第32話:偽りのアプローチ
リュシアン・ブランシェが転入してきてから一週間。
アカデミーの空気は、すっかり彼の色に染まっていた。昼休みの教室も、彼の周りだけがまるで別の空間のように華やいでいる。
俺は、少し離れた席で友人のリヴィアと、その光景をぼんやりと眺めていた。
「リュシアン様、本当に素敵ですわね……。まるで物語に出てくる王子様のようです」
リヴィアが、うっとりとため息をつく。確かに、誰にでも分け隔てなく微笑み、知的な会話で人々を魅了する彼の姿は、完璧としか言いようがない。
「そうですね。とても人気があるようですわ」
俺が当たり障りのない相槌を打つと、リヴィアは悪戯っぽくクスクスと笑い、俺の耳元に顔を寄せた。
「まあ、リュシアン様も素敵ですけれど……」
彼女は、教室の反対側で静かに読書をしているセオドア殿下にちらりと視線を送り、意味深に続ける。
「アイリス様には、もっと素敵なセオドア殿下がいらっしゃいますものね」
「?」
俺は、首を傾げた。
「殿下が、どうかしましたか?」
「もう、アイリス様ったら。わたくしたちの前でまで、お隠しにならなくてもよろしいのに」
リヴィアは、最近の俺と殿下の親密ぶりを、すっかり恋仲のそれだと勘違いしているらしい。
(俺と殿下は、そんな甘い関係では……いや、そもそも俺は男だぞ……)
俺が内心で激しく混乱していると、ふわりと、爽やかな花の香りがした。
「こんにちは、ローゼンタール嬢、アルトス嬢。楽しそうだね、僕も混ぜてもらえないかな?」
声の主は、いつの間にか人だかりを抜け出し、俺たちのテーブルの前に立っていたリュシアンだった。
「リュシアン様!?」
リヴィアが緊張で顔を真っ赤にする。リュシアンはそんな彼女に優しく微笑みかけると、その翠の瞳を、ゆっくりと俺に向けた。
「アルトス嬢。君のことは、殿下からよく伺っているよ」
彼の言葉に、俺は内心で眉をひそめる。
「『聡明で、誰よりも信頼できるパートナーだ』とね。殿下があれほど人を褒めるのを、僕は初めて見た」
(……嘘だな。殿下がそんなことを他人に言うはずがない)
これは揺さぶりだ。俺と殿下の関係を探るための、巧妙な罠。俺は完璧な淑女の笑みを貼り付けたまま、応戦する。
「まあ、殿下がそのようなことを……。光栄ですわ」
すると、リュシアンはさらに一歩、俺に踏み込んできた。彼はテーブルに軽く手をつき、俺の顔を覗き込むように、その美しい顔を近づける。
「僕は、君自身にもとても興味があるんだ。もしよければ、今度お茶でもご一緒しないか? 君のような、どこかミステリアスな女性は、とても魅力的だと思うから」
他の令嬢なら、その甘い囁きと熱のこもった視線に卒倒しているだろう。
隣のリヴィアも「まあ……!」と小さく悲鳴を上げ、自分のことのように頬を染めている。
だが、俺の心は氷のように冷めていた。
(ミステリアス? 魅力的だと? こいつ、俺を口説いているのか? 何のために? 弱みでも探るつもりか…?)
恋愛的な文脈を一切無視し、俺の思考は完全に元暗殺者のそれだった。
敵が、その懐に潜り込んでこいと誘っている。こんなに分かりやすい挑発に乗らない手はない。
「ええ、喜んで」
俺は、最高の笑みを作って、リュシアンの誘いを受け入れた。
「わたくしでよろしければ、ぜひ」
「本当かい? 嬉しいな。楽しみにしているよ、アイリス」
彼は俺の名前を呼び捨てにすると、満足げに微笑んで、席へと戻っていった。
その背中を見送りながら、俺は静かに闘志を燃やす。
(さて……お前がどんな狐で、どんな尻尾を隠しているのか。じっくりと、見させてもらうぞ)
隣でリヴィアが「アイリス様、大変ですわ! 三角関係ですわ!」と興奮している声は、もはや俺の耳には届いていなかった。