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第25話 「光と影」

皆様、いつも「無双の体はチェンジでお願いします!?」をお読みいただき、誠にありがとうございます。

いよいよ物語は佳境に入り、静香と東王公、そして神楽院真央との最終決戦が始まります!これまで少しずつ描いてきた「変化」と「永遠」のテーマが、ついに交わる瞬間です。

今日から4日連続で、25話から最終回となる28話までを投稿していきます。静香の成長と、摩利支天の力の真髄が明らかになる物語の結末を、どうぞお楽しみください。

それでは、第25話「光と影」をお届けします!

  1.「行先」


 目黒の訓練所を出た頃には、朝に立ち込めていた霧も晴れていた。雲一つ

 ない初冬の空の深い青と、冷たい空気が冬の訪れを告げていた。それでも、

 走り詰めの静香と小太郎は汗を噴き出すほどだった。


「ここで一息入れよう」

 小太郎の言葉に静香は頷き、道端の茶屋の軒先で短い休憩を取ることにした。


 茶を飲み干す間も、静香の胸はざわついていた。今日が果たし状の日。お咲

 の救出と神楽院真央との決着をつける日。だが、一番の不安は、自分の中で

 芽生えた新しい力をどう扱うべきかということだった。

 指先に浮かぶ琥珀色の光、そして膝元で転がるうり坊の存在。それらは

 彼女の一部であり、同時に摩利支天の力の現れでもあった。


「行こう」


 日本橋を越えた頃から、背中に視線を感じるようになった。振り返っても

 誰もいない。だが、間違いなく見られていた。町の喧騒の中にあっても、

 その視線だけが異質に感じられる。うり坊が小さく唸り、警戒を示した。


「気が付いたか? 」

「……ええ。見られていますね」


 小太郎はさりげなく周囲を見回した。道行く人々は普段と変わらない足取り

 行き来しているが、どこか人々の表情が曇っているような気がするのは、

 神経質になっているからだ。


 昼七つ(午後四時)を過ぎ、西日が伸びる頃、湯島天神の参道へと足を踏み入

 れた。辺りに漂う張り詰めた空気は、もはや無視できないほど濃密なもの

 となっていた。参道の杉並木は初冬の日を遮り、長い影を地面に落として

 いる。だが、それ以上に音の不在が異様さを醸し出している。


「いつもなら聞こえる雀や鳩のさえずりが一つも聞こえないな…… 」

 小太郎の声は緊張を帯び、低く沈んでいた。

「まるで、私たちが来るのを待っていたみたいですね」


 静香の言葉に小太郎は無言で頷き、腰の刀に手をかけた。その指先のゆっく

 りとした動きが、彼の内にある警戒心の高まりを物語っていた。


 うり坊静香の足下で落ち着きなく動き回り、体から放つ光が強くなった。

 小太郎にはこの存在は見えていないようだが、静香にはその暖かな気配が

 心強く感じられた。


 二人が天神の境内に足を踏み入れた途端、地面から「ザザザッ」という音が

 響いた。まるで大地が呼吸を始めたかのように、土が盛り上がる。それは

 人の形を摸しながらも、手足の関節が逆に曲がった不自然な姿だった。


「何だこいつらは? 」


 小太郎の声には嫌悪感が滲んでいた。彼は素早く刀を抜き、静香の前に立ち

 はだかった。


 土の塊が五体、十体と増え続け、いつしか二十体を超えていた。無表情な顔

 には目鼻が浮かび上がるが、生気はない。ただその虚ろな眼窩からは紫色の

 不気味な光が漏れ、地面を紫の霧が薄く覆い始めていた。


 紫の霧に触れた草木が、みるみる枯れていく。

 (これは陰陽師の技でも、神楽院真央の力でもないわ。まさか、東王公の…… )


「お静、行け! 」

 小太郎が前に踏み出した。その背中は以前より頼もしく、静香を守る決意に

 満ちていた。


「奴らは、お静と俺を引き離すのが狙いかもしれん。だとすれば、お前がここ

 で力を使う必要は無い」


 彼は土塊つちくれの群れを前に構えながら、静香に向かって振り返らず

 に告げた。


「お前が行くべき場所は不忍池だ。お咲はお前を信じて待っている。後から

 必ず追いつく」


 その言葉に、静香は胸が熱くなった。半次、百合、千代婆、そして小太郎。

 彼らがいなければ、自分はここまで来られなかった。その信頼に応えるため

 にも、必ず勝たなければならない。


「ありがとうございます。必ず、来てくれると信じています」


 静香は小さく頭を下げ、天神の裏手へと駆け出した。背後では小太郎が既に

 戦いを始めていた。刀身が闇を切り裂き、それを両断する。しかし、分断

 された体は再び一つに戻り、更に数を増やしていく。


 小太郎の剣筋は確かだが、これでは終わりのない戦いになる。

 (小太郎さん、どうか御無事で)


