第12話 命の色
朝の空は透きとおるように青かった。
雲ひとつない空を、陽光がゆるやかに撫でていく。
風が草原を渡り、葉の間をすり抜けるたびに、
どこか懐かしい匂いが鼻をくすぐった。
今日は、山の向こうにある小さな滝を見に行く日だった。
アルマンの付き添いもあり、「安全な遠足だ」と誰もが思っていた。
緊張よりも胸の高鳴りの方が強く、
その空気は朝露のように澄んでいた。
「よし、探検隊出発ー!」
元気な声を上げたのはもちろんチカラだった。
先頭を歩き、木の枝で地面を叩きながら、
小さな探検家のように道を切り開いていく。
その後ろをカザネが駆け足で追う。
肩にかかる髪が風を受け、きらりと陽を弾いた。
「チカラくん、あんまり先行かないでよ!」
「だいじょーぶだって! おれがみんなを守るからな!」
笑い声が山道を跳ね、木々のあいだに反響する。
その音に驚いた小鳥が枝を離れ、空へ舞い上がった。
俺たちは二人から少し離れた位置を歩いていた。
アオバは後ろに腕を組み、軽口を叩きながら景色を眺めている。
テンは手帳を抱え、道中の植物や岩肌を興味深そうに見ていた。
アイコはそんな二人のペースを見守りながら、
時折笑みを浮かべ、歩幅を合わせていた。
最後尾にはアルマンがいた。
どんな時も一定の距離を保ち、
全員の動きを穏やかな目で追っていた。
その背中はまるで、どんな嵐も越えてきた樹のように落ち着いていた。
――平和だった。
何も起きない時間が、こんなにも尊いものだと感じるほどに。
⸻
緩やかな登り坂を越え、
岩肌が露出した細い道に差しかかった時だった。
木々のざわめきが止み、鳥の声も消える。
ふとした沈黙の中、カザネの小さな足が石を踏み外した。
「――っ!」
乾いた音とともに、足元の石が滑り、
カザネの体が傾いた。
「カザネ!!」
咄嗟にチカラが手を伸ばし、カザネの腕を掴む。
その瞬間、空気が凍りついたようだった。
風の音も、葉の揺れる音も、何も聞こえない。
カザネは宙に浮いたまま、
必死にチカラの手を握り返す。
その細い指先が震えていた。
「チカラくんっ……!」
「離すなよ!! 絶対離すな!!」
チカラの声は必死で、
その瞳はただ一人を守るために燃えていた。
アルマンが慌てて二人に駆け寄る。
次の瞬間――
チカラは力いっぱいに引き上げた。
その反動で、体勢を崩す。
「チカラ!!!」
叫びが重なり、
チカラの身体が斜面を転がり落ちていく。
岩を弾き、枝を砕き、
やがて木々の間へと消えた。
「チカラくん!!」
カザネが膝をつき、震える声を上げた。
顔から血の気が引いていく。
アルマンが即座に指示を飛ばす。
「アオバ、下へ回りなさい! 急いで!」
「わかった!」
アオバが地を蹴り、斜面を滑り落ちながら木に掴まる。
「――いた! 枝に引っかかってる!!」
アオバが枝をかき分け、息を荒げながら叫んだ。
足元の土が崩れ、細かい石がぱらぱらと落ちていく。
「無事なんか!?」
アオバの声が響く。
「うっ……! ちょっと痛ぇけど、大丈夫……!」
その言葉が響いたとき、全員の息がようやく通った。
ほっとした空気が流れた――ほんの数秒。
だがその時。
俺はカザネの様子がおかしいことに気がついた。
顔はこわばり、唇が震えている。
その瞳は――何も見ていなかった。
焦点が遠くへ、まるでなにかを思い出してるような。
(カザネ……?)
光の粒が、空気の中に散り始める。
カザネの内側から、なにかがあふれ出そうとしていた。
⸻———
(……どうして、助けてくれたの?)
