急募:恋の理屈
すん、すん。
静かに鼻をすする音は、音楽をかけていない喫茶店内にやけに響いて聞こえていた。僕がいるところからは後ろ姿しか見えないが、十中八九泣いている。
……二人で来店されたお客様が一人になって、そうして泣き出してからおよそ五分。
バイトとはいえ店員として何かしたほうがいいものか、と考え始めてから五分が経ったとも言える。
このお客様――僕と同じ学校の制服に身を包む彼女は、お連れ様に振られたようなのである。幼馴染で、ずっと好きだったらしい。
やけに大きい声で告白していたから、ばっちりと聞こえてしまった。そしてやけに棒読みだったから、最初はそういう冗談か遊びなのかと思ったのだけど……泣き始めてしまったことから察するに、普通に本気だったのだろう。申し訳ない勘違いをした。
他のお客様もいないものだから、僕はこの五分、ひたすら存在感を消すことしかできていなかった。無意味にレジのお札を数えまくっている。
奥の部屋で休憩している店長兼僕の姉が出てきてくれればまた空気も変わるのだろうけど、あいにくとその気配はなかった。
せめて誰か他のお客様……来てくれ……!! いやこのお客様的には来ないほうがいいか、泣き顔なんて人に見られたくないよな!?
なんて考えていると、彼女がぐるっと勢いよくこちらを振り向いた。
「――あの!」
「は、はい!?」
思わず声が裏返った。何かご用命かと、慌てて彼女のもとに向かう。
黒髪のボブカットに、明るいピンクのインナーカラー。化粧もばっちりとされていて、僕とは到底住む世界の違う人だな、と感じた。うちの学校、こんな髪色もオッケーなんだ……いや、待って。
…………泣いてなくないか?
彼女の目元に、涙の名残は一切なかった。つい先ほどまで鼻をすすっていたというのに。手にはハンカチが握られているのに。
困惑して見つめると、彼女は居心地が悪そうにジト目で見返してきた。じわりとほのかに、その頬に朱が差す。
「……あの、店員さん」
「し、失礼いたしました。何か……ええっと。お困りでしょうか」
「……そう。とってもお困りです。困っています。なのであなたのお名前と年齢を教えていただけませんか」
はあ、と間抜けな相槌が出てしまった。文脈がめちゃくちゃだ。
普通だったら絶対に教えないところだが、相手は同じ学校の生徒。そう警戒する必要もないだろう。
「渡会透吾、十六歳です」
「一個下!? ……じゃなくて、個人情報そんな簡単に言っちゃだめでしょう!? 訊いた私が言うことじゃないけれど!」
どうやらこの人は先輩らしい。一個上、つまり高二か、誕生日が来ていない高三か。
「ですが、お客様の身元ははっきりしていますので……」
身元って敬語だとどう言えばいいんだろう。おみもと。ごみもと。
どっちもしっくりこないからそのまま言ってしまった。少なくともごみは絶対ないだろうな。
「……どういうこと?」
「その制服、私と同じ学校のものなので」
「お、同じ学校の後輩?」
「そうだと思います」
「そんな……! わざわざ計画した意味!」
計画?
