完璧なる結果を得る
飛び降り自殺未遂現場には警察や消防が駆けつけて、なかなかの騒ぎになっていた。どうやら誰かが通報していたらしい。
あのスーツの人が助かったことと莉緒は無関係じゃないと俺は疑っていたんだけど、当の莉緒はカフェにある屋外テラスの二人席テーブルで頬杖をついて、トロピカルジュースをストローでちゅうちゅう吸いながら平然としている。
表情には影がある。どうやら、風華ちゃんから莉緒に戻っている。
言うべきか、言わざるべきか。
ここで俺は「思ったことをきちんと出していく延長線上に、人を幸せにしたりすることがある」と莉緒へ言った自分の言葉を思い出した。
自分でこう言った以上、尋ねたいと思ったことを内に溜め込むべきじゃないよな……。
「ねえ、莉緒」
「……なに」
「君って、不思議な人だよね」
「……あんな水着を選ぶ人に言われたくないんだけど。最後に選んだのだって結局まあまあなビキニだったよね?」
なんか恨みがましく言われた。お店を出た直後は安堵していたけど、よくよく考えたらおかしいことにようやく気づいたらしい。今さら気づいても後の祭りだ。
しかしそれを言うなら俺が選んだ水着を黙って着続けた君のほうがよっぽどおかしいよ、と俺は言ってやりたかった。
「不思議ってのはさ、そういう意味じゃないよ。性格的な話じゃなくてさ、たとえば体から風が出たりとか」
単刀直入にぶっ込んでやったら莉緒はトロピカルジュースをブッと音を立てて吐き出した。
俺は慌ててペーパータオルでテーブルを拭く。
「……いきなり何言ってんの?」
「そうだよね……あ、ねえ莉緒、ちょっとこっちに来て」
俺は、莉緒に手招きして近くへ寄るように合図する。
疑い深げな表情になりながらも、莉緒は俺に言われるがままテーブルに両肘をついて前のめりになってくれた。
俺も同じような姿勢になり、莉緒の頬を、両の手のひらでそっと包む。
「…………っっ!!」
近くで観察してみても、黒い瞳はさっき見た鮮やかな青色の兆候を全く示してはいない。
実は莉緒がハーフとかだったなら、よく見れば元からそういう色が混じっていたりして、光の加減で青く見えることもあるのかな……なんて思ったのだけど。
まあ、あれはそんなレベルの色合いではなかったしな。
結局、いろいろ角度を変えて観察したところで色合いが変わることはなかった。
黒だと思っていた瞳は案外茶色な感じに見えて、ああ、日本人の瞳ってよく見るとこんな色なんだ、とか感慨深げに俺は覗き見ていた。
観察対象である瞳に注意を取られていたからか、その他の変化をなぜか俺は見落としていた。こんなに大きな変化、普段なら見逃すはずはないのだけど、超常現象の類が目の前で起こったように思えたせいで頭からそういう発想が抜け落ちていたのかもしれない。
莉緒はチンチンに顔を上気させ、その熱は俺の手のひらをホカホカに温めている。
ツンツンした表情を維持できなくなってあどけない顔を晒したまま、「近くに寄ってこい」という俺の命令を健気に守ってじっと固まっている。
「……やっぱり、ひ、瞳の色が変わったりするとか、妄想かな」
現在の状況をようやく客観的に理解した俺は、ただ単に瞳を見ていただけですよというのを装うために誤魔化しついでにこんなことを言ってみた。
でも内心はダメだ。そんなふうにドキドキされると、こっちも──……
「……そ、そんなこと、あるわけ、ないじゃん。ってか、キスされるかと思ってびっくりしちゃったじゃない」
元々俺はキスなんて全然する覚悟じゃなかったし、莉緒も俺の一言で事情を理解してテンパった心が沈静化に向かっていたんじゃないかと思う。
だから、このまま俺が手を離せば全てが元通り。何気ないカフェのひとときが続くだけだったろう。
なのに、嫌がる風でもなく、キスされそうだったにもかかわらず何の防御措置も取ろうとしなかった莉緒のこのホッとしたような一言が、俺の体のどこかにある何かのスイッチをカチン、と入れた。
瞬間、ボワっ、と燃え上がった熱に脳が溶かされる。
ほんの一秒前に考えていたことが何かすら、跡形もなく消し飛んで思い出せなくなるくらいに。
思考を経ることなく、脳を焼いた熱は俺の体を勝手に動かす。
俺は莉緒の唇に、自分の唇を触れさせていた。
二、三秒の時を経て、「場所が場所だぞ!」と俺の理性が急に警告を発した。
ここはカフェの屋外テラスだ。多くの人が行き交う通りからもよく見える。人目を気にせずキスをするバカップルみたいな状態に自分が陥っているぞ、と。
予想外なことが起こると、それに続く出来事もまた予想外なものになるのだろうか。
俺が唇を離す前に、莉緒が反応してきた。莉緒の舌が、俺の唇をこじ開け俺の舌を求めて口の中を這い回る。
体って、案外オートで動くものだ。どうすればいいかを体が勝手に選択していく。
俺は「したいか、したくないか」だけを心に決めればいいらしい。
粘膜と唾液のコミュニケーションに溺れながら、ふと瞼を開ける。
莉緒の後ろを通り過ぎようとした店員さんと莉緒の頭ごしに目が合った。
どうみても好奇の視線。それを気まずそうに逸らす様子に俺の体温が一度くらい上昇した。
バッと体を離した拍子に、テーブルがガチャンと派手に音を立てる。
それで初めて莉緒も周囲の視線に気付いたようだ。
俺たちが慌てて周りを見回すと、店員さんだけでなく他の客も、そして通行人でさえもが微笑ましそうにしていた。
バクンバクンと鼓動の音がうるさい。
顔が熱くなって、汗が噴き出る。
やっぱエアコンの効いた店内のほうが良かったかな、とか特段今考えなくてもいいことを考えつつ、俺はシャツをつまんでパタパタさせる。
莉緒は両手を膝の上にして、羞恥心で泣いてしまいそうな様子でうつむいて、もうすぐしたら溶けてしまうんじゃないかと思うくらいにぽっぽと蒸気をあげていた。
俺だって恥ずかしいけど、見る限り莉緒は完全にそれ以上だ。
こんな莉緒に、俺、なんて言ってあげればいいんだろう。
いきなりこんなことしてごめん、って?
