ありがとう
言わなければならないことがあった。
たった一言、言葉を口にするだけでいい。幼児でもできる簡単なこと。けど、それだけの事がどうしてもできなかった。
いつだって邪魔をするのは臆病な心と、少しのプライド。助けられているのだと理解した瞬間、自分の中の核が崩れてしまいそうで怖かった。
そんな自分の未熟さも、愚かさも。今は認めて、飲み込まなければならない。
何度も何度も手を宙に彷徨わせ、擦り合わせる。たかがノック、されどノック。相手に入室を知らせる行為が、ここまで緊張するものだとは思わなかった。
重厚な扉の前で、雪絵は1人佇む。
レミリアが喝を入れてくれたお陰で、吹っ切れたと思っていたのだが、どうやら自分は思っていた以上の弱虫だったようで。
内心自分を殴り飛ばしたい気分だ。
(落ち着け……別に悪いことをしに来たわけじゃないんだから)
つま先がかじかむほどに冷たい。両手を擦り合わせて温めようとするも、余計に汗が出てくる始末。どんなに強力な鬼との戦闘でも、こんなに心臓が早鐘を打つことはなかったというのに。
大きく息を吸って、吐く。3回ほど深呼吸をして、再び扉に向かう。
コンコンコン。
「はあーい。どうぞー」
間延びした声が聞こえる。いつもと変わらない声色にほっとした反面、逆に身が引き締まる思いがした。
扉に手をかけ、ぐっと力を込める。あまりにも呆気なく扉は開かれた。
「えっ……隊長?」
開け放たれた窓から、穏やかな夜風が吹き抜ける。
シルヴィアは、まるで珍獣でも目にしたかのような呆けた顔をしていた。しかしハッと我に返ると、次の瞬間にはいつも通りの柔らかな笑みを浮かべていた。
「どうかされました?」
紺碧の瞳が柔和に細められる。にこやかな笑みは、誰もが見とれるほどに美しい。
どうやら部屋の窓を開けっ放しにしたまま、外の景色を見ていたようだった。頭に巻かれた白い包帯が、淡い光に照らされている。皇太子ともあろう方が不用心だと思わないでもないが、それがいかにもシルヴィアらしい。
ぐっと唾を飲み込んでから、雪絵は口を開く。
「少し……話したいことが、あって」
そう切り出すなり、シルヴィアは目を丸くする。
「おや?それは珍しい」
「急に、ごめんなさい。……怪我も、まだ治ってないのに」
しどろもどろに謝罪すると、シルヴィアは何故か嬉しそうに破顔した。
「いいえ気にしないでください。……お茶を入れて参りましょう。隊長はそこのソファーに、」
簡易キッチンに向かうシルヴィアの腕を、慌てて掴んだ。
「いや、いいの」
話がある、と切り出したのは良い。だが雪絵の頭の中はぐちゃぐちゃで、取り留めのない単語だけが頭の中に浮かんでは消えていく。
それでも必死に言葉を繋ぎ止める。張り付いた喉から言葉を絞り出す。
「そんなに、時間は取らせない……から」
正面からシルヴィアを見つめる。整った顔立ちと、夜空に輝く星のような紺碧の瞳。白銀の髪が夜風に揺れる。
すっかりと日は落ちて、鮮やかな三日月がぽっくりと浮かんでいた。
「分かりました」
そう言って、シルヴィアは窓の縁に軽く腰掛けた。雪絵も逆側に立ち、部屋の壁を見つめる。
華やかな雰囲気とは裏話に、彼の部屋は随分と質素なものだった。装飾よりも利便性を追求したのだろう。部屋自体はそんなに広くなく、机と椅子、来客用のスペースにベットしかなかった。
「……」
黙ったままの雪絵を、シルヴィアは無理に急かすことはない。
彼が副隊長を務めていた頃からそうだった。きっと頭の中では思案を巡らせているのだろう。しかし、それを決して表に出したりしない。そういう思慮深い一面に、雪絵はいつだって支えられてきたのだ。
カチカチ、時計の針が鳴る。少し肌寒い風が頬を撫でた。夜は着々と更けていくのに、雪絵の唇は固まったように動かない。
「……怪我は、大丈夫?」
長い長い沈黙を経て、雪絵は尋ねた。
「ええ。この通り歩くこともできますし。……大袈裟なんですよ、この包帯」
苦笑いを浮かべ、シルヴィアは頭に巻かれた包帯を小突く。
「……あの時は、ごめんなさい」
頭部の傷は、雪絵を庇ってできたものだ。あの時雪絵が判断ミスをしなければ、彼の身を危険に晒すこともなかっただろう。