その声が、どこからか響いた気がした。
時間がゆっくりと止まる。
チカラが落ちた光景の向こうで、
もうひとつの記憶が開いていく――。
――夏の日差し。
――買い物袋の重さ。
――おばさんの笑顔。
⸻
両親が離婚してから、家はいつも騒がしかった。
父は働きづめで、弟たちは喧嘩ばかり。
"あたし"はドジで、何をしても失敗ばかり。
焦がしたご飯の匂い、
濡れた洗濯物の冷たさ、
それでも――頑張らなきゃと思っていた。
そんなあたしに、隣のおばさんが声をかけてくれた。
「偉いわね、カザネちゃん。
おばさんと一緒に頑張りましょ」
その声が嬉しくて、
泣きそうなくらい胸が温かくなった。
おばさんは、あたしの“もう一人の母”みたいな人になった。
買い出しの日が、何より楽しみだった。
並んで歩く道、手を繋ぐ感覚、
全部が小さな幸せだった。
――でも、あの日だけは違った。
右手で電話をし、左手に袋を抱えたおばさん。
あたしは両手でパンパンの袋を持ち、
その中からお菓子が一つ転がり落ちた。
「あ、待って! あれ拾ってくる!」
そう言って、道路に飛び出した瞬間――
「カザネちゃん、だめ!!」
おばさんが私の手を強く引いた。
目の前が真っ白に弾けた。
ブレーキ音。
光。
衝撃。
気づいたとき、おばさんはもう——動かなかった。
(もう誰もいなくなってほしくない)
その想いの奥で、声が響いた。
『愛おしいあの世界に触れたかった』
⸻———
「……やだ」
カザネの手が震え、唇がかすかに揺れた。
「…やだ……もう、いやだ……!」
その声は、悲鳴というより懺悔のようだった。
「カザネ…?」
"俺"はカザネの顔を覗き込むようにして近づいた。
「もう…誰も…私のせいでっ…!」
次の瞬間、
足元から赤い光が、風のように渦を巻いて立ち上がった。
その風が俺の体をカザネから突き放す。
まるで近づかないでと言うように。
空気が焼け、鉄の匂いが鼻を刺す。
風は生き物のようにカザネの髪を持ち上げ、草を逆立てていく。
赤――けれど、それは炎でも光でもなかった。
まるで血が風になって舞っているようだった。
その渦が彼女の感情に呼応するように、空気を震わせていく。
「カザネ!?どうした!?」
叫んだが、カザネからの返答がない。
アイコが手を伸ばすが、
風圧に押し返されて一歩も進めない。
赤い光は渦を巻き、
生き物のようにうねりながら周りを染めていく。
アルマンがカザネに近づこうとするが、風に押し返され、前に進めていない。
アルマンは辛そうな顔をしながら手に光を集め、
その手を赤い渦に向けて——
「…っ!リン!離れなさい!」
アルマンは光を帯びた手を下げ、叫ぶ。
(声が届かないなら、もっと近くで…)
体が勝手に動いていた。
風を切り裂くように駆け、渦の中へ飛び込む。
鋭い風が肌を裂き、視界が血のように赤く染まる。
(痛い……でもカザネはもっと辛いはず...)
迷いはなかった。
⸻
「違うの……! やめて…また誰かが傷つくのは、いやなの……!!」
自分の声が遠くで響いている。
止めようとしても止まらない。
心臓の鼓動に合わせて理力が暴れ、
赤い光が脈打っていた。
「もう……いやだ……!」
その時――背中に温もりを感じた。
「カザネ!」
次の瞬間、音がすべて消えた。
ただ、心臓の鼓動とリンの声だけが残る。
心の奥の冷たさが少しずつ溶けていく。
「離して! あたしのせいで…!」
「絶対…離さない!」
(なんで…そこまで……)
リンの体には細かい切り傷が無数に走り、血が滴る。
それでも、リンは何もなかったかのように笑って優しく言った。
「大丈夫だから。カザネは…誰も傷つけないよ」
その声が、胸の奥で弾けた。
涙がこぼれ、赤い渦が静かに力を失う。
風が止み、空気が静けさを取り戻した。
「ごめんなさい…あたしのせいでリンが…」
「俺は大丈夫…
絶対にカザネの前からいなくならない」
リンの声が優しくて、
あたしはそのまま、力が抜けるように眠りに落ちた。
⸻
目を覚ました時、一番最初にあたたかさを感じた。
部屋の中に夕陽がやわらかく差し込む。
ベッドの傍では、リン、アオバ、テン、アイコ、チカラが寄り添うように眠っていた。
その光景を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
――誰も、いなくなってない。
扉が開き、アルマンが静かに入ってくる。
その瞳は、全てを受け止めるように穏やかだった。
「カザネ、大丈夫かい?
