甘い匂いのする部屋で
マンションの陰に入って、二人で雨を凌ぐ。
「……勘違いしないでよね。ちょっとコーヒーでも飲んでってもらおうかなって思っただけだよ。それとも、やっぱワンチャン私のこと襲おうとか思ったわけ? ほんと最低──……」
既に何度も見てきたように、冷徹な声色で暴言を吐く莉緒。しかしセリフの途中でピタッとフリーズする。
どうしたのかと思っていると、彼女はマンションの壁に自分の頭をガンガン打ちつけ始めた。
「ちょっと! 何やってんの!?」
「…………こっちのことだから。気にしないで」
額から滴る血をものともせず、無表情でこんなふうに答える様子はダウナーとかそんな問題じゃなく普通にホラーだ。とりあえずポケットティッシュを貸してあげて血を拭かせることにした。
でも、ちょっと腑に落ちない感じもある。
勘違いするなとか言ってるところからして、やはり莉緒は自分のことを性的な意味で見られることに相当な拒否感を抱いているものと思われる。なのに、俺を自分の部屋に招き入れようとしたりする。
一人暮らしの部屋に男を入れるってのは、女の子にとっちゃ危険極まりない状況でしょ……?。
額の血を拭き終えた莉緒はなぜかまた腕を組んできた。おちおち考え事をしている暇もない。しかも、俺にピッタリと張り付いて、芸術的な巨乳を押し付けながらじーっと俺を見上げてくるし。
自らの煩悩に飲まれそうになってしまった俺は、例の如く煩悩に効果てきめんの秘策に走る。もちろんそれは聖人君子を憑依させたかのような精神統一だ。
エロと真逆のことを考えようとした俺がここで思い浮かべたのは汚いおっさんの映像だ。本来ならこれで何もかもが沈静化するはずだった。
しかし一つだけミスを犯す。目の前の莉緒から視線を外すのを怠ったのだ。それによって絵面がミックスされ、汚いおっさんが美人OLにセクハラしまくっている画像が頭の中で出来上がったしまう。
おおお……これは無理だ。
沈静化どころかむしろ活性化。
最終手段として俺は自分の頬を自分の拳で何度も何度もぶん殴った。
「ぐふあっ」
「えっ、何やってんの!?」
「…………こっちのことだから。気にしないで」
「ったく。君はほんと、つくづく変な人だよね……」
誰がどう見てもお互い様だよ!
「……ほら、こっち」
組んだ腕をさりげなく引っ張りながら、有無を言わせない空気感で部屋へ強引に誘導される。
彼女は玄関ドアを開けて俺を引っ張り込み、流れるような動きで照明をつけた。
もはや逃げることは叶わない。むしろどうして逃げる発想が浮かぶのかが分からない。きっと、こんなにもダウナーで性的対象として見られることを拒否しているはずの莉緒が、今なぜか肉食獣に見える気がするからだろうと思う。
「お邪魔しまぁす……」
「……どうぞ」
俺の想像とは違って、部屋の構成は1Kとかではなく、ファミリータイプのやつだった。ま、オーナーさんの住居として作られているならそりゃそうか。
内装に関しては俺の想像通りだった。
常に影のある莉緒の部屋は、女の子っぽいイメージを連想させるピンク色とかパステルカラーには彩られておらず、普通にブラウンのカーテンが取り付けられ、グレーのマットが敷かれていて、テーブルだってブラックだ。
俺は、カバンを邪魔にならなさそうな端のほうに立てかけた。
「……へぇ、すっごいね。ここに一人で住んでるの?」
言いながら振り返ると莉緒はまだ玄関のところにいて。
ガチャン、と扉を施錠し、チェーンフックまで掛ける。
「……なに?」
「えっと。いや、鍵がね……」
「……家に入ってから鍵もかけずにいるなんて不用心でしょ」
なんとなく筋が通ってるっぽい理屈でボソボソと言いくるめられたが、まだ背筋がゾゾっとしてる。
