第4話:影は、こっそり任務を終わらせたい
『王立十聖』第一席、影。
その大層な肩書を拝命してから、四年が経過した。俺、アイリス・フォン・アルトスは現在12歳。公爵令嬢として、そして国の最高魔法戦力の一人として、それなりに忙しい日々を送っている。
――というのは、もちろん建前だ。
「よし、今日の分のジャガイモは収穫完了っと」
土の匂いを胸いっぱいに吸い込み、俺は額の汗を手の甲で拭った。目の前には、俺が愛情を込めて育てた野菜たちが豊かに実る家庭菜園が広がっている。収穫したばかりのジャガイモは、今夜のポトフの主役になる予定だ。
そう、これが俺の日常。これこそが俺の望んだスローライフ。
では、十聖としての仕事はどうしているのか? 答えは簡単だ。
「アイリス様、そろそろ王宮での定例会議のお時間ですわよ」
「あら、もうそんな時間? すぐに行くわね」
侍女の声に、俺は畑の隅に置いた椅子から立ち上がる。そして、魔力を練り上げ、自分と寸分違わぬ姿をした分身体を作り出した。
「あとはよろしく」
「お任せください」
分身体は優雅に一礼すると、屋敷の中へと消えていく。彼女が俺の代わりに会議に出席し、難しい顔で報告書に目を通してくれるというわけだ。完璧な作戦である。
こうして俺は、緊急招集以外はほとんど屋敷から出ることなく、平穏な日々を謳歌していた。
顔を隠すという条件を提示した過去の自分を褒めてやりたい。おかげで、世間では影の正体は謎に包まれたままだ。
そんなある日の昼下がり、事件は起こった。
「大変です! 北の監視塔から緊急連絡! ドラゴンが出現したとのこと!」
屋敷に駆け込んできた伝令兵の報告に、のんびりとトマトの苗を植え替えていた俺は、思わず顔をしかめた。
「ドラゴン、ねぇ……」
面倒なことになった。これは間違いなく、俺の出番だろう。
案の定、王城の玉座の間には、国王陛下と『王立十聖』の面々が深刻な顔で集まっていた。
「――被害が拡大する前に、騎士団と我々十聖で大規模な討伐隊を編成し、かのドラゴンを討つべきです!」
豪炎の魔術師が、いつものように熱く主張している。他のメンバーも、それぞれの専門分野の見地から意見を述べていた。巨大な地図を広げ、兵の配置や魔法陣の構築について議論が白熱する。
(大袈裟だな……)
俺は心の中でため息をついた。前世の経験上、こういう大規模作戦は準備に時間がかかる上に、現場の混乱を招きやすい。もっと効率的な方法があるはずだ。
議論が一段落したのを見計らい、俺は仮面の下で静かに口を開いた。
「お待ちください」
俺の声に、十聖たちの視線が一斉に集まる。
「大規模な討伐隊は、民に不要な不安を与えるだけです。また、広範囲魔法は周囲の自然環境に甚大な被害を及ぼす可能性もございます」
「では、どうしろと申すのだ、影よ!」
「まずはわたくしが単独で偵察に向かいます。相手の戦力、目的、そして弱点を正確に把握することが、最小限の犠牲で勝利を収めるための最善策かと」
俺の提案に、第二席は「危険すぎる!」と反対したが、国王陛下は面白そうに目を細めていた。
「よかろう。影よ、そなたに任せる。くれぐれも無理はするな」
こうして俺は、単独でドラゴン討伐(の偵察)という任務を請け負うことになった。もちろん、表向きは。
俺は誰にも気づかれぬよう王城を抜け出すと、北の空へと向かって飛び立った。もちろん、魔法で。
『縮地』と『隠密魔法』を組み合わせれば、音速に近い速度で、誰にも気取られずに移動できる。
しばらくして、俺は目的地の北の山岳地帯に到着した。眼下には、雪を頂いた険しい山々が連なっている。
「さて、ドラゴンはどこかな……」
気配を探知すると、すぐに巨大な魔力の反応を見つけた。山頂近くの洞窟だ。俺は音もなく洞窟に侵入する。
そこにいたのは、確かにドラゴンだった。だが、その様子は少しおかしかった。全長40メートルほどの赤い鱗を持つ竜――ワイバーン種だ。そのワイバーンは苦しそうに呻き、翼の付け根から血を流している。
(なるほど、怪我をしているのか)
どうやら、何者かと争って深手を負い、人里近くまで降りてきてしまったらしい。これなら話は早い。
俺はゆっくりとワイバーンに近づき、その傷口に意識を集中する。前世で叩き込まれた人体の構造知識は、異世界の生物にも応用が利く。骨の位置、筋肉の付き方、そして魔力が流れる経路。
「痛いだろうが、少し我慢しろ」
俺は呟くと、治癒魔法を発動した。ただし、ただの治癒魔法ではない。傷口の内部で砕けた骨片を魔力で精密に動かして繋ぎ合わせ、断裂した筋肉繊維を一本一本修復していく。暗殺者の精密作業が、こんなところで役に立つとはな。
数分後、治療を終えたワイバーンは、不思議そうに翼を動かしていた。痛みはもうないはずだ。
「さあ、もう人里には下りてくるなよ」
俺がそう言うと、ワイバーンは一度だけこちらを振り返り、やがて力強く翼を広げて大空へと飛び立っていった。
任務完了。実に簡単だった。
王城への帰還報告も、もちろん分身体に任せた。「報告。対象は負傷したワイバーンであり、脅威には値せず。治療を施したところ、山奥へと帰っていきました」という簡潔な報告に、十聖の面々は拍子抜けした顔をしていたらしい。
その頃、俺はと言えば――。
「アイリス、まあ、泥だらけになって。本当に土いじりが好きですのね」
そう、いつものように菜園でジャガイモを掘り起こしていた。母が呆れたように笑っている。
「えへへ」
俺は土のついた手で頬をかきながら、曖昧に笑った。
国の危機を人知れず救ったことなど、おくびにも出さずに。これぞまさしく、俺の望んだスローライフだ。