シルヴィアは少しだけ悲しそうに笑う。
「隊長のせいじゃありません。俺が勝手にやったことなんですから、気にしないでくださいよ」
優しい微笑みを浮かべ、シルヴィアは言うのだ。雪絵を案じてくれる、暖かな繭のような言葉。いつもそれに甘えてばかりで、雪絵は自分の過ちに気づかなかった。
いや、気づいてはいた。それを直視することが何よりも恐ろしかったのだ。
「そうじゃ、なくて」
喉が凍りついたように動かない反面、頭の中には意味のない単語が乱雑に積み上がる。
半ば思考が機能していない中、雪絵は続ける。
「今までのこと、全部。……私は、あなたに酷いことをした」
「酷いこと?」
「八つ当たりしたり、無意味に避けたり……色々」
「はぁ。俺には心当たりがありませんが」
シルヴィアは分かりやすく、すっとぼける。
「……私は、あなたの誠意を踏みにじった」
ピクリ。彼の肩が動く。
「言い過ぎですよ」
視線が僅かに下を向く。シルヴィアが初めて動揺を表に見せた。
雪絵は鉛のような思いを噛み締める。この形容しがたい苦痛は、彼の心を傷つけ、それに見向きもしなかった自分への罰なのだと。
「むしろ、謝るのは俺の方です。隊長の意思を無視して、無理矢理ここに連れてきたんですから。……隊長の反応は、極めて自然なものだと思います」
「自然……というか、幼稚だったわ」
「ははっ。確かにそれはあるかも」
クック、喉を鳴らして笑う。きまりが悪くて、雪絵は目を逸らした。……また子供みたいな反応をしてしまった、と内心自責に駆られる。
夜風がカーテンを揺らし、雪絵の視界を遮る。その奥に、どこか楽しげに笑うシルヴィアが見えた。
「どうして……そんなに楽しそうなの?」
尋ねると、キョトンと表情を固める。少し悩まし気な顔をしたあとシルヴィアは言った。
「楽しい?……うーん。なんというか。隊長とちゃんと話をするの、なんだかんだで初めてじゃないですか?」
脳内で記憶を探る。
「……そうね」
「やっぱり、上質なコミュニケーションには話し合いが不可欠ですね。じゃないとすれ違いが多くなる」
「……今の私たちみたいに?」
「そういうことです」
満足そうに頷いて、くるりと体を反転させた。窓の縁に腕をかけ、夜空を眺める。
「思うに、俺らの考えは真逆なんですよ」
シルヴィアは右手を空に掲げた。
「俺は、その日を楽しく生きられたらそれでいいと思ってます。でもその中に、隊長がいないのは嫌だ。だからあの日、あなたを連れ出した」
寒い雪の日の光景が蘇る。断頭台にかけられた時の、ひんやりとした首の感触。生々しい民衆の歓声。
それを遮った、凛としたシルヴィアの姿も。
「けどあなたは違う。……俺の知らない、あなたなりの信念があって、その果てがあの処刑場だった。だからきっと、俺の姿は悪魔の手先にでも見えたことでしょう」
悪魔の手先、とは。なかなかに過ぎた表現をするものだ。
「あの時、あなたを助けた……ってのは世間一般的な常識に基づいての話だ。逆から見れば、隊長の決意を踏みにじったのは俺なんですよ」
謝っていたのは雪絵のはずだったのに、いつの間にか内容がすり変わっている。
シルヴィアは相も変わらず静かに夜空を眺めていた。後悔しているようでありながら、その実すっきりとした表情をしている。
「だから、ごめんなさい」
夜空には、徐々に星が瞬きつつあった。金平糖の輝きが浮かび、シルヴィアの横顔を照らす。
「……いいの」
口から、言葉がこぼれおちた。
何となく、シルヴィアという人間の姿が見えてきた気がした。
シルヴィアも雪絵と同じで、怖かったのだ。怖くて、踏み出す勇気がなくて、引きずられるままここまで来てしまった。雪絵もシルヴィアも、同じような歪みを抱えていた。それ故にすれ違ってしまったのだ。
ストンと、心の奥に何かが落ちる感覚がした。
「シルヴィアのおかげで、色々なものが見れた。私の世界は、思っていたよりずっと矮小だったわ」
窓の外に目をやると、シルヴィアと同じ景色が見える。温かな光を放つ三日月に、背伸びをして瞬きを纏う星々。そのどれもが唯一無二の光。
「……前にも言ったけど、私には理想がある」