「コーヒーにする? それとも紅茶? ジュース?」
「あ、コーヒーで。俺、ホットコーヒが好きでさ」
「……そこのソファーに座ってて」
「あ、それより先にそのおでこの傷をなんとかしようよ! バンソーコーある?」
「…………ない」
ないのかよ。
じゃあ、俺のを使うか。
俺はなぜか普段から不良によく絡まれるので、いつ何時怪我をするかわからない。よって、バンドエイドは必需品。
ほぼ無傷で済むこともあるけれど、ガッツリ出血することもまあまああるのだ。
だから、最高級品のバンドエイドをいつも持ち歩いている。
「ほら、ちょっとこっち向いて」
ぶすっとした表情をしつつも大人しく俺の言うことをきく。こういう顔も可愛いのは美少女だけが持つ特権だ。
俺にバンドエイドを貼られているあいだの莉緒は、いつもとは打って変わってまるで子供みたいに無垢な表情だった。
そういや前にも一度だけこの顔をしたことがある。神田と上田からかばった時だ。
いつも暗い顔してるからめちゃくちゃギャップがあるし、こっちのほうが百倍可愛い。バンドエイド貼られる時しかこの顔をしないなら、額のバンドエイドは常に俺が貼ってやろう。しかし額が割れるほどドタマで壁を殴るなっての。
「はい、オッケーだよ。」
莉緒はおでこのほうに視線を向けながら、手で額をスリスリしつつ「ありがと」と呟く。
そのまま、小さくて可愛い手を俺に差し出した。
なんだろ?
「もう一つちょうだい」
「ん? まだどっか怪我してるの?」
「……そうじゃないよ。悠人の頬からも血が出てる」
確かに頬がヒリヒリしてる。触った拍子に、指に血がついた。そんなに大量出血してるわけじゃなさそうだけど、擦り傷みたいになってるようだ。
そういや、自分で殴ったんだったな……。
「まあ、これくらい大丈夫だよ。ってか自分でやったんだし──」
「……自分でやったから手当しなくていいって理屈はない。それなら私も一緒でしょ?」
ボソボソと論破された俺は、「まあね」と返してカバンの中からバンドエイドを取り出した。
ソファーに座るよう促される。俺の頭の位置を低くしてから、莉緒は俺の頬にバンドエイドを貼ってくれた。
傷口を真剣な目で睨みながら、ん〜〜、と唸りつつうまく貼ろうとする様子にドキドキしてしまう。バンドエイドをしっかり貼るために俺の頭に手を添えたりするところなんて特に。
「……はい、終わり」
暗めの声でそっけなく言って、リビングダイニングにあるキッチンのほうへと歩いて行った。それを見送りながら、俺は柔らかそうなソファーへ背中を沈めて、部屋の中をじっくり見回す。
確かに、部屋の見た目に女子っぽさはない。
でも、部屋中に漂う匂いがうっすらと甘い気がする。俺は両手を真横に広げて胸いっぱいに吸い込んでみた。
何度もこんな動きをする俺をどうやらキッチンから観察していたらしい莉緒は、疑わしげにこちらを見つめていた。
「……なにしてんの?」
「いえ……なんにも」
「……まさか、なんか臭う?」
「あ、違う違う! 逆だよ、すごくいい匂いがするんだ。普段、何かアロマでも焚いてる?」
「全くなにもしてないよ。そんなに匂いするかな」
なにもしていない割に、微妙に花の蜜みたいな匂いがするんだよな。女の子の部屋って先入観が、俺に幻臭でも嗅がせているのだろうか。
でも、この匂い、なんだかどこかで嗅いだ気が──……
「──あ、わかった! 莉緒が抱きついてきたときに、こんな匂いがしたんだよ」
「…………っっ」
相合傘をしていたときは、雨の匂いでイマイチわからなかったけど。
うん、やっぱそう。教室で俺に力いっぱい抱きついてきた莉緒からは、確かにこんな匂いがした。
莉緒は、俺のリクエスト通りにホットコーヒーを淹れてくれた。