 静香は振り返らず前へ進んだ。


 冬に日は短く、もう辺りは夕闇に包まれ始めていた。空が茜色から藍色へと

 変わる頃、不忍池の水面が見えてきた。水辺には人影はなく、ただ低い霧が

 池を覆い、池の中心にある弁天島はおぼろげにしか見えない。


 深く冷たい空気を胸いっぱいに吸い込むと、紛れもなく何かが変わってしま

 った静香自身の匂いがした。古代の鉄を鍛える匂い、熱した炉の匂い。それ

 は彼女の内なる力が目覚めている証だった。


 静香は立ち止まり、池に映る月を見つめた。満月が池面に銀の光の道を描き、 静香の行く末を照らすようだった。


「サル、始めるわよ」


 胸元のお守りに触れると、静香の心の奥からサルタヒコの声が響いてきた。

 それはもう耳で聞く声ではなく、血脈を通して直接心に届いてくるかのよう

 な声だった。


「もうオレは何もしてやれん。ここからは…… 」


 その声は穏やかだが、少し諦めたような響きを帯びていた。だが、静香は

 強い確信を持って言い切った。


「そういうと思ったわ。だけど、あなたも必要よ」


 静香の声には迷いがなかった。これまでの全ての経験、全ての出会い、

 全ての戦いが、この瞬間のために彼女を導いてきたことを確信していた。


「利用した相手に、必要だなんて言われるとはな…… 」


 サルタヒコの声は感慨深げだった。たとえ神であっても、彼に出来る事は

 限りがあった。だが、今の静香は彼が想像した以上の存在になりつつあった。


「だって、もう気付いているんでしょ? 」


 静香の瞳は強い意志に満ちていた。指先から放たれる琥珀色の光が強く

 なり、足下のうり坊は七頭に分かれ、彼女の周りを回り始めた。


「私が何をしようとしてるかを……」


 池面を渡る細道を進みながら、静香は決意を新たにしていた。救うべき人は

 一人ではない。お咲も、真央も、そして東王公に翻弄されるこの世界も。


 弁天島に近づくにつれ、霧は濃くなり、視界は狭まっていった。だが、静香

 の歩みは止まらなかった。


 彼女は確かに変わっていた。そして、これからも変わり続けるだろう。

 それこそが摩利支天の真の力であり、東王公の「不変」に対抗できる

 唯一の武器だった。


  2.「湧き上がる波濤」


 一方、百合と半次は、北側から不忍池に向かう水路を小舟で漕いでいた。

 月明かりに照らされた水面は鏡のように揺れもなく、異様なほどの静寂が

 二人の緊張感を高めていく。


「これほど静なのも妙ね」

 百合は三味線を膝の上に置き、耳の奥に刺さるような甲高い音を確かめ

 ながら、周囲を警戒していた。かつて母から受け継いだこの三味線は、単

 なる楽器ではなく、抜かれたばかりの刃が空気を裂くような武器になる。


「確かに、気味悪ぃな……ん? 」

 半次は船の舳先へさきから周囲を見回す。水の中に何かうごめいている

 気配。池の底から這い上がる影が、闇の中でうねるように動いていた。


「用心しろ」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、水面が不穏に盛り上がり始め

 た。黒い水の触手が何本も舟に向かって伸びてくる。それはまるで生き物の

 ように意志を持ち、舟を引きずり込もうとしていた。


「はっ! 」

 半次は素早く手裏剣を放ち、水の触手を切り裂く。しかし、分断された触手

 はすぐに再生し、より多くの触手となって襲いかかってきた。舟を取り囲む

 水の腕は次第に増え、月光を遮るほどの影となっていく。


「何よこれは? 水妖? 錦絵で見た伝説の怪異と同じじゃない! 

