第5話:影は、小さな相棒を拾う
『王立十聖』に就任してから五年が過ぎ、俺は13歳になった。公爵令嬢アイリスとしての生活は、すっかり板についている。
日中は庭で野菜を育て、厨房で新しいレシピを試し、午後は書斎で読書に耽る。十聖としての仕事? もちろん、優秀な分身体が完璧にこなしてくれている。おかげで俺自身は、心穏やかなスローライフを維持できていた。
世間では影の正体について様々な憶測が飛び交っているらしいが、俺の知ったことではない。
そんなある日のことだった。いつものように分身体を王城での定例会議に送り出し、俺が温室でハーブの世話をしていると、空間が揺らぐような感覚と共に、脳内に直接声が響いた。
『影よ、聞こえるか』
国王陛下直通の緊急通信魔法だ。面倒なことになった、と俺は内心で舌打ちする。
『北西部の『囁きの森』にて、正体不明の強大な魔力反応を感知した。他の十聖には悟られぬよう、単独で調査に向かえ』
囁きの森。それは古くから魔法的な異常現象が多発することで知られる、禁足地だ。単独任務、しかも極秘。これほど影に適した任務もないだろう。
「……御意」
俺は短く応じた後、庭のテラスで優雅にお茶をしていた父と母に手を振った。
「アイリス、どちらへ?」
「少し、お散歩に」
屋敷を抜け出し、その場で黒い仮面と紺色のローブを身に纏う。これも魔法の一種だ。いちいち着替える手間が省けて便利である。
『縮地』を使えば、王都から囁きの森までは1分もかからない。
森に足を踏み入れると、空気が一変した。濃密な魔力が霧のように立ち込め、肌をピリピリと刺激する。前世の戦場を思い出すような、張り詰めた緊張感。俺は『隠密魔法』で完全に気配を消し、魔力反応の中心へと進んだ。
森の奥深く、開けた場所にその”何か”はいた。
しかし、それは想像していたような巨大な魔物ではなかった。
「……猫か?」
そこにいたのは、子猫ほどの大きさの生き物だった。
だが、猫ではない。
濡れたような光沢を放つ漆黒の鱗、蝙蝠のような翼、そして爬虫類特有の縦に長い瞳孔を持つ、金色の瞳。それは紛れもなく、ドラゴンの幼体だった。
その小さなドラゴンは、片翼を不自然に折り曲げ、苦しそうに息をしている。そして、その周囲を、涎を垂らした魔獣たちが取り囲んでいた。魔獣たちは、ドラゴンの放つ強大な魔力に引き寄せられたのだろう。弱った獲物を前に、いつ飛びかかろうかと機会を窺っている。
(……また面倒事に巻き込まれた)
俺は深くため息をつくと、音もなく木の枝から飛び降りた。
「グルルル……」
俺の存在に気づいた魔獣たちが、一斉に敵意を向ける。その数は十体以上。一体一体が騎士団でも苦戦するレベルの魔獣だ。
だが、俺にとっては取るに足らない。
俺は懐から数本の銀製の針を取り出すと、魔力を込めて一斉に放った。前世で愛用していた暗器術の応用だ。銀の閃光が走り、魔獣たちは悲鳴を上げる間もなく、眉間を正確に貫かれて絶命した。
静寂が戻る。残されたのは、呆然とこちらを見上げる小さなドラゴンだけだった。その金色の瞳に恐怖の色はない。ただ、純粋な好奇心と、そしてどこか同類を見るような親しみが浮かんでいた。
(……そうか、お前も、その小さな体に途方もない力を隠しているのか)
ドラゴンはゆっくりと、おぼつかない足取りで俺に近づいてくる。そして、俺の足元にすり寄り、クゥンと甘えたような鳴き声を上げた。
前世の俺は、娘にだけはめっぽう甘かった。そのせいだろうか。この小さな生き物を見ていると、腕の中にいた娘の温もりを思い出してしまう。
「仕方ないな……」
俺は小さなドラゴンをそっと抱き上げた。翼の付け根の骨が折れている。俺は慎重に治癒魔法を施した。骨を繋ぎ、傷口を塞いでいく。
治療を終えると、ドラゴンは心地よさそうに俺の腕の中で丸くなった。
「お前、名前は?」
もちろん、返事はない。俺は少し考えて、シンプルな名前を付けた。
「クロ。今日からお前はクロだ」
クロは、俺の言葉を理解したかのように、もう一度クゥンと鳴いた。その瞬間、俺とクロの間に淡い光の線が結ばれ、温かい魔力が流れ込んでくるのを感じた。従魔の契約が成立した証だ。
こうして俺は、誰にも知られることなく国の危機を救い、そして誰にも知られることなく、強い相棒を手に入れた。
屋敷に戻り、自室のベッドで眠るクロの小さな寝息を聞きながら、俺は改めて思う。
「俺のスローライフ計画、一体どこで間違えたんだ……?」
クロは、ただ幸せそうに眠っているだけだった。