第1話:暗殺者は、二度目の生で平穏を願う
意識が浮上する。
光が眩しい。温かい何かに包まれている感覚。微かに甘い匂い。そして、俺の頬を優しく撫でる、柔らかな指の感触。
(……どこだ、ここは)
最後の記憶は、轟音と衝撃、そして腕の中に抱いた娘の温もりだった。コードネーム“ゼロ”。裏社会で生きてきた俺は、たった一人の家族である娘を守って、その生涯を終えたはずだった。
「まあ、なんて可愛いんでしょう。あなた」
「ああ、本当だ。私の天使だ……」
聞こえてくるのは、慈愛に満ちた男女の声。状況を把握しようと目を開けると、巨大な顔が二つ、こちらを覗き込んでいた。
いや、違う。
顔が巨大なのではない。俺の体が、恐ろしく小さいのだ。
「あなたの名前はアイリス。アイリス・フォン・アルトスよ」
アイリス。それが、俺の新しい名前らしい。
公爵令嬢という、とんでもないおまけ付きで。
俺がこの世界に生を受けてから、三日が経過した。そして、いくつかの事実が判明した。
まず、俺は前世の記憶と人格を完全に保持したまま、異世界の赤ん坊に転生したらしい。しかも、女として。銀色の髪に空色の瞳を持つ、自分でも認めるしかないほど愛らしい赤ん坊に。
次に、この世界の人間、少なくとも俺の両親――アルトス公爵夫妻は、揃いも揃って“ど天然”であるということ。
生後一日目。お腹が空いたので、「ママ、ミルク」と明瞭に発音してしまった俺に、母は満面の笑みでこう言った。
「まあ! パパ、聞きました? アイリスが『ママ』って言いましたわ! 天才ですわ!」
父も涙ぐみながら「君に似たんだね、ハニー!」と感動している。普通は気味悪がる場面だろうに。
生後三日目。寝返りばかりでは退屈なので、体幹を意識してすくっと立ち上がり、二足歩行を試みた。
「見てください、あなた! アイリスが歩いていますわ! なんて素晴らしいんでしょう!」
「我が家の誇りだ!」
両親は屋敷中の使用人を集めて、俺の初歩き記念パーティーを開いた。……もう何も言うまい。
この両親のおかげで、俺は二度目の人生の目標を早々に固めることができた。
(今度こそ、穏やかに生きる)
前世では、物心ついた時から暗殺者としての訓練漬けだった。組織に才能を見出され、裏社会で名を馳せたが、そんな脚光はまっぴらごめんだった。
血と硝煙の匂いがしない場所で、ただ静かに暮らしたかった。
幸い、アルトス公爵家は裕福で、両親は俺に甘い。これ以上ないスローライフ日和だ。菜園をいじり、本を読み、たまには料理でもして過ごそう。
そう、誰にも注目されず、ひっそりと。
そんな決意を胸に、俺――アイリスは、平和な赤ちゃんライフを満喫していた。そんなある日、この世界がただの異世界ではないことを知る。
母が、指先からふわりと小さな光を生み出し、それで暖炉に火を灯したのだ。
「アイリス、寒くないかしら?」
魔法。それは、この世界ではごく当たり前の技術らしい。
前世で培った暗殺者としての分析能力が、魔法の原理を瞬時に看破する。魔力と呼ばれる体内のエネルギーを、明確なイメージと『言葉』で操り、現象を発現させる。なるほど、実に合理的だ。
それからの俺は、スローライフの傍ら、魔法の探求に没頭した。
両親にたまに教えてもらう魔法は、どれも生活に根差したものばかりだったが、俺にとっては宝の山だった。
気配遮断のスキルは、魔力を応用することで『隠密魔法』に進化した。
高速移動の体術は、『縮地』となり、物質の構造を見抜く洞察眼は、急所を的確に破壊する『分解魔法』へと昇華した。
もちろん、そんな物騒な魔法は両親には秘密だ。俺が目指すのは、あくまで平穏なスローライフなのだから。
そうして、俺は誰にも気づかれることなく、最強の力を秘めたまま、8歳の誕生日を迎えようとしていた。
国王陛下主催の誕生パーティーという、最もスローライフとかけ離れたイベントが、すぐそこまで迫っていることも知らずに――。