第10話:対人戦闘は、避けたいのですが
魔法実技の授業で、俺はまたしても頭を抱えていた。本日の課題は『対人戦闘訓練』。二人一組になり、お互いの胸につけた的に、魔法の光弾を当てるというものだ。
(……最悪だ)
前世で俺がやってきたのは、対人戦闘そのものだ。だが、それはあくまで『暗殺』。相手に気づかれることなく、一撃で仕留めるのが流儀だ。こんな風に、衆人環視の中で、派手な魔法を撃ち合うなど、専門外もいいところだ。
何より、目立つ。
俺は教室の隅で、できるだけ気配を消し、この悪夢のような時間が過ぎ去るのを待っていた。鞄の中では、クロが俺の憂鬱を察してか、心配そうに小さく鳴いている。
「――アイリス・フォン・アルトス!」
しかし、そんな俺の願いを打ち砕くかのように、甲高い声が響いた。声の主は、ヴィクトル・フォン・ヴァイス。彼は俺の前に仁王立ちになると、挑戦的な笑みを浮かべていた。
「貴様、俺と組め。前回の授業のまぐれを、白日の下に晒してやる」
彼の周りにいた取り巻きたちが、下卑た笑い声を上げる。周囲の生徒たちも、面白そうな見世物を見つけたという顔で、こちらを遠巻きに眺めている。
(……断る)
そう言おうとした俺より先に、教官が口を開いた。
「ほう、良いだろう。アイリス、準備はいいな?」
教官にとっても、俺の実力は未知数であり、ヴィクトルとの手合わせは良い試金石だと考えたのだろう。もはや、逃げ場はなかった。
俺とヴィクトルは、訓練場の中央で向かい合った。
「始め!」
合図と共に、ヴィクトルは待ってましたとばかりに魔法を発動する。
「喰らえ! 炎槍!」
彼の両手から、十数本もの炎の槍が放たれる。
(……よし、やるか。完璧な演技を)
実力を隠し通すため、俺は、覚悟を決めた。
「きゃっ!」
俺は、可愛らしい悲鳴を上げた。そして、迫りくる炎の槍に本気で怯えたように、慌てて後ろへ飛びのく。その拍子に、足がもつれて、みっともなく尻餅をついた。
しかし、その偶然の転倒によって、全ての炎槍は俺の頭上を空しく通り過ぎていった。
「なっ……!? 運だけの女め!」
ヴィクトルは苛立ちを隠しもせず、次々と魔法を繰り出す。
風の刃が飛んでくれば、俺は「いやぁっ!」と叫んで頭を抱えてしゃがみ込み、たまたまそれを回避する。
氷の礫が降り注げば、慌てて逃げようとして転び、運良く攻撃の範囲外へと転がっていく。
周囲の生徒たちの見る目が、徐々に変わっていくのが分かった。最初はあったかもしれない期待の色は消え、侮蔑と、そして少しばかりの憐れみの視線が突き刺さる。
(……よし、いい感じだ)
俺は、内心でガッツポーズをした。
「こ、この……! いつまでも逃げ回れると思うなよ!」
ついに堪忍袋の緒が切れたヴィクトルが、最大級の魔法を発動させるため、大きく魔力を練り上げ始めた。その隙は、あまりに大きい。
(……そろそろ、終わらせるか)
俺は、最後の仕上げに取り掛かった。
「も、もうやめてくださいまし!」
涙声でそう叫びながら、俺は最後の抵抗とばかりに、ヴィクトルに向かって駆け出した。もちろん、足元はもつれさせ、今にも転びそうな、か弱い令嬢の走りで。
案の定、俺は派手にすっ転んだ。
そして、前に投げ出された俺の手が、まるで偶然かのように、ヴィクトルの胸にあった的に、ぺちん、と軽く触れた。
その瞬間。
俺が常に抑え込んでいる、極限まで圧縮された魔力が、ほんの僅かに、指先から漏れ出した。
パリン、と乾いた音が響く。
ヴィクトルの胸にあった的は、何の魔力光も発することなく、まるで薄いガラスのように、あっけなく砕け散っていた。
「……え?」
ヴィクトルは、何が起こったのか理解できないという顔で、自分の胸元と俺の顔を交互に見ている。やがて、彼は膝から崩れ落ち、その場にへたり込んだ。
俺は転んで、偶然勝った。
彼にとって、それは完膚なきまでに叩きのめされるよりも、遥かに屈辱的な敗北だった。
訓練場は、水を打ったように静まり返っていた。生徒たちは、あまりに締まらない結末に、どう反応していいか分からず、気まずそうに顔を見合わせている。
早くこの場から立ち去りたい。
「くっ……くくく……」
その時、静寂を破って、押し殺すような笑い声が響いた。
声の主は、訓練場の隅でずっと戦いを見ていたセオドア王子だった。彼は、肩を震わせ、やがて堪えきれなくなったように、声を上げて笑い出した。
「はははは! 見事だ!」
突然笑い出した王子に、他の生徒たちはますます困惑し、気まずそうに視線を彷徨わせる。
セオドアは、そんな周囲の空気など意にも介さず、笑いながら俺に近づいてきた。
「君の動き、実に興味深い。決めた。次の授業から、君は僕のパートナーだ。いいね?」
「……へ?」
俺の口から、素っ頓狂な声が漏れた。
(なんだ!? なぜだ……!? 俺の完璧な演技は、誰の目にもただの幸運なドジっ子にしか見えなかったはずだ。まさか、この男、気づいたのか……!?)
俺は、内心の動揺を完璧な淑女のカーテシーの下に隠しながら、心の中で天を仰いだ。
俺の望む『モブ令嬢A』としての平穏な日々は、どうやら完全に、手の届かない場所へと去ってしまったらしい。