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あなたの傍にいたいだけ



 ――霜月雪絵は危険だ。

 (とか思ってそう)

 別に悲しいとも嬉しいとも思わない。花霞では、雪絵を好意的に受け止める人間よりも、煙たがる人の方がよっぽど多かった。その環境に慣れてしまったせいか、いつしか他人からの評価に心を痛めることはなくなった。一種の慣れというやつなのだろう。

 (別に……どうでもいい)

 他人からの心象は、雪絵に何の益ももたらさない。

 鬼神。悪魔。鬼。人殺し。

 投げかけられる言葉に、ひとつも真実がなかったとしても。彼らから見た雪絵は、確かにそう見えたのだろう。だとしたら、それは紛うことなく真実だ。雪絵はただ、結果を受け入れるだけの器にすぎない。

「と、その前に」

 前を歩いていたレミリアがくるりと振り返る。

「雪絵さん、お風呂入ってきて」

 あなた、ものすごく臭いから。とてもいい笑顔で言われて、久方ぶりに感じるものがあった。

 雪絵は思った。どんな罵詈雑言を吹っかけられようと、悪魔と罵られようと――「臭い」というシンプルな言葉が、一番傷つくのである。


 ※

 

「湯加減はどうです?」

 何故こいつがここにいるんだろう。

 当然のように入ってきて、当然のように服を脱がされ丸洗いされ。ひとりお湯に浸かりながら、雪絵は思う。

「だって隊長、ひとりでお風呂入ると10秒で出てくるじゃないですか」

 思考を読むな。あと10秒は言い過ぎだ。

 シルヴィアに押し込められたのは、小さな浴室だった。

 普段から使われている皇族専用の風呂とも、使用人が使用する浴場とも違うらしい。シルヴィア曰く、護衛も監視もいない完全なプライベート空間が欲しかったとか。風呂場には流石に誰も入るまい、と考えて作らせたらしいが、まさかそこに雪絵が入ることになるとは夢にも思わなかったことだろう。

 六畳間に敷き詰められたタイル。全てが白で統一された空間は、シルヴィアの趣味なのだろうか。猫足のバスタブの中の白いにごり湯が、雪絵の胸元まで溜まっていた。水面に反射した冴えない顔が映る。

 申し訳程度につくられた小窓からは、晴れた青空が見える。これぐらい私の心も澄んでいられたら、と雪絵は思う。白に埋め尽くされた浴室の中、雪絵だけが異物だ。どれだけ洗っても磨いても、決して落ちることのない黒と血の色。それが、雪絵のすべてだから。

「やけに考え込んでいますね。何か悩みでも?」

 思わず舌打ちが漏れそうになった。誰のせいでこうなったと思ってやがる。

 シルヴィアはクスクスと笑いながら、雪絵の髪を梳く。水にしっとり濡れた髪に、ミントの香りがする何かが塗りこまれていく。宝物のように触れられると、背筋に形容しがたい気持ち悪さが走る。本音を言うなら今すぐにこいつを殴りたい。

 柔らかなメロディーの鼻歌が流れる。さっきからシルヴィアはいやに楽しそうだ。大して触り心地の良くない肌と髪に触れては、嬉しそうに頬を緩める。

「俺に触られるのは嫌ですか」

「……落ち着かない」

「そうですか」

 ちゃぷん。

 僅かな水音と彼の息遣いが、静寂を伴って流れる。

 今にも息が詰まりそうだった。

「……なんで助けたの」

 ぽつり、言葉が溢れる。

「あのままでよかった。私は花霞で、花霞の鬼として死にたかったの。……なのに、何故生かした?」

「生かす?馬鹿言わないでください。人間、寿命で死ぬのが普通なんです」

 初めて、シルヴィアの言葉に怒りが宿った。

「人間は……食べて、寝て、笑ったり、たまに泣いたりしながら生きていけばいい。それが当たり前で、普通のことなんです。――今までのあなたの生活が、異常だっただけだ」

 異常?