首をかしげると、先輩はおほんと咳払いをした。
「私は一ノ瀬奈々子です。同じ学校の後輩ということなら、な、奈々子先輩、と呼んでも構わない」
「……かしこまりました」
案外硬い口調なんだな、この人。
呼ぶ機会なんてあるだろうか、と思いつつも、お客様相手に余計なことも言えない。とりあえず粛々とうなずけば、一ノ瀬先輩はぱっと顔を輝かせた。そしてそのことに自分でも気づいたのか、また咳払いをする。
「ところで、恥ずかしいところを見せたね」
「あー……いえ」
「店に迷惑もかけたことだし、お詫びとして、その、な、何か……できたらと思うのですけれど」
「いえ、どうかお気遣いなく」
「……ここ、バイトとか募集してる?」
「しておりません」
「ぐっ……じゃ、じゃあ、常連になります。お金を落とします」
「ありがとうございます……?」
確かに先ほどまでの状況に困りはしたが、迷惑にはなっていない。ちょうど他のお客様もいなかったし……というかまあ、うちは大抵閑古鳥だ。
だから本当に気にしなくていいのだが、きっとこういう人は、何もしないほうが罪悪感を覚えるんだろう。
「では、また次のお越しもお待ちしております」
「ひゃい」
「? ……よろしければ、この後もごゆっくりお過ごしください。もしお夕飯の時間までいらっしゃるなら、ハンバーグがおすすめです」
「て、店員さん、くん、渡会透吾さ、くん? 渡会……くん……透吾くん! の!」
ものすごく何パターンも呼び名を検討してから、一ノ瀬先輩は意を決したように言う。
「好きなものが、ハンバーグですか!?」
「そうですね、ハンバーグは好きです」
「ふ、ふーん。へえ。そうなんだ。じゃあ夜までいます。それまでなんにも頼まないのも申し訳ないし、デザートとかも頼もう、かな。おすすめある? おすすめっていうか、と、と、透吾くんの好きなやつ」
「私はシンプルにバニラアイスが好きですが、おすすめなら、本日のケーキです。抹茶ティラミス、美味しいですよ」
本日のケーキは、店長……姉の気まぐれで作られるもの。そもそも販売していない日すらある。
「じゃあ、抹茶ティラミスをお願いします」
「ドリンクセットになさいますか?」
「そうですね……えっと、アイスカフェオレ……あっ、抹茶とコーヒー系って一緒に頼まないほうがいい? 味が喧嘩する? ライバルみたいな関係性だよね」
だよね、と言われても、抹茶とコーヒーがライバルだなんて思ったこともなかった。
つい少し笑ってしまうと、なぜかものすごい形相で凝視された。笑い方が変だったかもしれない……というか笑ったのが失礼か。
「失礼いたしました。意外と相性はいいですよ。アイスカフェオレでもまったく問題ないかと思いますが、相性のよさで考えるとしたら、ミルクが一番いいのではないかと思います」
「……じゃあ、ミルクでお願いします」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
手を洗って消毒した後、ティラミスとミルクを用意して先輩のもとへ戻る。
彼女は宣言どおりに、夜まで残ってハンバーグも注文してくれた。お会計のとき、何やら物言いたげな雰囲気を出していたけど、結局特に何か言うわけでもなく帰っていった。
――そしてそれから、先輩は毎日喫茶店を訪れるようになった。
* * *
「と、透吾くん」
三ヶ月経っても、そう呼んでくる声はぎこちない。
残暑やら秋やら初冬やらが順番めちゃくちゃに混ざったよくわからない季節を越え、現在十二月。真っ当な冬を迎えていた。
「今日も少しだけ話し相手になってくれる? 他のお客さん来たらすぐに終わらせるから」
「……かしこまりました」
一応姉のほうをちらっと見るとサムズアップされたので、自分の分の水を注いできて、一ノ瀬先輩の向かいの席に腰を下ろす。姉は常連にはとことん甘いし、僕にも甘いのだ。
先輩はそわそわとした様子でグラスを持ち、カフェオレを一口飲んでから僕に向き直った。
「そろそろテストだけれど、調子はどう?」
「まあまあですかね。どれも平均点は取れるかなってくらい」
一ノ瀬先輩の話し相手を務めるときには、対お客様用ではなく対先輩用の話し方をさせてもらっている。別にいつもこの口調でも気にされなさそうだけど、こういうのはけじめが大事だ。
「先輩は?」
「私は数学だけ少し怪しい。でも他の教科は、クラスで三位以内は堅いと思う」
「すごいですね」
「それほどでも。毎日ここで勉強させてもらってるし」
一ノ瀬先輩は大抵二時間ほど滞在するが、僕と話さない時間は基本的に勉強をしている。見た目に似合わず……と表すと失礼かもしれないけど、真面目な人だ。
姉の話では、僕がいない日にも先輩は来ているらしい。本当にほぼ毎日。そして僕がいない日には……カフェオレを十分ほどで飲み切って帰っていくのだとか。
――この人は僕のことが好きなんじゃないだろうか、と最近ちょっと思っている。
初対面のときから態度がまったく変わっていないから、もしかしたら初めから。
理由は思いつかないし、そうだとしたらあの告白劇はなんだったのか、ということが引っかかるけども。
僕の見た目はぱっとしない。話し上手なわけでもないし、何か特技があるわけでもない。それに対して、一度だけ見たあの幼馴染だとかいう男の人はかなりのイケメンだった。
それでどうして僕のことを好きになるのか……いや、もしかして。
だからこそ、だったり?