「花霞とともに……ってやつですか?」
「そう」
三日月に手を伸ばす。もう、届かないところへ言ってしまった、遠き日の誓いを思い出す。
「私の大切な人がくれた、大切な言葉。私はそれを守っていたい。……これからもずっと、守り続けたい」
シルヴィアは驚いたように軽く目を見開く。
「でも……分からなくなってしまった」
光に目が眩んだ心地がして、雪絵は目を閉じる。
「ここに来てからずっと、分からないことばかり。それが恐ろしくて、私はあなたを遠ざけた。……自分の決意が鈍るのが、怖かったの」
怖かった、と改めて口にする。今までの胸に渦巻いていた黒いものが、ちゃんと形を帯びた気がした。
「レミリアが言ってた。知ろうともしないくせにって。……その通りだと思う。シルヴィアの気持ちも、花霞以外のことも、私は知ろうとしなかった」
それがどんなに愚かなことか。レミリアが教えてくれた事実の重みが、今だからよく分かる。
あの時レミリアは、怒りを最大限抑えていた。でなければ、雪絵は殴り飛ばされていたことだろう。メリハリのついている彼女ことだ。うじうじと悩んでいる雪絵は、さぞかし見るに耐えなかったはず。
「だから今は……知りたいって、思う」
ふわり。風に揺られ、カーテンが靡く。
雪絵は真っ直ぐに、シルヴィアと向き合う。カーテンの向こう側で、シルヴィアは静かに息を呑んでいた。紺碧の色に月光が混ざって、美しい光をたたえている。
その目を、ちゃんと見る。今度こそ、目を逸らしてしまわないように。
「シルヴィアの気持ちも全部知って……選びたい。私が、何をすべきなのか。……それでもいい、かな」
選びたいなんて、上から目線で傲慢な物言いだ。それでも、その選択肢を与えてくれたのは、紛れもなくシルヴィアで。そんな彼なら、雪絵の思いを受け止めてくれると思った。
……なんて、雪絵はまた彼に甘えている。
シルヴィアは両手を差し出し、穏やかに笑った。
「もちろん」
彼の両手を取る。月明かりを宿した手のひらが、ほんのりと冷たくて。内側はぬるま湯のようなぬくもりに満ちている。雪絵を救った、悪魔の手先の手。
「ずっと、言いたかったの」
シルヴィアの手を取って、額に寄せる。とくん、とくんと、指先から鼓動が伝わる。
少しだけ冷たい夜風が、雪絵の髪をさらう。物静かに浮かぶ月光だけが、2人を見守る。
自分でも驚くほど、喉の突っかかりがなかった。感情が思考を凌駕する感覚。雪絵の思いそのものが言葉に繋がり、するりと口からこぼれ落ちる。
「助けてくれて、ありがとう」
刹那。
シルヴィアが唇を噛み締める。何かを堪えるように表情を歪め……それから、笑った。
月明かりに照らされた屈託のない笑みが、とても綺麗だと思った。
「どういたしまして」
へへっ、と少年のように笑みを零す。そのまま雪絵の手を取って額を擦り寄せる姿は、皇太子と言うよりも犬のようだった。
また、シルヴィアの新たな一面が見れた。やっと感謝を伝えられた安堵とともに、こそばゆい感覚が胸を伝う。
密かに胸を撫で下ろしていると、シルヴィアがグイッと距離を詰めてきた。
「あの、隊長」
キラキラと輝く目が眼前に迫る。
「何?」
シルヴィアは大きく深呼吸してから、言った。
「仲直り記念に……雪絵って、呼んでもいいですか?」
そういえば、と雪絵は思い出す。
花霞にいたときからずっと、雪絵ことは隊長と呼ばせていた。名前を呼ばれるということは、相手に隙を与えると同義。仕事と私情を割り切るためにも、役職名で呼ぶのが最適解だと判断したのだが。
今や、それすらも雪絵の臆病な心が作り出した言い訳にすぎない。
「ええ」
「本当ですか!?やった!!!」
手を握ったまま飛び上がる。朱色に染まる頬が、僅かな月明かりに照らされていた。
ここまで喜ばれると、なんだかこちらまで照れ臭くなる。雪絵は堪らなくなって目を逸らした。
「雪絵」
顔を上げると、揺蕩う水面のように澄んだシルヴィアがいる。
「これから楽しいこと、辛いこと、いっぱいあるかもしれません。でもきっと、どれもがあなたにとって価値あるものになりますよ」
――その影に、一瞬。
『雪絵』
もう会うことさえできない、師の姿が見えた。




