
「急に、この前までピンピンしてた親友が死んで、周りは自殺だって言ってて、でも、あいつは自殺するやつじゃない、って、俺が、いちばん、知ってんのに、」
「うん。」
「捜査続けらんなくて。俺が、弱いから、あいつ殺した犯人捕まえることも、出来なくて」
「うん。」
「ごめん...!」
「いいよ。焦ったんだよな。動機の線で考えてたら俺が思い浮かんで、苦しかったよね。」
泣きじゃくるコウも、優しく冷静な詩音も、俺の初めて見る二人だった。
でも、この感じだと二人が俺を殺した可能性はほぼゼロだな。いや、最初から疑ってなんてないんだけども。
「じゃあ、誰があいつを殺したんだ...?」
泣き腫らした顔でコウが呟く。詩音が返したのは沈黙だった。
「...取り敢えず、今日はもう遅せぇし解散しよう。片付けは俺やっておくから。ゆっくり休めよ。」
そうして波乱の宅飲みは無事終わり、コウが帰り支度を済ませた時。コウが玄関先で振り返った。
「そういえば来た時も思ったけどこれどうしたんだ?花とか買うタイプじゃないだろ。」
「ん?あー、ふらっと入った花屋で目に付いて。」
まるで葡萄のように密集して白い小さな花が沢山咲いている。たいした興味も無さそうにパシャリとコウが小さなシャッター音を鳴らし、そのまま詩音の家を後にした。
「おやすみ、お邪魔しました。」
詩音の家を出て帰路に着く。なんとなくあの白い花が気になって画像検索をかけてみる。
この花、季節は五~六月って書いてあるのになんで今?まぁ注文すれば無理じゃない、か。わざわざ季節外れの花を注文するとかあいつそんなに花が好きだったのかと意外な一面に驚きつつ、家に向かって歩を進めた。なんとなくする胸騒ぎは気付かないふりをした。結局犯人は誰なんだろう。疑って怒鳴って本当に詩音には申し訳ない事をした。これからはあいつと二人で協力しよう。ツキさんにも頼もうか。宅飲み中の会話を思い出しながら夜風を凌ぐ。
「そこのあんちゃん!」
もう酔っ払いが出てくる時間帯か。絡まれる人は大変だよな。可哀想に。ちらりと声の方向を見てみると酔っ払いおじさんはこちらを向いていた。可哀想なのは俺だった。
「あんちゃん、お友達が呼んでるよ。戻れって。」
この人、別に酔っ払いじゃないのか?酒の匂いや顔の紅潮は見られない。夜に大きい声を出すやつなんて全員酔っ払いだと思っていたがそうでも無いらしい。とはいえ言っている事は意味不明。無視して歩き出そうとした。
「頼む、戻ってくれコウって言ってるよ。」
その言葉に足を止めた。止めさせられた。
「どうして、俺の名前を知っているんだ。」
「君の友達がそう呼んだから。」
当たり前でしょ?とでも言いたげな顔でこちらを見るおじさん。年齢は四、五十代といったところだろう。かなり太っていて、この真冬に薄い半袖の白Tしか着ていない事を除けば普通のおじさん。なんとなく、こいつの言うことを飲んで詩音の家に戻ってみる事にした。踵を返した俺を見て、おじさんは嬉しそうに宙にむかって「良かったね」と笑っていた。やっぱりヤバいおじさんだ。
コウが帰ってからも俺は詩音の家に居ることにした。移動が面倒だったのと、詩音をもっと知りたいと思ったから。10分経過したあたりでインターホンの間抜けな音が響き渡った。デジャブを感じて詩音に着いていくと、そこには俺の愛する人、ツキこと月樹かつら(つきぎ かつら)の姿。思わぬ人物の登場に俺は絶句する。さっきの話だとツキと詩音は元恋人。俺が死んでまだ数日なのにヨリを戻す...とかなのか?ごめんね、とだけ言って詩音の家に入っていくツキ。案の定無言の時間が始まった。俺は迷って、コウを呼びに行く選択をした。話が始まったらマズいと思い全速力で。なんとなく嫌な予感がしたんだ。言いようのない、けど重要な話が始まる気がした。詩音の家を飛び出してすぐ、俺がコウと接触する術なんて無いことを思い出した。けどもう止まれない。直ぐにコウを見つけた。どうしようかなとふよふよ浮いていると太ったおじさんがこっちを凝視していた。
「何をしているんだい?」
当たり前の様に話しかけてきた。俺が見えているっていうのか?それとも偶然ヤバいおじさんがこっちを見ているだけか?試しに俺は答えてみることにした。
「あそこにいる奴に家に戻れって伝えたくて。」
「あそこのあんちゃん?いいよ。オレが言ってやるよ。」
なんて事ないように成立する会話。恐らくこのおじさんには霊感があるんだろう。この人も大変なんだろうな。霊感なんて言っても誰も信じてくれないだろうし。今もほら、コウがヤバいおじさんに絡まれたわ俺可哀想だなとか思ってる顔してるもん。
