第8話:アカデミーは、寮からして目立ちたくない
王立魔法アカデミーの入学式当日。俺は、鏡に映る自分の姿を見て、何度目かも分からないため息をついた。
真新しい制服は、体のラインを綺麗に見せる上品なデザインだが、俺にとってはただの拘束具だ。肩にかけた革の鞄の中では、クロが『隠匿』の能力で気配を消し、静かに丸くなっている。今日から、この小さな相棒だけが俺の心の支えだ。
アカデミーの正門を潜ると、目の前には広大なキャンパスが広がっていた。手入れの行き届いた芝生、歴史を感じさせる校舎、そして、希望と野心に満ちた新入生たちの喧騒。俺は人混みを避け、できるだけ壁際に沿って歩く。
目標はただ一つ、誰の記憶にも残らない『モブ令嬢A』になることだ。
入学式が行われる大講堂に入ると、新入生たちが家柄ごとに固まって談笑しているのが見えた。その中心にいるのは、あの二人だった。一人は、ヴァイス侯爵家の嫡男、ヴィクトル。そしてもう一人が、第二王子のセオドア。あれが、俺の秘密の護衛対象か。前途多難だな。
入学式は、学長の退屈な祝辞で始まった。そして、式の最後には、新入生の魔力適性を測り、所属する寮を決定する恒例行事があるという。
「――それでは、新入生代表、セオドア・ルーク・アルテア殿下より、魔力測定のデモンストレーションを行っていただきます」
セオドアは気怠げに立ち上がると、壇上の中央に設置された水晶玉に手をかざした。瞬間、水晶は目も眩むほどの純白の光を放ち、講堂中がどよめきに包まれる。
続いて、ヴィクトルが壇上に上がる。彼はセオドアに対抗するように力み返り、真っ赤な炎の魔法を水晶に叩きつけた。結果は、これもまた素晴らしい数値だ。
(……面倒なことになった)
新入生が一人ずつ壇上に上がり、魔力を測定していく。俺は、どうやってこの場を乗り切るか、頭をフル回転させていた。狙うは、中の上。平凡で、記憶に残らない、絶妙なラインだ。
「――次に、アイリス・フォン・アルトス嬢」
名前を呼ばれ、俺は静かに立ち上がった。水晶の前に立ち、そっと手をかざす。体内の魔力を、慎重に、ごく少量だけ練り上げた。
俺が魔力を解放した瞬間――。
水晶は、光らなかった。音もしなかった。ただ、パリン、と乾いた音を立てて、表面に一本の亀裂が入っただけだった。
講堂が、静まり返る。
測定器の針は、ピクリとも動いていない。
「な、なんだ? 魔力なし、か?」
「いや、待て! 水晶にヒビが……!」
教官たちが混乱している。ヴィクトルは「はっ、見掛け倒しか!」と大声で嘲笑った。しまった。俺は内心で舌打ちした。力を抑えることに集中しすぎて、魔力の『質』をコントロールするのを忘れていたのだ。
一連の測定が終わり、学長が再び壇上に立った。
「――これより、諸君らが三年間を過ごす寮を発表する!」
アカデミーには、四つの寮が存在する。攻撃魔法に優れた者が集う『イグニス寮』。防御・治癒魔法に長けた者が集う『アクア寮』。探知・高速魔法を得意とする者が集う『ウェントス寮』。そして、特に傑出した才能を持つ者のみが選ばれる最上級寮『ステラ寮』。
「ヴィクトル・フォン・ヴァイス! その猛々しき力、イグニス寮にこそ相応しい!」
ヴィクトルは得意げに胸を張る。
「セオドア・ルーク・アルテア殿下! 言うまでもなく、ステラ寮へ!」
まあ、そうだろうな、と俺は思った。
そして、ついに俺の番が来た。講堂中の視線が、好奇と嘲笑をもって俺に突き刺さる。
学長は、手元の資料と俺の顔を何度か見比べ、やがて困惑したように、しかしどこか面白そうに口を開いた。
「アイリス・フォン・アルトス! その魔力、測定不能! 前代未聞である! よって、その特異な才能を注視するため、特例として……ステラ寮への所属を命ずる!」
「…………は?」
俺の口から、今日一番の素っ頓狂な声が漏れた。
講堂が、今度こそ割れんばかりのどよめきに包まれる。「なぜ魔力なしがステラ寮に?」「公爵家の圧力か?」そんな声が飛び交う。ヴィクトルは信じられないという顔で俺を睨みつけ、そして、それまで一切の興味を示さなかったセオドア王子が、初めて俺の方を見て、その口の端に微かな笑みを浮かべたのが見えた。
最悪だ。
護衛対象と、同じ寮。これ以上にないほど、俺のスローライフ計画からかけ離れた状況だ。
俺は、これから始まる波乱の日々を思い、仮面の下ならぬ、淑女の微笑みの下で、誰にも気づかれぬよう、深いため息をついた。