第9話:暗殺者は、手加減を間違えてしまう
入学式の『水晶破壊事件』以来、俺はアカデミーでちょっとした有名人になっていた。ただし、それは決して良い意味ではない。
「見たか? あれが噂のクリスタル・クラッカーだぜ」
「公爵令嬢なのに、魔力なしって本当なのかしら?」
廊下を歩けば、ひそひそと交わされる噂話が耳に届く。俺は徹底して気配を消し、誰の記憶にも残らない『モブ令嬢A』に徹することに全力を注いでいた。
そんな日々が数日続いた後、最初の魔法薬学の授業がやってきた。
担当するのは、白衣は着ているがいつもどこか埃っぽい、初老のエルリック教授。彼は、教壇に立つなり、試験管に入った美しい液体を掲げてみせた。
「諸君、これが本日の課題、『月雫のエリクサー』だ。魔力を一時的に増幅させる効果があるが、調合は極めて難しい。材料を煮詰める温度、加えるタイミング、一滴の誤差、そのいずれかが狂えば、ただの臭いヘドロと化す」
教室内がざわつく。配られたレシピは、見たこともないほど複雑だった。
他の生徒たちが次々と失敗し、教室は色とりどりの煙と、様々な異臭で満たされていく。
(……なるほど。遅効性の毒薬の調合と、基本は同じか)
だが、ここで完璧なものを作ってしまっては、また目立ってしまう。
(よし。目標は、中の下。ギリギリ及第点レベルのものを作ろう)
俺は、細心の注意を払って、手加減することに全力を注いだ。
普通の生徒なら、魔力の炎は少し揺らぐはずだ。俺はわざと集中を乱し、炎に微かな揺らぎを作る。
材料を加えるタイミングも、完璧ではいけない。俺は心の中でわざと少しずれたカウントを取り、材料を投入した。
(こんなものだろう。これなら、ただの運が良い生徒くらいにしか見えまい)
全ての工程を終え、俺は満足げに自分の小瓶を眺めた。
そして、絶句した。
小瓶の中には、不純物一つない、完璧に澄み切った無色透明の液体が、静かに揺らめいていた。教科書に載っている完成品よりも、明らかに純度が高い。
(しまった……!)
俺の基準での「少しの手抜き」は、この世界の常識では「神業レベルの精密作業」だったらしい。背筋を、冷たい汗が伝う。俺は、誰にも気づかれぬよう、そっと小瓶を机の下に隠そうとした。
その時、生徒たちの惨状を見かねたエルリック教授が、教壇で咳払いをした。
「見たまえ、諸君。これが現実だ。『月雫のエリクサー』の調合は、プロの魔法薬師でも成功は稀だ。このアカデミーの歴史においても、授業でこれを完成させた生徒は、過去に一人も――」
教授が、その言葉を言い終える、まさにその瞬間だった。
俺の隣の席に座っていた、真面目だけが取り柄のような男子生徒が、机の下に隠されようとしていた俺の小瓶に気づき、その完璧な出来栄えに目を剥いた。そして、純粋な学術的好奇心と感動から、叫んだ。
「す、すごい! アルトス嬢のエリクサーが、完璧だ!」
その声に、教室は水を打ったように静まり返った。
教授は、言いかけた言葉を忘れ、あんぐりと口を開けたまま、俺の手元を凝視している。周りの生徒たちも、信じられないものを見る目で、俺の小瓶と顔を交互に見ている。
教授は、夢遊病者のようにおぼつかない足取りで俺の席までやってくると、小瓶をひったくるように手に取り、匂いを嗅ぎ、光に透かし、やがてわなわなと震え始めた。
「……完璧だ。教科書に載っているものより、純度が高い……。馬鹿な……」
教室中が、ドン引きしているのが、肌で感じられた。
授業の終わりを告げる鐘が鳴り、俺はさっさと教室を出ようとした。これ以上目立ちたくない。早く寮の自室に引きこもって、クロと昼寝がしたい。
「待て」
その時、冷たく、しかし芯のある声に呼び止められた。
振り返ると、そこに立っていたのはセオドア王子だった。
「君は、何者だ?」
その空色の瞳は、一切の感情を排して、ただ真っ直ぐに俺の本質を見抜こうとしているようだった。
「……アイリス・フォン・アルトス、と申します。殿下」
俺は淑女の笑みを完璧に貼り付け、優雅にカーテシーをしてみせる。
「そうではない。入学式の水晶、そして今の薬学。あれは、偶然か?」
「さあ、どうでしょう。わたくしは、ただ教わった通りにいたしましたまで」
俺は曖昧に微笑み、話を打ち切ろうとする。しかし、セオドアは引かなかった。彼は俺に一歩近づくと、その整った顔を俺の耳元に寄せ、他の誰にも聞こえない声で囁いた。
「実に面白い。せいぜい、僕を楽しませてくれ、アイリス・フォン・アルトス」
そう言い残し、彼は俺の横を通り過ぎて去っていった。
セオドアが完全に去った後、俺は思わず、ぶるりと一度、体を震わせた。
男に耳元で囁かれた、純粋な生理的嫌悪感。
護衛対象に目をつけられたという、暗殺者としての致命的な失態。
いろんな感情がごちゃ混ぜになって、完璧な淑女の笑みの下で、本日何度目か分からないため息をついた。
一番関わりたくない人物に、一番目をつけられてしまったらしい。