 このままじゃ呑み込まれるわ 」

 百合は三味線のさおを持ち三の糸を押さえた。かつて吉原で繰り広げ

 た数々の戦いで磨かれた技が、今こそ必要とされていた。


振波励起しんぱれいき、この水の流れを操る音色、聞かせてあげま

 しょう」


 彼女の指がばちをかき鳴らすと、湖面に共鳴するような低い音が響き

 渡り、船の周りに波紋が広がる。まるで水自体が音に従うかのように、黒い

 触手は震え、その動きが鈍くなった。


 半次はその変化を見逃さなかった。

「百合の音は水の流れそのものを変える……今だ! 」


 半次は更に手裏剣を放ち、触手の根元を狙う。今度は触手が完全に崩れ

 落ち、恨めしげな音を立てて水中に消えていった。


 しかし、その余韻もつかの間、水面から新たな脅威が立ち上がる。水その

 ものが人型を形成し、骨のない体がうねるように、ゆっくりと舟に近づいて

 くる。その顔には目も鼻も口もなく、ただ水が人の形を摸しているだけの恐

 ろしい姿だった。


「これは…… 」

 百合の表情が引き締まる。


「神楽院の影の術か? それとも……東王公の術だな! 」

 半次は手を腰だめにし、迎え撃つ構えを見せた。


 その時、人型は突然水の中に潜り、中から巨大な蛇の姿となって現れた。

 水蛇は舟を飲み込もうと大きく口を開ける。その口内には無数の渦が

 見え、そこに落ちれば二度と戻れない闇の淵へと引きずり込まれる予感が

 した。


「百合! 」

 半次の叫びが鋭く飛ぶ。


 百合は動じることなく、弦を波紋に乗せるように華麗にかき鳴らした。

 師匠から受け継いだ秘伝の奏法がここに蘇る。

八寒地獄はっかんじごくへ送ってやろう……音霊おとだまよ、

 敵を凍てつかせ! 」


 彼女の奏でる音色が水面を振動させ、水蛇の体を揺さぶる。音波が水分子

 そのものに作用し、蛇の動きを縛り付けていく。同時に半次は忍具の中から

 特殊な爆裂玉を取り出し、蛇の口めがけて投げ込んだ。


「凍れ! 」


「ボン! 」


 凍てついた水蛇は爆発と共に崩れ落ち、水しぶきが辺りに飛び散る。

 しかし、それも束の間、水面から次々と新たな形が現れ始めた。龍の頭、

 大きな蜘蛛、そして無数の手。それらは一斉に舟に向かって伸びてきた。


「敵の狙いはこちらの足止めか? 静香を狙っていて、俺たちの助太刀を

 叶わぬものにしたいのだろう」

 半次は冷静に状況を分析する。


「だとすると、静香といる小太郎も邪魔されていそうね」

 心配を滲ませる声に、半次は確信の表情で応えた。

「大丈夫さ」

 半次の珍しい笑顔を見て、百合は頷きつつ、再び三味線を構えながら

 確信に満ちた微笑みを返した。


「静香には彼女の力がある。私たちにはこの力がある。見えない糸で繋がって

 いるわ。私たちも最後まで諦めないし、必ず手助けしてみせる」


 二人の舟は、次々と立ち上がる水の妖霊たちに囲まれながらも、懸命に

 前進を続けていた。陽炎と月の光が交わる決戦の場へと、二人はたどり着く

 という揺るがぬ信念を胸に秘めて。


  3.「飛び散る火花」


 小太郎が湯島天神で土塊と対峙し、静香が不忍池へと急ぐのと同時刻。

 千代婆と六は本所から上野に向かっていた。大きな荷物を背負った六は、

 花火の箱を確かめながら足早に進む。


 千代婆は喉の奥で猫のようにゴロゴロと音を立て、不忍池の方向を見据え、

 何かを感じ取ろうとしていた。


「風向きが変わりよった。東王公の気配じゃな…… 」


 突如、赤い閃光が走った。、天から降り注ぐ火の玉が、まるで意志を持つ