……みんな、とても心配してたんだよ」
優しい声が響く。
涙をこぼしながら、小さく首を振った。
「あたしのせいで…リンが傷ついて…
もしかしたらみんなのことも傷つけてたかも…」
アルマンは静かに微笑み、首を横に振った。
「違うよ。あの時、君は誰も失いたくない。
そう願ったんだろう?それは正しくて優しい想いだ。
その想いがある限り、君は“その力”に呑まれたりしないよ」
「…でも、怖かったの。
あんな力、あたしの中にあるなんて……」
「理の力は使い方を間違うと怖いものに変わる。
それは事実だよ。
けど、それを怖いと思える人は、ちゃんと使い方を選べる人だ」
アルマンの言葉は柔らかく、
まるで小さな灯を灯すようだった。
「…あたし、ちゃんと選べるかな」
「カザネ…君なら大丈夫。
私が言うんだから、間違いないよ」
アルマンは頷きながら優しく笑って言った。
「だね。ありがとう…アルマン」
「うんうん。それじゃあ、まずは…
みんなが起きたら笑ってあげなさい」
アルマンが優しく言った。
「それだけでいいの…?」
アルマンがみんなを見ながら言う。
「それだけでいいんだ。この子たちはね…
君が笑うと、いつもとても嬉しそうなんだ」
あたしは涙を拭いて、小さく笑った。
「……うん!わかった!」
⸻
「……カザネ?」
最初に声を上げたのはチカラだった。
寝ぼけた顔のまま、慌てて身を起こす。
「カザネ……大丈夫か!? 痛いとこないか!?」
その声で他の4人も一斉に目を覚ます。
「カザネ!」「よかった……!」「びっくりしたんやぞ!」「心配した…」次々に声が重なり、部屋がみんなの声で満たされていく。
その声が本当に嬉しくて、涙が出てくる。
あたしはみんなを見渡し、
泣き笑いのまま言葉を絞り出した。
「チカラ、アオバ、テン、リン、アーちゃん……ありがとう!」
アイコが目を丸くする。
「え……アーちゃん……?」
一瞬、時が止まる。
みんなが顔を見合わせ、ゆっくりと気づく。
「まさか…カザネ……!」
リンが驚いて言った。
あたしは涙を浮かべ、笑った。
「――ただいま!」
次の瞬間、全員の顔がほころぶ。
「おかえり!」の声が部屋を満たした。
泣いて、笑って、声が重なる。
チカラだけがぽかんとしていたけど、
周りを見渡してから、笑って頭を掻いた。
「よくわかんねぇけど……元気ならいいや!」
その言葉でまた笑いが弾けた。
アルマンが優しく微笑み、窓の外を見る。
柔らかな風がカーテンを揺らし、
ほのかに赤を帯びた光がカザネの髪に差し込む。
それはまるで――
“命の色”が、世界に還っていくような瞬間だった。
今回はカザネが記憶を取り戻して、
それと同時に、謎の力が暴走する話でした!
以前のアイコの手の光、今回のカザネの血の渦、
それと記憶を取り戻すたび、なぜあの時の神の声が聞こえるのか…
色々謎がありますね!
ぜひ次回の話もお楽しみに!
ちなみにリンの傷はアルマンが治してます!




