第17話:静かな友人は、秘密のファン
中庭での一件から一夜。俺は、寮の自室のベッドの上で、静かに思考を巡らせていた。
(あの男……間違いなくプロだった。それに、アカデミーの結界をどうやって……?)
謎は深まるばかりだ。
その時、俺の脳裏に、国王から直接下された密命が蘇る。
『セオドア本人にさえも気づかれぬよう、影から彼を守れ』
(……面倒なこと、この上ない)
俺の望みは、あくまで平穏なスローライフだ。だが、護衛対象が命の危機に晒されているのを、見て見ぬふりをするわけにはいかない。
「……仕方ないか」
俺は深いため息をつくと、一つの結論に至った。
四六時中、俺自身が監視するのは不可能だ。目立ちすぎるし、俺のスローライフ計画が完全に破綻する。ならば――。
俺は、魔力を練り上げ、自分と寸分違わぬ姿をした分身体を作り出した。
「お前に、殿下の監視を任せる。何かあれば、すぐに知らせろ。いざという時は、俺が動く」
「お任せください」
分身体は優雅に一礼すると、音もなく闇に溶け、殿下の護衛任務へと向かった。
これで、最低限の安全は確保できた。そして、俺自身は、これまで通りモブ令嬢Aとしての日常を維持できる。
その日の夕方――。
俺が寮の談話室で静かにお茶を飲んでいると、不意に遠慮がちな声がかけられた。
「あの……アイリス様、少しよろしいかしら」
顔を上げると、そこに立っていたのは、蜂蜜色の髪をした、柔和な雰囲気の少女だった。
同じステラ寮の生徒で、子爵家の令嬢、リヴィア・フォン・ローゼンタールだ。
「ごきげんよう」
俺は内心の警戒を隠し、完璧な淑女の挨拶を返す。
「ごきげんよう、アイリス様」
リヴィアは、少し緊張した面持ちで、しかし心配そうな瞳で俺を見つめていた。
「先日はお茶会で……その、大変な思いをされたと伺いました。私は風邪で欠席したのですが……大丈夫でしたか?」
彼女の心からの気遣いの言葉に、俺は少しだけ驚いた。
アカデミーに来てから、こんな風に純粋な心配りを見せてくれた生徒は、彼女が初めてだった。
「お心遣い、痛み入ります。わたくしは大丈夫ですわ」
俺がそう返すと、リヴィアはほっと胸を撫でおろしたが、すぐにまた眉を寄せ、心配そうに声を潜めた。
「それに、王子殿下が中庭で何者かに狙われたという噂も耳にしました。本当に物騒ですわね……。そもそも、命を狙われているのなら、誰かがきちんと護衛につけばいいのに」
その言葉に、俺は曖昧に微笑むことしかできない。
そして、リヴィアは、何かを思いついたように、ぱっと顔を輝かせた。
「そうだわ! 例えば、あの王立十聖の影様とか! あの御方なら、どんな敵からも王子様を完璧にお守りできるに違いありませんわ!」
その言葉は、まっすぐな矢のように、俺の心臓に突き刺さった。
(――ッ!?)
内心の動揺を、完璧な淑女の笑みの下に隠しきる。冷や汗が背中を伝うのを感じながら、俺は必死に平静を装った。まさか、自分がこんな形で話題に上るとは。
俺の心労を知らないリヴィアは、少し興奮したように続けた。
「まあ、わたくしの勝手な妄想ですけれど。きっと影様は、今もどこかで見守ってくださっているはずですわ」
彼女の純粋な尊敬の眼差しが、少しだけ眩しい。
そんな暗い話ばかりではいけないと思ったのか、リヴィアは明るい声で話題を変えた。
「そうだ、アイリス様は、甘いものはお好きですか?」
「え、ええ……まあ、たしなむ程度には……」
突然の話題転換についていけない俺に、リヴィアは嬉しそうに提案した。
「でしたら、今度のお休み、一緒に街へ出かけませんか? 最近できたばかりの、とても美味しいケーキ屋さんがあるのです。気分転換にもなりますわ」
それは、俺がアカデミーで受けた、初めての友人からの誘いだった。
「……はい。ぜひ」
俺は、自分でも驚くほど素直に、そう答えていた。