いや、謝ることなのか。嫌なことをさせたのだろうか。それは莉緒が嫌がっていたと判明したなら、結果そう言えばいい。
なら、今、この場においては何が適切なんだろう。
「めっちゃ気持ちよかった!」か? それは確かにそうだけど、あまりにもあからさまで直接的で肉欲的すぎる。ムードのかけらもない言い方だ。
そうこうしていると、うつむいていた莉緒が、おずおずと顔をあげて上目遣いで俺を見る。
結局、俺は莉緒を見つめて、何も言わずに微笑んだ。
莉緒は盛んに視線を泳がせながらパチパチと瞬きをしていたけど、俺に視線を戻した時には、彼女もまた照れくさそうに微笑んでくれた。
俺は、莉緒とのキスの味を消したくなくて、コーヒーには口をつけずにいた。
莉緒もまたトロピカルジュースには口をつけていない。
莉緒は時折、控えめに舌で唇をなぞる。
唇に残った俺の唾液が、俺とのキスの味をもう一度味わわせてくれると莉緒が考えているように思えて、俺は莉緒がたまらなく愛おしくなった。
俺たちは、そのまま何も喋らずに、しばらく見つめ合ったり、微笑み合ったりして過ごした。
◾️ ◾️ ◾️
〜莉緒の脳内会話〜
「はぁ……もう死んでもいい」
『よかったじゃん! 大成功だよ、このデートは。飛び降り自殺志願者が出た時にはどうなることかと思ったけど、奇しくもあの案件もまたこのキスに繋がってたね。風華たちの存在も含めて、全ての要素がそれぞれの役目を果たした結果、って感じだねぇ……なんか運命を感じるよ』
【我が弟子ながら良くやった。昼の弁当を一緒に食べることから始まり、水着売り場では極限の羞恥心に耐え、悠人のSっ気を引き出すことに粉骨砕身したことが最後のギフトにつながったのだ。お前の努力が身を結んだ会心の結果だ、莉緒】
「ありがとう諸先輩方。正直最初はこいつら何言ってんのって感じだったけど、言われてみたら全部繋がってたってのはあながち嘘じゃないよね。私一人じゃ、絶対にこの結果にはなってなかったよ」
【確かにそうだが、しかし全てのミッションを成し遂げたのは、莉緒、お前自身だ。自分を出さずに生きてきたお前が、初めて大切なものができて、全てをかなぐり捨てて挑んだんだ。俺たちはそのサポートをしたまでだ】
「アニキ……やっぱ最高だよあんた」
『そんでさ、悠人とのキスはどうだった?』
「ええっとね……めっちゃ柔らかかった」
『食レポ下手くそなリポーターか。もっとあんでしょ、桜まんじゅうでもおんなじ感想出るわ』
「えぇ──……そんなこと言われてもなぁ。……まるでマシュマロのようなふんわりしたまろやかさと、唾液でうっすら濡れた瑞々しい彼の感触を私の唇で受け止めた瞬間、私の体にビリッと電気を走らせて──」
『ごめん私が悪かった。それにしても、とうとう莉緒もオトナの仲間入りかぁ。でもまだ恋愛の沼に足を片方突っ込んだレベルだね。次はセックスかぁ……』
「えっっっ!! ちょっ……それ、もうやるの!?」
『だってあんた、ぐっちゃぐちゃに愛し合いたいって言ってたじゃん。その夢をとうとう叶える段階が近づいて来たんだよ』
「それはそうだけど……でも、怖いなぁ……」
【怖い気持ちは分からんでもない。誰でも最初は怖いのだ。しかしだ莉緒、好きな異性と結ばれるんだぞ? これまで蓄えた事前知識を使ってどんなことを二人ですることになるのか具体的によく想像してみろ。その結果、愛する人と一つになって、まるで溶け合うような感覚を味わえるんだ】
「ごくっ……」
『くっくっく……』
風華の押し殺した笑い声が多少気にはなったが、今日の完璧な結果をもたらしてくれた雷人と風華のことを、もう私は疑ったりするつもりはない。
脳内会話している間はいまいち意識してなかったんだけど、ふと気づくと私はカフェを出てすぐの路地で、悠人の胸に顔を埋めていた。
並んで歩いているだけじゃわからなかった「悠人の匂い」がシャツ越しに私へ沁みて、思考をどんどん真っ白にしていく。
私のことを優しく抱きしめていた悠人は、そんな私の頭を優しく撫でてくれた。
それからはいろんなお店を見てまわりつつデートを続ける運びとなったが、その頃にはもう、私たちは手を繋いでいた。