好きだった幼馴染さんとはまるっきり違うタイプの僕が物珍しくて……みたいな。……それだとやっぱり、初対面のときから態度が一貫してることに説明がつかないか。
そもそも好かれていないという可能性もあるが、それにしてはあれ? と思うことが多い。というか、思うことばかりだ。
「もしよければ勉強教えようか、と提案しようとしていたんだけれど……必要なさそう、かな」
おずおずと窺ってくる先輩に、はっと思考を目の前のことに戻す。
「うーん……そうですね。そんなに高得点取りたいモチベもないですし」
「そ……そっかぁ。そうだよね。まあ、推薦でも狙わない限り、まだそこまで頑張らなくていいよね。一年生だし」
にこりと笑って、一ノ瀬先輩はうなずいた。
ちなみに一つ上の年齢だと判明していた先輩は、高三じゃなくて高二だった。来年になったら先輩は受験生なわけだけど、それでもこうして毎日来てくれるんだろうか。
「一ノ瀬先輩は、」
「え」
「……どうかしました?」
ぽかんとした先輩は、慌てたように少し顔を伏せた。
「……その、透吾くんにはいつも『先輩』と呼ばれていたけれど、それは『奈々子先輩』の略だと勝手に思っていて、びっくりしてしまったというか」
「……確かに、そう呼んでいいって言われてましたね」
心の中ではずっと一ノ瀬先輩呼びだったから、すっかり忘れていた。口に出すのは『先輩』単体で、今一ノ瀬先輩と呼んだことに特に意味はない。
……『奈々子先輩』。
呼べる気がしない。
自慢ではないが、本当に自慢にならないことだけど、僕は女子を下の名前で呼んだことがなかった。先輩、とつけるのなら、単純な下の名前呼びとはまた少し意味合いが変わってくるのかもしれない、けど。
ちらっと、先輩は上目遣いで僕を見てくる。
……そういえばこの三ヶ月で、先輩の化粧の雰囲気はかなり変わった。最初はかなり派手で、目の周りなんてきらきらしてたのに、今ではすごく自然というか、派手じゃない。髪の色は相変わらずだけど。
なんて余計なことを考えている間に、しゅん、と先輩の表情が陰り始める。う、あー、迷ってる場合じゃない。
「……な、奈々子せん、ぱい?」
途端、先輩は花が綻ぶように微笑んだ。そして何やら数秒押し黙ってから、深くうなずく。
「はい。奈々子先輩です」
「……嬉しそうですね」
「えっ!? そ、そんなことない。私は正気です」
「奈々子先輩にとって、嬉しいって正気じゃないってことなんですか?」
「感情の定義は私が決めていいことだと思う」
「定義の話はしてないような……」
「とにかく! 私は今、そんなに特別な反応はしてないよ。ごく自然な反応を心がけたから」
心がけたって言っちゃってる時点で、なんか違うんだよな。
じい、と見つめると、先輩は僕から目を逸らした。頬と耳が赤くなっていてかわ――いや、なんでもない。違う。
これじゃあ、好かれているかもしれないから好きになりそう、ということみたいだ。ちがう。そういうのじゃない。なんかそういうのって誠実じゃない。
「と、ところで先輩、えーっと、さっき何訊こうとしてたか忘れちゃったので、訊けてなかった別のこと訊くんですけど」
「うん、なに?」
「……こんな毎日来てるってことは、バイトもしてないですよね? お小遣いみたいなの、大丈夫なんですか」
なんとなく声を潜めてしまう。
うちのコーヒーはブレンドが400円、カフェオレでも450円と個人経営の喫茶店にしてはかなり良心的な値段である。だとしても、バイトもしていない高校生にとって毎日はさすがに厳しいだろう。
「あー、それね、うん。お年玉貯金かなりあるから、大丈夫」
「……普段のお小遣いは使い切ったってことですか?」
「……まあ、そう、とも言えます」
一ノ瀬先輩は視線を逸らしたまま身を縮こませる。気まずそうなその様子に、質問はここまでにしておこうかと一瞬迷う。
けれど結局、訊いてしまった。
「先輩がいいならいいんですけど――なんでそんなに毎日来るんですか? 別にうち、コーヒーにそんなこだわってるわけでもないですし、普通のカフェオレですよね?」
「そ、れは……」