 かのように動き、二人の前に立ちはだかる。


「これは幻術か? 」

 千代婆の眉が寄る。


「いや、本物の火だ! 」

 六はとっさに身を翻した。


 火の玉が徐々に形を変え、炎の鳥となって空を舞う。その鮮やかな赤と橙の

 羽根は、まるで蓬莱幻影の紫の紋様をまとったように見える。炎の鳥

 の眼窩からは紫色の光が漏れ、焔影一族の陰陽師が召喚したものだ。神々し

 さは微塵もなく、その羽ばたきが起こす熱波は、焼け焦げた大地のように

 荒涼としており、見るものの心に不吉な恐怖を植え付けた。


「陰陽師め……今度は火を操るか」

 千代婆は呟きながら、袂から何かを取り出した。


「ちっ! せっかく作った花火に触れたら、とんでもねぇことになるぞ! 」

 六はとっさに手ぬぐいを火消し桶に突っ込み、必死に布を振り回す。炎の鳥

 は次々と増え、彼らの退路を塞ぐように円を描いて飛び交った。


「これじゃおいつかねぇよ。 ちきしょうめ! 」

 六の声には焦りが混じる。どんなに振り払っても、炎の鳥は次々と増えて

 いく。


「そうじゃろうな」

 落ち着き払った千代婆は、懐から白檀の香木と線香を取り出し、素早く火を

 灯した。静香たちが通信に使う香りの術だ。だが今回は違う。


「火には火をもって対す! 」


 彼女は線香から立ち上る煙に向かって、古い忍の言葉を唱える。

「霧衣の術。渦巻け水の鎖よ」


 すると、煙が渦を巻き始め、千代婆の周りに霧のようなベールを作り始め

 た。百合が母親から受け継いだ秘術の一つだが、千代婆のアレンジ技だ。


「六、傘を広げろ! 」


 素早く振り回していた手ぬぐいを傘に持ち替えて広げた。その傘には複雑な

 術式が描かれており、伊賀流の封印術の紋様が幾重にも刻まれている。開く

 と同時に淡い光を放ち、火の鳥たちが襲いかかる瞬間、千代婆の霧と六の傘

 が一体となり、炎の羽を跳ね返す。


「おっと、こいつぁ驚いた。忍の術、初めて見ましたぜ」

 六は半ば感嘆の声を上げる。


「ずっと昔に、百合に教えてもらったのさ。おっかさんの秘伝らしい」

 千代婆の声には懐かしさが混じる。しかし感傷に浸る暇は無い。炎の鳥の数

 は倍増し、より激しく襲いかかってくる。


「くそっ! こんなに数が……」

 六の額に汗が滲む。


「ああ、おそらく足止めじゃろ。これからが正念場ってやつさ」

 千代婆は冷静に状況を見ている。


「急がなきゃならん。お静の合図を見逃すわけにはいかん」


 彼らの周りで火の鳥が舞い続ける中、千代婆は懐から特別な花火を取り

 出した。これは普通の花火ではなく、静香の陽炎の力と呼応するよう、

 特別にあつらえた合図である。


「半次の光玉と、百合の三味線の音。そしてこの花火……」

 千代婆は物静かに語りながら、六に花火を手渡した。


「これが私らの役めぞ。決して消えぬ光を、夜空に放つのさ! 」


 二人の視線は目指す先、不忍池の弁天島に向けられていた。そこで今

 まさに、陽炎と月の光の決戦が始まろうとしていた。


  4.「遮られる進路」


 また、別の場所、同時刻。


 政五郎は下っ引を二人を連れて、不忍池に向かう途中だった。彼らの前に広

 がる道は、徐々にもやに包まれて、不自然にも足下へと絡みついてく

 る。


「親分、これ……どうにも、ただの霧じゃねぇ」

 若い下っ引の鶴吉が、周りを警戒しながら呟いた。


 政五郎はその場で屈み、地面に指を這わせる。土の湿り気、風の向き、そし

 て霧の匂い。彼の長年の経験が危険を告げていた。


 (こりゃぁ奴らの罠だ、陰陽師だな? )

