第7話:王命は、秘密の護衛任務
14歳になった春。アルトス公爵家の庭は、色とりどりの花々が咲き乱れ、穏やかな空気に満ちていた。
「よし、クロ。今日の分の昼寝は完了だ」
「くぅ……」
俺はハンモックの上で、膝に乗せたクロの喉を優しく撫でる。こんな風に、何をするでもなく、ただ静かに時が過ぎていくのを味わう。これこそが、俺が追い求めてきた至福のひとときだ。
『王立十聖』第一席、影としての仕事は、相変わらず優秀な分身体に任せきり。ここ数年は大きな事件もなく、俺自身は完全にスローライフを謳歌していた。
そんな平穏を破るように、一人の執事が恭しく一通の手紙を差し出してきた。金色の蝋で封をされた、分厚い封筒。差出人は、王立魔法アカデミー。
「アイリス様、アカデミーより入学許可証が届きました」
「……そう。ありがとう」
ついに、この日が来てしまったか。貴族の子女は14歳になると、原則として王立魔法アカデミーに入学する義務がある。俺も例外ではない。この手紙は、俺のスローライフに終わりが近づいていることを告げる、死刑宣告のようなものだった。
俺が憂鬱な気分で封筒を眺めていると、今度は空間が微かに揺らぎ、国王直通の緊急通信が脳内に響いた。
『影よ、急ぎ登城せよ』
入学許可証と、国王からの召集。二つの厄介事が同時に舞い込んできたことに、俺は深く、深ーくため息をついた。
王城の奥、国王の私室。俺は紺色のローブと黒い仮面を身につけ、主の前に跪いていた。そこには、いつもの玉座の間のような華やかさはなく、王のプライベートな空間ならではの緊張感が漂っている。
「面を上げよ、影」
促されるままに顔を上げると、国王は疲れた顔で大きな椅子に深く腰掛けていた。
「そなたに、極秘の任務を与える」
国王は重々しく口を開いた。
「我が息子、第二王子のセオドアが、今春より王立魔法アカデミーに入学する」
「……伺っております」
「その件で、頭を悩ませておるのだ。あやつは、自分の力を過信しており、『護衛など不要、一人の生徒として扱え』と聞かん。表立って護衛をつければ、反発して何を仕出かすか分からん」
なるほど、よくある反抗期の若君か。俺には関係のない話だ。
「しかし、セオドアの類稀なる魔力に目をつけ、その身を狙う不穏な輩がいるとの情報がある。公然と動けば、敵を刺激するだけ。だが、野放しにもできん」
国王は、そこで一度言葉を切ると、真っ直ぐに俺の仮面を見据えた。
「そこで、そなたに命じる。影よ、学生としてアカデミーに潜入し、セオドア本人にさえも気づかれぬよう、影から彼を守れ」
「……は?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。仮面の下で、俺の眉がこれ以上ないほどにひそめられる。
公爵令嬢アイリスとしてアカデミーに通いながら、同時に影として王子を護衛しろ、と。しかも、本人にバレないように。これ以上ないほど面倒で、俺のスローライフ計画とは正反対の任務だ。
「これは王命である。そなたの能力をもってすれば、容易かろう」
「……御意」
もはや、俺に拒否権はなかった。
自室に戻り、ベッドに腰を下ろす。隣では、俺の憂鬱な気配を察したのか、クロが心配そうに顔を覗き込んでいる。
テーブルの上には、先ほど届いたばかりのアカデミーの入学許可証と、真新しい制服が置かれていた。上品な紺色を基調とした、いかにもエリート校といったデザインの制服。
「……最悪だ」
俺は制服を睨みつけ、悪態をついた。
公爵令嬢、アイリス。
『王立十聖』第一席、影。
そして、王子の秘密護衛。
まだ見ぬ王子の顔を思い浮かべ、俺はこれから始まるであろう波乱の日々に、頭を抱えるしかなかった。