「頼む戻ってくれコウ!」
俺の叫びを霊感おじさんが伝えてくれて、コウは踵を返した。お礼を言うと、おじさんは優しく笑って「良かったね」と返した。コウを待ってる暇なんてないと思い、俺は一直線に詩音の家に戻った。戻るとツキがすすり泣いていて、詩音は優しく頭を撫でていた。暫くその光景を眺めていると、三度目のインターホンの音。詩音は少し怪訝な顔をして扉を開けた。顔を覗かせたコウに心底驚いた顔をする。
「ごめん今取り込み中だから!」
詩音が慌てて扉を閉めようとするが、すかさずコウが足を挟んで阻止する。さすが警察官。そのままの勢いで扉をこじ開けてお邪魔したコウは、リビングにいるツキをみて目を見開いていた。
「なんでツキさんがここにいるんだ。お前まさか傷心中のツキさんを」
「待って待って!何もしてない!てか俺からじゃないから!」
慌てて弁明する詩音。コウはツキに目をやる。
「恋人が死んでからまだ数日。ツキさん、貴方は元恋人の家で何をしているんだ?」
コウの冷たい視線に耐えられず、ツキが顔を伏せる。まさかツキが、こんな切り替えの早い女だったなんて。失望と絶望で言いようのない感情になった俺の脳裏にはツキとの思い出が蘇ってきていた。
―24歳、社会人二年目の頃だった。俺とツキが出会ったのは。街でおばあさんの待ち合わせを手伝った事が始まりだった。俺が道案内したおばあさんの待ち合わせ相手のおばあさんを道案内したのがツキだった。おばあさんの隣にいる綺麗な女性に心を奪われた俺は、これも何かの縁だからとお茶に誘った。そうしたら意気投合!やっぱり印象に残っているのはお互いの名前の話だった。自己紹介をする時彼女は言った。
「月木かつらです。かつらって可愛くないでしょ?だから周りのみんなにはツキって読んでもらってるの。よろしくね。」
変だよね、と笑うツキに俺は恋をした。―
「詩音くんには相談してただけなの。」
ツキの震える声。
「相談?何を。」
コウの表情は変わらない。観念したツキは恐る恐る口を開いた。
「ごめん!!」
が、黙っていた詩音の大きな声がかき消した。
「ツキちゃん、やっぱり俺はコウちゃんにこれ以上嘘つきたくねえ。だから俺が話す。いい?」
ツキがコクリと頷く姿を確認して、詩音が話し出した。
「草ちゃんが死んだ日の夜、ツキちゃんから電話かかってきたんだ。『草野くんを殺しちゃった』って。」
それは衝撃の告白。俺を殺した犯人は、ツキを傷つけて泣かせた犯人は、ツキだったっていうのか。俺と同じ反応をするコウ。俺たちは詩音の次の言葉を待った。
「俺はツキちゃんに自首を勧めてたけど、どうせ捕まるからって何もしない選択をしてた。そうだよね。」
「うん...。」
「でも予想外に警察はこの事件を自殺として処理した。ツキちゃんは行き場のないこの罪の意識をどうしようって今日俺んちに来てた。」
「じゃあお前、最初から犯人が分かってたのか。」
「そうだよ。またコウちゃんに嘘ついてた。俺はこんな奴なんだよ。」
諦めたように笑う詩音がどこまでも怖かった。でも、それよりもっと気になることがある。
「待てよ。ツキさんには動機がないだろ。なんで恋人を殺す必要がある。いつも二人で仲良さそうだっただろう。」
そうだ。あの日もいつも通りだったはずだし、普段から俺とツキは仲が良くて喧嘩だって滅多になかった。何より、俺は心からツキを愛していた。
「それは俺もまだ聞いてねえの。ツキちゃん、教えてくんない?」
ツキは暫く躊躇って、迷って、決心したようだった。
「信じてくれる?」
ボソッと零したその言葉を、二人は強く肯定した。するとツキは震えながら左手の裾を捲った。腕がどうしたんだろうと思ってみていると、詩音が声を上げた。
「何その痣!うわ、痛そう。痣だらけじゃん!」
何を見せるのかと思ったらなんだ、その痣の事か。
「この痣、草野くんに付けられたの。何度も何度も殴られて、蹴られて、それで耐えられなくなって。でも逃げられなくて。」
逃げるだの耐えるだの何を言っているんだろう。殴ったのも蹴ったのもツキが俺の言う通りにしないからなのに。何を泣いているんだろう。ツキの涙の理由が分からなくて心配になる。涙を拭ってあげたい。近くにいるのに何も出来ない自分に心底腹が立って仕方ない。
「それってDVって事か。でもどうして、殺す前に誰かに相談しなかったんだ。」
コウまで何を言っているんだ。DVなんて酷いこと、俺が愛するツキにするはずないのに。
「相談したよ。でも両親も友達も、あの草野くんがそんな事するはずないって言って信じてくれなくて。だから二人もどうせ信じてくれないと思って黙ってたの。」