俺が座っているL字型ソファーの前にあるテーブルにコトン、と置くと俺の隣に座る。自分の分はミルクティーだ。
「ありがと」
「変態」
「いて」
頭にコツンとチョップをかまされた。
こうやって照れたようにポツリと言ったりする莉緒を見てると、なんか胸の内側がくすぐったい。
「……どうせ、こんなキツいことばっか言う奴、嫌いでしょ」
かと思ったら突然こんなことを言い出したりして。
最初はただ単に俺を嫌っているのかなぁとか、近づいてほしくないのかな、なんて思っていたんだけど、それとはちょっと違ったのかもしれない。
「そんなことないよ」
「嘘。好かれる要素、ないよ──……」
「自分をどんどん出してくれる莉緒のこと、俺は好きだよ」
何も言わずにただ睨まれるよりは……と付け加えるのを、俺はやめた。
莉緒が自分を出してくれるなら、俺だって、思ってもないことを口にするのはやめたほうがいいと思ったんだ。
莉緒は、驚いたような、泣きそうなような……説明が難しいが、俺がまだ見ていない表情をする。
例えるなら、何日間も井戸の底に閉じ込められた人が、遠くに見える青空に割り込んだ人影を見つけたなら、こんな顔になるのかもしれないな……と思った。
莉緒は俺に背を向けるようにして、俺の股の間にお尻を置く。
俺のすぐ目の前に、莉緒の後頭部が見える。さっきまでとはまた別の、シャンプーとかそんな香りのする髪の匂いがふわっと漂う。
莉緒は、とすん、と俺に体重を預けてきた。莉緒の頭が俺の肩の上に乗っかっているので、俺の視界には、上を向いた莉緒の顎のあたりが少しだけ見えていた。
ドクン、ドクンと鼓動が踊る。
そりゃ当然だ。こんなことするなんて、友達の範疇を超えていると思うし。
こんなレベルで女子と体を接触させたら、健全な男子が煩悩を退散させるなんてほとんど不可能だ。
「……なにしてんの」
「このまま。ぎゅってしてて」
俺は、莉緒のリクエスト通りに莉緒のお腹のあたりに手をまわす。
制服のシャツ越しに、莉緒のお腹の温度がうっすらと俺の手に伝わってくる。
莉緒の頭に、自分の頭をコツンとくっつけた。
意識を真っ白にしたまま、莉緒の香りに浸される時間が過ぎる。知らず知らずのうちに体が反応し、もう後戻りできない領域へ踏み込んだと俺が自覚した頃、莉緒の頭にくっつけていた俺の頬に、冷たいものが触れた。
俺の意識は、すぐに正気を取り戻す。
それは、涙に違いなかったから。
スン、と小さく鼻を啜る音が聞こえ、莉緒は吐息を荒くしていく。しゃっくりをするように体を小さく震わせて、声にならない嗚咽を漏らすよう。
俺は、静かに泣く彼女のことを後ろから抱きしめ続けた。
いつも陰のある顔をしている莉緒は、やはり何かに苦しめられているんだろう。
家には親もおらず一人暮らし。学校には友達もいない。
仮にずっと一人で生きてきたとしたなら、こうやって人の温もりを感じるのは久しぶりのことなのかもしれない。
やがて体の震えが止まると、莉緒は自ら立ち上がる。
泣き顔を見られたくなかったのか、こっちを振り返ることなく洗面所がありそうなほうへと歩いて行った。
少しだけぬるくなったコーヒーに口をつけ、俺は彼女が帰ってくるのを待つ。あんなふうに泣いた莉緒が心配だったけど、見られたくないのなら、このほうが良い気がしたから。
帰ってきた莉緒は、俺のことを見ずに、俺の隣に座る。
ぱっと見でも目が腫れているのはわかったけど、それには触れずおいた。
莉緒は体を俺にひっつけ、頭を俺の肩に預けた。俺も同じようにする。
どうするのが正解なのかなぁ、なんて悩むこともなく、そうしたいから、そうしてあげたいからそうする。
しばらくそのままじっとして、彼女の体温を感じることにした。




