ムジナ村
暗闇に包まれていた空が、徐々に橙色の明かりを帯びていく。山際から太陽が昇り、新たな一日の到来を告げていた。
誠に美しき夜明けを横目で眺めつつ、雪絵はゆっくりと目を開閉する。寝不足気味のせいで頭痛が酷い。目の前で寝こけている教育係が少し羨ましいくらいだった。
件の屍喰らいが出る村――ムジナ村は、花霞とアルカイダの国境付近に位置している。アルカイダ帝国の領土は広大だ。長距離の移動は必須であり、長旅になるのも覚悟はしていた。
首都、カルディスを出発して1週間。雪絵はまともに寝られていない。
元来、雪絵はかなり神経質だ。基本的に人のいる場所では寝られない。体力勝負の鬼狩りとしては辛いものがあるが、こればかりは仕方がないのだ。幼少より自覚している難儀な性格は、雪絵自身をも蝕む。
ぼやけた頭で外を眺める。太陽の明かりが網膜に突き刺さる心地がした。
「大丈夫ですか?」
いつもより小さな声が鼓膜を揺らす。
「平気」
「とてもそうは見えませんが」
ほんのり温かい手が、頬に触れた。目の下を親指がなぞっていく。
「隈、酷いですよ」
紺碧の瞳が、心配そうに雪絵を見ている。いつかの哀れみを帯びた目が、脳裏をよぎった。
『あなたに生きて欲しい』
雪絵は今も、この言葉を呑み込めずにいる。
この国に連れてこられて、雪絵の環境はガラリと変わった。
華。シルヴィア。レミリアにステラ。鬼狩りの隊員たち。今までとは違う人々と関わり、花霞とは違う世界を知った。雪絵の強さは認められ、存在を許容された。
雪絵を罵倒する言葉も、唾を吐きかける者も、遠巻きに睨みつける視線もない。穏やかな時間は心を安らがせ、同時に体の奥を千々に乱す。
安心が恐ろしかった。寄せられる信頼が、雪絵を花霞じゃないものに繋ぎ止めようとしている。シルヴィアが、鎖になろうとしている。
行先は地獄と、とっくに決めていたはずなのに。
朝日に照らされた新緑が、伸び伸びとその葉を広げている。空が橙と共に青く澄んでいく。穏やかな風が草木を揺らす。
これ以上、心の内側に踏み込んではならない。
(……今は、私がすべきことだけを考えよう)
花霞のため、今の雪絵ができること。花霞に害をなしうる、アルカイダ帝国との関係を良好に保つ。つまりは、花霞の盾になることだ。
もし屍喰らいが本当に生きているのなら、いずれ花霞の民にも危害が及ぶ可能性がある。それだけは、確実に防がねばなるまい。
全ては、花霞のために。
「……触らないで」
触れる手を軽く押しのけた。シルヴィアはやや悲しげに微笑む。
「……今は、何も話してくれなくていいです。でも俺の気持ちだけは、忘れないでくださいね」
胸の奥がざわつく。雪絵はシルヴィアの顔さえまともに見ることができない。
「あ、村が見えてきましたよ」
ガタン。馬車が揺れる。
窓の向こうを覗くと、小さな家がぽつぽつと見え始めていた。夜が明け、村人の活動が始まりつつあるようだった。井戸に水を汲みに行く人影がちらほら見える。
「村の端に馬車を止めてから、まずは村長に挨拶に行くそうです」
シルヴィアは既に段取りを知っているようで、テキパキと指示を出していく。教育係――レオを起こし、運転手に止める位置を指示する。
さて、これらは仕事だ。
うだうだ悩んでいる暇はない。目の前の職務を遂行することに神経を注ぐ。余計なことは考えるな、と自身に言い聞かせた。
※
「初めまして。アルカイダ帝国鬼狩り部隊隊長の、レミリア・ヴィク・アルカイダです。村長殿、宿と食料を提供していただき、誠に感謝申し上げます」
小柄な初老の老人の前に、レミリアは片膝をついて胸に手を添える。帝国における敬礼らしいが、レミリアがここまでする程のことか、と雪絵は内心驚いた。
馬車を止めた雪絵達一行を出迎えたのは、ムジナ村の村長。目尻の笑いじわがよく映える、優しげなおじいちゃんだ。彼の後ろには付き添うように数人の村人が控えている。随分と慕われているらしい。
「あ〜いやいや!よしてくださいよレミリア様。お礼を言わねばならんのはこちらの方だ。こんな辺境の村までわざわざ御足労なさってくれて」
村長は見た目通りの物腰の柔らかいお人のようで。年嵩の刻まれた目尻の皺が柔らかい雰囲気を醸し出す。常に笑顔でいる、優しい人にしかないものだ。
「皆様、長旅でお疲れでしょう。本日は宿でお休み下さい」
「いえ。可能でしたら、鬼の出現位置まで案内して頂きたい」
村長が目を丸くする。
「ですが、皆様お疲れでは……?」
村長はチラリと雪絵を見る。一般人に分かるくらい疲れが顔に出ているとは、己の弱さが虚しくなった。しかしレオも眠そうな顔をしているので、ある程度は誤魔化せるはず。
「お構いなく。情報収集が先です」
レミリアはきっぱりと言い切った。いかにも仕事人らしい答えだ。雪絵が同じ立場でもそうする。