視線があちこちに泳ぐ。眉がこれでもかというくらい下がっていて、人の顔ってこんなに見事に『困った表情』が作れるものなんだな、と思ってしまった。
唇を引き結んでいた先輩は、やがて深く息を吐いた。きりりと表情を引き締めて、僕と目を合わせる。
この空気はもしかして、と思った次の瞬間には、先輩は口を開いていた。
「――き、きみのことが、好きだから」
「…………なんでですか?」
――確実に間違えた。やってはいけない第一声だった。正解はわからないけど、これが間違っていることだけはわかる。
僕の反応に一ノ瀬先輩はぎょっと目を見開き、慌てたようにわたわたと手を動かした。
「だ! だって、ほら。私が振られたとき、透吾くん……優しく? してくれたし」
「特に優しくした覚えがないです……」
最初を間違えたら、あとはどれだけ間違えても同じかもしれない。そう開き直って、素直に答えることにした。
一ノ瀬先輩はひくりと顔を引き攣らせる。
「私、傷心中だったから。振られた直後なら、些細なことを優しさと認識してもおかしくないでしょう?」
「……それはそうかもしれません」
「それに三ヶ月って、人を好きになるには十分な時間だと思わない?」
「そうかもしれませんけど……」
「……一緒にいるの、楽しいし」
「ありがとうございます……?」
「どうして疑問符をつけるの」
「ぎもんふ……ああ、いえ、楽しませられるような会話術も持っていないので、不思議だなと」
あんまり日常会話で聞く単語じゃないから、脳内で漢字変換がとっさにできなかった。
「僕は先輩と一緒にいるの楽しいですけど、逆はぴんとこないというか」
僕が先輩を好きになる理由ならいろいろ思いつく。まずとても可愛いし(これは単純な事実だ)、人の悪口や愚痴を全然言わないし(これはまだ僕に心を許していないだけかもしれない)、言葉選びがなんだか面白いし(これはただ人として好きになる理由かもしれない)、好意がわかりやすいし(これを好きになる理由にはしたくない)、優しいし、律儀だし、穏やかだし、誠実だし。
でも、逆は、なぁ……。
うーん、と首をひねると、一ノ瀬先輩はぷるぷると体を震わせ――
「あーーっ、もう!! 知らない知らない知らな~い!! 透吾くんのこと好きな理由なんて知るもんか! 私が訊きたいよぉ!」
大声で叫んだ。
一ノ瀬先輩ははっと我に返った顔で、カウンター内にいる僕の姉のほうを振り向いた。……ここ音楽かかってないし、最初から丸聞こえだと思うけどな。
僕も姉のほうをおそるおそる確認してみる。姉は一ノ瀬先輩に対してはにこりと微笑み、僕に対しては親指を勢いよく下に向けた。だよね。ごもっともな反応で……。
一ノ瀬さんは顔を真っ赤に染めて、僕のことをキッと睨みつけた。
「こんな――告白してきた女の子をデリカシー皆無で問い詰める子、私だってどうして好きになったかわからない」
「す、すみません」
「せっかく三ヶ月かけて、私が透吾くんを好きになってもおかしくない理由を作れたと思ったのに」
「う、うん? ……とりあえず、三ヶ月かけてってことは、やっぱり最初から……僕のことが好きで……?」
「もうこの際全部話す」
先輩はやけになったようにため息をつく。それでもややためってから、「一目惚れだったの」と消え入りそうな声で言った。
「学校からの帰り道、たまには気分転換に全然違う道行ってみようと思ったら、いい雰囲気の喫茶店を見つけて……中を覗いたら、ちょうどきみが接客しているところだった。そのときの……え、笑顔に、胸がぎゅんとなって」
「……接客用の笑顔に……?」
いつもやっているように笑ってみると、「本当にデリカシーがない」と怒られた。すみません……。
一ノ瀬先輩はむすっとした顔で続ける。
「一目惚れって……されたら怖い人もいるかもしれないでしょう。私は透吾くんに、怖がられたくも、気持ち悪がられたくもなかった。
それに私だって、信じられなかった。見ただけで好きになることなんてある!? 理屈がわからないなんて、怖すぎる。だから――わかる理屈を作ろうと思ったんだ」
「……?」
理屈って、作れるものなのかな。
さっきもよくわからなかった『私が透吾くんを好きになってもおかしくない理由』って、つまりその理屈ってことか。……後付けで?
