第16話:暗殺者は、静かな意識に気づく
あの忌々しいお茶会から一夜。俺は、自室の机の上で、完全に燃え尽きていた。
原因は、言うまでもなくセオドア殿下とのペアワークの課題だ。
俺はペアワークの課題のことを、完全に、綺麗さっぱり忘れていたのだ。
殿下に寮の学習室まで引きずられていった後、俺を待っていたのは、氷のように冷たい視線と、山のような資料だった。
「日の出までに、この資料を全てまとめろ」
そう言われ、俺は半泣きになりながら、徹夜で課題を終わらせたのだった。
そして、翌日の昼休み。
俺は、完成したレポートを手に、ふらふらの足取りで殿下を探していた。
(どこにいるんだ、あの王子は……)
教室にも、談話室にもいない。俺は、彼が好きそうな静かな場所、ステラ寮の裏手にある、あまり人の来ない中庭へと足を踏み出した。
果たして、殿下はそこにいた。噴水の縁に腰掛け、一冊の本を静かに読んでいる。
俺が声をかけようと、一歩踏み出した、その瞬間だった。
――ぞくり。
全身の肌が、粟立った。
それは、殺意ではない。もっと希薄で、研ぎ澄まされた『意識』。獲物に気づかれぬよう、息を殺し、気配を消し、ただ一点だけを狙う、熟練の狩人が放つ特有の気配。前世で、俺自身が幾度となく放ってきたものと同じ種類の気配だった。
俺の足が、その場に縫い付けられる。視線を、気配の源へと向ける。
中庭を囲む生垣の影。そこに、フードを目深にかぶった一人の男が、闇に溶け込むように佇んでいた。その動きには一切の無駄がなく、呼吸のリズムさえも、周囲の風の音に同化している。
(……プロだ)
男は、ゆっくりと、音もなく、読書に集中する殿下の背後へと回り込んでいく。その手には、武器はない。だが、その指先は、まるで獲物を狙う蛇のように、殿下へと静かに伸ばされようとしていた。
(狙いは殿下で間違いないが、殺気は感じない。一体、何が目的だ……?)
ここで大声を出せば、男は殿下を人質に取るかもしれない。騎士団を呼ぶ時間はない。
(……やるしかない)
俺は、すぐそばにあった、装飾用の小さな石畳に、わざと足を引っ掛けた。
「きゃっ!」
可愛らしい悲鳴と共に、俺は派手にすっ転ぶ。そして、倒れ込む勢いを利用して、近くにあった植木鉢を、腕で思い切りなぎ払った。
ガッシャーン!
植木鉢が派手な音を立てて砕け散り、中庭の静寂を打ち破る。
「なっ!?」
その音に、殿下と、そしてフードの男が同時に反応した。男は、計画を看破されたと悟ったのか、忌々しげに舌打ちをすると、信じられないほどの身軽さで生垣を飛び越え、一瞬で姿を消した。
「……今の、何者だ?」
殿下は、男が消えた生垣の闇を鋭く見据えたが、すぐに視線を俺へと移した。
「……アイリス。また君か」
殿下は、呆れたような、しかし全てを見透かしたような目で、尻餅をついたままの俺を見下ろしていた。
「も、申し訳ありません、殿下! また、足がもつれてしまいまして……!」
「そうか。君は、実に絶妙なタイミングで転ぶことができる、類稀なる才能の持ち主らしいな」
その言葉は、皮肉以外の何物でもなかった。
俺は、完璧な淑女の笑みの下で、冷たい汗が背中を伝うのを感じていた。
(あの男……ただの泥棒ではない。このアカデミーは強力な結界で守られている。そう簡単に部外者が入れるわけがない。一体、誰が、あんな手練れをこのアカデミーの中に……?)
新たな、そしてより危険な謎の気配に、俺のスローライフ計画は、また一歩、闇の中へと後退していくのだった。