ガックリうなだれるレオを慰めつつ、一行は村の中を行く。
首都カルディスとは随分毛色が異なり、村民の大多数は和服を身につけていた。家屋の作りも花霞とほとんど同じ。洗濯物がつけられた桶に、見慣れた物干し竿。久しぶりに木の匂いを嗅いだ気がする。至る所に作られた小さな畑には実り豊かな作物がなっていた。
「この村は昔っから花霞の近くにあるもんですから。花霞の文化が根付いてる部分も多いんです。……皆さんには馴染みが薄いでしょうが、何卒ご勘弁頂きたい」
雪絵達の視線に気づいたのだろうか。村長が頭を下げる。
「いえいえ!とんでもない」
シルヴィアがにこやかに返すと、村長もほっとしたように胸を撫で下ろした。
そのまま他愛のない話を続ける2人を他所に、雪絵は感覚を研ぎ澄ます。
期待、感謝、羨望、憧憬。そして嫌悪。様々な視線が雪絵達に注がれている。ある者はじっとりと品定めするように、ある者はこちらを伺うように。各々の好き気ままに視線を寄越し、雪絵らに身勝手な幻想と感情を抱く。
好意も悪意もごちゃまぜにした塊をぶつけられるような、懐かしい感覚。花霞で幾度となく感じたものだ。
唯一の救いは、好意の視線が大半を占めることか。そこは腐ってもアルカイダの人間、ということなのだろうか。
「それで、『屍喰らい』の件ですが」
レミリアが本題に踏み込む。急激に場の空気がヒリついていくのを肌で感じた。
「大方の情報は心得ております。現在の村の状況をお伺いしても?」
「……はい」
村民が返事をした所で、一行は足を止める。
雪絵達の目の前には、簡素な木製のバリケードがあった。よく作られているが荒も多い、即席の代物。
その向こうには、見るも無惨な爛れた大地が広がっている。
間違いなく鬼の仕業だ。
「この村は土地の4割を失い、追い出された者共はここに逃げてきました。現時点で怪我人はいませんが、食糧がいつまで持つかも怪しく……」
やるせないように項垂れる。対抗する手段を持たない彼らにとって、鬼は災害だ。彼らがどうこうできる話ではない。過ぎ去るのを待つか、大人しく殺されるかの2択だ。
「この村は、元来あったこちら側の土地と、新しく開拓した向こう土地に分かれているのです。今回鬼に襲われたのは、新しく開拓した方でして」
「……それはお辛いですね」
鬼が通った後には、何も残らない。
二度とその地に作物は実らなくなり、黒く腐った土壌だけが残る。鬼による直接的な被害もさることながら、1番大きいのはその後の二次被害と言える。
新しく開墾した直後にこれとは、この村にとってはかなりの痛手だろう。
村長は懐から地図を取り出す。簡潔に村の全域が描かれていた。ひょうたんのように円形の土地が上下ある、少し変わった形をしている。話を聞くに、北側が鬼にやられた土地、南側が今雪絵達がいる場所か。
村長は北側の地を指さした。
「今回、鬼が現れたのはここです。憶測ですが、花霞の方から下ってきたのでしょう。……今はここにバリケードを築いて、鬼の侵入を防いでいます」
北側と南側を繋ぐ境目には、赤色のバツ印が連なっている。
「鬼狩りの駐屯兵は何を?」
レミリアが尋ねた。声色がやや鋭さを帯びている。
「基地から2名派遣されましたが……。バリケードを越えて以来、お戻りになっていません」
「そうですか」
あまりに淡白な返事だった。
鬼のテリトリーに踏み込んだ以上、生存は絶望的。殺されるならまだしも、とっくに食われているかもしれない。レミリアはよく理解しているはず。
それでも動揺を見せないのは、村人達を気遣ってのことだろう。ここで自分達が狼狽えれば、ただでさえ疲弊している村人に「勝てないかもしれない」という一抹の不安を残す。
「中を視察しても?」
「ええ……構いませんが……」
言葉を探すように言い淀む。視線が泳ぎ、不安気に手を揉んでいた。彼の言いたいことは、嫌でもわかる。
「ご心配には及びませんよ。我々は皇帝陛下直属の鬼狩り部隊。そう簡単にやられるつもりはありません」
「……そう、ですか」
村長がやるせなく肩を落とした。既に2人が犠牲になっている中、更なる犠牲が生まれてしまうことを懸念してのことだろう。
「念の為ですが、このバリケードには近づかないよう、村の皆様にお伝えください」
「分かりました」
レミリアはバリケードの結合部を足場にし、ひょいっと向こう側まで渡ってしまった。術式の腕はさることながら、身体能力も高いようで。
シルヴィアも同じように軽々と、レオは苦戦しながらもバリケードの向こう側へ降り立った。雪絵は浮遊術式を起動し、難なくバリケードを越えた。レオがドン引きした顔でこちらを見ていた。
「どうか皆様、ご武運を」
深々と頭を下げる村長に礼を言い、一行は鬼の探索を始めるのだった。