「傷心直後に関わりを持てば、それで好きになったってことにできると思って……幼馴染に協力してもらったの。あいつのこと好きだって思い込んで、透吾くんとすぐに関われるようにここを告白の場にして、それから今まで十分交流したし、透吾くんにとっては、好かれるに値する理由がある程度はっきりわかる段階になったと思った。……全然わかってなかったみたいだけれど」
「……すみません」
全然わかりませんでした。いくら思い返しても最初から今までずっと同じ態度だから、でも最初から好かれてる理由がわからなくて困惑してました。
先輩の目つきはますます鋭くなる。
「そもそもあいつのこと好きとかないし。思い込めなかったし、振られたって別にそれが? って感じで涙も出なかったし! 頑張って演技したのに、自分の心を騙せなかった」
やっぱりあれ、泣いてなかったんだ……。三ヶ月越しにわかった真相に、まあそうだよなと納得する。
「これで透吾くんがアイドルみたいにイケメンだったら話が早かったのに……いえ。これは透吾くんがかっこよくないと言っているわけではなくて」
「えっ!? 先輩僕のことかっこいいと思ってるんですか!?」
「……いちいち、そういうの、訊かないで……! 今日はいつにも増してデリカシーない気がするのだけど。なに? 開き直ってますか?」
「ごめんなさい。開き直りやめます……」
「うん、やめてほしい。混乱させた私も悪いけれど、話が進まないし」
余計な口、挟まないようにしよう。
先輩は僕をじろりと睨んで、息を吐いて、拗ねたように少し唇を尖らせる。
「……接客用の笑顔より、普通に話してるときの笑顔のほうが可愛いって知った」
先輩僕のこと可愛いと思ってるんですか……??
余計な口を挟まない、挟まない。自分に言い聞かせて、なんとかぎゅっと口を閉じたままにする。
「デリカシーないし、笑ってしまうような面白い話もしてはこないけれど、それでも……私の話をちゃんと聴いてくれて、惰性じゃなく、ちゃんと会話してくれることを知った」
僕ってそんなふうに言ってもらえるほど、ちゃんと会話できてたかな……。僕なりに先輩に向き合ってきたつもりではあるけど……。
「……でもそういうのじゃないの、たぶん」
一ノ瀬先輩はうつむいて、それからすぐに顔を上げた。僕の目を見つめてくるその目は、涙も溜まっていないのに、泣いてしまいそうに見えた。
「怖いけど、理屈が欲しいけど、理屈じゃない、みたい。なぜか私は、透吾くんのことが好き。どうして? 誰かわかるなら教えてほしい、それか私が納得できる理屈を作ってほしい」
「……僕がどうなれば、先輩は納得できますか?」
え、と先輩は目を丸くした。
きょとんとした彼女に、小首を傾げて伝える。
「僕がイケメンだったら納得できたんですよね。顔はもうどうにもできないですし、整形も怖いからしたくないですけど……他に、努力でなんとかできることがあって、それで先輩が納得できるなら頑張りますよ」
僕としては、何かおかしなことを言ったつもりはなかった。
なのに一ノ瀬先輩は目を見開いて、その数秒後には疑うように眉をひそめる。
「……透吾くん、私のこと好きなの?」
「え? いえ……あ、人としてはとても好きですが、恋愛的意味としては別に」
「好きじゃないのに、そこまでしてくれるの? 同情?」
「同情、とも違って……自分でもよくわからないですけど……うぅん」
思っていることを正確に伝えなければ、このままずっと問答が続いてしまう気配がした。僕としてはそれでも構わないけど、途中でお客様が来て中断されてしまうのが一番嫌だ。
「先輩が困ってるのは、嫌なので。すっきりしてもらいたいです」
「それは同情ではないの?」
「違うと思います。家族とか友達が困ってて嬉しい人なんていないですよね?」
「……だからといって、私の納得のためになんでもやりますっていうのはおかしくない? たとえば、他の友達のためにそんなことする?」