 政五郎は目黒の訓練所で見た幻術を冷静に思いだしていた。


「分かりやしたか? 親分」

 もう一人の下っ引、勘助が緊張を隠せない様子で尋ねた。


「ああ。おめぇらは初めてかもしれねぇが、焔影一族に陰陽師がいる。その

 術だ」


 政五郎の陰陽師という言葉に、二人の下っ引の体が強張る。すると、煙霧は

 みるみるうちに濃くなり、彼らの視界を奪っていく。政五郎が身構えた

 瞬間、霧の中に人影が浮かび上がった。


「助けて……政五郎さん 」

 微かに震える声。それは間違いなく彼らが探しているお咲だった。蒼白い顔

 で、よろめきながら彼らに手を伸ばしている。


「お咲? 」

 鶴吉が思わず駆け出そうとするが、政五郎は彼の腕を掴んで制した。


「待て。まずは確かめろ」

 彼は細い目を皿に細め、お咲の姿を観察した。


 政五郎の視線に気付いたのか、お咲はさらに弱々しく呼びかける。

「知ってるの……東王公のはかりごとを……私が聞いてしまったから、

 だから…… 」

 言葉の途中で、お咲の姿が霞に溶けるように消えた。代わりに現れたのは

 鶴吉の母親と思わしき年老いた女性だった。


「鶴や……なぜ帰ってこない……寂しい…… 」

 鶴吉の顔が青ざめる。

「お、おっかぁ? 」

 同時に、勘助の方にも年老いた男の姿が現れた。

「勘助……お前がいないと店が…… 」

「おとっつぁん! 」

 勘助も思わず足を前に踏み出す。


「落ち着け! 奴らの幻術だ」

 政五郎は二人を強く引き留めた。しかし、その瞬間、彼自身の目の前にも

 新たな姿が現れた。


「幻惑の術だ、騙されるな! 」


 しかし、その声が届くよりも早く靄の中に、政五郎が現れた。もう一人の

 政五郎が、同じように十手を構え、無言で立ちはだかる。


「政五郎さん……急いで…… 」

 三味線を抱えた百合の姿。長く美しい髪を揺らし、彼を見つめている。その

 姿は、彼がかつて雨の夜、命の危機から救った時と同じだった。


 政五郎の動きが一瞬止まる。

「百合…… 」


 百合の幻影は彼に向かって微笑みかけ、

「政五郎さん……早く来て」

 と優しく言った。


 その言葉に政五郎は片方の口角を上げた。長年の経験から培われた観察眼が

 冴え渡る。百合の足下がぼやけている、三味線の弦の数が違う。何より、

 あの時の百合は決して彼に弱々しく助けを求めはしなかった。


「百合は『政五郎さん』なんて呼ばねぇんだよ! 残念だったな」

 腰に矯めてあった十手を躊躇なく百合の幻影に投げつけ、電光石火のごとく

 距離を詰めた。短刀を一文字に切りつけたその姿は、朝霧のように散った。


「お前たち、幻に惑わされるな。人の姿に見える物は全て偽物だと思え」

 彼の声には確信があった。


 すると霧の中からまた別の人影が現れ始めた。

「無駄な抵抗だ。何度やっても同じ……」


 それは政五郎自身と二人の下っ引の姿だった。全く同じ顔、同じ服装、同じ

 佇まいだ。


「なっ……お、親分と俺らが! 」

「どっ、どういうこった! 」

「奇妙だな、まるで生き写しだ」


 幻影の彼らは動きも表情も同じで、鏡に映る自分たちのように動く。政五郎

 が手を上げれば、偽政五郎も同じように手を上げる。二人の下っ引は戸惑い

 を隠せなかった。


「親分、どうすれば…… 」

 鶴吉の声は震えていた。


「無理して戦う必要は無い。奴らの狙いは時間を稼ぎだ」

 政五郎は一瞬思案すると、意外な行動に出た。


 彼は地面に「池」の文字を足で大きく書き始めた。それから二人の下っ引

 に持たせていた、大きめの巾着から何かを取り出し、三人で地面に向かって

 散らした。


 バラバラと散ったものは、南天の実だった。実が地面に触れると、驚くべき

 ことに赤い光を放ち始め、靄を分けるように一本の筋を作り出した。


「親分、これは? 」

 勘助がいぶかしげな表情を浮かべた。


「南天の実……我ら町の忍が陰陽術に手向かうための仕掛けよ。百合に教わ

 ったんだ」

 政五郎の言葉には懐かしさが混じっていた。


「奴らは俺らの行く道を邪魔して、時を稼ごうとしている。しかしそれこそ

 やっこさんの手の内を見せてる。お静たちが不忍でおっぱじめたって事よ」


 政五郎は南天の実が示す赤い光の道を指さし、

「急ぐぞ! 」

 と二人に告げた。


 彼らの背後では、幻の政五郎たちが煙霧の中でもがき、進路を追おうと

 している。しかし、南天の実の力で開かれた道には入れないようだった。


「親分、なぜ我々の姿を? 」

 鶴吉がまだ混乱気味に尋ねる。


「おそらく奴らは、俺らが行き場を失い、同じ場所をぐるり回るように仕向け

 ようとしたのだろう。そうやって時を稼ぐつもりだったに違いねぇ」

 政五郎の顔には冷静な微笑みが浮かんでいた。


「忘れるな! 俺らは戦いの最中にこっそりお咲を助け出すのが仕事だ。

 目先にとらわれず、お咲を探し出せ! 」


 彼らの行く手には、次第に池の輪郭が見え始めていた。弁天島の社が月光に

 てらされ、その上空には不思議な光の渦か形成されつつあった。決戦の時は

 近づいている。



いかがでしたでしょうか?

「光と影」の章では、静香と東王公、そして神楽院真央との対決がついに始まりました。三人の力が交錯する不忍池の戦いは、まだ序章に過ぎません。

実は、この物語を書き始めた頃から、摩利支天という神様の設定がとても重要でした。「変化」を象徴する摩利支天と、「不変」「永遠」を求める東王公の対立は、静香自身の成長と共に描いていきたかったテーマです。

明日は第26話「月と陽」を投稿します。静香の内に眠る力が、ついに目覚める瞬間をお見逃しなく!

読者の皆様からの感想やコメント、いつも励みになっています。ありがとうございます!

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