 同情……いや違う。背後にあるぬるい体温と首筋に触れる指先。まるで骨董品に触れるような慎重な手つき。雪絵に向けられる陽だまりの眼差し。

 ――これは、哀れみだ。

 そう認識した瞬間、雪絵の中の何かが弾けた。

「違う」

 ピリッと体中に符力が流れた。じりじり、首元に焼けるような痛みとともに術式が現れ、結晶石が周囲に展開する。

 水面に波紋が広がって湯船からお湯が溢れ出した。水面に映っていた雪絵の瞳が、紅くさらに紅く染まっていく。

 明確に現れた変化に、さしものシルヴィアも狼狽したようだった。

「隊長、俺は、」

「違う、絶対に違う」

 他人に己の幸福を決めつけられるほど、不快なことはない。

 符力が体の奥底から漲り、溢れ出る。濁流の如く流れるそれはあまりに強大で、雪絵にも制御が効かない。

 符力による暴走を抑える。そのために師が作ってくれた首輪だ。しかし、万能ではない。

 符力とは術者の感情に呼応する力。感情が昂れば昂るほど、符力は増していく。とりわけ、生まれつき桁外れの符力を持つ雪絵なら。

 湯が渦を巻き、巨大な波へと変貌を遂げようとしていた。結晶石の回転が増し、増大する符力に負けて1つの欠片が割れる。

 パリン。小さな破砕音とともに術式が発動、シルヴィアへ白銀の矢が襲いかかった。

「ッ、」

 ガキィン!

 間一髪のところで防護障壁を展開し、直撃は防いだようだった。しかし余波までは殺しきれなかったようで、頬に一筋の傷が入る。

「憐れみだと?ふざけるな。私は理想と共に生き、理想と共に死ぬ。その崇高さを他者にどうこう言われる筋合いはない」

「ッ、死が理想だって!?そんなこと考える暇があるなら、明日の朝メシでも考えたらどうです!?」

 シルヴィアは後ろへ跳躍、雪絵と距離をとる。

 懐から黒杖を取りだし、正面に構えた。

「一旦落ち着け!」

 蒼穹の陣が展開した。

 雪絵の体が淡い空色に包まれる。同時に、体から力が抜けていく。荒ぶっていた符力が漣が引くように雪絵の中に戻っていった。

 渦を巻いていた水面が穏やかに凪いでいく。

「……調律術式」

 シルヴィアが雪絵の副隊長として選ばれたのには、明確な理由がある。

 その理由が、シルヴィア自身で開発した調律術式。対象のもつ符力をコントロールし、暴走する雪絵の符力を抑える。この世でシルヴィアにしかできない御業だ。

 裏を返せば、強大な符力を武器とする雪絵にとっての、唯一の天敵。

「……嫁にするとか、勝手に口走ったことは謝ります。けど俺は、あの処刑を取り消したことに後悔はしてません」

 ポタリ。髪から水滴が落ちて、バスタブにさざ波たてた。

「お前にとっては人助けのつもりでも、私にとっては……あの時私は、ようやく終われると思ったのに」

「だったら、これから希望を探していけばいい」

「簡単に言うな。お前に私の何が分かる」

 自分でも、理不尽を強いていると分かっていた。

 一般的な価値観に基づけば、雪絵はここで礼を述べるべきなのだろう。シルヴィアとて、何のリスクも負わずに雪絵を救ったわけではない。これから花霞と問答していくなかで、彼自身が苦悩することもたくさんあるはず。

 そのデメリットを自覚しながらも、シルヴィアは処刑台から雪絵をかっさらった。私情がないとまでは言わないが、シルヴィアの行動は感謝されてしかるべきだろう。

「私には理想があるの。花霞とともに、花霞とともに死ぬること。その願いも遂げられず、無様に生き残って……残ったのは屈辱と空虚だけ」

「……それでも俺は、あなたに生きて欲しい」

「お前の欲に指図される筋合いはない」

 酷い言い草だ。これでは叱られてへそを曲げている子供ではないか。

 (……惨めだ)

 ポタリ。水滴が垂れる。シルヴィアは何も無かったかのように、雪絵の髪を梳いて、祈るように額を寄せる。

「あなたがなぜ、こうも花霞に固執しているかは知りません。でも、俺は。俺にとってのあなたは……」

 言葉にならず、声は溶けて言った。

 ポタリ。

 また雫が落ちた。シルヴィアは後ろからきつく雪絵を抱き締める。

 そのぬるい体温に浸っていられたなら、幸せだったのだろうか。他人の好意を受け入れ、従順になれていたら。ありがとうと口にできていれば。

 あるいは、普通の女の子であれば。

(……無意味ね)