ツキの周りのみんなは俺の事を信頼してツキを任せてくれているんだなと胸が熱くなる。
「完璧超人なあいつがDVとか信じられないけど、信じるよ。ツキちゃんは嘘をつく子じゃない。」
だからDVじゃないって。ただ夕食の準備が遅かったから殴っただけ。俺は魚が食べたかったのに麻婆豆腐が出てきたから蹴っただけ。あくまで教育なのに。どうして二人はこんな険しい顔をするんだ。
「あの日の朝に言われたの。明日楽しみにしておいてねって。高級ディナーだよって。そこで気付いたの。プロポーズされる事に。籍を入れたら本当に逃げられなくなる。でも今逃げた所で友達はみんな草野くんとも仲が良いからすぐ見つかる。じゃあ殺すしかないじゃん。自分の身は自分で守らないといけないでしょ?」
自棄を孕んだその表情は、俺の知らない顔だった。俺の知っているツキは弱くて女性らしい女だったから。憐れむような目でツキを見おろしながらコウは呟いた。
「仲の良いカップルだと思っていた。愛し合ってると思っていた。けど、そんなこと無かったんだな。互いに愛情なんて尽きていたんだな。」
違う。俺はツキを愛していた。
「それは違うよ。」
ツキは顔を上げた。縋るような、色々な感情がごっちゃになったような表情で、涙を流しながら。
「彼は私を愛していた。だから暴力を振るった。それは私にだけ見せる一面だった。暴力を振るった後、私が泣いていると決まって優しく涙を拭ってくれるの。そんな彼が好きだった。」
一息置いてからツキは優しく微笑んだ。
「愛してた…。愛していたから、殺したの…。」
その顔は美しく、儚く、紛れもなく、俺が愛した人だった。
「逃げられないとか言って、本当は違うの。私が逃げたあと、彼が他の誰かを愛するなんて許せなかった。でも私は逃げたかった。だから殺した。」
コウと詩音は後ずさった。俺はツキの目の前に来て、その顔を見つめた。
「私も草野くんも自分の名前が嫌いだった。かつらなんて名前可愛くないから。カスミなんて名前、女みたいだから。」
静かに耳を傾ける二人。
「似てるところがいっぱいあって、欠点も愛していた。だから、私草野くんのとこに行くね。」
「ツキちゃん!待っ」
「触らないで。私の味方でいてくれてありがとう。詩音くん。永年くんも、元気でね。」
バタンと玄関の扉を閉めたツキの顔は、やっぱり美しかった。が、そんなこと言ってる場合ではない。ツキが、死のうとしている。慌てて詩音の家を出てツキを探す。まだすぐ近くを歩いていたからそのまま後を追う。着いた先は橋だった。真下は大きな川が流れている、絶好の自殺スポットと言える。
彼女はカバンから紫色の花の蕾を取り出して両手に持った。そのまま橋の手摺に立ち、夜風に吹かれる。長い、長い一瞬だった。俺に何ができるのか、どうすれば彼女を救えるのか思考を巡らせた。月、夜風、橋、カバン、何が使える?愛する人を救いたい。彼女カバンの中からはみ出しているツルのようなものが目に止まった。これなら、と思い掴もうとする。紙ヒコーキを作った時もそうだったけど、物を掴むのは結構難しい。でもそんなことは言ってられない。ツルを橋の支柱にくくりつけて彼女の右足首に引っ掛けた。思いっきり前に引くと右足が宙に放り出されバランスが崩れる。左足はついこの前脛を蹴ったから殆ど重心が乗っていなかった。後ろに転んで尻もちをつくツキは、橋にくくられたツルを見て呟いた。
「アイビーに救われた…。」
私は痛む全身を引きずりながら、ゆっくりと警察署に向かった。項垂れた白い花、スノードロップを手に持って。
読んでくださりありがとうございます。楽しんでいただけたでしょうか。
この作品で伝えたかったことはざっくり言うと「人の二面性」と「常識の相違」です。
草野が当たり前のようにツキに暴力を振るっていたことがまさにその2つです。草野の中でパートナーに手を上げることは何もおかしい事ではなくて、教育ならオッケーという認識でした。それは草野の幼い頃の家庭環境もあるんでしょう。一般的にDVと言われる行為でも草野は正しいと思ってやっています。人間、正しいと心から信じていないとそこまで残酷にはなれないということです。周りから見れば完璧超人な彼がパートナーの前だと残酷になる。それが彼の二面性であり、常識でした。
他にもテーマに沿ったキャラクターの発言、行動を見て頂けるとうれしいです。
では、長々と読んで頂きありがとうございました。
あなたに見つけて頂けたことが、何よりの幸福です。
自分の作品を是非次も期待していてください。