「そのときになってみないとわからないです」
誠心誠意、思うがままに答えを続ける。
先輩は難しい顔で黙り込んだ。自分の中で何かを整理したいんだな、と判断して、邪魔をしないように静かに水を飲む。
ちらっと姉のほうを見やると、やけにアメリカンな動作で肩をすくめられた。なんなんだよ。
「……透吾くんは私のこと、好きなんじゃないかな」
「え……違うと思いますけど……」
否定した僕に、それでも先輩は「好きだと思う」ときっぱりと言った。
「きっとそう、絶対そうだ」
「ええ……違うと思うんだけどなー……。好きになってもおかしくない理由はありますけど、だからって納得できません」
そう渋ると、先輩は神妙な顔で「透吾くん」と名前を呼んできた。
「――恋は理屈では、ない」
「先輩がそれ言うんですか? 理屈が欲しくて、なんか……よくわからないめんどくさいこと計画したのに?」
「理屈ではないよ、透吾くん」
スルーされた。
「納得できなくても、それが恋ということは認めなくてはいけません」
「えええ……? これが、恋……?」
ものすごく小っ恥ずかしい言い方をしてしまった気がする。少女漫画のヒロインにしか許されない言い方だった。
先輩はなおも神妙な顔で……けれど耐えきれなくなったかのように、ふふふ、と笑みをこぼした。
「透吾くん。納得できる理由を探すために、私と付き合ってみませんか」
「……それ、目的と手段が逆っていうか」
「逆でだめなこと、何かある?」
「いやぁ……ないかもしれないですけど」
「じゃあ問題ないね」
「僕の名前呼ぶのすらぎこちなかった人の強引さとは思えないんですけど……」
「し、下の名前で呼ぶ異性とかほとんどいないんだから仕方ないでしょう……」
そうなんだ。先輩って男子ともよくつるむタイプに見えてた。
正直まだ、先輩のことは知らないことのほうが多い。先輩にとってもそうだろう。表面的な会話しかしてこなかったわけでもないけど、そういう会話が多かったことも確かだ。
だから、こんなのでいいのかな、思う。
付き合うって、よくわからないけど。もっとお互いのことを知ってから、相手のことを好きだとはっきりわかってからするべきなんじゃないか。
「透吾くんは頑張らなくていい。付き合ってくれたら、いつか私が勝手に納得するから。納得できなかったら別れるだけだし」
「……なるほど。そういうことなら、わかりました」
「待って、そういうことならってどういうこと。念のため言うけれど、別れる前提で、軽い気持ちで付き合ってほしいわけじゃないからね」
「わかってますよ……先輩が納得してくれるなら、ってことです」
この三ヶ月でひしひしと感じていたことだけど、先輩って結構面倒な人だ。僕が言えることじゃないだろうけど。
なんとなく気が抜けて、ふう、と息を吐く。
「じゃあ、これからもよろしくお願いします」
「……うん、よろしく。手始めにデートの予定を取り付けたいのだけれど」
「テスト前ですけど……」
「あ」
しょぼくれた顔をされて、思わず小さく笑ってしまう。
「テスト前は自習室とか図書館とかで一緒に勉強して、帰りにどこかでごはん食べる、くらいでどうですか」
「天才的なアイディアだよ」
「テスト終わったら、普通に遊びにいきましょうね」
「……楽しみ」
ちょっと照れたように、先輩はご機嫌な様子で笑った。今まで見た中で一番可愛い表情だった。
「……僕の笑顔が可愛いは全然わからないですけど、先輩の笑った顔は可愛いですよね」
「…………透吾くん、私のこと可愛いと思うの?」
「だって事実、可愛いじゃないですか」
「私が可愛いという事実よりも、透吾くんには私が可愛く見えている、という事実のほうが大きい気がする」
「……? 何か違いありますか?」
先輩は真顔になって、もにょ、と口元を歪ませて、ジト目になって。
それから仕方なさそうに頬を緩めて、「ないかもしれない」とつぶやいた。