 この世にもしなんて夢想は必要ない。

 首元に触れる。師が刻んでくれたた術式は、調律術式によって奥に引っ込んでしまったようだった。雪絵の符力が元に戻れば、また顔を出してくれるはず。そう思うだけで心が安らぐ。

 (私にはこれしかない。……なのに、なんでこいつは……)

 首輪の残り香に手をあてて、雪絵は目を閉じた。瞼の裏には、理想がある。

 雪絵が愛してやまない理想。それに肩まで浸ることで、辛うじて息ができる。

 だから後ろにまとわりつく体温を無視して、雪絵は今日も息をするのだ。


 ※


「先は長そうね」

 雪絵を使用人に預けた後。浴室の外で待ち構えてた姉の姿を見て、シルヴィアは思い切り顔を顰めた。

「盗み聞きなんて、人が悪いじゃないですか」

「あれだけドンパチやってれば誰でも気になると思うけれど」

 ぐうの音も出せずに黙り込んだ。雪絵の放った圧縮術式は、元の符力も相まって殺人級の威力を誇っていた。シルヴィアでなければ普通に死んでいただろう。

 はぁ……。盛大にため息をつく。

「霜月雪絵、ね。私と()ってた時は無機質な機械ってイメージだったけど。案外感情的になることもあるのね」

「あれは符力を抜き取られた弊害ですよ」

「は?どういうこと?」

「そのまんまの意味です」

 壁にぐったりと背中を預け、もう一度ため息をつく。

「隊長……霜月雪絵は、『屍喰らい』討伐の折に重大な規律違反を犯し、極刑となった――ってのが表の話」

「それはウチでも知ってるわ」

「それで、こっからが裏の話。そものもなぜ、お上は隊長の処刑にこだわったのか」

「……旧政権派の人間を一掃したかったから、じゃないの?」

 レミリアは案外、国外の事情にも詳しい。彼女は脳筋だが、馬鹿ではない。いざと言う時にすぐ対応できるよう、常にアンテナを張り巡らせているのだろう。

「それもあるでしょう」

 言外に、それだけではない、と含みを持たせる。

 レミリアは露骨に眉を顰めた。

「けど、あの隊長を処刑するメリットってあります?存在自体が他国への十分すぎる抑止力になりますよ?それを簡単に手放すほど、花霞の連中は馬鹿なんでしょうか」

「……一理あるわね」

 顎に手を添え思案する。凛とした姿は我が姉ながら様になっていた。

「……隊長が投獄されていた間に、何があったかは知りません。でも俺があの人と再会した時には、符力すっからかんになっていた」

「獄中で符力を抜き取られていた可能性が高い、ってわけ?」

「そうです」

 黙り込んだままレミリアは腕を組む。想像よりも話が厄介になってきて、頭が痛くなってきたのだろう。もともと、そういう駆け引きを嫌う人だ。

「さっきの符力の暴走は、空になった符力を元に戻そうと過剰に力が働いた結果だ。だから、隊長を責めないでください」

「責める気なんてないわよ。……ねぇ、シルヴィア」

 蒼の瞳が真っ直ぐにシルヴィアを見つめる。

「あんた、これでほんとによかったの?」

 良い、悪い。物事を判断する価値基準はだいたいこの二つに分けられる。

 シルヴィアとてよく理解しているのだ。例え雪絵の処刑を取り消したとて、それで彼女の心まで変えられるわけではないと。

 雪絵をアルカイダまで移動させたのは大きい。だが完全に「良い」結果ではない。雪絵の心はまだ花霞に囚われている。その憂いを断ち、アルカイダへ縛り付けなければならない。

 (まずは、花霞への執着を取り除かないと)

 シルヴィアは思案する。

「良いに決まってるじゃないですか」

 お得意の笑みを浮かべると、レミリアは呆れたようにため息をついた。

 

 

 


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